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AIのニュースに不安になったとき、聖書が教える心の置き場所  恐れず、眠らず、しらふで

エッセイ
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「AIが人類を滅ぼすかもしれない」。そんなニュースを見て、心がざわついたことはありませんか? 恐ろしい知らせを聞いたとき、聖書は私たちの心の置き場所について、何と教えているのでしょうか。今回は、マタイによる福音書とテサロニケ人への第一の手紙に出てくる「目をさましている」ということばを中心に、聖書を読んでいきます。

それぞれの部のはじめに、口語訳の本文をそのまま載せています。まず本文を読んでから説明に進み、最後に、ご自分の聖書を開いてもう一度読んでみてください。ギリシャ語・ヘブライ語は、必要なところだけ短く紹介しています。

【AI利用について】本記事は、AI(Claude)と対話しながら、原語の確認と構成の整理を行い、筆者が内容を確認・編集して作成しました。

※本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。

【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。

この記事を書きながら学んだことを、祈りにしました。その祈りを、賛美にしています。マタイによる福音書24章から26章、そしてテサロニケ人への第一の手紙5章の言葉が、歌詞の中に込められています。記事を読み終えたあとに、一緒に祈るような気持ちで聴いていただけたら嬉しいです。

「作詞:友喜 × Claude(AI) 作曲:suno」

この賛美の歌詞は、私の祈りから生まれました。言葉にしきれなかった思いを、Claude(AI)と対話しながら整え、字余りや字足らずも直して、歌える形にしてもらいました。うまく祈れないと感じていた言葉が、こうして一つの賛美になったことが、私自身うれしかったです。祈りの言葉が見つからないときも、自分の思いをそのまま書き出してみると、そこから詩が生まれることがあります。皆さんもぜひ、試してみてください。

今日の一曲:ともしびをたやさずに

第一部 ニュースを聞いたとき、まず「注意していなさい」

まず、本文を読んでみましょう。

3またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。4そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。5多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。6また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。7民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。8しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。

(マタイによる福音書24章3〜8節 口語訳)

弟子たちは「いつ」「どんな前兆が」と尋ねました。ところがイエス様が最初に答えられたのは、日付ではなく、「人に惑わされないように気をつけなさい」ということばでした。

6節の「うわさ」は、ギリシャ語で ἀκοή(アコエー)、もともと「聞こえてきたもの」という意味です。今の私たちなら、ニュースやSNSで耳に入ってくる情報を思い浮かべるとよいでしょう。

「あわててはいけない」と訳されていることばは θροέω(スロエオー)で、「騒ぎに心を乱される」という意味があります。イエス様は「聞かないようにしなさい」とは言われませんでした。聞くことになる、と言われたうえで、「注意していなさい、あわててはいけない」と言われたのです。

そして「それは起らねばならない」と続きます。世の騒ぎは、神様の知らないところで起きているのではない、ということです。8節では、これらは「産みの苦しみの初め」だと言われます。この「産みの苦しみ」ということばは、第三部でもう一度出てきます。

なお、これをAIのニュースに当てはめるのは、私たちの適用です。24章の本文が、AIについて語っているわけではありません。

ご自分の聖書で 4節と6節で、イエス様が二度「気をつけなさい」「注意していなさい」と言われていることを確かめてみてください。

第二部 「目をさましていなさい」

24章の後半で、イエス様は、時を見分けることについても語られます。

32いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。33そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。(中略)36その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。

(マタイによる福音書24章32〜33、36節 口語訳)

いちじくの葉を見て夏が近いと分かるように、「すべてこれらのことを見たならば」、近づいていると知りなさい、と言われます。時代のしるしを見分けることは、イエス様ご自身が求めておられることなのです。その一方で36節では、「その日、その時は、だれも知らない」と言われます。時を見分けることと、日付を決めてしまうことは、違うのです。

聖書には、時を悟ることを大切にする箇所がほかにもあります。歴代志上12章32節には、ダビデのもとに集まったイッサカルの子孫について、「よく時勢に通じ、イスラエルのなすべきことをわきまえた人々」と書かれています。またイエス様は、エルサレムを見て泣き、「おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」と言われました(ルカによる福音書19章41〜44節)。ダニエル書や黙示録から時代を読み取ろうとする学びは、神様がこの世界を治めておられることを伝える、大切な働きでもあります。

そのうえで、イエス様はこう続けられます。

42だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。43このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。44だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。

(マタイによる福音書24章42〜44節 口語訳)

「目をさましていなさい」と訳されているのは、ギリシャ語で γρηγορέω(グレーゴレオー)。「目がさめている、見張っている」という意味のことばです。

42節の理由は、「いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである」。そして44節では、それが「用意をしていなさい」と言いかえられています。目をさましていることと、用意していることが、ここで結びついています。

このあと、25章に十人のおとめのたとえが続きます。

1そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。2その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。3思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。4しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。5花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。6夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。7そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。8ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。9すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。10彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。11そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。12しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。13だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。

(マタイによる福音書25章1〜13節 口語訳)

このたとえには、意外なところがあります。5節を見ると、思慮深いおとめも思慮の浅いおとめも、「みな居眠りをして、寝てしまった」のです。それなのに13節は、「だから、目をさましていなさい」と結ばれます。

聖書が求めているのは、「一睡もしないこと」ではありません。大切なのは、眠ったかどうかではなく、主を待つ備えがあったかどうかです。

二つのグループを分けたのは、油を用意していたかどうか(3〜4節)でした。10節にも「用意のできていた女たち」とあります。この油が何を表すかについては、聖霊、信仰、日々の忠実さなど、いくつもの読み方があり、本文ははっきり言っていません。

私の教会の礼拝では、油を用意することを、①神様との関係を保つこと、②心にみことばを蓄えること、③主と共に歩む日々の積み重ね、と教えられました。

同じことばは、イエス様が捕らえられる前の夜、ゲツセマネの園にも出てきます。

38そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。39そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。40それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。41誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。

(マタイによる福音書26章38〜41節 口語訳)

イエス様が弟子たちに願われたのは、「わたしと一緒に」目をさましていること、そして「目をさまして祈って」いることでした。マタイによる福音書の中で「目をさましている」は、時を見分ける知識とともに、主と一緒に祈りの中にいることと、深く結びついているようです。

つまり、マタイによる福音書でいう「目をさましていなさい」とは、眠らずに見張り続けることではありません。主がいつ来られるか分からないからこそ、主を待ち、備え、祈りながら生きることです。

ご自分の聖書で マタイによる福音書24章から26章の中で、「目をさまして」ということばを探してみてください。24章43節の家の主人のところも含めて、全部で6回見つかります。

第三部 「慎んでいよう」——しらふでいる

次は、パウロがテサロニケの教会に書き送った手紙です。

1兄弟たちよ。その時期と場合とについては、書きおくる必要はない。2あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。3人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。4しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。5あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。6だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。7眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである。8しかし、わたしたちは昼の者なのだから、信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう。9神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。10キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。

(テサロニケ人への第一の手紙5章1〜10節 口語訳)

6節には、「目をさまして慎んでいよう」と、二つのことばが並んでいます。「目をさまして」は、第二部と同じ γρηγορέω です。

「慎んで」と訳されているのは νήφω(ネーフォー)。もとは「酒に酔っていない、しらふでいる」という意味で、そこから「冷静である、落ち着いている」という意味でも使われます。

すぐ次の7節を見てください。「眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである」。眠りと酔い、二つの絵が並んでいます。眠りの反対が「目をさましている」なら、酔いの反対が「しらふ」、つまり「慎んでいる」です。日本語の「慎む」だけでは見えにくいこの組み合わせが、ギリシャ語で読むとはっきりします。

この二つは、どちらも「意識がはっきりしている」ことを表す、近い意味のことばです。そのうえで、眠りを「無関心」に、酔いを「情報に飲まれること」に重ねて読むこともできるかもしれません。これは私たちの適用です。

3節には、「人々が平和だ無事だと言っているその矢先に」滅びが来る、とあります。戒められているのは、慌てることだけではなく、安心しきってしまうことでもあります。第一部の「あわててはいけない」と合わせると、聖書は「慌てず、安心しきらず」という道を示しているように見えます。

そして、命令の前に、まず5節で「あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである」と宣言されています。頑張って目をさますのではなく、すでに昼に属している者として、目をさましていられる。命令の土台には、神様の側の宣言があります。

10節の「さめていても眠っていても」の「さめて」も、実は同じ γρηγορέω です。ここの「眠る」は「死ぬ」ことを表していると読まれることが多い箇所です。いずれにしても、最後の安心の根拠は、私たちの目のさめ具合ではなく、「主と共に」にあります。

ご自分の聖書で マタイによる福音書24章8節と、この手紙の5章3節を並べて読んでみてください。どちらにも「産みの苦しみ」ということばがあります。マタイでは、世の騒ぎは終わりではなく「初め」だということを。パウロは、それが「突如として」来て、のがれられないことを。同じ絵を使って、違う面を語っています。

第四部 守る、見張る

「見張る」というテーマを、旧約聖書にさかのぼってみます。まず、聖書のいちばんはじめの方です。

15主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。

(創世記2章15節 口語訳)

「耕させ」と訳されたヘブライ語には、「仕える」という意味もあります。「守らせ」は、「守る、見張る」ということばです。神様は人に、園に仕え、園を守る務めを与えられたのです。

第319回「守り通した者たち」へのリンク:耕す(アーヴァド)と守る(シャーマル)をもっと詳しく👇

聖書通読 第319回 申命記27章・エゼキエル48章・ダニエル書1章・ヘブル13章
守り通した者たち——エデンの務めから永遠の契約へ———エデンの務めから永遠の契約へ—通読箇所:申命記27章11-26節/エゼキエル書48章/ダニエル書1章/ヘブル人への手紙13章誰も見ていない場所で、あなたは何を守っていますか。祝福と呪いが…

次は、預言者エレミヤが召されたときの場面です。

11主の言葉がまたわたしに臨んで言う、「エレミヤよ、あなたは何を見るか」。わたしは答えた、「あめんどうの枝を見ます」。12主はわたしに言われた、「あなたの見たとおりだ。わたしは自分の言葉を行おうとして見張っているのだ」。

(エレミヤ書1章11〜12節 口語訳)

「あめんどう」とは、アーモンドの古い呼び方です。ここには、ヘブライ語の語呂合わせがあります。「あめんどう」は שָׁקֵד(シャーケード)、12節の「見張っている」は שֹׁקֵד(ショーケード)。ほとんど同じ音です。神様はアーモンドの枝を見せて、「わたしは自分の言葉を行おうとして見張っているのだ」と語られたのです。

あめんどうと見張っている

エレミヤ書 1章11〜12節

同じ子音に、違う母音

語根(子音の骨組み)

שקד

シン・コフ・ダレット ― 「目をさましている、見張る」

↙↘

母音のパターン①

שָׁקֵד

シャーケード

שָׁ =「ア」 文字の下にT字の記号

名詞:あめんどう(アーモンド)

エレミヤ書1章11節

母音のパターン②

שֹׁקֵד

ショーケード

שֹׁ =「オ」 文字の上に点

分詞:見張っている

エレミヤ書1章12節

エレミヤの時代の巻物では

שקד = שקד

子音だけで書かれていたので、二つはまったく同じ形でした。母音記号は7〜10世紀ごろ、マソラ学者が読み方を伝えるために加えたものです。

この「あめんどう」は、もう一か所、印象的な場面に出てきます。

8その翌日、モーセが、あかしの幕屋にはいって見ると、レビの家のために出したアロンのつえは芽をふき、つぼみを出し、花が咲いて、あめんどうの実を結んでいた。

(民数記17章8節 口語訳)

神様が選ばれた人のしるしとして、アロンのつえに結んだのも、「あめんどう」の実でした。日本語の聖書でも、エレミヤ書と同じ「あめんどう」ということばが使われているので、自分で見比べることができます。見張っておられる神様を思わせる木が、ここにも置かれているように読めます(これは私たちの読み方です)。

こうして見ると、「守る」「見張る」ことは、聖書のはじめから人に与えられた務めであり、その背後には、いつも見張っておられる神様がいる、ということが見えてきます。

新しい技術についても、同じ姿勢で向き合えるのではないでしょうか。恐れすぎず、無関心にもならず、神様に仕えながら、注意深く見守る。そして、終わりの時について語る聖書の言葉を心に置きながら、イッサカルの子孫のように「時勢に通じ」、今何をなすべきかを祈りつつ考える。聖書は、そのための心の置き場所を、昔から教えてくれているように思います。

ご自分の聖書で エレミヤ書1章11節と民数記17章8節、二つの「あめんどう」を並べて読んでみてください。

あとがき 自分の目で確かめながら読む

この記事では、各部のはじめに口語訳の本文を載せました。説明よりも先に、聖書そのものを読んでほしかったからです。

原語で調べると、日本語だけでは見えにくいことに気づくことがあります。「慎んで」が、もとは「しらふ」を表すことばだったこと。「あめんどう」と「見張っている」が、語呂合わせになっていること。でも、気づいたことが正しいかどうかは、いつも聖書の本文に戻って確かめる必要があります。

使徒行伝17章11節には、ベレヤの人々が、パウロの話を聞いて、そのとおりかどうかを毎日聖書を調べた、と書かれています。この記事も、ぜひご自分の聖書で確かめながら読んでください。

聖書の引用:口語訳(日本聖書協会、1954年・1955年)

【口語訳本文を掲載しているサイト 】👇

口語訳 旧約聖書 1955年版 ・ 新約聖書 1954年版 | 索引

この記事に出てきたことば

ことば読み口語訳での訳語(もとの意味)
ἀκοήアコエーうわさ(聞こえてきたもの)
θροέωスロエオーあわてる(騒ぎに心を乱される)
γρηγορέωグレーゴレオー目をさましている、見張っている
νήφωネーフォー慎む(しらふでいる、冷静である)
שָׁקֵדシャーケードあめんどう(アーモンド)
שֹׁקֵדショーケード見張っている

同じ祈りから生まれた、ほかの二つの賛美です。英語版は、世界の兄弟姉妹と共に主を待ち望みたくて作りました。

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