目次
はじめに
今朝、通勤途中に車を運転しながら第二ペテロの書を聴きました。もう聞いているだけで、すごいメッセージでした。特に1章4節の「神のご性質にあずかる」という言葉が心に響き、ギリシャ語原文からより深く学んでみたいと思いました。
そこで得た気づきが、長年の信仰の悩みを解決してくれたので、皆さんと分かち合いたいと思います。
「神のご性質にあずかる」とは何か
ギリシャ語原文の深い意味
第二ペテロ1:4の「神のご性質にあずかる」は、ギリシャ語では**「θείας κοινωνοὶ φύσεως」**(テイアス・コイノーノイ・フュセオース)です。
各単語を詳しく見ると:
θείας (テイアス)
- 単純に「神の」ではなく、「神的な」「神に属する」という意味
- 人間を超越した、神固有の本質を指す
κοινωνοὶ (コイノーノイ)
- 単なる「参加者」以上の意味:真の共同所有者、パートナー
- 新約聖書では「漁の仲間」(ルカ5:10)、「同労者」(フィレモン1:17)でも使われている
φύσεως (フュセオース)
- 単なる属性ではなく、存在そのものの核心を意味する
つまり、これは単なる模倣や努力ではなく、実際の本質的変化を表しているのです。
長年の悩み:「すべてのこと」の誤解
私が抱いていた疑問
1:3には「神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与える」とあります。
私はずっと「すべてのこと」とは、御霊の実である愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制に加え、信仰、成功、富、健康、癒し、他すべてのことだと思っていました。だからこそ、与えられていると信じても現実は愛一つとってもまだまだですが、失敗もするし健康も完全ではないし、兄弟姉妹の癒しを熱心に祈っても癒されないこともあるし・・・素敵な愛の方だと傍から見えているのにご本人は愛がないのだと涙ながらに祈られる姿、まだ与えられていないと苦悩するばかりでした。
ギリシャ語が教える真の意味
原文を調べて驚きました。「πάντα」(すべてのこと)には重要な限定句があったのです:
「τὰ πρὸς ζωὴν καὶ εὐσέβειαν」 (タ・プロス・ゾーエーン・カイ・エウセベイアン) 「いのちと敬虔に関する」すべてのこと
つまり:
- 「この世のあらゆる願い」ではなく
- 「真のいのちと神との関係に必要な」すべて
だったのです!
重要な区別
「πρὸς」(プロス)という前置詞が「目的限定」を表しています。
- ζωή(ゾーエー)= 神との関係における真のいのち、永遠の質を持つ現在のいのち
- εὐσέβεια(エウセベイア)= 単なる宗教的行為ではなく「生き方そのもの」としての敬虔
この世の成功や富や健康も神の恵みですが、それらは「すべてのこと」の約束の範囲とは別なのです。
現実との向き合い方
私たちの無力感
家族の救い、病気の癒し、人間関係の修復…私たちには力がありません。でも、ペテロ自身も:
- 主を三度否認した経験者
- 信者との関係で失敗した人
- この手紙を書いた時、殉教を前にしていた
つまり、ペテロも「力ない自分」を深く知っていたのです。
「神の性質にあずかる」現実的意味
それは:
- 家族への愛そのもの
- 癒しを願う心
- 無力感の中でも諦めない希望
- 御言葉に真剣に向き合う信仰
これらすべてが、すでに私たちの中にある「神の性質」の現れなのです。
間違った教えによる傷
繁栄の神学の問題
多くの教会で教えられる「信仰があればすべてが与えられる」という解釈は、ギリシャ語原文の限定を見落としています。
これにより:
- 「信仰が足りないから病気が治らない」という自己責任論
- 神の愛を物質的祝福と同一視
- 苦難の中にある信仰者を傷つける結果
が生まれてしまいます。
癒しの働きの現実
宣教師や預言者が来ても、癒される人と癒されない人がいて、ほとんどの人は癒されません。これは新約聖書の時代から同じでした。
イエスご自身でさえ:
- ナザレでは「不信仰のゆえに、多くの力あるわざをなさらなかった」(マタイ13:58)
- ベテスダの池では大勢の病人がいたのに、ひとりだけ癒された(ヨハネ5章)
使徒たちも:
- パウロは「肉体のとげ」が癒されなかった(2コリント12章)
- テモテは胃の病気があった(1テモテ5:23)
彼らの信仰が足りなかったのでしょうか?そんなことはありません。
個人的な体験から
メニエール病の苦しみ
クリスチャンになった若い頃、メニエール病で苦しみました。教会の人から「信仰がないから」だと言われ、つらい思いをしました。
これは:
- 病気そのものの苦しみ
- 心ない言葉による霊的な傷
という二重の苦しみでした。第二の苦しみの方が、時として深刻でした。
主による癒し
後に賛美の中で主の声が聞こえ、癒されました。
ポイントは:
- 癒しは起こった – 神の恵み
- でもタイミングは神にあった – 信仰の量とは無関係
- 賛美の中で – 苦しみの中でも神を讃えていた心
病気の間も、私の信仰は真実だったのです。
今日の祈りと決意
家族の救いへの祈り
「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)
この御言葉を信じるしかありません。でも、この「信じるしかない」ということが、最も深い信仰の表現なのかもしれません。
ある姉妹の祈り
教会である姉妹がこう祈られました:
主よ、私の家族を救ってください。父を母を、妹たちを、そして息子たちを、息子のお嫁さん孫、そして、親族を、一緒に働いている職場の人たちを、近所の人たちを、この地域を、教会の兄弟姉妹に祝福があるように、今この時でも苦しんでいる方がおられるなら主がそばにいてください。主よあなたを賛美します。私の魂が幸いを得ているのと同じようにすべての面において祝福してください。一番はいつも主のみもとにいる事が出来ますように。主の御言葉を聴き従うことができますように。
この祈りの中に、まさに「神の性質にあずかる」現実が現れています。
祈りと神の約束を混同してはいけない
第三ヨハネ1:2との大切な区別
この学びを深めるために、よく混同される箇所を見てみましょう。
第三ヨハネ1:2
「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」
一見すると「すべての点で幸いを得る」とあり、第二ペテロの「すべてのこと」と同じように見えます。
ギリシャ語原文が示す決定的違い
第三ヨハネ1:2 – 「εὔχομαί」(エウコマイ)= 「祈る」「願う」
- 人間の祈り・願いの表現
- ヨハネが愛するガイオへの心からの願い
- 希望的表現 – 実現を願っているが、神の約束ではない
第二ペテロ1:3 – 「δεδώρηται」(デドーレータイ)= 完了形「与えた」
- 神の保証・宣言
- 既に与えられた事実(ただし「いのちと敬虔に関して」限定的)
- 確実な現実 – 神の御力による保証済み
混同が生む危険な教え
この区別を見失うと:
- 第三ヨハネを「神の約束」として解釈
- 「神はすべての点で繁栄を保証している」という誤解
- 病気や経済的困難を「信仰不足」とする判断
- 物質的祝福を霊的成熟の証拠とする教え
現実の教会で見られる問題
このような教えを受けた純真な信者たちが:
- 癒しを求めて必死に「信仰を増そう」と努力
- 経済的困難を「神に愛されていない証拠」と自責
- 祈りが叶わないことに深い罪悪感
- 「もっと献金すれば祝福される」という重荷
を負ってしまうことがあります。
正しい理解と適用
第三ヨハネ1:2は:
- 愛する人への美しい祈りの模範
- 全人格的な祝福への願い
- 牧師的愛情の表現
第二ペテロ1:3は:
- 神の確実な約束
- ただし「いのちと敬虔に関する」限定付き
- 霊的現実への信頼
見分けるポイント
健全な教えと繁栄神学を見分ける基準:
- 「祈り」と「約束」を区別しているか
- 物質的祝福を霊性の証拠としていないか
- 苦難や病気を信仰不足の結果としていないか
- 聖書の「すべて」に適切な限定があることを認めているか
私たちの姿勢
- 純真な動機を持つ兄弟姉妹たちを尊重
- でも教えの内容は聖書的に検証
- 愛をもって真理に立つ
- 神の約束の正確な範囲を理解
パウロの勧めの通り:「すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい」(1テサロニケ5:21)
結論:真の理解がもたらす自由
大切な気づき
「本当に全てがそろうのは、永遠の御国でそろう」
これこそペテロが伝えたかった真理です!
現在は「既にあるけれど、まだ完成していない」状態。でも「いのちと敬虔に関するすべて」は確実に与えられています。
間違った期待からの解放
私たちが感じてきたギャップは、信仰の問題ではありませんでした。むしろ、聖書をより正確に理解する導きだったのです。
癒されなくても、祈りが叶わなくても、私たちの価値も信仰も変わりません。神は私たちを愛し、「いのちと敬虔に関するすべて」- つまり最も大切なもの – はすでに与えてくださっています。
最後に
同じような悩みを持つ方々に、この理解が慰めと励ましになることを願います。
神の忍耐(μακροθυμεῖ)は、私たちの家族のためにも、私たち自身のためにも働き続けています。私たちの信仰が、神の救いの計画の一部なのです。
主の平安が皆様の上にありますように。
この記事は、第二ペテロの書のギリシャ語研究と個人的な信仰体験に基づいて書かれました。同じような悩みを持つ兄弟姉妹の励ましになることを祈ります。
コメント