「きょう」語られた契約——まだ完成していない約束を生きるということ——
——「きょう」語られた契約——まだ完成していない約束を生きるということ——
通読箇所:申命記26章16-19節/エゼキエル書44章・45章/ヘブル人への手紙11章32-40節
「きょう」と言われて、あなたは何を思い浮かべるだろうか。単なる一日の始まりだろうか、それとも——もし、その「きょう」という一瞬の決断が、何百年も先の歴史をまだ動かし続けているとしたら?
※本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。
【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。
第一部:トーラー(申命記26章16-19節)
申命記26章の終わりに置かれたこの4節は、モーセが延々と語ってきた律法説明(12章から続く長い部分)の、ちょうど締めくくりにあたる箇所です。ここで注目したいのは、わずか4節の中に、同じ言葉が3回、形を変えながら繰り返されていることです。
その言葉とは「きょう」。
16節 「きょう、あなたの神、主は……あなたに命じられる」(原語では「この日」を強調する形)
17節 「きょう、あなたは主をあなたの神とし……明言した」
18節 「きょう、あなたを自分の宝の民とされること……主は明言された」
原語ではこの「きょう」は「ハッヨーム」という言葉です。「ハ」は「その」にあたる定冠詞、「ヨーム」が「日」。直訳すれば「その日」「この日」という意味です。この語自体に「まさに今」という強調が含まれているわけではありませんが、この箇所で繰り返し用いられることによって、「今日、この日」という現在性が強く印象づけられ、主と民との契約関係がこの日に確認されることを際立たせています。
興味深いのは、この3回の反復が、単なる強調の繰り返しではなく、対になる構造を作っていることです。
16-17節:主が命じられた → あなたが主を自分の神とすると明言した
18節:主が あなたを宝の民とすると明言された
つまりここは、一方通行の命令ではありません。「主が言われた」ことに対して「あなたも言った」、そして再び「主が言われた」という、双方向の宣言のやりとりになっているのです。古代近東の条約文書には、しばしば両当事者が互いに誓約を交わす形式が見られますが、ここもそれに近い構造を持っています。ただし対等な二国間条約ではなく、王である主と、その民との間の契約です。
ここでもう一つ丁寧に見ておきたい言葉があります。18節の「宝の民」です。
これは日本語で「大切な民」というニュアンスで読めますが、元のヘブライ語「セグッラー」は、所有物・財産の中でも、特に価値があり大切にされる「特別な所有物・宝」を指す言葉です。聖書の他の箇所では、王が特に大切にして手元に置く財宝を指す用例もあり(歴代志上29章3節など)、「主が特別に選び取り、ご自分のものとして大切にされる所有物」というニュアンスを持ちます。
この言葉は申命記が初出ではありません。実は出エジプト記19章5節、シナイ山で契約が結ばれる直前に、主が同じ言葉を使ってイスラエルに語りかけています。
「それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである」(出エジプト記19章5節)
申命記26章は、その約束が今もう一度、次の世代に向けて「きょう」再確認されている場面なのです。
ここで一つ、大切な順序に気づかされます。19節の終わりを見ると、「あなたは主が言われたように……主の聖なる民となるであろう」とあります。律法をすべて守り抜いたから宝の民に「なる」のではありません。順序は逆で、すでに宝の民とされている者として、律法を守り行うことが求められているのです。行いが先にあって、それに対する報酬として身分が与えられるのではなく、身分が先に与えられ、その身分にふさわしく生きることが後に続く。これは律法主義とは異なる、恵みに基づく応答の構造だと言えるでしょう。
そしてこの「きょう」という一語が、実はこの後読み進めるエゼキエル書、そしてヘブル人への手紙にも、形を変えて響いていくことになります。それは第四部で改めて見ていきたいと思います。
【申命記26章の「きょう」3回の反復と、主↔民の相互宣言構造を示す簡易図解】
第二部:旧約(エゼキエル書43章、44章、45章)
エゼキエル書は、旧約の中でも特に難解だと感じられやすい書です。奇怪な幻、極端な象徴行為、そして延々と続く神殿の測量。ここで少し立ち止まって、全体の地図を確認しておきましょう。
エゼキエル書は大きく4つのブロックに分かれています。
1章から24章は、エルサレム陥落前に語られた警告の預言です。エゼキエル自身は、実はエルサレムが完全に滅びる前、紀元前597年の第一次バビロン捕囚のときに、すでにバビロンへ連れて行かれていました。祭司でありながら預言者となった彼は、遠くバビロンの地から、祖国に向かって「裁きは必ず来る」と語り続けます。
25章から32章は、周辺諸国への預言。イスラエルだけでなく、すべての国が神の前に立たされることが示されます。
33章から39章は、エルサレム陥落後に語られた希望の預言です。有名な「枯れた骨の谷」の幻(37章)もここに含まれます。絶望の中から、神が必ず回復させてくださるという約束です。
そして40章から48章、今読んでいる44-45章もこのブロックに含まれますが、ここは将来の神殿についての幻です。この神殿は、ソロモンの神殿でも、後に再建された第二神殿でもありません。歴史上、文字通りにはまだ一度も建てられたことのない、未来の設計図です。
つまり44-45章の細かい規定を読むとき、私たちは「まだ実現していない未来」を覗き込んでいることになります。これから見ていく難解な規定の数々も、そのことを念頭に置くと、少し違って見えてくるはずです。
【エゼキエル書全体の4ブロック構造マップ(1-24章/25-32章/33-39章/40-48章)】
栄光が去り、そして戻ってくる
44-45章を理解する鍵は、直前の43章にあります。
エゼキエル書の前半、10章では、汚れた神殿から主の栄光が去っていく幻が描かれていました。
「時に主の栄光が宮の敷居から出て行って、ケルビムの上に立った。するとケルビムは翼をあげて、わたしの目の前で、地からのぼった。その出て行く時、輪もまたこれと共にあり、主の宮の東の門の入口の所へ行って止まった。イスラエルの神の栄光がその上にあった」(エゼキエル書10章18-19節)
栄光は東の門から出て行きました。そして43章、その栄光が同じ東の門から帰って来るのです。
「主の栄光が、東の方に面した門の道から宮にはいった」(43章4節)
この一節が分かると、44章2節の意味が一気に立体的になります。
「この門は閉じたままにしておけ、開いてはならない。……イスラエルの神、主が、ここからはいったのだから、これは閉じたままにしておけ」
東の門は、ただの出入口ではありません。主の栄光が去っていった門であり、帰って来られた門です。だからこそ、もう二度と人間の通行のために使われることなく、封印されます。これは終末的に、やがて主が再びこの道を通って来られることを指し示す幻だと理解する読み方もあり、その意味でこの門は「まだ実現していない未来」への扉のような役割を担っています。
興味深いことに、この「閉じられた東の門」は、単なる幻の中の話ではありません。現在のエルサレムの神殿の丘の東側には、一般に「黄金門」と呼ばれる門があり、現在の門は6~7世紀頃に建てられたものと考えられています。歴史の中で何度か開閉を繰り返した後、1541年にはオスマン帝国のスレイマン1世によって封鎖され、現在も閉じられたままです。
ユダヤ教の伝承では、この東の門は、将来メシアがエルサレムに入る際に通る門と考えられてきました。
2600年前にエゼキエルが見た幻の「閉じられた東の門」を思わせる門が、今もエルサレムに存在し、そこにまつわる伝承が語り継がれている――これは、聖書の預言を考えるうえで、非常に興味深い事実です。聖書の言葉が、遠い過去の記録としてではなく、今日の私たちにも問いを投げかけ続けていることを、静かに感じさせられます。

「Photo by Reijo Telaranta / Pixabay」
【東の門をめぐる「去った(10章)→戻った(43章)→閉じた(44章)」の流れ図、または現在の黄金門の写真】
「わずかに壁があるのみ」という痛烈な告白
なぜこれほど厳格な境界線が引かれるのか。その理由は43章8節に率直に語られています。
かつての王宮は神殿のすぐ隣にあり、王の敷居と神の敷居の間には「わずかに壁があるのみ」でした。物理的な近さが、いつしか霊的な軽視を生んでいました。聖なるものと俗なるものの境界が、曖昧になっていたのです。
44章で示される厳格な規定――誰が聖所に入れるか、どんな衣服を着るか、誰と結婚できるか――は、この過去の失敗への直接の応答です。細かすぎると感じられるかもしれませんが、これは「二度と同じ過ちを繰り返さない」という、痛みを伴った学びから生まれた秩序なのです。
ここで整理しておきたいこと:召しと忠実さは別のもの
ここで少し立ち止まって整理しておきたいことがあります。「レビ人」とは、そもそも主に仕えるために特別に聖別された部族でした(民数記3章、8章)。他の部族が土地の相続地を受けたのに対し、レビ人には主ご自身がその相続として与えられ、代わりに幕屋・神殿での奉仕という特別な務めが与えられていました。
しかし、この召しを与えられていることが、一人一人の忠実さを自動的に保証するわけではありませんでした。
実際、イスラエルの歴史には、レビ人でありながら主への奉仕から外れ、偶像礼拝に関わってしまった例があります。士師記17-18章には、モーセの子孫とされる一人のレビ人が、ミカの家で私的な祭司となり、やがてダン族とともに移動して、偶像が安置されたダンで祭司を務めたことが記されています。
また、王国後期のヨシヤ王の改革(列王記下23章)では、各地の高き所で香をたいていた祭司たちが、エルサレムに集められ、興味深い扱いを受けています。
「高き所の祭司たちはエルサレムで主の祭壇にのぼることをしなかったが、その兄弟たちのうちにあって種入れぬパンを食べた」(列王記下23章9節)
祭壇には近づけないが、仲間の祭司たちと共に食物にはあずかれる――この扱いは、エゼキエル44章10-14節が語る規定と驚くほどよく似た構造を持っています。
こうした歴史的背景を踏まえると、エゼキエル44章10-14節で語られているレビ人とは、特定の一人を指しているのではなく、イスラエルが主から離れて偶像に従ったとき、その背きに加担したレビ人たちを指していると考えられます。彼らはレビ人としての奉仕の務めを持っていましたが、その召しに忠実であり続けることができませんでした。
そのため、主は彼らを完全に奉仕から切り離すのではなく、神殿の門を守るなどの務めには就かせる一方、「祭司として」主に近づくことは許されませんでした。
ここには重要な原則があります。召しを与えられていることと、その召しに忠実であり続けることは、同じことではありません。
ザドクの子孫と、レビ人の運命の分かれ道
この境界線の中で、対照的な扱いを受ける二つのグループが登場します。
一方は、迷い出て偶像に仕えたレビ人たち。彼らは完全に追放されるのではなく、宮を守る務めには当たれますが、祭司として主に近づくことは許されません(44章10-14節)。
もう一方は、ザドクの子孫。「イスラエルが迷った時に、わが聖所の務を守った」ことのゆえに、彼らは主のもっとも近くに仕えることが許されます(44章15節、43章19節)。
この扱いには、実は数百年前にさかのぼる伏線があります。サムエル記上2章35節、エリの家の堕落に対する裁きの中で、主はこう語られていました。
「わたしは自分のために、ひとりの忠実な祭司を起す。その人はわたしの心と思いとに従って行うであろう。わたしはその家を確立しよう。その人はわたしが油そそいだ者の前につねに歩むであろう」(サムエル記上2章35節)
この預言は、ダビデ王晩年の王位継承の混乱の中で成就します。アドニヤの反乱に加担した大祭司アビヤタルは、ソロモンによってその職を追放されました。
「ソロモンはアビヤタルを主の祭司職から追放した。こうして主がシロでエリの家について言われた主の言葉が成就した」(列王記上2章27節)
そして人間的な派閥ではなく、神が選ばれた正統な後継者ソロモンについたザドクが、大祭司の職を継いでいくことになります。目先の政治的な得ではなく、主の選びに忠実であり続けた一人の決断が、何百年も後、エゼキエルの幻の中でまだ生き続けている。これは、罰と恵みが同時に働いている、聖書の中でも印象深い箇所の一つだと言えるでしょう。
測量の意味、そして正しい秤
45章に入ると、聖なる地所の測量、そして「正しいはかり、正しいエパ、正しいバテを用いよ」(10節)という規定が続きます。
礼拝の規定のすぐ後に、市場での公正な取引の規定が置かれていることに注目してください。エゼキエルにとって、神殿での礼拝と、日常の商売における誠実さは、切り離された別々の領域ではありません。同じ聖さが、礼拝の場にも、日々の経済生活にも及んでいる。これは、信仰生活と日常生活を分けて考えがちな私たちへの、静かな問いかけでもあります。
まだ測られている途中の未来
40章から48章にわたるこの長い測量は、正直なところ読み進めるのに忍耐が要ります。しかし、これが「まだ実現していない未来の設計図」であることを思い出すと、この難解さそのものに意味が見えてきます。
私たちは、まだ完成していない図面を渡されているのです。すべての寸法、すべての規定が、今すぐ完全に理解できる必要はありません。大切なのは、この幻全体が指し示している一点――「彼らはわたしが主であることを知るであろう」という、エゼキエル書全体を貫く目的です。裁きも、回復も、この未完成の神殿の幻も、すべてはこの一点のために語られています。
第三部:新約(ヘブル人への手紙11章32-40節)
ヘブル人への手紙11章は、「信仰の殿堂」とも呼ばれる章です。アベル、エノク、ノア、アブラハム、モーセ……旧約の信仰者たちが次々と名前を挙げられ、それぞれの信仰の具体的な内容が語られていきます。そして32節、著者はついにこう言います。
「このほか、何を言おうか。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル及び預言者たちについて語り出すなら、時間が足りないであろう」
ここで挙げられている名前を見ると、少し戸惑う方もいるかもしれません。士師記を読むと、ギデオンは最初主の召しに何度も疑いをぶつけた人物ですし、サムソンは自らの欲望に振り回され続けた人物、エフタは軽率な誓願で自分の娘を犠牲にすることになった人物です。決して「模範的」とは言えない生涯を送った人たちが、ここでは一括りに「信仰によって」歩んだ者として名を連ねています。
ここに、この章のとても大切なメッセージがあります。信仰とは、完璧な人格の証明書ではありません。不完全さを抱えたままでも、神に応答したという事実そのものが、ここでは「信仰」と呼ばれているのです。
二つの信仰、同じ一つの評価
33節から38節にかけて、著者は信仰者たちの経験を二つのグループに分けて描いています。
前半(33-35節前半)は、勝利の信仰です。国々を征服し、正義を行い、ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃を逃れ、弱かった者が強くされ、戦いの勇者となった――目に見える形で、神の力が働いた経験です。
後半(35節後半-38節)は、まったく違う経験です。「更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった」。あざけられ、むち打たれ、投獄され、石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、着る物もなく荒野をさまよい続けた者たち。ここには、目に見える勝利は何一つありません。
けれども著者は、この両方を分け隔てなく「信仰によって」という同じ言葉で結んでいます。信仰は結果によって測られるものではないということが、この対比からはっきりと伝わってきます。勝利しても信仰であり、殉教しても信仰である。奇跡を見ても信仰であり、何も奇跡を見ないまま苦しみの中で耐え抜くことも、同じ信仰なのです。
【勝利の信仰(33-35節前半)と苦難の信仰(35節後半-38節)の対比表(簡易版)】
「約束のものは受けなかった」という驚くべき結び
そして39節から40節、この章全体の結論とも言える言葉が語られます。
「これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった」
これは静かに衝撃的な一節です。11章に登場したすべての信仰者――アブラハムも、モーセも、ここに挙げられた士師たちも預言者たちも――誰一人として、彼らが本当に待ち望んでいたものを、自分の生涯のうちに手にすることはありませんでした。
なぜでしょうか。40節がその理由を語ります。
「神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない」
旧約の聖徒たちの信仰は、彼らの世代だけでは完成しなかったのです。神が備えられた「さらに良いもの」――イエス・キリストによる救いの完成――は、彼らの後に続く私たちを含めて、初めて全うされるものでした。彼らは、自分では見ることのない未来のために、それでも「信仰によって」歩み続けたのです。
これは、申命記26章で見た「きょう」の誓いと、深いところで響き合っています。あの契約の民も、「きょう」という一瞬の決断の中に生きていました。しかしその「きょう」の結果は、彼らの代で完結するものではありませんでした。ヘブル11章の聖徒たちもまた同じです。彼らの「きょう」は、彼ら自身のためだけの「きょう」ではなかったのです。
第四部:全体の一貫性 ――「きょう」語られ、まだ完成していない契約
申命記26章、エゼキエル書43-45章、ヘブル人への手紙11章。時代も文脈もまったく異なるこの三つの箇所を、今日は一つの糸でたどってきました。その糸とは、「きょう」という一瞬の決断が、決してその一瞬だけでは完結しない、ということです。
申命記26章では、民は「きょう」主を自分の神とすると誓いました。主も「きょう」、彼らを宝の民とすると宣言されました。両者の宣言は確かにその日、確かにその場で交わされました。けれども、その契約が本当に何を意味するのかは、その日一日で証明できるものではありません。契約は「きょう」結ばれ、それから何世代にもわたって、守られたり、破られたり、揺れ動きながら歴史の中で試されていくことになります。
エゼキエル書43-45章で見た神殿の幻は、まさにその歴史の揺れ動きの果てに与えられたものでした。かつて主の栄光は、民の不信仰のゆえに神殿を去りました。しかし43章で、その栄光は同じ東の門から帰って来ます。そしてその門は、二度と人が通らないように閉じられました。この幻全体が、まだ文字通りには実現していない未来の設計図です。私たちは今、この幻を読みながら、完成していない図面を覗き込んでいるのです。ザドクの子孫が守られたのは、彼らの先祖が遠い過去に「きょう」下した一つの忠実な選択のゆえでした。一つの「きょう」が、何百年も先の幻の中でまだ生き続けている。これは申命記の「きょう」が、単発の出来事ではなく、長い時間をかけて実を結んでいくものであることを、具体的な形で示してくれています。
そしてヘブル人への手紙11章。ここでは、その「まだ完成していない」という性質が、最も率直な言葉で語られています。「約束のものは受けなかった」。ギデオンも、サムソンも、ダビデも、預言者たちも、皆それぞれの「きょう」を、信仰によって生きました。しかし彼らの誰一人として、約束の完成をその目で見ることはありませんでした。彼らの信仰は、彼らの代では完結しなかったのです。40節が語るように、神が備えられた「さらに良いもの」は、彼らの後に続く私たちを含めて、初めて全うされます。
ここに、三つの箇所を貫く一つの真理が浮かび上がってきます。信仰とは、自分の代で完結を見届けることではない、ということです。
申命記の民は、契約の全歴史を見届けることなく「きょう」誓いました。エゼキエルが幻に見た神殿は、今なお完成を待っています。ヘブル11章の聖徒たちは、自分たちが見ることのない未来のために、それでも「きょう」信じ続けました。彼らに共通しているのは、結果を先取りして確認してから信じたのではなく、まだ見ていないものに向かって、その日その日を誠実に生きたということです。
これは、私たちの信仰生活にもそのまま当てはまることではないでしょうか。祈りが今すぐ答えられなくても、教会に目に見える実を結ばないように感じられても、自分の生きている間に世界が変わる兆しが見えなくても、それでも「きょう」信じ、「きょう」従うこと。その一つ一つの「きょう」は、決して無駄にはなりません。ザドクの一つの決断が世代を超えて生き続けたように、旧約の聖徒たちの信仰が私たちの中で完成に近づいているように、私たちの「きょう」もまた、私たちの目には見えない仕方で、後に続く誰かのために働いているのかもしれません。
信仰とは、完成を見届けることではなく、完成を信じて「きょう」を生きることです。そしてその「きょう」の連なりの果てに、神ご自身が「さらに良いもの」を備えていてくださる。これが、申命記、エゼキエル、ヘブル人への手紙という三つの異なる時代の言葉が、今日、私たちに向けて語りかけている一つのメッセージだと思います。
語彙表
原語:ハッヨーム(הַיּוֹם) = 定冠詞「ハ」+名詞「ヨーム(日)」 意味:「その日」「今日」「この日」 使用箇所:申命記26:16-18(3回。16節は「この日」を強調する形)
原語:セグッラー(סְגֻלָּה) = 女性名詞・単数 意味:特別な所有物、貴重な財産、宝、特別に大切にされた所有物 使用箇所:申命記26:18/出エジプト19:5が聖書での初出
聖書引用について 本記事では『口語訳聖書』©1954,1955,1975,1984,2002 日本聖書協会を使用しています。1954年・1955年の本文を基本とし、改訂箇所は原語からの拙訳、または章節のみを記載しています。拙訳箇所には「拙訳」と明記しています。



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