【お知らせ】

携挙にあずかれる人を、人が勝手に選別してしまう誘惑——それは傲慢ではないか——曖昧さの中で、愛にとどまる——

エッセイ
スポンサーリンク

——曖昧さの中で、愛にとどまる——

【はじめに】

携挙にあずかる人と、あずかれない人。それを人間の側で見分けられるかのように語る本があり、教会の中でもそれをささやく声がある。奉仕の熱心さや信仰の「らしさ」で、誰かの永遠の行き先を判定することは、果たして正しいのだろうか。それとも、それ自体が一つの傲慢なのだろうか。

※本記事の文章・構成の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。
【読み方のご案内】この記事は、一人の信仰者の葛藤と気づきをそのまま辿る形で書かれています。最後まで通して読んでいただくことで、着地点にたどり着けるように構成しています。

疑問の始まり

最近、ある違和感を覚えることがあった。携挙にあずかる人とあずかれない人を、まるで基準を持って見分けられるかのように語る本があり、教会の中でもそれをささやく声がある。「こういう人は入れる」「こういう人は難しい」——そう聞くたびに、心のどこかがざわつく。

正直に告白すると、これは自分自身の中にある葛藤でもある。もしかしたら、これはエゴなのかもしれない。そう思いながらも、聖書に照らして、この違和感を確かめたくなった。

携挙の基準にされてしまうもの

教会の奉仕、賛美の奉仕、ブログでの発信。教会の大掃除、トラクト配布、交わり会に最後まで残ること、集会への出席。聖書を毎日読むこと、祈ること。

数え上げればキリがない。私たちは無意識のうちに、「良い信仰者らしい行動リスト」を作ってしまう。そして、そのリストをどれだけ満たしているかで、自分や他者の信仰の深さを、時には携挙にあずかる資格までも、はかろうとしてしまう。

はっきり言いたい。これら全部、携挙の基準ではないと思う。聖書を読むことすら、祈ることすら。

もちろん、これらの営みは大切だ。ブログを書くことも、賛美の奉仕をすることも、教会に仕えることも、主イエスの十字架の愛に心から感動して、自ら喜んでしていること。それをやめるつもりはない。でも、それが「携挙の資格」や「信仰の合格ライン」に変わってしまった瞬間、何かが根本から狂ってしまう気がする。

聖書との格闘

マタイによる福音書7章に、こういう言葉がある。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」。そして続けて、「あなたの名によって預言し……あなたの名によって悪霊を追い出し……あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか」と主張する人々に対して、「あなたがたを全く知らない」と言われる。

この箇所を初めて読んだ時、正直、恐ろしいと感じた。しかし、よく読むと、イエスが問題にしているのは「実績の量」ではないことに気づく。預言し、悪霊を追い出し、力あるわざを行った——これは並外れた奉仕の実績である。それでもイエスは「あなたがたを知らない」と言われる。どれだけ立派な行いを積み上げても、それ自体が入場券にはならない、ということではないだろうか。

一方で、エペソ人への手紙2章には、こう書かれている。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである」。行いによってではなく、恵みによって。だれも誇ることのないために。

ここに、奉仕を「誇り」や「資格」に変えてしまうことへの、静かな警告があるように思う。

ではヤコブの手紙2章の「行いのない信仰も死んだものなのである」(26節)とは矛盾するのだろうか。そうではないと思う。行いが信仰を生み出すのではなく、真実な信仰が自然に行いとなって溢れ出る、という順序の話なのだと思う。奉仕や祈りや聖書通読が悪いのではない。それを「基準」や「実績表」に変えてしまう心の姿勢こそが、問われているのだと思う。

人の能力は、神の前でどれほどのものか

こう考えると、家庭を解放して伝道に生きることも、ブログや賛美で仕えることも、神から見れば、驚くほどちっぽけなものなのではないかと思う。虫けらのような、と言ってもいいくらいに。

これは自己卑下の言葉ではない。むしろ、正しいスケール感を取り戻すための言葉だと思う。人間の目には「立派な奉仕」「熱心な信仰者」に見えるものも、神の前では、誇れるようなものではない。だからこそ、それを基準にして誰かを「入れる」「入れない」と判定することは、根本的に無理があるのではないだろうか。

心の中の緊張——それでも答えは出ない

この違和感を抱えながら、聖書を何度も読み返しても、はっきりとした答えは見つからなかった。むしろ、聖書はどちらの立場をも、正しいとも誤りだとも、明確には言わない。

なぜ、神の言葉はここまであいまいなのだろうか。人間は、こんなにも単純な答えを求めるのに。

この問いを考えていた時、いくつかの心理学の言葉に出会った。ここに、自分の辞書として書き留めておきたい。

曖昧さへの耐性(Tolerance of Ambiguity) 心理学者フレンケル=ブルンスウィックが提唱した概念。答えが白黒はっきりしない状況、矛盾する情報が同時に存在する状況を、無理に解決しようとせずに保持していられる心の力を指す。
認知的複雑性(Cognitive Complexity) 物事を単純な二分法(正しい・間違い、入れる・入れない)ではなく、多面的・多層的に捉える能力。
認知的不協和(Cognitive Dissonance) 心理学者フェスティンガーが提唱した概念。矛盾する二つの信念を同時に持つことの「不快感」そのものと、それを解消しようとする心の動きを指す。曖昧さへの耐性とは少し違う。不協和は「不快感を消したい」動きであり、曖昧さへの耐性は、その不快な緊張を急いで解消せず、健全に抱え続けられる状態を指す。
ネガティブ・ケイパビリティ(Negative Capability) 詩人キーツが使った文学的概念。「事実や理由を性急に求めず、不確実さや疑い、神秘の中にとどまり続けられる能力」。元は文学批評の言葉だが、信仰の成熟を語る文脈でもしばしば引用される。
一流の知性(F. Scott Fitzgerald, “The Crack-Up” (1936)) 「一流の知性とは、二つの相反する考えを同時に心に抱きながら、なお機能し続けられる能力のことである」。作家フィッツジェラルドが1936年のエッセイに残した言葉。矛盾やパラドックスへの耐性こそが、IQのような数値的な知能とは別の次元の知的成熟だという主張として、今も広く引用されている。

この言葉は、単なる格言以上のものとも結びついている。発達心理学の分野には、ピアジェの認知発達段階のさらに先——「ポストフォーマル思考(post-formal thinking)」や「弁証法的思考(dialectical thinking)」と呼ばれる領域がある。成人期以降に一部の人に見られる思考様式で、矛盾する二つの真実を「どちらかを選ぶ」のではなく「両方を保持したまま統合する」能力を指し、心理学者マイケル・バセッチェスなどが研究してきた。また「統合的複雑性(Integrative Complexity)」という概念もあり、単純化した二元論ではなく複数の視点を同時に保持しながら判断する、知的成熟度の指標として用いられている。

ただし、正直に言っておきたい。これが「IQを超える、人間の最高の知性」だと科学的に確立された定説かというと、そこまでは言い切れない。フィッツジェラルドの言葉は文学的な洞察であり、多くの心理学者や思想家がそこに共感して引用してきた、という位置づけだと思う。それでも、曖昧さを抱えながら、それでも神に信頼し続けるという姿勢は、この「一流の知性」の信仰版と言えるのかもしれない。

パウロがローマ人への手紙11章の終わりで、「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい」と述べて、答えを出さずに賛美へと移っていく——あの姿勢は、まさにこの「曖昧さを保持する信仰」の聖書的な原型のように思う。

それでも、これは目標ではない

けれども、ここで立ち止まって考え直したいことがある。

これらの心理学的な「能力」そのものを、神が求めているのだろうか。そうではないと思う。もしこの「曖昧さに耐える力」自体を目標にしてしまえば、それはそれで、また新しい「立派な信仰者の条件」になってしまう。「曖昧さに強い人こそ成熟した信仰者だ」という、また別の選別基準を作ってしまいかねない。

そうではないと思う。神が求めておられるのは、ただ一つ。分からなくても、神を愛するがゆえに、神に信頼すること。それだけだと思う。

逆説的だけれど、分からないことをそのまま抱えながら、神を愛するがゆえに神に信頼することを学んでいく時、気づけば自然に、この曖昧さに耐える力が身についていることがある。それは目指すべき目的地ではなく、信頼を積み重ねた結果として、後から静かについてくるもの。これが良いことか悪いことかは、正直、分からない。ただ、神ご自身が、矛盾の中に存在する真理なのだと、今は思える。

結論——中学生にも分かる言葉で

いろいろと考えてきたけれど、最後に、できるだけ簡単な言葉でまとめてみたい。

人を「この人は救われる」「この人はダメ」と決めつけるのは、実は簡単なこと。でも聖書はそんな単純な答えをくれない。だから神様を信じ続けるのは、時々つらい。分からないことを抱えたまま歩くのは、しんどい。

でも、そのしんどさを我慢する力そのものが、神様が求めているものじゃない。

神様が本当に求めているのは、ただ一つ。神様に頼ること。そして、聖書がいちばん大切だと言っている三つのもの——信仰、希望、愛——の中でも、いちばん大きいのは愛。イエス様が十字架で見せてくれた愛。

分からないことは分からないまま、その愛に包まれながら、イエス様から目をそらさずに、今日も一歩一歩歩いていく。それでいい。

🌱 聖書を初めて読む方へ
同じ通読箇所を、聖書の専門用語を知らない方のために再構成したnote記事もあります。原語の表は省きましたが、聖書解説の深さは変わりません
聖書を初めて読みたい方、ご家族やご友人に紹介したい方は、ぜひこちらからどうぞ。

このエッセイ記事は、8月22日の通読時にふと思ったことです。よろしかったらこの記事もお読みください 👇

聖書通読2026.8.22 申命記21章・エゼキエル28-29篇・ヘブル4-5章 「ツロの王の堕落と、神の安息」——聞いた言葉を信仰と結びつけているか——
——聞いた言葉を信仰と結びつけているか——2026年8月22日 申命記21章10節から23節 エゼキエル書28章・29章 ヘブル人への手紙4章・5章【はじめに】「木にかけられた者は神にのろわれた者」——この一節が、なぜ千年以上後の十字架の意…

「聖書 口語訳(日本聖書協会、1954, 1955年)」

スポンサーリンク

コメント

タイトルとURLをコピーしました