通読箇所 第328回:申命記31章1節〜13節、ホセア書7章〜8章、ペテロの第一の手紙4章
通読が、予定より遅れていました。ところが、その遅れのおかげで、ふしぎなことが起きました。
今日読んだ申命記31章には、仮庵の祭りの時に、みんなを集めて律法を読んで聞かせるように、と書かれています。そして今、ユダヤの暦では、ちょうどその仮庵の祭りの真っ最中なのです。
遅れたことにも、神の時があったのでしょうか?
そしてもう一つ。片面だけ焦げて、もう片面は生のままのパン。ホセアは、神の民をそう呼びました。私たちの心は、どちらの面を神に向けているでしょうか?
※本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。
【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。
第一部 申命記31章1〜13節
なぜ元気なモーセが「もう出入りできない」と言ったのか?
モーセは120歳になりました。そして、イスラエルの人々に言いました。
わたしは、きょう、すでに百二十歳になり、もはや出入りすることはできない。(2節)
「出入りする」は、ヘブライ語でラツェット・ヴェラヴォーといいます。「出て行くことと、入って来ること」という意味です。聖書では、民の先頭に立って導く、リーダーの働きを表すこともあります。
年を取って、体が弱ったのでしょうか。申命記34章7節には、モーセが死ぬときも、目はよく見え、元気も衰えていなかったと書かれています。ですから、ただの体力の衰えだけでは説明できません。
モーセは、民を連れてヨルダン川を渡る役目を、ヨシュアに引き継ぐ時を迎えていたのです。ヨルダン川を渡れないことを、モーセは静かに受け入れました。
「見放さず、見捨てない」——手を放さない神
モーセは民に言いました。
あなたがたは強く、かつ勇ましくなければならない。(6節)
そしてヨシュアにも、同じ言葉をくり返しました(7節)。
ヘブライ語で読むと、おもしろいことが分かります。6節は、民全体に向けた言い方で、ヒズクー・ヴェイムツーです。7節は、ヨシュア一人に向けた言い方で、ハザク・ヴェエマツです。
同じ励ましが、まずみんなに、次に一人のリーダーに語られているのです。
では、なぜ強くなれるのでしょうか。理由は、人間の側にはありません。
主は決してあなたを見放さず、またあなたを見捨てられないであろう(6節)
「見放す」は、ラファーという言葉です。「手をゆるめる、力を抜く」という意味です。
「見捨てる」は、アザヴという言葉です。「置き去りにする」という意味です。
神は、つかんだ手をゆるめません。置いて先に行ってしまうこともありません。モーセがいなくなっても、神はいなくならないのです。
この約束は、ヘブル人への手紙13章5節にも引き継がれています。今を生きる私たちへの約束でもあるのです。
七年に一度、全員で聞く日——仮庵の祭りの今
モーセは律法を書き記し、祭司と長老たちに渡しました(9節)。そして、こう命じました。
七年ごとの「ゆるしの年*(借金を帳消しにする年)」の、仮庵の祭り*(秋の祭り)に、すべての人を集めなさい。そして、律法を読んで聞かせなさい(10〜11節)。
ユダヤ教では、この命令を「ハクヘル*(集めよ)」と呼びます。
集めるのは、男、女、子ども、そして町に住む外国人までです(12節)。大人だけでも、えらい人だけでもありません。
ここで注目したいのは、13節です。
また彼らの子供たちでこれを知らない者も聞いて、あなたがたの神、主を恐れることを学ぶであろう。(13節)
まだ意味が分からない子どもも、その場にいていいのです。分からなくても聞く。七年後に、また聞く。そうやって一生をかけて、少しずつ神を知っていくのです。
そして今、ユダヤの暦では、ちょうど仮庵の祭りの期間中です。2026年は、9月25日の夕方から10月2日の夕方までです。
その祭りの最中に、仮庵の祭りに律法を読みなさいと命じる箇所を読むことになりました。神の時は、ふしぎです。
一度で全部分からなくても、大丈夫です。聖書は、くり返し聞くように作られた書物なのです。
*この部に出てきた言葉
*ゆるしの年:七年ごとに来る特別な年。申命記15章では、借金を帳消しにするよう命じられている。ヘブライ語でシュミッター。
*仮庵の祭り:秋の祭り。荒野の旅で、神が民を守ってくださったことを思い出す。仮の小屋(仮庵)に住んで過ごす。ヘブライ語でスコット。
*ハクヘル:「集めよ」という意味。七年ごとに仮庵の祭りの時期に人々を集め、律法を読んで聞かせるよう命じられたことに由来する。
第二部 ホセア書7〜8章
このころ、イスラエルで何が起きていたか
ホセアが語ったのは、紀元前750年ごろから、数十年にわたってです。場所は、北のイスラエル王国でした。
そのころの話は、列王紀下15章にあります。
はじめ、国は豊かでした。でも、ヤロブアム2世という王が死ぬと、すべてが崩れ始めます。
次の王は、半年で殺されました。その次の王は、たった一か月で殺されました。20年ほどの間に、4人の王が暗殺されたのです。
そこへ、北の大国アッスリヤ*(今のイラク北部にあった大帝国)が攻めて来ます。イスラエルの王たちは、大金を払って許してもらいました。最後の王は、こっそりエジプトにも助けを求めました。
神に頼らず、強い国に頼ったのです。
そして紀元前722年、北イスラエルはアッスリヤに滅ぼされました(列王紀下17章)。
ホセアの言葉は、この国が崩れていく真ん中で語られた、最後の呼びかけでした。
【図解A】かんたん年表——北のホセアと南のイザヤ
ホセアの時代 かんたん年表
同じ時代に、北と南で、二人の預言者が語っていました(年はおおよそ)
| 北イスラエル (預言者ホセア) | 紀元前 | 南ユダ (預言者イザヤ) |
|---|---|---|
| ホセアが語り始める。国はまだ豊かホセア書1章1節 | 750年ごろ | |
| 王が次々に暗殺される。20年ほどで4人列王紀下15章 | 750〜732年ごろ | |
| 740年ごろ | イザヤが預言者として召されるイザヤ書6章1節 | |
| 王がアッスリヤに大金を払う。 最後の王は、こっそりエジプトにも頼る列王紀下15章・17章 | 740〜725年ごろ | |
| アッスリヤに滅ぼされる列王紀下17章 | 722年 | 北が滅びるのを、南から見ていた |
| 701年 | アッスリヤがエルサレムを包囲。ヒゼキヤ王はイザヤを通して神に頼り、エルサレムは守られる列王紀下18〜19章 |
同じ時代、同じ敵アッスリヤ。
北は強い国に頼って滅び、701年の南は神に頼って守られました。
※南ユダは、その後、紀元前586年にバビロンに滅ぼされます(二回目の捕囚)。
炉のように燃える心
7章4〜7節で、ホセアはパンを焼く「炉」のたとえを使います。
パン職人は、夜のあいだ火を弱くしておきます。そして朝になると、一気に燃え上がらせます。
陰謀を企む人たちも同じでした。怒りを夜通しくすぶらせ、朝には炎のように燃え上がる。そして王を殺すのです。
そのもろもろの王は皆たおれる。彼らの中にはわたしを呼ぶ者がひとりもない。(7章7節)
王が次々に倒れても、誰も神を呼びませんでした。
片面だけ焼けたパン——「混ぜる」は、ささげ物の言葉だった
そして、8節です。
エフライムはもろもろの民の中に入り混じる。エフライムは火にかけて、かえさない菓子である。(7章8節)
エフライム*(北イスラエルの別名)は、「かえさない菓子」だというのです。
「菓子」は、ヘブライ語でウガーといいます。お菓子ではありません。熱い石や灰の上で焼く、薄くて平たいパンのことです。
このパンは、途中でひっくり返さないといけません。
「かえさない」は、ベリー・ハフーハーです。ベリーは「〜なしに」、ハフーハーは「ひっくり返された」。合わせて「ひっくり返されていない」という意味です。
ひっくり返さないと、どうなるでしょう。下の面は黒く焦げます。上の面は、生のままです。どちらから見ても、食べられません。
神の民でありながら、よその国にも頼っている。どちらにもなりきれない、損なわれた姿。それがエフライムでした。
さらに、前半の「入り混じる」にも驚きがあります。
この言葉は、イトボラールといいます。もとの形はバラルで、「混ぜる」という意味です。
実はこのバラルは、レビ記2章で使われている言葉です。神にささげる穀物のささげ物*を作るとき、麦粉に油を混ぜます。その「混ぜる」です。
本来は、神へのささげ物を作るための言葉でした。ところがエフライムは、自分自身をよその国の民の中に混ぜてしまったのです。
ホセアは10節で、こうも言います。「なおその神、主に帰らず」。
「帰る」はシューヴという言葉で、「かえさない」とは別の言葉です。でも、描いている姿は似ています。神の方に向きを変えない。ひっくり返らない。
ここからは原語の意味ではなく、黙想です。焦げたパンは、ふつうなら捨てられます。でも神は13節で、「わたしは彼らをあがなおうと思う」と言われました。神は、まだそのパンに手を伸ばしているのです。
書いたのに「よその物」にされた律法
8章12節には、こうあります。
わたしは彼のために、あまたの律法を書きしるしたが、これはかえって怪しい物のように思われた。(8章12節)
「怪しい物」は、ヘブライ語でザール。「よその人のもの、自分には関係ないもの」という意味です。
第一部で見たように、モーセは律法を書いて、みんなが聞けるように渡しました。ところが数百年後、イスラエルはその言葉を「自分とは関係ないもの」として扱ったのです。
*この部に出てきた言葉
*アッスリヤ:今のイラク北部にあった大帝国。紀元前722年に北イスラエルを滅ぼした。
*エフライム:北イスラエル王国の別名。いちばん大きな部族の名前から、国全体をこう呼んだ。ホセア書では「イスラエル」「サマリヤ」も同じ北の王国を指す。
*穀物のささげ物:麦粉に油を混ぜて作り、神にささげるもの(レビ記2章)。口語訳では「素祭」と呼ばれている。
第三部 ペテロの第一の手紙4章
この手紙は、だれに書かれたのか
この手紙を書いたのは、イエスの弟子ペテロです。紀元60年代ごろに書かれたと考えられています。書いた場所は、ローマだったという見方が多いです。
あて先は、今のトルコのあたりに散らばって住んでいたクリスチャン*(キリストに属する者)たちでした。彼らは、それまでの生活から離れたために、周りの人から悪く言われていました。
3節を見ると、彼らの昔の生活が分かります。
過ぎ去った時代には、あなたがたは、異邦人の好みにまかせて、好色、欲情、酔酒、宴楽、暴飲、気ままな偶像礼拝などにふけってきたが、もうそれで十分であろう。(3節)
ここでの「異邦人」*(ユダヤ人ではない人々)は、神を知らない周りの人々のことです。
酒、宴会、偶像。第二部のホセア書で責められていたことと、よく似ています。ペテロの読者たちは、まさにそこから抜け出してきた人たちでした。
そして、昔の仲間と一緒に遊ばなくなったので、ののしられていたのです(4節)。
焼き滅ぼす火と、試す火
12節で、ペテロはこう書きます。
愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。(12〜13節)
「火のような試錬」は、ギリシャ語でピュローシスといいます。「燃えること、火で焼くこと」という意味です。
ペテロ自身も、1章7節で、火で精錬される金のたとえを使っています。苦しみは、信仰が本物かどうかを試す火でもあるのです。
ここで、第二部を思い出してください。ホセア書にも「炉」が出てきました。
ホセアの炉は、人の欲と陰謀から燃え上がった火でした。王を焼き、国を焼く火です。
ペテロの火は、ちがいます。19節で、ペテロはこれを「神の御旨に従って」受ける苦しみと呼んでいます。焼き滅ぼすためではなく、金のように試されるための火なのです。
同じ「火」でも、二つの箇所では、向きが正反対です。
だからペテロは、驚かなくていいと言うのです。苦しみは、神が見捨てたしるしではないからです。
愛は多くの罪をおおう
8節には、短くて深い言葉があります。
何よりもまず、互の愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである。(8節)
これは、旧約聖書の箴言*10章12節からの引用です。
「おおう」とは、罪を見て見ぬふりすることではありません。相手の失敗をあばき立てずに、赦して、支え合うことです。
苦しい時ほど、人はぎすぎすします。だからペテロは、まず愛を熱く保ちなさいと言いました。外からの火に負けないために、内側の愛を熱くしておくのです。
真実な造り主に、たましいをゆだねる
4章の最後、19節です。
だから、神の御旨に従って苦しみを受ける人々は、善をおこない、そして、真実であられる創造者に、自分のたましいをゆだねるがよい。(19節)
「真実な」は、ピストスといいます。「信頼できる、約束を守る」という意味です。
「創造者」は、クティステースです。「造った方」という意味です。実はこの言葉は、新約聖書の中でここにしか出てきません。
「ゆだねる」は、パラティセーミです。もとは「大切なものを、信頼できる人に預ける」という意味です。
この言葉には、忘れられない使われ方があります。イエスが十字架の上で、最後に言われた言葉です。
父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます(ルカによる福音書23章46節)
この「ゆだねます」が、同じパラティセーミなのです。
ここからは黙想です。ペテロがここで、イエスの言葉をそのまま引用しているわけではありません。でも、イエスが十字架でされたのと同じ姿を、苦しむ読者にすすめているように思えます。苦しみの中で、文句を言うのではなく、自分を造った方に、自分を預ける。
造った方は、自分が造ったものの扱い方を、いちばんよく知っているからです。
*この部に出てきた言葉
*クリスチャン:「キリストに属する者」という意味。新約聖書では3回しか出てこない言葉(使徒行伝11章26節、26章28節、ペテロの第一の手紙4章16節)。はじめは、周りの人がつけたあだ名だったと考えられている。
*異邦人:ユダヤ人ではない人々のこと。3節では、神を知らない周りの人々を指す。
*箴言:旧約聖書の書の一つ。生きるための知恵の言葉を集めたもの。
第四部 三つの箇所を貫く糸
造り主を忘れた民と、造り主にゆだねる人
三つの箇所を並べると、一本の糸が見えてきます。それは、神の言葉と、どう向き合うかです。
モーセは、律法を書いて渡しました。七年ごとに、子どもも外国人も一緒に聞くように命じました(申命記31章)。
数百年後、イスラエルは、その書かれた言葉を「よその物」として扱いました(ホセア書8章12節)。そして、こう言われてしまいます。
イスラエルは自分の造り主を忘れて、もろもろの宮殿を建てた。(ホセア書8章14節)
ペテロは、まったく逆のことを書きました。
真実であられる創造者に、自分のたましいをゆだねるがよい。(ペテロの第一の手紙4章19節)
造り主を忘れた民。造り主にたましいを預ける人。同じ神の前で、二つの生き方が分かれています。
同じ火でも、正反対
二つの生き方は、「火」の中でもはっきり分かれます。
ホセアの時代の火は、欲と陰謀の炉でした。人の心が勝手に燃え上がり、王も国も焼きつくしました。
ペテロの時代の火は、試練の火でした。神の御旨の中で通る、金を試すような火でした。
火の中にいることは、同じです。ちがうのは、その火が人の欲から出たものか、神の御旨の中で通るものかです。
【図解B】二つの火——焼き滅ぼす炉と、試す火
二つの火
火の中にいることは同じ。ちがうのは、その火がどこから来たか
πύρωσιςピュローシス:燃えること、火のような試練
παρατίθημιパラティセーミ:預ける、ゆだねる
造り主を忘れた民と、造り主にゆだねる人。
同じ火の中で、二つの生き方が分かれます。
ひっくり返されるパン
もう一度、ホセア書7章8節の「かえさない菓子」を思い出してください。片面は焦げて、片面は生のパンです。
ホセアの時代のイスラエルは、ひっくり返りませんでした。苦しい時、「床の上で悲しみ叫ぶ」(7章14節)だけでした。苦しいとは言うけれど、神の方に向きを変えなかったのです。
ユダヤ教では、悔い改めのことをテシュヴァー*(立ち返ること)と呼びます。「帰る」という意味のシューヴから来た言葉です。悔い改めは、反省して落ち込むことではありません。神の方に向きを変えることです。
ここからは黙想です。
パンは、自分でひっくり返ることができません。焼いている人の手が必要です。
神の方に向きを変えるのは、私たち自身の応答です。でも、その一歩さえ、私たちは神の助けを必要としています。
聖書には、まさにそう祈った人がいます。それは、エフライムでした。
主よ、あなたはわたしの神、主でいらせられる、わたしを連れ帰って、もとにかえしてください。(エレミヤ書31章18節)
「連れ帰って、もとにかえしてください」は、ヘブライ語ではハシヴェーニー・ヴェアシューヴァーです。「わたしを帰らせてください。そうすれば、わたしは帰ります」という意味です。
帰るのは、エフライム自身です。でも、帰らせてくださるのは神です。ひっくり返らなかったエフライムが、最後には、ひっくり返してくださいと祈るようになったのです。
ペテロの言う「ゆだねる」も、同じ姿だと思います。イエスが十字架で、霊を父のみ手にゆだねられたように。
最後に戻る言葉
神は、イスラエルの不従順を見過ごされたわけではありません。それでもホセアを通して、くり返し、立ち返るように呼びかけられました。「わたしは彼らをあがなおうと思う」(7章13節)と言いながら。
それは、モーセが語ったあの約束と同じ心です。
主は決してあなたを見放さず、またあなたを見捨てられないであろう(申命記31章6節)
つかんだ手をゆるめない。置き去りにしない。
今は、ちょうど仮庵の祭りの季節です。この祭りは、荒野の旅で、神がずっと民を守ってくださったことを思い出す祭りです。
私たちの心が片面焼きでも、神はまだ手を伸ばしておられます。あとは、その手に身を任せるだけです。
*この部に出てきた言葉
*テシュヴァー:ヘブライ語で「悔い改め」。もとの意味は「立ち返ること、帰ること」。動詞シューヴ(帰る)から来た言葉。
*仮庵の祭り:秋の祭り。荒野の旅で、神が民を守ってくださったことを思い出す。仮の小屋(仮庵)に住んで過ごす。ヘブライ語でスコット。
語彙集
第一部 申命記31章(ヘブライ語)
| 原語 | 発音 | 意味 |
| לָצֵאת וְלָבוֹא | ラツェット・ヴェラヴォー | 出て行くことと、入って来ること(民を導く働きを表すこともある) |
| └ לָצֵאת | ラツェット | 出て行くこと |
| └ וְ | ヴェ | そして |
| └ לָבוֹא | ラヴォー | 入って来ること |
| חִזְקוּ וְאִמְצוּ | ヒズクー・ヴェイムツー | 強く、かつ勇ましくあれ(民全体へ・複数形) |
| └ חִזְקוּ | ヒズクー | 強くあれ(複数) |
| └ וְאִמְצוּ | ヴェイムツー | そして、勇ましくあれ(複数) |
| חֲזַק וֶאֱמָץ | ハザク・ヴェエマツ | 強く、かつ勇ましくあれ(ヨシュアへ・単数形) |
| └ חֲזַק | ハザク | 強くあれ(単数) |
| └ וֶאֱמָץ | ヴェエマツ | そして、勇ましくあれ(単数) |
| לֹא יַרְפְּךָ וְלֹא יַעַזְבֶךָּ | ロー・ヤルペハー・ヴェロー・ヤアズヴェハー | あなたを見放さず、見捨てない |
| └ לֹא | ロー | 〜ない |
| └ יַרְפְּךָ | ヤルペハー | あなたを見放す(手をゆるめる) |
| └ וְלֹא | ヴェロー | そして〜ない |
| └ יַעַזְבֶךָּ | ヤアズヴェハー | あなたを見捨てる(置き去りにする) |
| רָפָה | ラファー | 手をゆるめる、力を抜く(辞書の形) |
| עָזַב | アザヴ | 置き去りにする、見捨てる(辞書の形) |
| שְׁמִטָּה | シュミッター | ゆるし、免除(ゆるしの年) |
| סֻכּוֹת | スコット | 仮庵(仮の小屋)、仮庵の祭り |
| הַקְהֵל | ハクヘル | 集めよ |
第二部 ホセア書7〜8章(ヘブライ語)
| 原語 | 発音 | 意味 |
| עֻגָּה בְּלִי הֲפוּכָה | ウガー・ベリー・ハフーハー | ひっくり返されていない菓子(パン) |
| └ עֻגָּה | ウガー | 熱い石や灰の上で焼く、薄く平たいパン |
| └ בְּלִי | ベリー | 〜なしに |
| └ הֲפוּכָה | ハフーハー | ひっくり返された |
| הָפַךְ | ハファク | ひっくり返す(辞書の形) |
| יִתְבּוֹלָל | イトボラール | 入り混じる(自分を混ぜる) |
| בָּלַל | バラル | 混ぜる(辞書の形)。レビ記2章で麦粉に油を混ぜる言葉 |
| שׁוּב | シューヴ | 帰る、向きを変える |
| זָר | ザール | よその人のもの、自分に関係ないもの |
第三部 ペテロの第一の手紙4章(ギリシャ語)
| 原語 | 発音 | 意味 |
| πύρωσις | ピュローシス | 燃えること、火で焼くこと、火のような試練 |
| πιστός | ピストス | 真実な、信頼できる |
| κτίστης | クティステース | 創造者、造った方(新約聖書ではここだけ) |
| παρατίθημι | パラティセーミ | 預ける、ゆだねる(辞書の形) |
| Χριστιανός | クリスティアノス | クリスチャン、キリストに属する者 |
第四部 三つの箇所を貫く糸(ヘブライ語)
| 原語 | 発音 | 意味 |
| תְּשׁוּבָה | テシュヴァー | 悔い改め、立ち返ること |
| שׁוּב | シューヴ | 帰る、向きを変える |
| הֲשִׁיבֵנִי וְאָשׁוּבָה | ハシヴェーニー・ヴェアシューヴァー | わたしを帰らせてください、そうすればわたしは帰ります(エレミヤ書31章18節) |
| └ הֲשִׁיבֵנִי | ハシヴェーニー | わたしを帰らせてください(シューヴの「〜させる」形) |
| └ וְ | ヴェ | そして、そうすれば |
| └ אָשׁוּבָה | アシューヴァー | わたしは帰ります(シューヴのふつうの形) |
参考:聖書ソフトなど
聖書引用について
本記事では『口語訳聖書』©1954,1955,1975,1984,2002 日本聖書協会を使用しています。1954年・1955年の本文を基本とし、改訂箇所は原語からの拙訳、または章節のみを記載しています。拙訳箇所には「拙訳」と明記しています。

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