聖書通読 第330回
通読箇所:ホセア書11章1節〜12章14節、ペテロの第二の手紙1章1節〜21節
(参照:創世記25章、28章、32章)
裏切られても、何度離れて行かれても、それでも「わが子」と呼び続ける親がいるでしょうか。
かかとをつかんで生まれた男ヤコブ。神から離れ、大国の間をさまよった北イスラエル。そして、山の上で天から聞こえた「わたしの愛する子」という声。
何百年も離れた三つの場面は、なぜ同じ「子」という言葉でつながっているのでしょうか。神が「どうして、あなたを捨てることができようか」と叫んだ時、その心の中では何が起きていたのでしょうか。
そして、「神の子となる力」とは、私たちが頑張って身につける力なのでしょうか。
※本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。
【読み方のご案内】第一部だけでも、一つの物語として読むことができます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。
「あなたをしたいもとめます」(第329回の通読から生まれたゴスペル)

第一部 創世記25章・28章・32章
「かかとをつかむ者」が「イスラエル」になった夜
今回の通読には、トーラー(モーセ五書)*の箇所がありません。けれども、ホセア書12章を読むと、預言者ホセアが創世記の一人の人物を思い出していることに気づきます。ヤコブです。
ホセアの時代、北イスラエル王国はアッスリヤに滅ぼされる直前でした。その国に向かって、ホセアは先祖ヤコブの話を始めます。
“ヤコブは胎にいたとき、その兄弟のかかとを捕え、
成人したとき神と争った。
彼は天の使と争って勝ち、
泣いてこれにあわれみを求めた。
彼はベテルで神に出会い、
その所で神は彼と語られた。”
(ホセア書12章3〜4節)
この短い詩に、ヤコブの一生が詰まっています。第一部では、その物語を創世記でたどってみましょう。
ヤコブの一生とホセア書12章の対応図
ヤコブの一生と、ホセア書12章
ホセアは、滅びかけた国に先祖ヤコブの物語を思い出させました
「その手はエサウのかかとをつかんでいた」創世記25章26節 עָקֵב アーケーヴ かかと
「決してあなたを捨てず」創世記28章15節 בֵּית־אֵל ベート・エール 神の家(ベテル)
「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい」創世記32章28節 יִשְׂרָאֵל イスラーエール イスラエル
「泣いてこれにあわれみを求めた」ホセア書12章3〜4節
「あなたの神に帰り」ホセア書12章6節
なぜ「ヤコブ」という名前なのか?
双子の兄エサウが生まれた、そのすぐ後のことです。
“その後に弟が出た。その手はエサウのかかとをつかんでいた。それで名をヤコブと名づけた。”
(創世記25章26節)
ヤコブは、ヘブライ語でヤアコーヴと発音します。この名前は、「かかと」を意味するアーケーヴという言葉と結びつけられています。
かかとをつかむのは、前の人を引き戻して自分が先に出ようとすることです。そこからこの名前は、「押しのける者」という響きも持つようになりました。
実際、ヤコブは兄から長子の特権(一番上の息子が受け継ぐ特別な権利)*を買い取ります。のちには父をだまして、兄が受けるはずの祝福まで手に入れました。名前のとおりの生き方でした。
逃げる途中で、神は何を約束したのか?
兄の怒りを逃れて、ヤコブは一人で旅に出ます。石をまくらにして眠った夜、天に届くはしごの夢を見ました。そこで神はこう語ります。
“わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう”
(創世記28章15節)
ここで注目したいのは、「決してあなたを捨てず」という言葉です。兄をだまして逃げてきた人に、神のほうから先に「捨てない」と約束したのです。
目が覚めたヤコブは、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」と言いました。そして、その場所をベテル(神の家)*と名づけます。
ヤボクの夜、何が起きたのか?
長い年月の後、ヤコブは家族と財産を連れて故郷へ帰ります。ところが、兄エサウが四百人を連れて向かって来ると聞き、ひどく恐れました。
ヤコブは家族を先に川の向こうへ渡らせ、一人だけ残ります。すると「ひとりの人」が現れ、夜明けまでヤコブと組み合いました。
もものつがいを外されても、ヤコブは手を離しません。「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」。
その人はヤコブに名前を尋ね、こう言いました。
“あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです”
(創世記32章28節)
イスラエルは、ヘブライ語でイスラーエールと発音します。「神と争う」などと説明される名前です。
ヤコブはその場所をペニエル(神の顔)*と名づけて言いました。「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている」。
興味深い点として、創世記には「泣いた」という言葉は出てきません。それを伝えているのはホセアです。「泣いてこれにあわれみを求めた」。多くの翻訳は、これをヤコブの涙として読みます。必死にしがみついた手の内側には、涙があったのです。
「ヤコブ」から「わが子」へ
朝日がのぼる中、ヤコブは足を引きずりながら歩き出しました。もう前と同じ歩き方はできません。けれども、新しい名前をもらっていました。
この「イスラエル」という名前は、やがて一つの民の名前になります。ホセア書11章1節で、神が「わが子」と呼んだのは、このヤコブの子孫たちでした。
かかとをつかむ者は、神に捨てられませんでした。それどころか、神にしがみついて新しい名をもらいました。
滅びかけた国に、ホセアは語りかけます。あなたがたの先祖も、神の前で泣いてあわれみを求めた。だから、あなたがたも「あなたの神に帰り」なさい、と(12章6節)。
*この部に出てきた言葉
*トーラー(モーセ五書):旧約聖書の最初の五つの書。創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記。
*長子の特権:一番上の息子が受け継ぐ特別な権利。家を継ぎ、財産を多く受け、父の祝福を受ける。
*ベテル(神の家):ヤコブがはしごの夢を見た場所の名前。
*ペニエル(神の顔):ヤコブが神と組み合った場所の名前。
第二部 ホセア書11章・12章
「どうして、あなたを捨てることができようか」
このころ、イスラエルで何が起きていたか
ホセアが語っていたのは、紀元前700年代の北イスラエル王国です。列王紀下17章によると、最後の王ホセアは大国アッスリヤに従うふりをしながら、ひそかにエジプトへ使いを送りました。エジプトを頼って、アッスリヤから逃れようとしたのです。
ホセア書12章1節の「油をエジプトに送った」は、このようなエジプト頼みの外交を思い起こさせます。結局、アッスリヤは都サマリヤを三年かけて囲み、紀元前722年ごろ、北イスラエルは滅びました。
神に頼らず、大国の間を行ったり来たりした国。その国に向かって、神は意外な言葉を語り始めます。
神はイスラエルをどう呼んだのか?
“わたしはイスラエルの幼い時、
これを愛した。
わたしはわが子をエジプトから呼び出した。”
(ホセア書11章1節)
「わが子を」は、ヘブライ語でリヴニーと発音します。レ(〜を)+ベン(子・息子)+イー(わたしの)。とても短く、親しい言葉です。
ここで神が思い出しているのは、出エジプトの出来事です。奴隷だった民を、神はご自分の子として連れ出しました(出エジプト記4章22節)。
続く言葉は、まるで子育ての日記です。
“わたしはエフライムに歩むことを教え、
彼らをわたしの腕にいだいた。
しかし彼らはわたしにいやされた事を
知らなかった。”
(ホセア書11章3節)
よちよち歩きの子の手を取り、転べば抱き上げる。神はそういう親でした。けれども子どもは、その手のぬくもりを覚えていませんでした。
力ずくではなく、愛のひもで
4節の「あわれみの綱」は、原文では「人の綱」です。ヘブライ語ではハヴレー・アーダームと発音します。すぐ後の「愛のひも」と合わせて読むと、家畜を引くように力ずくで引っぱるのではなく、人として、愛をもって導く神の姿が浮かびます。
神はあごからくびき(牛などの首にかける木の道具)*を外し、かがんで食べ物を与えました。それでも民は、バアル(カナンの人々が拝んだ偶像の神)*のほうへ離れて行きました。
神の心が「変わる」
普通なら、ここで見捨てられて終わりです。ところが8節で、神の言葉は叫びに変わります。
“エフライムよ、
どうして、あなたを捨てることができようか。
イスラエルよ、
どうしてあなたを渡すことができようか。
どうしてあなたをアデマのように
することができようか。
どうしてあなたをゼボイムのように
扱うことができようか。
わたしの心は、わたしのうちに変り、
わたしのあわれみは、ことごとくもえ起っている。”
(ホセア書11章8節)
アデマとゼボイムは、ソドムとゴモラの近くにあり、一緒に滅ぼされた町です。
ここで注目したいのは、「変り」という言葉です。ヘブライ語ではネフパフと書かれています。もとの形はハーファクで、「ひっくり返す」という意味です。創世記19章で、ソドムの町々が滅ぼされた場面にも、同じ言葉が使われています。
滅びの町を「ひっくり返す」ときに使われた言葉が、ここでは神の心が「変わる」ことに使われています。裁かれて当然のエフライムを前にして、神は滅ぼし尽くすことを思いとどまりました。同じ言葉の向こうに、裁きだけでは終わらない神のあわれみが見えてきます。
神はその理由を、「わたしは神であって、人ではなく」と語ります。人なら、裏切られたら見捨てます。でも神は人とは違います。ここに、親としての神の心が見えます。
第一部で、神はヤコブに「決してあなたを捨てず」と約束していました。その約束は、何百年たっても変わっていなかったのです。
帰って来る子どもたち
10〜11節では、ちりぢりになった子どもたちが、エジプトやアッスリヤから「はとのように急いで来る」と約束されています。
12章でも、神は「つねにあなたの神を待ち望め」と呼びかけます。そして、「再びあなたを天幕に住まわせよう」と言います。荒野の旅を思い起こさせ、仮庵の祭り(スコット)*とも響き合う言葉です。荒野で神と共に天幕に住んだ、あの最初のころに戻そう、という約束です。
最後に神は、「幻を多く示したのはわたしである」と語ります。預言者の言葉は、神が語りかけ続けた証拠でした。この言葉は、第三部のペテロの手紙につながっていきます。
*この部に出てきた言葉
*くびき:牛などの首にかけて、すきや車を引かせる木の道具。ここでは重い負担のたとえ。
*バアル:カナンの人々が拝んでいた雨と豊作の神。イスラエルの民がたびたび惑わされた偶像。
*仮庵の祭り(スコット):秋の祭り。木の枝で作った仮の小屋に一週間住み、荒野で神に守られた日々を思い出す。
第三部 ペテロの第二の手紙1章
山の上で聞いた「わたしの愛する子」
ペテロはなぜこの手紙を書いたのか?
ペテロの第二の手紙は、ペテロの遺言のような手紙です。ペテロは「わたしのこの幕屋を脱ぎ去る時が間近である」と書いています。幕屋(もとは荒野で使った移動式の天幕)*は、ここでは自分の体のことです。もうすぐ自分は死ぬ、と分かっていたのです。
そのころ教会には、偽教師(本物のふりをして、間違った教えを広める人)*たちが入り込んでいました(2章)。キリストがまた来るという約束を、あざける人たちもいました(3章4節)。
だからペテロは、自分がいなくなった後も信仰が揺らがないように、大切なことを書き残しました。その中心が、16〜21節です。
ペテロは何を見たのか?
ペテロはまず、「巧みな作り話を用いることはしなかった」と言います。なぜなら、自分は目撃者だからです。
“イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。”
(ペテロの第二の手紙1章17節)
これは、イエスが高い山の上で光り輝く姿に変わった出来事です。変貌山(イエスの姿が変わった山)*の出来事と呼ばれます(マタイによる福音書17章)。ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人がそこにいました。
「わたしの愛する子」は、ギリシャ語でホ・ヒュイオス・ムー・ホ・アガペートス・ムーと発音します。直訳すると「わたしの子、わたしの愛する者」です。ヒュイオスは「子・息子」、アガペートスは「愛する」、ムーは「わたしの」という意味です。「わたしの」が二回くり返されています。
「わが子」と「わたしの愛する子」
ここで、第二部を思い出してください。ホセア書11章1節で、神はイスラエルを「わが子」と呼びました。けれども、その子は父から離れて行きました。
興味深い点として、マタイによる福音書2章15節は、このホセア書11章1節を引用しています。幼いイエスが、ヘロデ王から逃れてエジプトに下り、そこから帰って来た場面です。
イスラエルは「エジプトから呼び出された子」でした。でも、父の心に応えきれませんでした。イエスは、イスラエルの歩みをもう一度たどるようにしてエジプトから呼び出され、今度は最後まで父に従ったのです。
だから山の上で、父なる神は「わたしの心にかなう者」と言われました。ホセアの時代に父が待ち続けた「子」の姿が、ここにあります。
山上の声と旧約預言のつながり図
山の上の声と、旧約の預言
変貌山で聞こえた声は、旧約聖書の言葉と重なっていました
旧約聖書(預言の言葉)
わたしの心にかなう者である」
ホ・ヒュイオス・ムー・ホ・アガペートス・ムー
わたしの子、わたしの愛する者
「預言の言葉」とは何のことか?
“こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。”
(ペテロの第二の手紙1章19節)
「預言の言葉」は、ギリシャ語でプロフェーティコス・ロゴスと発音します。これは、主に旧約聖書の預言を指していると考えられます。当時の教会にとって「聖書」は旧約聖書でした。すぐ後の20節でも、ペテロは「聖書の預言」と言い換えています。
山の上の声は、詩篇2篇7節やイザヤ書42章1節の言葉と重なっています。旧約が指さしていた方はこのイエスだ、と天から確かめられたのです。
暗やみの中のともしび
「暗やみ」は、ギリシャ語でアウクメーロスと発音します。ただ暗いだけでなく、荒れて、さびれた場所という響きを持つ言葉です。「明星」はフォースフォロス、「光を運ぶもの」という意味です。
ペテロはまもなく世を去ります。目撃者はいなくなります。でも、書かれた言葉は残ります。だから、夜が明けるまで、このともしびから目を離さないように、と勧めているのです。
第一部で、ヤボクの夜を越えたヤコブの上に朝日がのぼりました。ペテロも、「明星がのぼって」心を照らす朝を待つように言っています。
預言はどこから来たのか?
20〜21節には、「聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでない」とあります。この言葉は、「読む人が自分勝手に解釈してはいけない」という意味にも、「預言は預言者自身の考えから生まれたのではない」という意味にも読めます。21節が、預言は「人々が聖霊に感じ、神によって語った」ものだと続けているので、後の読み方を大切にする注解者も多くいます。
第二部の最後で、神は「幻を多く示したのはわたしである」と語っていました。長い時を隔てて、ホセアとペテロは、預言が人の思いつきから生まれたのではないことを、それぞれの言葉で語っているのです。
*この部に出てきた言葉
*幕屋:もとは荒野で使った移動式の天幕。ここでは、地上の体のたとえ。
*偽教師:本物のふりをして、間違った教えを広める人。
*変貌山:イエスが三人の弟子の前で、光り輝く姿に変わった山。
第四部 全体の一貫性
父は、子をあきらめない
三つの箇所を貫く一本の糸
今回の三つの箇所を並べてみると、一本の糸が見えてきます。それは、「子」と呼ばれる者と、その父である神の物語です。
- 第一部:かかとをつかむ者ヤコブが、「イスラエル」という新しい名をもらった。
- 第二部:そのイスラエルの民を、神は「わが子」と呼んだ。
- 第三部:山の上で、神はイエスを「わたしの愛する子」と呼んだ。
ヤコブという一人の人から始まった名前が、一つの民の名前になり、最後に神の御子(神の子イエス・キリスト)*へとつながっていきます。
「子」の物語の流れ(ヤコブ→イスラエル→わが子→愛する子→私たち)
「子」の物語の流れ
一人の人の名前が、民の名前になり、神の御子へ、そして私たちへ
「神の子となる力」ヨハネによる福音書1章12節 ἐξουσία エクスーシア 資格、権利(口語訳「力」)
「神の性質にあずかる者」ペテロの第二の手紙1章4節 κοινωνός コイノーノス 仲間、共に分け合う者
「捨てない」という約束は変わらなかった
ベテルの夜、神は逃げてきたヤコブに「わたしは決してあなたを捨てず」と約束しました。
何百年もたって、ヤコブの子孫は神から離れ、偶像(木や石や金属で作り、神として拝むもの)*を拝み、大国に頼りました。それでも神は、「どうして、あなたを捨てることができようか」と語りました。神のあわれみは「もえ起っている」と言われるほどでした。
そしてペテロは、変貌山で「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」という声を聞きました。父の心にかなう「子」が、ついに現れたのです。
ここで注目したいのは、この順番です。神は、ヤコブが立派になってから約束したのではありません。だます者として逃げていた、その夜に約束したのです。イスラエルが離れて行った時も、神の言葉は変わりませんでした。
「わが子」の物語は、私たちにも続いている
では、この物語は私たちとどう関係するのでしょうか。
ペテロは手紙の初めで、私たちが「神の性質にあずかる者となる」と書いています。「あずかる者」は、ギリシャ語でコイノーノスと発音します。「仲間」「共に分け合う者」という意味です。
神の愛する子イエスを信じる人は、その子が受けている父の愛を、一緒に分けてもらえるのです。
ヨハネによる福音書1章12節も、イエスを受け入れた人には「神の子となる力」が与えられると語っています。この「力」は、ギリシャ語でエクスーシアと発音します。腕の力ではなく、「資格」や「権利」という意味です。自分で頑張って勝ち取るのではなく、神から受け取るものなのです。
ヤコブのように、人をだまして生きてきた人でも。エフライムのように、何度も神から離れた人でも。父である神は、その人を「わが子」と呼ぶために待っています。
夜が明けるまで
ヤコブは夜通し神にしがみつき、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」と言いました。そして朝日の中を、新しい名前で歩き出しました。
ホセアは、滅びかけた国に「つねにあなたの神を待ち望め」と呼びかけました。
ペテロは、自分がいなくなった後の教会に、「夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで」、聖書の言葉から目を離さないように、と書き残しました。
ペテロは、天から聞こえた声にも、聖霊に導かれた預言者たちにも、「運ぶ」(フェロー)という同じ動詞を使っています。どちらも、人から出たのではなく、神から届いた言葉なのです。だからこそ、聖書の言葉は、暗い夜のともしびになるのです。
聖書を読んでいて、分からない夜もあるでしょう。それでも、ヤコブのようにしがみついて読み続ける時、いつか心の中に明星がのぼります。その朝、私たちも、父が自分を「わが子」と呼ぶ声を聞くのです。
*この部に出てきた言葉
*御子(みこ):神の子であるイエス・キリストのこと。
*偶像:木や石や金属で作り、神として拝むもの。
今日の一曲「荒野のぶどう」
ある祈祷会の夜にささげた祈りが、一つの歌になりました。
自分の力では顔を上げられない夜にも、主はそばにいて、わたしたちを「わが子」として見つめてくださいます。今回の記事で学んだ「神の子とされた特権」も、歌詞の中に入っています。
※曲はAI(Suno)で作成しています。
「荒野のぶどう」
語彙集
第一部 ヘブライ語
| 原語 | 発音 | 意味 |
| יַעֲקֹב | ヤアコーヴ | ヤコブ |
| עָקֵב | アーケーヴ | かかと |
| יִשְׂרָאֵל | イスラーエール | イスラエル |
| └ שָׂרָה | └ サーラー | 争う |
| └ אֵל | └ エール | 神 |
| בֵּית־אֵל | ベート・エール | ベテル(神の家) |
| └ בֵּית | └ ベート | 家 |
| └ אֵל | └ エール | 神 |
| פְּנִיאֵל | ペニーエール | ペニエル(神の顔) |
| └ פָּנִים | └ パーニーム | 顔 |
| └ אֵל | └ エール | 神 |
第二部 ヘブライ語
| 原語 | 発音 | 意味 |
| לִבְנִי | リヴニー | わが子を |
| └ לְ | └ レ | 〜を、〜に |
| └ בֵּן | └ ベン | 子、息子 |
| └ ִי | └ イー | わたしの |
| חַבְלֵי אָדָם | ハヴレー・アーダーム | 人の綱(口語訳「あわれみの綱」) |
| └ חֶבֶל | └ ヘヴェル | 綱 |
| └ אָדָם | └ アーダーム | 人 |
| נֶהְפַּךְ | ネフパフ | 変わった、ひっくり返った |
| הָפַךְ | ハーファク | ひっくり返す(もとの形) |
第三部 ギリシャ語
| 原語 | 発音 | 意味 |
| ὁ υἱός μου ὁ ἀγαπητός μου | ホ・ヒュイオス・ムー・ホ・アガペートス・ムー | わたしの子、わたしの愛する者 |
| └ υἱός | └ ヒュイオス | 子、息子 |
| └ μου | └ ムー | わたしの |
| └ ἀγαπητός | └ アガペートス | 愛する |
| προφητικὸς λόγος | プロフェーティコス・ロゴス | 預言の言葉 |
| └ προφητικός | └ プロフェーティコス | 預言の |
| └ λόγος | └ ロゴス | 言葉 |
| αὐχμηρός | アウクメーロス | 荒れて薄暗い |
| φωσφόρος | フォースフォロス | 明星(光を運ぶもの) |
第四部 ギリシャ語
| 原語 | 発音 | 意味 |
| θείας κοινωνοὶ φύσεως | テイアス・コイノーノイ・フュセオース | 神の性質にあずかる者 |
| └ θεῖος | └ テイオス | 神の |
| └ κοινωνός | └ コイノーノス | 仲間、共に分け合う者 |
| └ φύσις | └ フュシス | 性質 |
| ἐξουσία | エクスーシア | 権利、資格(口語訳「力」) |
| φέρω | フェロー | 運ぶ |
聖書引用について
本記事では『口語訳聖書』©1954,1955,1975,1984,2002 日本聖書協会を使用しています。1954年・1955年の本文を基本とし、改訂箇所は原語からの拙訳、または章節のみを記載しています。拙訳箇所には「拙訳」と明記しています。


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