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聖書通読 第320回 申命記28章1-24節 ダニエル書2-3章 ヤコブの手紙1章 二つの「かたち」と一つの「試み」——ツェレムとペイラスモスが結ぶ祝福・呪い・忍耐の道——聖

ダニエル書
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申命記28章1-24節 ダニエル書2-3章 ヤコブの手紙1章

二つの「かたち」と一つの「試み」——ツェレムとペイラスモスが結ぶ祝福・呪い・忍耐の道——

本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。

【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。

第一部:トーラー——申命記28章1-24節

祝福と呪い、そして「聞く」ということの重み―

今日の通読箇所、申命記28章は、モーセがイスラエルの民に語った長い契約の言葉の中でも、特に印象的な一章です。目の前に広がる約束の地を前にして、モーセは民に二つの道を差し出します。一つは祝福の道、もう一つは呪いの道。その分かれ目はただ一点、「主の声に聞き従うかどうか」に置かれています。

この章を読んで、まず心に留めておきたいのは、冒頭の「もしあなたが、あなたの神、主の声によく聞き従い」という一節です。ここに使われている「聞き従う」ということばは、ヘブライ語では שָׁמַע(シャーマ)という動詞です。

興味深いのは、この動詞、実は申命記6章4節の有名な一節にも使われているという点です。「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である」——ユダヤ教で「シェマの祈り」と呼ばれ、今日に至るまで敬虔なユダヤ人が朝晩に唱え続けている、あの一節です。「シェマ」という名前自体、実は固有名詞ではありません。申命記6章4節の שְׁמַע(シェマ)は、動詞 שָׁמַע の命令形「聞け」であり、この冒頭の語が、その後この聖句を中心とするユダヤ教の重要な祈り全体の名称として、そのまま定着したものです。

つまり28章の冒頭は、単に「言うことを聞きなさい」という一般的な命令ではなく、イスラエルが日々唱えていたはずの「聞け」という信仰の核心を、そのまま生活の契約条項として展開したものだと言えます。

ここで大切なのは、ヘブライ語の「聞く」ということばが、日本語の「聞く」よりもずっと重い意味を持っているという点です。単に耳で音を受け取ることではなく、「聞いて、それに応じて行動する」というところまでを含んでいます。ですから「主の声に聞き従う」というのは、「主の言葉を理解して、その通りに歩む」という、応答としての行動全体を指していることになります。

この理解を持って28章を読むと、1節から24節までの構造がくっきりと見えてきます。1節から14節までは、この「聞き従う」ことに続く祝福の数々。15節から24節までは、「聞き従わない」ことに続く呪いの数々。しかもその言葉の並びは、驚くほど対称的です。

・「町の内でも祝福され、畑でも祝福される」(3節)→「町のうちでものろわれ、畑でものろわれ」(16節)

・「かごと、こねばちは祝福される」(5節)→「かごも、こねばちものろわれ」(17節)

・「はいるにも祝福され、出るにも祝福される」(6節)→「はいるにものろわれ、出るにものろわれる」(19節)

つまり、生活のあらゆる場面——働く場所、家庭にある器、日々の出入り——そのすべてに、祝福と呪いという二つの可能性が、まるで鏡に映すように重なっているのです。これは、生活のどこか一部分だけが信仰と関係があるのではなく、日常のすべてが「主の声に聞き従うかどうか」という一点によって左右される、という宣言だと言えるでしょう。

13節の「主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせられないであろう」ということばも印象的です。「かしら」となるか「尾」となるか——これは単に地位の高い低いという話ではなく、他の国々に対して先導する存在となるか、後をついていくだけの存在となるか、という民全体の在り方に関わる約束です。そしてこの祝福の条件も、やはり同じ「聞き従う」ということばに結ばれています(13節後半)。

一つ心に留めておきたいことがあります。この章の祝福と呪いのコントラストは非常に鮮烈で、読む者に「祝福を選び取りたい」という強い願いを起こさせます。それ自体は、決して的外れな反応ではありません。神ご自身が、契約という形で祝福を差し出しておられるのですから、それを求めることは、神が用意した扉を正しくノックしていることだと言えます。

ただ、覚えておきたいのは、この「聞き従う」という応答は、恐れから生まれるものでも、見返りだけを求める取引でもない、ということです。申命記6章5節が「シェマ」の直後に続けているのは、「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」という言葉でした。祝福を求める心の奥に、この「愛する」という土台があるとき、「聞き従う」ということばは、義務ではなく応答になります。すでに愛されている者が、その愛にどう応えるか——28章の祝福と呪いは、実はその応答の輪郭を描き出しているのかもしれません。

申命記28章 祝福と呪いの対句構造
祝福(1-14節) 生活の場面 呪い(15-24節)
町の内でも祝福 町(3節/16節) 町のうちでものろわれ
畑でも祝福 畑(3節/16節) 畑でものろわれ
かごと、こねばちは祝福 かご・こねばち(5節/17節) かごも、こねばちものろわれ
身から生れるもの、地の産物、家畜は祝福 子・産物・家畜(4節/18節) 身から生れるもの、地の産物、家畜ものろわれ
はいるにも出るにも祝福 はいる・出る(6節/19節) はいるにも出るにものろわれ
生活のあらゆる場面が、同じ言葉の並びで祝福・呪い双方に鏡写しになっている。
分かれ目はただ一点——שָׁמַע(シャーマ)「主の声に聞き従うかどうか」。

第二部:旧約——ダニエル書2章・3章

人手によらない石と、誰の「かたち」を拝むのか―

申命記が「聞き従うかどうか」という一点に民の未来を賭けていたとすれば、ダニエル書2章と3章は、その数百年後、約束の地を失い、バビロンに捕え移されたイスラエルの民が、異教の帝国のただ中で同じ問いに直面する物語です。

2章は、バビロンの王ネブカデネザルが見た、不思議な夢から始まります。王は夢の内容を思い出せないまま、博士や法術士たちに「夢そのものと、その解き明かし」の両方を要求します。誰も応じられない中、捕囚の民の一人であったダニエルが、天の神からの啓示によってこれに応えます。

夢の内容はこうでした。頭は純金、胸と両腕は銀、腹ともも青銅、すね鉄、足は鉄と粘土の混じったもの——という一つの巨大な像が立っており、それが人手によらずに切り出された一つの石によって打ち砕かれ、その石が大きな山となって全地に満ちる、というものです(31-35節)。

ダニエルはこれを、次々と興っては滅びゆく四つの国と、最後に立てられる永遠の国を示す夢だと解き明かします(36-43節)。頭の金はネブカデネザルの新バビロン帝国(紀元前606-539年)、胸と両腕の銀はメド・ペルシャ(紀元前539-331年)、腹ともものの青銅はギリシャ(紀元前331-146年)、すねの鉄はローマ帝国(紀元前145-紀元476年)を指すと理解されています。そして足の鉄と粘土は、終末の時代に現れる、強さと弱さが混じり合い、決して一つにまとまることのない分裂した国々の姿を示していると理解されています。そして最後に、こう告げます。

「それらの王たちの世に、天の神は一つの国を立てられます。これはいつまでも滅びることがなく……この国は立って永遠に至るのです」(44節)

ここで注目したいのは、「人手によらずに切り出された」という表現です。原文では、誰が石を切り出したのかがあえて明示されていません。人間の営みによらない、神ご自身の主権によってこの国が興される、ということを暗に示す言い回しです。この石は、世の終わりに再臨されるイエス・キリストご自身を指すと理解されています。地上の国々がどれほど強大に見えても、金も銀も鉄も、最後には一つの石の前に打ち砕かれる——ダニエルが捕囚の民に語ったのは、目に見える帝国の栄華の裏にある、揺るがない神の主権でした。

この夢から間もなく、3章でネブカデネザルは、自ら金の像を造らせます。高さ六十キュビト(約27メートル)、幅六キュビト(約2.7メートル)という、あまりにも巨大な像です。そして全州の官吏を集め、楽の音が鳴る時にはこの像にひれ伏すよう命じます。従わない者は火の燃える炉に投げ込む、という脅しとともに。

ここで、原語に目を向けたいことばがあります。「像」と訳されているこのことば、ダニエル書3章のアラム語では צְלֵם(ツェレム)といいます。実はこの語、創世記1章27節で「かたち」と訳されているヘブライ語 צֶלֶם(ツェレム)と同根のことばです。「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記1章27節)。

古代オリエントの世界には、神・王・像・代理統治という考え方の背景がありました。王の像が、王自身の存在や権威を表す「代理的な像」として理解される例があったのです。この背景から、創世記1章の「神のかたち」を、神の代理として地上を治める人間という観点から理解する研究があります。人間の在り方をこのように捉えるなら、直後の28節で「地を治めよ、支配せよ」という委任のことばが続くことにも、深い一貫性が見えてきます。

なお、このヘブライ語 צֶלֶם(ツェレム)は、七十人訳創世記1章26-27節において、ギリシャ語の εἰκών(エイコーン)という語で訳されています。「かたち」という主題は、旧約から新約へと、こうして言語を越えて受け継がれていくことになります(この点は第四部でもう一度触れます)。

この背景を踏まえてダニエル書3章を読み返すと、ネブカデネザルがしていたことの意味が見えてきます。彼が巨大な像を建て、帝国内の諸民族にこれを拝ませようとしたことは、王の権威を可視化し、服従を要求する行為として読むことができます。

しかし、シャデラク、メシャク、アベデネゴの三人は、これを拒みました。彼らの応答は、こうでした。

「もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。……たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」(17-18節)

この場面は、単に「異教の偶像を拝まなかった」という以上の意味を持っています。彼ら三人は、創世記1章27節が語る「神のかたち」に創造された者として、その炉の前に立っていました。だからこそ、人間の王が造った像を拝むことは、彼らにとって単なる規則違反ではなく、自分が誰の代理として、この地に生きているのかという、存在の根幹に関わる問いだったのです。

炉に投げ込まれた三人のもとに、王は驚くべきものを見ます。「わたしの見るのに四人の者がなわめなしに、火の中を歩いているが、なんの害をも受けていない。その第四の者の様子は神の子のようだ」(25節)。三人が身をもって拒んだ像の代わりに、彼らのただ中に、もう一つの現臨が現れたのです。

ネブカデネザル自身、この出来事の後にこう告白します。「シャデラク、メシャク、アベデネゴの神はほむべきかな。神はその使者をつかわして、自分に寄り頼むしもべらを救った」(28節)。世界最大の帝国の王が、捕囚の民の神を公に讃える——この逆転こそ、ダニエル書2章の夢が予告していた、「人手によらない石」が働き始めた最初のしるしだったのかもしれません。

ダニエル書2章 ネブカデネザルが見た像
頭 ― 金
新バビロン帝国(紀元前606-539年)
胸と両腕 ― 銀
メド・ペルシャ(紀元前539-331年)
腹ともも ― 青銅
ギリシャ(紀元前331-146年)
すね ― 鉄
ローマ帝国(紀元前145-紀元476年)
粘土
足(と指) ― 終末の時代に現れる、決してまとまらない分裂した国々
人手によらずに切り出された石
世の終わりに再臨されるイエス・キリスト。像を打ち砕き、大きな山となって全地に満ちる
地上の国々は栄枯盛衰するが、「人手によらない石」による神の国は
いつまでも滅びることがなく、永遠に至る(ダニエル書2章44節)。

第三部:新約——ヤコブの手紙1章

一つのことばが示す、試みの二つの行き先―

ダニエル書3章の炉の場面から、時代を大きく越えて、ヤコブの手紙1章に目を向けます。離散した十二部族へ書き送られたこの手紙は、冒頭からこう語り始めます。

「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい」(2節)

「試錬」と訳されていることば、ギリシャ語では πειρασμός(ペイラスモス)といいます。この名詞は、動詞 πειράζω(ペイラゾー、「試す」「試みる」)と語源的に関連することばで、さらに πεῖρα(ペイラ、「試み」「経験」)と関連します。印欧語源の比較では、この語根は英語の experience(経験)や experiment(実験)、ラテン語の experior などと同じ語根系列に置かれています。

ここで、ぜひ心に留めておきたいことがあります。同じ1章の13節にはこうあります。

「だれでも誘惑に会う場合、『この誘惑は、神からきたものだ』と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく……」

この「誘惑」ということば、実は2節の「試錬」とギリシャ語では同じ語彙系列から来ています(動詞形 πειράζω)。日本語では「試錬」と「誘惑」という別々のことばに訳し分けられていますが、ヤコブは同じ語彙系列のことばを使いながら、文脈に応じて「耐え忍ぶべき試練」と「欲によって罪へ導く誘惑」という異なる側面を描き分けているのです。

つまりヤコブが伝えようとしているのは、こういう構造です。「試み」ということ自体は、外からやって来る一つの出来事であり、それ自体は中立的なものです。しかし、その同じ「試み」が、ある人にとっては忍耐を生み出す入口になり、別の応答をする人にとっては罪へと向かう入口になる。14節から15節にかけて、ヤコブはこう続けます。「人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す」。同じことば、同じ出来事が、受け取る側の応答によって、忍耐にも、死にも通じる——一本の道が、途中で二つに分かれていくようなイメージです。

だからこそヤコブは、「これは神から来た誘惑だ」と言うことを明確に禁じます。試みという機会そのものは神の許しのもとに起こり得ても、そこから欲に引かれて罪へと向かう力の出所は、神ではなく、それぞれの内側にある欲だというのです。

この理解を持って、先ほどのダニエル書3章の炉の場面を振り返ってみると、あの出来事の意味がより鮮明に見えてきます。ヤコブのいう「試練」という概念に重ねて読むなら、あの「七倍熱くされた炉」は、一つの具体的な試みの場面として見ることができます。ダニエル書3章の出来事をヤコブ1章の光で読むなら、外から加えられた圧力が、信仰者にとっては忍耐を生み出す試練となり得る一方、人間の内側にある欲は、その状況を罪への誘惑へと結びつける可能性があります。シャデラク、メシャク、アベデネゴにとって、その炉はまぎれもなく忍耐を生み出す試錬となりました——ヤコブが手紙の冒頭で語ったことを、ダニエルの物語はすでに具体的な人物の姿で描き出していたと読むことができるのです。

ヤコブの手紙1章には、もう一つ重要なことばがあります。22節、「御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない」。

この「聞くだけ」ということばには、実は申命記との深い繋がりがあります。第一部で触れた שָׁמַע(シャーマ)ということばを思い出してください。ヘブライ語の「聞く」は、単に耳で受け取ることではなく、「聞いて、それに応じて行動する」というところまでを含んでいました。ヤコブがここで警告している「聞くだけで行わない」危険性は、実は申命記が最初から語っていた「シャーマ」の本質そのものと、時代と言語を越えて響き合っています。

23節から24節で、ヤコブはこの様子を鏡のたとえで語ります。「御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう」。鏡を見ても、それに応じて何も変えなければ、鏡を見たこと自体が意味を失う——これは、申命記28章が語っていた「聞き従うかどうか」という一点の重みを、新約の時代に改めて確認していることばだと言えるでしょう。

最後に、この章はこう締めくくられます。「父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない」(27節)。試みを忍耐へと変える信仰は、最終的に、目に見える具体的な行いへと結ばれていく——ヤコブの手紙が一貫して描いているのは、そうした「聞くことと行うことが一つに結ばれた信仰」の姿です。

ヤコブの手紙1章 πειρασμός(ペイラスモス)の二つの行き先
試み(πειρασμός)
外から来る、それ自体は中立の出来事
応答の仕方によって、道が分かれる
忍耐(1:3-4)
信仰がためされ、完全な人となる
欲(1:14)
欲に引かれ、誘惑(πειράζω)される
神を愛する者に約束された
いのちの冠(1:12)
罪を生み、罪が熟して
死を生み出す(1:15)
試錬(1:2)と誘惑(1:13)は同じ語彙系列。分かれ目は出来事そのものではなく、
それをどう受け取るかという応答にある。

第四部:全体の一貫性

誰の「かたち」を帯び、どう「試み」に応えるか―

申命記28章、ダニエル書2-3章、ヤコブの手紙1章。時代も場所も言語も異なるこの三つの箇所を貫いているのは、実は一つの問いです。「わたしは誰の代理として、この地に立っているのか。そして、その立場をどう生きるのか」。

申命記28章は、この問いを「聞き従うかどうか」という一点に集約しました。שָׁמַע(シャーマ)ということばが示していたのは、単に耳で聞くことではなく、聞いたことに応じて生き方全体を変えていく応答でした。祝福と呪いという鮮烈な対句は、日常のあらゆる場面——町でも畑でも、かごでもこねばちでも——その応答が問われ続けているのだ、ということを告げていました。

ダニエル書は、この問いを「かたち」という視点から描き出しました。ネブカデネザルは、自らの権威を示す像(アラム語でツェレム、ヘブライ語の「かたち」ツェレムと同根の語)を民に拝ませようとしました。しかしシャデラク、メシャク、アベデネゴは、すでに創世記1章27節の「神のかたち」に創造された者として、その炉の前に立っていました。彼らが拒んだのは、単なる異教の儀式ではなく、自分が誰の「かたち」として生きているのかという、存在そのものの表明でした。

この「かたち」というテーマは、旧約だけで終わりません。七十人訳が צֶלֶם(ツェレム)を εἰκών(エイコーン)と訳したように、この語は新約にも受け継がれていきます。コロサイ人への手紙1章15節はこう語ります。「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである」。アダムにおいて代理者として立てられた「神のかたち」は、ここでキリストにおいて完全な姿で示される、という軌跡を描くことができるでしょう。

ヤコブの手紙は、この問いを「試み」という視点から掘り下げました。πειρασμός(ペイラスモス)は、それ自体が中立の出来事です。その同じ出来事が、忍耐へと向かう道にもなれば、欲に引かれて罪へと向かう道にもなる。何が分かれ目になるのかといえば、結局のところ、その人が「誰のかたち」として、その試みに応えるかという一点に戻ってきます。

炉の中で三人が経験したのは、ヤコブが語った試みの構造と重ねて読むことができる出来事でした。外から加えられた圧力は、彼らにとっては忍耐を生み出す試錬となりました。そしてその応答の背後にあったのは、まさに彼らが帯びていた「かたち」——ネブカデネザルの像ではなく、創造主の像としての在り方でした。

こうして三つの箇所は、一つの円環を描きます。申命記が「聞き従え」と命じ、ダニエルが「誰の像として立つか」を物語り、ヤコブが「その応答が試みの行き先を決める」と説き明かす。三つとも、結局は同じ一つのことを、それぞれの角度から語っているのです。

ここで、最後にもう一つ加えておきたいことがあります。申命記28章の祝福と呪いのコントラストは非常に鮮烈で、読む者に「祝福を選び取りたい」という強い願いを起こさせます。それは決して未熟な動機ではありません。神ご自身が、契約という形でご自分から祝福を差し出しておられるのですから、それを求めることは、神が備えた扉を正しくノックしていることです。

ただ、シャデラクたちの応答をもう一度思い出したいのです。「もしそんなことになれば、わたしたちの神は救い出すことができます。……たといそうでなくても、わたしたちはあなたの神々に仕えません」。彼らは救われることを望んでいました。それでも、救いという結果が来なくても、彼らの応答は変わらないという土台がありました。

これは、「祝福を求めるな」ということではありません。むしろ逆で、すでに愛されている者だからこそ、その愛にどこまでも応えたい、祝福の中にどこまでも留まりたいと願う——その渇望自体が、健全な応答の一形態なのだと思います。子どもが親に「今日も愛してくれる?」と何度でも確かめたくなるのは、疑っているからではなく、愛があまりに大きいからです。ヨハネの第一の手紙4章19節に「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである」とあるように、この「まず」がすべての土台にあります。すでに与えられている愛を知っている者は、その愛をなお求め続ける——それは矛盾ではなく、満たされた者がさらに満たされを求める、ヤコブの言う「あらゆる良い賜物は上から下って来る」父の性質を知る者の、自然な渇きなのです。

炉の中で三人と共にいた「第四の者」は、結果を保証されないまま従った彼らのもとに、すでに共におられました。祝福を求める心と、すでに愛されているという確信は、対立するものではなく、実は一つの同じ愛の、二つの表れなのだと思います。

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語彙表

ヘブライ語(茶系アクセント)

原語カタカナ発音意味
צֶלֶםツェレムかたち、像(創世記1:26-27「神のかたち」)
שָׁמַעシャーマ聞く、聞き従う(辞書形)。申命記6:4の שְׁמַע(シェマ)は命令形「聞け」で、この語から祈りの名称「シェマ」が生じた(申命記28:1にも同語根)

アラム語(ダニエル書)

原語カタカナ発音意味
צְלֵםツェレム像、像形(ダニエル書2-3章「金の像」)。ヘブライ語 צֶלֶם(創世記1:27「かたち」)と同根の語だが、言語としては別

ギリシャ語(青系アクセント)

原語カタカナ発音意味
πειρασμόςペイラスモス試み、試練、誘惑(文脈で意味が変わる。ヤコブ1:2「試錬」)
πειράζωペイラゾー試す、試みる、誘惑する(動詞形。ヤコブ1:13「誘惑」の語根)
πεῖραペイラ試み、経験、試行(πειρασμόςの語根/参考)
εἰκώνエイコーンかたち、像(七十人訳創世記1:26-27で、ツェレムに対応する語として使用。コロサイ1:15にも使用)

聖書引用について/本記事では『口語訳聖書』©1954,1955,1975,1984,2002 日本聖書協会を使用しています。1954年・1955年の本文を基本とし、改訂箇所は原語からの拙訳、または章節のみを記載しています。拙訳箇所には「拙訳」と明記しています。

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