——豊かさの中で、主を忘れないために——
順調な時、あなたは何を、誰を見ていますか。豊かさそのものは、いつから罠に変わってしまうのでしょうか。
※本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。
【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。
今日の通読から生まれた賛美ではありませんが、以前の通読から生まれたこの賛美「主イエスを見つめて」を、今日はあえてここに貼りたいと思います。ダニエル書5章の「はかりにかけられ、量が足りないと分かった」ベルシャザル王の姿と、この歌が歌う「主は数で計らず、ただみ顔にのみ向かう心を見てくださる」という宣言が、思いがけず今日の箇所と深く響き合ったからです。以前の通読から生まれたこの賛美「主イエスを見つめて」を、今日はあえてここに貼りたいと思います。ダニエル書5章の「はかりにかけられ、量が足りないと分かった」ベルシャザル王の姿と、この歌が歌う「主は数で計らず、ただみ顔にのみ向かう心を見てくださる」という宣言が、思いがけず今日の箇所と深く響き合ったからです。私の中で何度も味わい、今の私のテーマソングのようになっています。

第一部 トーラー 申命記28章25-57節
申命記28章は、モーセがまだ荒野にいるイスラエルの民に語った、契約の結び目とも言える箇所です。1節から14節までは祝福が、15節以降はその何倍もの分量をもって呪いが語られます。今日の箇所(25-57節)はその呪いの核心部分にあたり、敗北、疫病、そして54節以降の人肉食にまで至る、読むだけで胸が締めつけられる描写が続きます。
しかしここで注目したいのは、この恐ろしい連鎖がどこから始まっているか、という点です。47節にこうあります。
あなたがすべての物に豊かになり、あなたの神、主に心から喜び楽しんで仕えないので、あなたは飢え、かわき、裸になり、すべての物に乏しくなって、主があなたにつかわされる敵に仕えるであろう。
呪いの引き金として名指しされているのは、貧しさでも不従順そのものでもなく、「すべての物に豊かになり」ながら「心から喜び楽しんで仕えない」ことです。飢えて主に叫ぶ心よりも、満ち足りて主を忘れる心の方が、聖書では繰り返し警戒されています。
ここでヘブライ語の言葉を少し見てみましょう。「仕える」と訳された言葉は、ヘブライ語で「アヴァド」といいます。この語は単なる労働や義務としての「仕える」だけでなく、神への奉仕・礼拝を表す場合にも使われる、旧約聖書で基本的な動詞の一つです。つまり47節が問うているのは、単に「主のために働いたか」ではなく、「主を礼拝する心があったか」ということなのです。
「アバド」については、前々回(第319回)の記事でも取り上げました。その時は、エデンの園でアダムに託された「耕す(アバド)」「守る(シャーマル)」という二つの務めとして見た言葉です。詳しくはこちらもあわせてどうぞ。
第319回 守り通した者たち:記事を読む →
そしてもう一つ大事な言葉が「豊かさ」です。原文では「メーローヴ・コール」、直訳すると「すべてのものの豊かさゆえに」という意味になります。イスラエルがカナンの地でこれから得るはずの豊かさ――穀物、家畜、家、ぶどう畑――そのすべてが、実はこの警告の対象そのものだったのです。まだ何一つ手にしていない荒野の時点で、モーセはあらかじめ「豊かさが心を鈍らせる危険」を語っていました。
30-33節に描かれる「家を建てても住まない、ぶどう畑を作っても実を摘まない」という呪いは、まさにこの47節の裏返しです。豊かさを喜びとして主にお返ししなかった代償として、豊かさそのものが手からこぼれ落ちていく――これは単なる罰というより、心のあり方がそのまま現実に映し出されるかのような構造になっています。
52-57節の凄惨な包囲戦の描写は、決して誇張ではありません。実際に紀元前586年、バビロンによるエルサレム陥落の際に文字通り成就したことが、哀歌4章10節に記録されています。モーセの言葉は何百年も先の現実を見据えた、真剣な警告だったのです。
【ヘブライ語 語彙表】
| 原語 | 発音(カタカナ) | 意味 |
| עָבַד | アヴァド | 仕える、働く、奉仕する(神への奉仕・礼拝にも) |
| מֵרֹב כֹּל | メーローヴ・コール | すべてのものの豊かさゆえに |
| קְלָלָה | ケララー | のろい |
第二部 旧約 ダニエル書4章・5章
第一部で見た「豊かさの中で主を心から礼拝しなかった」という構図は、ダニエル書4-5章で二人のバビロン王を通して、驚くほど具体的に描かれます。
ネブカデネザル王がその告白を始める場面はこうです。
われネブカデネザルはわが家に安らかにおり、わが宮にあって栄えていたが、わたしは一つの夢を見て、そのために恐れた。
「安らかにおり」「栄えていた」――まさに申28章47節の「すべての物に豊かになり」がそのまま実現した状態です。地に届くほどの大木の夢、その解き明かしとして、ダニエルはこう告げます。
王よ、それはすなわちあなたです。……あなたの主権は地の果にまで及びました。
しかし王は12か月の猶予を与えられながら、悔い改めることなく、こう口にしてしまいます。
この大いなるバビロンは、わたしの大いなる力をもって建てた王城であって、わが威光を輝かすものではないか。
ここに、ダニエル書の核心となるアラム語の言葉があります。「高ぶる」に関わる語根は、アラム語で「ルーム」といい、「高くなる、高くする、高める」という意味です。文脈によって「高ぶる、思い上がる」の意味にもなり、ダニエル書では同じ語根が、王の高ぶりを表す場合にも、神を「あがめる、高める」場合にも使われます。ネブカデネザルの心は、まさに夢の中の大木のように、自分自身を天にまで届くほど高く見積もっていました。しかし7つの時(アラム語で「イッダーニーン」、時・時期・期間を意味する言葉)が過ぎたのち、王の理性は戻り、彼は自ら神をあがめる者へと変えられます。
そこでわれネブカデネザルは今、天の王をほめたたえ、かつあがめたてまつる。
これは申28章が語る「悔い改めれば、あるいは繁栄が長く続くかもしれません」という希望が、実際に成就した姿だと言えるでしょう。
一方、ベルシャザルの物語は対照的です。彼は先代の顛末を知っていながら、それを上回る罪――エルサレム神殿の聖具を用いて偶像をたたえる――を犯します。天からの指が壁に記した言葉は、こうでした。
メネ、メネ、テケル、ウパルシン。
この三つの言葉は、いずれも重さや量を数えることに由来するアラム語です。「メネ」は「数える」に関係する語で、ダニエル自身は「神があなたの国を数えられた」と解釈しており、重量単位「ミナ」との言葉遊びとも考えられています。「テケル」は「量る」という意味で、ヘブライ語の重量単位「シェケル」と同系の語です。「ウパルシン」は「ウ」(そして)と「パルシン」の組み合わせで、「パルシン」は「分ける、分割する」という意味を持ち、同時に「ペルシャ」という国名とも音が重なる、ヘブライ語・アラム語特有の言葉遊びになっています。
メネは神があなたの治世を数えて、これをその終りに至らせたことをいうのです。テケルは、あなたがはかりで量られて、その量の足りないことがあらわれたことをいうのです。
王の治世は数えられ、その心の重さは量られ、その量は足りないと宣告されました。ネブカデネザルが悔い改めて立ち返ったのに対し、ベルシャザルにはその猶予すら残されておらず、「その夜のうちに」宣告は成就します。
同じ「豊かさの中での高ぶり」という出発点から、悔い改めた王と、悔い改めなかった王――二つの結末が、ダニエル書には並べて置かれているのです。
ネブカデネザルとベルシャザル、それぞれの物語をさらに詳しく味わいたい方は、以下のあらすじ記事もあわせてどうぞ。
ダニエル書4章あらすじ:https://tehiri-mu.com/danierusyo-arasuji-4-2-2446
ダニエル書5章あらすじ:https://tehiri-mu.com/danierusyo-arasuji-5-2487
「王の系図」図解(バビロン・メデア・ペルシャの王の関係図)
【アラム語 語彙表】
| 原語 | 発音(カタカナ) | 意味 |
| רוּם | ルーム | 高くなる、高める。文脈で「高ぶる」にも |
| עִדָּנִין | イッダーニーン | 時、時期、期間 |
| מְנֵא | メネ | 数える/数えられた(ミナとの言葉遊び) |
| תְּקֵל | テケル | 量る(シェケルと同系の語) |
| וּפַרְסִין | ウ・パルシン | そして、分けられた(ペルシャと音が重なる) |
第三部 新約 ヤコブの手紙2章
申28章とダニエル書では、豊かさを持つ本人がそれを誇り、主を忘れるという構図でした。ヤコブの手紙2章では、その裏返しが描かれます――豊かさを持つ「他人」を、教会という礼拝共同体の中で特別扱いしてしまう姿です。
たとえば、あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、りっぱな着物を着た人がはいって来ると同時に、みすぼらしい着物を着た貧しい人がはいってきたとする。……あなたがたは、自分たちの間で差別立てをし、よからぬ考えで人をさばく者になったわけではないか。
ここで「差別立て」と訳された言葉は、ギリシャ語で「プロソーポレームプシア」といいます。これは「プロソーポン」(顔・外見)と「ランバノー」(受け取る)という二つの語が組み合わさった言葉で、直訳すると「顔を取る」「外見によって受け取る」――つまり、人の内側ではなく、見た目や持ち物によって人を判断し、扱いを変えることを意味します。この語は、旧約聖書のヘブライ語的な表現「顔を上げる、顔を取る」を背景に持つ、初期キリスト教期に特徴的な言葉で、ヤコブ自身がこの罪に、既存の語彙では言い表せないほどの深刻さを見ていたことがうかがえます。
5節で、ヤコブは会衆に問いかけます。
神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富ませ、神を愛する者たちに約束された御国の相続者とされたではないか。
ここに、申28章・ダニエル書と鋭く対をなす視点があります。地上の豊かさを誇ったネブカデネザルやベルシャザルとは逆に、神はしばしば地上において貧しい者を選び、天における豊かさの相続者とされる――価値の基準が完全に転倒しているのです。
そして章の後半、ヤコブは信仰と行いの関係へと話を進めます。
信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。
「行い」はギリシャ語で「エルガ」、「死んだ」は「ネクラー」といいます。「ネクラー」は「ネクロス」(死んだ、生命のない)に由来する語で、単に「役に立たない」という以上に、「命がない、動かない」という強い響きを持つ言葉です。
ヤコブは、アブラハムがイサクを祭壇に献げたこと、遊女ラハブが使者をかくまったことを実例に挙げます。両者に共通しているのは、豊かさや安全を惜しまず差し出したという点です。アブラハムは最も大切な約束の子を、ラハブは自分の命の安全そのものを差し出しました。
これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。
ここで大切なのは、ヤコブが「行いによって救われる」と言っているのではなく、「本物の信仰は、必ず行いという形で外に現れる」と言っている点です。ネブカデネザルの悔い改めが、単なる言葉の告白ではなく「天の王をほめたたえ、あがめたてまつる」という生き方の変化として結実したように、真実な信仰は必ず何らかの形で、目に見える行いへと流れ出ていくのです。
【ギリシャ語 語彙表】
| 原語 | 発音(カタカナ) | 意味 |
| προσωπολημψία | プロソーポレームプシア | 外見による差別、えこひいき |
| πρόσωπον | プロソーポン | 顔、外見 |
| λαμβάνω | ランバノー | 受け取る |
| ἔργα | エルガ | 行い、働き |
| νεκρά | ネクラー | 死んだ(死体を意味するネクロスと同根) |
第四部 全体の一貫性 豊かさが試す心の在り処
申命記28章、ダニエル書4-5章、ヤコブの手紙2章――時代も文脈もまったく異なるこの三箇所を貫いているのは、「豊かさ」というただ一つの試金石です。
申28章では、豊かさを与えられた本人が、それを喜びとして主に献げず、主を忘れていく姿が呪いとして描かれました。ダニエル書では、その同じ試みを受けた二人の王――ネブカデネザルとベルシャザル――が、まったく異なる結末を迎えます。ヤコブの手紙では、今度は自分自身の豊かさではなく、他人の豊かさに目がくらみ、神の前での平等を見失う教会の姿が問われました。
豊かさは、自分に向かうこともあれば、他人に向かうこともあります。しかしどちらの方向を向いていても、試されているものは同じです。それは「豊かさそのものより大きな方を、心から見上げているか」という一点です。
ここで、私自身も大切にしている神学的な視点――自己義(自己義認)こそが人類最大の罪であるという理解――が、この三箇所を読み解く鍵になります。ネブカデネザルが陥った罪は、単なる高慢という以上に、「この繁栄は自分の力で築いたものだ」という自己義認そのものでした。ヤコブの手紙が糾弾する差別立ても、根っこをたどれば、人を神の前での価値ではなく、目に見える持ち物によって値踏みする、人間的な基準への依存です。豊かさは、それ自体が悪なのではありません。豊かさが、自分を義とする材料に変わってしまうことこそが、聖書が一貫して警告している罠なのです。
そしてこの三箇所は、絶望だけを語って終わってはいません。ダニエル4章27節でダニエルが「あるいはあなたの繁栄が、長く続くかもしれません」と希望を差し出したように、また実際にネブカデネザルが立ち返って生ける神をあがめたように、豊かさに心を奪われた者にも、立ち返る道は常に開かれています。ヤコブの手紙が「行いを伴う信仰」を語るのも、律法的な義務ではなく、立ち返った者の内側から自然に湧き出てくる応答としての行いです。
申命記の警告、ダニエル書の対照的な二人の王、そしてヤコブの手紙の問いかけ――これらすべてが指し示しているのは、豊かさそのものの否定ではなく、「豊かさをもって何を、誰を礼拝しているか」という、極めてシンプルな一点です。物に満たされてなお、神を心から喜び楽しんで仕える者でありたい――今日の通読箇所は、そう静かに、しかし力強く語りかけてきます。
聖書引用について/本記事では『口語訳聖書』©1954,1955,1975,1984,2002 日本聖書協会を使用しています。1954年・1955年の本文を基本とし、改訂箇所は原語からの拙訳、または章節のみを記載しています。拙訳箇所には「拙訳」と明記しています。


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