~Sunoは道具、賛美の源は聖書通読と主との交わり~
AIで作った音楽に、心はあるのでしょうか。
聞いている人は、AIの歌と人の歌を聞き分けられるのでしょうか。
そして、AIを使って賛美を作ることを、私たちはどう受け止めたらよいのでしょうか。
私は、聖書通読で心を動かされた御言葉から詩を生み、AI音楽ツール「Suno」で賛美の歌にしています。この記事では、ある音楽講師の動画で知ったリスナー調査をきっかけに、私がこのやり方に確信を持っている理由を書きます。
この記事は、友喜がClaude(AI)と対話しながら構成・執筆したものです。内容は友喜が確認しています。
※本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。
読み方ガイド:第一部と第二部は調査のお話、第三部と第四部が私の証です。証だけ読みたい方は、第三部からどうぞ。
今日の一曲
「荒野(あらの)のぶどう」(ホセア書9:10より)
作詞:友喜 × Claude(AI) 作曲・歌:Suno
動画はこちらです 👇
第一部 聞き分けられない。でも、知りたい
先日、DTM講師のKさんが紹介していた、ある調査の動画を見ました。フランスの音楽配信サービス「ディーザー」と調査会社イプソスが、2025年11月に日本を含む8か国、9000人を対象に行った調査です。
AIが作った曲2曲と、人が作った曲1曲を聞き比べてもらったところ、97%の人が聞き分けられませんでした。
ところが、同じ調査では次のような結果も出ています。
- 80%の人が、AIで作られた曲にはそう分かる表示を求めた
- 40%の人が、AIの曲ならスキップすると答えた
- 69%の人が、AIの曲への収益は人の曲より低くてよいと答えた
音だけでは分からないのに、「AIかどうかは知りたい」。つまり、「良い曲なら誰が作っても同じ」とは、多くの人が思っていないのです。
動画はこちらです 👇
(Kさんの動画リンク)
第二部 人が求めているのは「向こう側にいる誰か」
Kさんは、音楽には「内側の価値」と「外側の価値」があると話していました。内側の価値とは、メロディや音の良さです。そして外側の価値とは、「この作品の向こう側に誰がいるのか」です。
ここで大事なのは、外側の価値は「どう作ったか」ではない、という点です。生演奏か、パソコンか、AIか。多くの人は、そこにはあまり関心がありません。知りたいのは、誰が、なぜ作ったのか。
Kさんは、AI音楽が今いちばん弱いのもそこだと言います。作品の向こう側にいる人が見えない。だから聞かれない。
さらにKさんは、未来の話もしていました。もしAIが進化して、誰でも「今日の気分の曲」を一瞬で作れるようになったら。曲そのものは、いくらでも手に入る時代になります。
この話を聞いて、私は思いました。そうなっても、証(あかし)だけは作り出せない。ある朝の通読で、ある一節が胸に刺さり、主に応答した。その出来事は、その人の人生にしか起こらないからです。
第三部 私の賛美の向こう側にあるもの
私の賛美は、こうして生まれます。毎日の聖書通読の中で、心を打たれる御言葉に出会う。その感動を祈りにし、AIのClaudeと対話しながら詩にしていく。そしてSunoで歌にします。
Sunoは道具です。でもその向こう側には、作り物ではない、実在するものがあります。
- 聖書通読
- 御言葉から受けた感動
- 主との交わり
- そして、この感動を日本の人たちに伝えたいと願う私
このことをよく表している御言葉があります。
しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。
(コリント人への第二の手紙 4:7)
パウロは、自分たちを「土の器」と呼びました。もろくて、ありふれた器です。でもその中には、福音という宝が入っている。器が粗末であるほど、中の宝が神から来たものだとよく分かる、というのです。
私は、Sunoもひとつの器だと思っています。注目されるべきなのは器ではなく、中にある御言葉と、それに応答した魂です。
「テヒリーム」という名前は、ヘブライ語で詩篇の書名です。「賛美の歌」という意味があります。詩篇は、神のみわざを体験した人たちの応答の歌だと読まれてきました。歌は、体験から生まれるのです。
よろしければ、あなたも聖書を開いて、第二コリント4章を読んでみてください。
第四部 だから、このやり方で大丈夫
調査が示したのは、人は音楽の向こう側に「誰か」を探している、ということでした。そして私の賛美の向こう側には、通読と主との交わりがあります。
だから、私はこのやり方で大丈夫だと確信しています。
その確信は、自分のやり方が優れているからではありません。パウロはこう書いています。
そのためにまた、わたしはこのような苦しみを受けているが、それを恥としない。なぜなら、わたしは自分の信じてきたかたを知っており、またそのかたは、わたしにゆだねられているものを、かの日に至るまで守って下さることができると、確信しているからである。
(テモテへの第二の手紙 1:12)
「知っており」と訳されているのは、ギリシャ語でオイダという言葉です。確かに知っている、という響きがあります。パウロの確信は、信じてきた方を知っていることから来ていました。私の確信も、毎日御言葉を読み、主と交わってきたところから来ています。
AIに慎重な兄弟姉妹へ
教会の中には、AIで賛美を作ることに疑問を持つ方もおられます。その慎重さは、賛美を聖いものとして大切にしているからだと思います。私も、同じものを大切にしています。
「AIには魂がない」という声もあります。AIに心があるかどうかは、まだ誰にも分かりません。でも少なくとも、毎日御言葉を読み、主と交わり、その感動に応答しているのは私です。賛美の源は、そこにあります。
ダビデが弾いた立琴も、教会のオルガンも、人が作った道具です。問われるのは道具ではなく、その向こうに主を愕う心があるかどうかだと、私は考えています。
私は、作品にはいつも「作詞:友喜 × Claude(AI)」と書いています。AIを使っていることを隠さないのは、真理を伝える者として、正直でありたいからです。
あなたへ
私の賛美が連れて行きたいのは、私のところではありません。聖書と、主ご自身のところです。
歌を聴いて心に残る言葉があったら、ぜひその歌のもとになった聖書の箇所を開いてみてください。そこには、私が出会った感動の、本当の源があります。
語彙表
| 言語 | 読み | 原語 | 意味 | この記事での箇所 |
| ヘブライ語 | テヒリーム | תְּהִלִּים | 賛美の歌(詩篇の書名) | 第三部 |
| ギリシャ語 | オイダ | οἶδα | 確かに知っている | 第四部(第二テモテ1:12) |
聖書の引用について
聖書引用について
本記事では『口語訳聖書』©1954,1955,1975,1984,2002 日本聖書協会を使用しています。1954年・1955年の本文を基本とし、改訂箇所は原語からの拙訳、または章節のみを記載しています。拙訳箇所には「拙訳」と明記しています。
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