「あなたは、わたしのもの」
異邦人の側室、女奴隷のハガル。彼女は当時の社会では、最も弱い立場にいた人でした。正しさとか、価値とか、そんなものとは無縁の存在として扱われていたはずです。
でも神は、そんなハガルに憐れみをかけて、名前で呼んでくださいました。
創世記16章でハガルが最初に荒野に逃げたとき、神は彼女を見つけて「ハガル」と名前で呼びかけました(16:8)。そして今日読んだ創世記21章でも、神の使いは再び「ハガル」と名前で呼んでいます(21:17)。
これは聖書の中でも珍しいことです。神が女性を、しかも外国人の奴隷を、名前で二度も呼ばれるのです。
目次
そして神は、イザヤ書43章でも、同じように語っておられます:
「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。 わたしはあなたの神、【主】、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:1-4)
「あなたは、わたしのもの」と言って、大切に愛してくださる方。
今日の通読を通して、私はこの主の愛の温かさを、改めて深く学びました。
そして、これは私だけに語られている言葉ではありません。あなたにも、そうです、今この記事を読んでくださっているあなたにも、神は語っておられるのです。
ハガルの物語が心に残る理由
今日の創世記21章を読んで、私が最も心を動かされたのは、ハガルの物語の構造的な美しさです。
創世記21章14節を読むと、こう書いてあります:
「翌朝早く、アブラハムは、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え、それを彼女の肩に載せ、その子とともに彼女を送り出した。」
正直、私は思いました。「パンと水の皮袋だけで送り出すなんて?これを『送り出す』というのか?」
確かにハガルも傲慢になったことがありました。イシュマエルもイサクをからかっていました。でも、仮にも側室だったのに。日本ですら、徳川家では側室はもっと手厚く大切にされていたはずです。
人間的に見れば、アブラハムの対応は冷たい。でも、神の視点は違ったのです。
神はハガルを「追放された者」とは見ていませんでした。むしろ「自由にされた者」として見ておられたのではないでしょうか。
サラの家にいる限り、ハガルは永遠に「側室」「女奴隷」でした。そこには希望も、未来も、尊厳もありませんでした。彼女はずっと、「いてもいなくてもいい存在」として扱われ続けたでしょう。
でも荒野で、神は彼女に直接語りかけ、直接約束を与え、直接井戸を示されました。
もう誰かの「側室」としてではなく、もう誰かの「女奴隷」としてでもなく、神ご自身が直接関わってくださる一人の人間として。
イシュマエルという名前は「神は聞かれる」という意味です(ヘブライ語:ישמעאל, Yishma’el)。神は本当に少年の声を聞かれました(21:17)。
神はハガルの涙も、イシュマエルの叫びも、すべて聞いておられました。
人々が無視した声を、神は聞いておられました。
人々が価値がないと言った存在を、神は名前で呼んでおられました。
「栄光が去った」という恐ろしさ
サムエル記第一4章から5章、特に「イ・カボデ」の場面は、聖書の中でも最も重苦しい瞬間の一つです。
ピネハスの妻は、出産の苦しみの中で、三つの悲報を聞きました:
- イスラエルの大敗北
- 舅エリの死
- 夫ピネハスの死
でも彼女が最も嘆いたのは、神の箱が奪われたことでした。
「彼女は、『栄光がイスラエルから去った』と言って、その子をイ・カボデと名づけた。これは神の箱が奪われたこと、それに、しゅうとと、夫のことをさしたのである。彼女は、『栄光はイスラエルを去りました。神の箱が奪われたから』と言った。」(4:21-22)
イ・カボデ(ヘブライ語:אִי־כָבוֹד, I-Kavod)という名前は、「栄光なし」「栄光が無い」という意味です。
彼女は何を理解していたのでしょうか。
彼女は理解していたのです。神の臨在なしには、イスラエルは何者でもないということを。
エリの家族の腐敗(2:12-17)、イスラエルの霊的堕落、そしてついに神の箱が奪われる。これは単なる軍事的敗北ではありません。神がイスラエルから離れられたという霊的現実でした。
私たちの価値も、同じではないでしょうか。
神が共にいてくださること、これこそが私たちの存在意義であり、価値なのです。
でも、ここで感動するのは、神は箱を守られたということです。
ペリシテ人の都市を次々と打たれ、彼らの偶像ダゴンを打ち倒し、神はご自身の聖性を示されました。ダゴンは神の箱の前に倒れ、その頭と両腕は切り離されていました(5:4)。
神は「捕虜」になったのではありません。むしろペリシテ人たちが、真の神の力を思い知らされたのです。
これは私たちへの励ましでもあります。
教会が弱く見えるとき、クリスチャンが少数派のとき、信仰者が軽んじられるとき…でも神ご自身は決して弱くありません。神は必ずご自身の栄光を現されます。
あなたが「いてもいなくてもいい存在」と思われているとしても、神はそうは思っておられません。神の栄光は、あなたの中にあり、あなたと共にあるのです。
「子どものように」の逆説
マタイ18章で、弟子たちはイエスに尋ねました:「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか」(18:1)
この質問自体が、彼らの心の状態を表していますね。「誰が一番偉いか」「誰が価値があるか」という比較の世界。
でもイエスの答えは、彼らの予想を完全に裏切るものでした。
「そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、言われた。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。』」(18:2-4)
「子どものように」とは、どういうことでしょうか。
これは単に「単純に信じればいい」という意味ではないと思います。実際、イエスは別の場所で「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(マタイ22:37)と言われました。
ここには心と思いと知性が書いてあります。「知性を捨てて単純に」とは言われていないのです。
では「子どものように」とは何を意味するのか。
それは知的謙遜ではないでしょうか。
子どもは何でも知っているふりをしません。「なぜ?」「どうして?」と素直に聞きます。そして、信頼する大人から学ぶことを喜びます。
「もう十分わかった」「これ以上学ぶ必要はない」という態度こそ、実は大人の傲慢なのではないでしょうか。
パウロは言いました:
「もし、だれかが、何かを知っていると思ったら、その人は、知らなければならないほどのことを、まだ知っていないのです。」(1コリント8:2)
私は毎日、聖書を読みながら疑問を持ちます。「これはどういう意味だろう」「なぜこうなったのだろう」と。そして調べ、学び、考えます。
これは「子どものような謙遜」を捨てることではなく、むしろ子どものような純粋な学びの姿勢だと信じています。
「小さい者たち」への神の眼差し
そしてイエスは続けて言われました:
「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。」(18:10)
「小さい者たち」。
それは、人々から「いてもいなくてもいい」と思われている存在です。
価値がないと判断された存在です。
軽んじられ、無視され、忘れられている存在です。
でも神は、そのような「小さい者たち」に天使を配備しておられるのです。
そして、イエスは百匹の羊のたとえを語られました(18:12-13)。
九十九匹を残して、たった一匹の迷った羊を探しに行く羊飼い。そして、その一匹を見つけたとき、「迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶ」と。
あなたは、その一匹です。
神はあなたを探しておられます。
神はあなたを見つけたとき、九十九匹以上に喜ばれるのです。
「このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。」(18:14)
「いてもいなくてもいい」と感じているあなたへ
もしかしたら、あなたは今、こう感じているかもしれません。
「私なんて、いてもいなくても同じ」
「私に価値なんてない」
「誰も私のことを気にかけていない」
現代社会は、比較と競争の社会です。
誰かより優れていないと価値がない、と思わされる社会です。
成果を出さないと存在意義がない、と感じさせられる社会です。
でも、神の王国は違います。
神はあなたを、他の誰かと比較して評価されません。
神はあなたを、あなたの成果で判断されません。
神はあなたの名前を知っておられます。
神はあなたの涙を見ておられます。
神はあなたの叫びを聞いておられます。
ハガルのように。
イシュマエルのように。
「小さい者たち」のように。
結論:「わたしがあなたを贖ったからだ」
もう一度、イザヤ43章1節に戻りましょう。
「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。」
「贖う」というヘブライ語(גָּאַל, ga’al)は、代価を払って買い戻すという意味です。
あなたには価値がないと思うかもしれません。
でも神は、最高の代価を払われました。
それは、神のひとり子、主イエス・キリストの命です。
十字架で流された血潮。
打たれた傷。
負われた苦しみ。
それは、あなたのためでした。
神が、そこまでの代価を払われたのは、あなたがなくてはならない存在だからです。
あなたは、神の目に「高価で尊い」存在です。
あなたは、神が「愛している」と言われる存在です。
「いてもいなくてもいい」?
違います。
あなたはなくてはならない存在です。
神があなたの名を呼んでおられます。
今、この瞬間も。
「あなたは、わたしのもの。」
この愛を、どうか受け取ってください。
祈りの招き
もしあなたが、今日この記事を通して、神の愛に触れたいと思われたなら、こう祈ってみてください:
「神様、私は自分に価値がないと感じてきました。でも、あなたは私を『高価で尊い』と言ってくださるのですね。どうか、あなたの愛を私の心に注いでください。イエス・キリストの十字架の意味を、私に教えてください。アーメン。」


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