マタイの福音書 出会い 【英語有】マタイの福音書5章
主との出会いは毎回更新され、新鮮なものである必要があります。
今日も主イエスとの新しい出会いを味わいたいと思います。
「山上の垂訓」で主イエスは、さらに律法の本質、真の意味を解き明かされます。
ここでも神の国のすばらしさに出会えます。「山上の垂訓」は天国の民の性質です。
人は外見を見ますが、神は心を見られます。いかに宗教的な生活で日々を過ごし正しい行いをして、人々から尊敬されていても、神の前に自ら省みて、やましいところがあるならば、天国に入ることはできません。
律法学者、パリサイ人の義よりも勝る義を一つ一つ律法に照らしながら、説明されています。
罪の行いが表われなくても、心にその思いがあるなら罪に定められることを説いています。
目次
聖書の名言 出会い【英語有】マタイ5章 怒る者は
昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。(マタイ5:21)Ye have heard that it was said of them of old time, Thou shalt not kill; and whosoever shall kill shall be in danger of the judgment:
↓ 殺人の根は怒りから
しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。(マタイ5:22)But I say unto you, That whosoever is angry with his brother without a cause shall be in danger of the judgment: and whosoever shall say to his brother, Raca, shall be in danger of the council: but whosoever shall say, Thou fool, shall be in danger of hell fire.
怒るだけのことがあるから怒るのだと思います。自分が怒っていることに気が付いた時、
次の日まで持ち越さないように、主イエスの十字架を仰ぎたいと思います。
怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。 また、悪魔に機会を与えてはいけない。 (エペソ4:26-27)Be ye angry, and sin not: let not the sun go down upon your wrath:
Neither give place to the devil.
パウロも激しく怒る情熱的な使徒でした。しかしパウロが言うように、悪魔に機会を与えてはいけないので、(怒り続けることは悪魔が人間を罪に落とす機会を与えるということです)
怒ったまま日が暮れないようにしたいと思います。
怒りから大きな罪に発展していくかもしれません。
聖書の名言 出会い 【英語有】マタイ5章 和解の大切さ
だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、 その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。(マタイ5:23-24)Therefore if thou bring thy gift to the altar, and there rememberest that thy brother hath ought against thee;
Leave there thy gift before the altar, and go thy way; first be reconciled to thy brother, and then come and offer thy gift.
↓ 和解は供え物を祭壇の前に残してでも、最優先すべきこと
5:25あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。 5:26よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。(マタイ5:25-26)
聖書の名言 出会い 【英語有】マタイ5章 姦淫は不倫のことです。
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姦淫は心から起こる
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。(マタイ5:27)Ye have heard that it was said by them of old time, Thou shalt not commit adultery:
↓ 姦淫の根は淫欲を持つ心の罪から
5:28しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。 (マタイ5:28)But I say unto you, That whosoever looketh on a woman to lust after her hath committed adultery with her already in his heart.
↓ 目が罪を犯させる
もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。(マタイ5:29)And if thy right eye offend thee, pluck it out, and cast it from thee: for it is profitable for thee that one of thy members should perish, and not that thy whole body should be cast into hell.
↓ 姦淫の誘惑には戦わずに逃げる方が賢いと思います。
もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。(マタイ5:30)And if thy right hand offend thee, cut it off, and cast it from thee: for it is profitable for thee that one of thy members should perish, and not that thy whole body should be cast into hell.
創世記にに出てくるヨセフという人物も、雇い主の奥様から不倫を迫られ、ヨセフは奥様の手を振り払ってに逃げました。
その結果、プラドの高い奥様の怒りをかい奥様はヨセフが誘ったとご主人に嘘をついて、ヨセフは牢牢に入れられてしまいましたが、真実をご存じの神様は、後にヨセフを牢獄につながれる罪人からエジプトの総理大臣に昇格させました。私はヨセフの個所を読む時、ヨセフの忍耐も素晴らしいのですが、全知全能の神様にスッキリ!とした思いになり感謝します。
姦淫について:聖書は偶像礼拝を「霊的に姦淫の罪だ」と表現している箇所が沢山あります。この個所はその一つです。
3:6ヨシヤ王の時、主はまたわたしに言われた、「あなたは、かの背信のイスラエルがしたことを見たか。彼女はすべての高い丘にのぼり、すべての青木の下に行って、そこで姦淫を行った。 3:7わたしは、彼女がこのすべてを行った後、わたしの所に帰るであろうと思ったが、帰ってこなかった。その不信の姉妹ユダはこれを見た。 3:8わたしが背信のイスラエルを、そのすべての姦淫のゆえに、離縁状を与えて出したのをユダは見た。しかもその不信の姉妹ユダは恐れず、自分も行って姦淫を行った。 3:9彼女にとって姦淫は軽いことであったので、石と木とに姦淫を行って、この地を汚した。 3:10このすべての事があっても、なおその不信の姉妹ユダは真心をもってわたしに帰らない、ただ偽っているだけだ」と主は言われる。(エレミヤ3:6-10)
神様とキリスト者との関係を結婚になぞらえられます。
結婚では ①一対一の夫婦が平和な関係です。
②相互の愛によって成り立っています。
③婚姻契約によって成り立っています。
だから神様がお嫌いな偶像礼拝をすることは神への裏切りであり、姦淫の罪なのだと言っています。
従わないことは偶像礼拝の罪 という聖書の言葉があります。
そむくことは占いの罪に等しく、
強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。
あなたが主のことばを捨てたので、
主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。(第一サムエル15:23)For rebellion is as the sin of witchcraft, and stubbornness is as iniquity and idolatry. Because thou hast rejected the word of the LORD, he hath also rejected thee from being king.
神様に従わないことは偶像礼拝の罪で、夫である神様に姦淫(不倫)の罪を犯したことになります。
そして神様に従うよりも大切にしていることが私たちの偶像です。
お金 仕事 名誉 社会的地位 食欲 日々の心配事 悪い習慣 趣味 自分自身 家族 自分の考え方(正義感) ほかにもいっぱいあります。
そこまで言われたら、神様より大切にしているものばかりを私達は持っています。
でも安心してください。勘違いして頑張るぞ!と力まないでください。
大切な事なので何度もお伝えしますが、
まだキリスト者(クリスチャン)は、完成に至る途上にいる者です。
主イエスの「山上の垂訓」は天のみ国の民の品性を現わしていて、
これを行えば救われるというものではなく、み国の民の標本を示しています。
(天の父なる神、子なる主イエス、聖霊なる神様)であられる三位一体の神と
日々愛の交わりをしていただいた中で成長させていただいた先に、
この品性を得させていただくことが出来ます。
「させていただく」というと受動的だと思われるでしょうが、実際、そうなのです。
外見的な美徳から「させていただく」と謙遜に表現しているのではありません。
自分の力ではなく、神様の力だからです。
そうしたいのにできない。でも神様の力でそうならせていただくということです。
本当は初めの「救い」自体が罪人にはありえないことです。だから、恵みなのです。
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あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。(エペソ2:8)For by grace are ye saved through faith; and that not of yourselves: it is the gift of God:
クリスチャンからでも、時々 「私は本当に救われているのか」と聞くことがあります。
こうして救いの迷子になる方がおられるので、ここは、しっかり押さえてください。
ここを押さえることで、アップダウンがなくなります。
主イエスは、私達の罪の身代わりに十字架で死なれ、罪を赦してくださった。
このことを信じるあなたはすでに救いを得ました。神の義、神の国はあなたに訪れました。
主イエスの十字架の贖いの死と復活は、軽く弱いものではありません。
死から復活させるダイナマイトよりも大きな力、復活の力(ギリシャ語ではデュナミスの力)です。
ダイナマイトは人の命を奪います、復活の力(デュナミスの力)は死人を生き返らせる力です。
霊的に死んでいた私を、神様はよみがえらせてくださいました。
いつものようにノアから 「恵みによるのです」 という賛美をお聞きください。
ノアが発表してきた新しい賛美は、私たちを通して与えられただけで、すべての賛美は神様からクリスチャン全員に与えられた共有財産だと考えています。そのために、多くの人々が、もっと自由に賛美を使うことかできるように、1992年からSGM(Sharing Gospel Music)という、誰もが賛美を自由に使用、コピーできるシステムを提唱し始めました。現在、ノアのCDには、すべてSGMマークがついています。
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私は、記事を書いている時も主の恵みに出会い、感謝が心に溢れます。
書いている私がとても恵まれています。
この記事を読んでくださったあなたにも 主が直接出会ってくださいますように。
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