聖書通読 第334回
通読箇所:アモス書2章1節〜3章15節 ヨハネの第一の手紙2章1節〜29節
神を「知っている」とは、どういうことなのでしょうか。礼拝を守り、ささげ物をし、「わたしは神の民だ」と言える。それで十分なのでしょうか。紀元前760年、豊かさの頂点にあった北イスラエルに、一人の羊飼いが問いかけました。「ふたりの者がもし約束しなかったなら、一緒に歩くだろうか」。そしておよそ850年後、使徒ヨハネも同じ問いを手紙に書きました。二つの言葉が向き合う時、私たちが「神を知る」ことの本当の意味が見えてきます。
※本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。
【読み方のご案内】第一部(アモス書)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(新約)、第三部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。
第一部 アモス書2章・3章
このころ、イスラエルで何が起きていたか
アモスが語ったのは、紀元前760年ごろです。北イスラエルの王はヤロブアム2世でした。
この時代、北イスラエルはとても豊かでした。領土は広がり、お金持ちは「冬の家と夏の家」を持っていました。象牙で飾った家に住む人もいました(3章15節)。
けれど、その豊かさの裏で、貧しい人が踏みつけられていました。
アモスは、南ユダのテコアという村の羊飼いでした。祭司でも、預言者の家でもありません。南の田舎の羊飼いが、北イスラエルのベテルに行って神の言葉を語ったのです。
ベテルは、北の国の王が礼拝した神殿のある町でした(7章10〜13節)。
円を描いて、最後にど真ん中へ
アモス書の預言は、イスラエルの周りの国から始まります。ダマスコ、ガザ、ツロ、エドム、アンモン。そして2章のモアブ。
北イスラエルの人たちは、うなずいて聞いていたはずです。「そうだ、あの国々は悪い」と。
次はユダです。北の人たちにとってはライバルの国です。ここでもまだ、拍手が起きていたかもしれません。
そして最後に、こう語られます。
“イスラエルの三つのとが、
四つのとがのために、
わたしはこれを罰してゆるさない。”
(アモス書2章6節)
円を描くように周りの国を裁き、最後に聞いている人たち自身を撃つ。気づいた時には、もう逃げ場がありません。
「三つ、四つ」は、ヘブライ語の詩に出てくる数の言い方です。「三つ」と言ったあと、もう一つ足して「四つ」と言う。そうやって、罪が積み重なっていることを強く表しています。たとえて言えば、「もう器があふれた」という感じです。
包囲網の預言(周りの国々から円を描き、最後にイスラエルへ)
円を描いて、最後にど真ん中へ
アモス書1〜2章 神のさばきの宣告は、周りの国から始まった
聞いていた人の心の動き
①〜⑥ 周りの国々 →「そうだ、あの国は悪い」
⑦ ライバルのユダ →「そのとおりだ」
⑧ イスラエル →「えっ、わたしたち?」
「三つのとが、四つのとがのために」
「三つ」と言って、もう一つ足して「四つ」。
罪が積み重なっていることを強く表す言い方。
ナタンがダビデに「あなたがその人です」と告げた時と同じ仕掛け(サムエル記下12章7節)。
祭壇のそばに敷かれた上着
イスラエルの罪として、聖書はこう書いています。
“彼らはすべての祭壇のかたわらに
質に取った衣服を敷いて、その上に伏し、
罰金をもって得た酒を、その神の家で飲む。”
(アモス書2章8節)
ここで注目したいのは、モーセの律法です。人から上着を質(借金のかた*)に取ったら、日が沈む前に返しなさいと命じられていました(出エジプト記22章26〜27節)。上着は、貧しい人の夜の布団だったからです。
ところが彼らは、質に取った上着を、祭壇のそばに敷いてその上に寝ていました。日が沈む前に返すべき上着を、自分たちの礼拝の場で使っていたのです。律法を破りながら、礼拝していた。神の家で、貧しい人の布団にくるまっていたのです。
さらに彼らは、ナジルびと(*)に酒を飲ませ、預言者には「預言するな」と言いました(2章12節)。神の声を届ける人を、黙らせたのです。
「あなたがただけを知った」
3章で、神はこう語られます。
“地のもろもろのやからのうちで、
わたしはただ、あなたがただけを知った。
それゆえ、わたしはあなたがたの
もろもろの罪のため、あなたがたを罰する。”
(アモス書3章2節)
この「知った」は、ヘブライ語で「ヤダーティ」です。もとの形は「ヤーダ」。頭で情報を知ることだけではありません。人との関わりや経験をふくむ、広い「知る」です。ここでは、神がイスラエルを特別に選び、関係を結ばれたことを表しています。
驚くのは、そのあとです。普通なら「あなたがたを知った。だから守る」と続くはずです。でも神は、「知ったからこそ、罰する」と言われます。
深く結ばれた関係だからこそ、裏切りは重いのです。
会う約束をしたふたり
続く3節に、こんな問いがあります。
“ふたりの者がもし約束しなかったなら、
一緒に歩くだろうか。”
(アモス書3章3節)
この「約束する」は、ヘブライ語で「ノアドゥー」です。言葉の根っこ(語根*)は「ヤーアド」。もとの意味は「定める」です。そこから、「時と場所を決めて会う」という意味になります。
同じ根っこから、「モエード」という言葉が生まれました。「定められた時」、つまり神の祭りのことです。荒野の幕屋も「オヘル・モエード」、会見の幕屋と呼ばれました。神と人とが、約束して会う場所です。
神はイスラエルを選び、契約(神と民との約束*)を結び、一緒に歩いてこられました。エジプトから導き出し、四十年の荒野を共に歩まれました(2章10節)。
けれど今、イスラエルは別の道を歩いていました。「神の民」と言いながら、神とは一緒に歩いていなかったのです。
羊飼いが取り返したもの
3章12節には、羊飼いだったアモスらしいたとえがあります。
“主はこう言われる、「羊飼がししの口から、羊の両足、あるいは片耳を取り返すように、サマリヤに住むイスラエルの人々も、長いすのすみや、寝台の一部を携えて救われるであろう」。”
(アモス書3章12節)
このたとえは、当時の羊飼いの暮らしを知ると、ぐっと分かりやすくなります。順番に見てみましょう。
① 羊飼いは、人の羊を預かっていた
羊飼いは、自分の羊だけを飼っていたのではありません。持ち主から羊を預かって、野で世話をすることもありました。
② 羊がいなくなると、疑われる
もし羊が一匹いなくなったら、どうなるでしょう。持ち主は「お前が盗んで売ったのではないか」と疑うかもしれません。
③ 律法の決まり
そこで、モーセの律法には決まりがありました。羊が獣に裂かれたのなら、その証拠を持ってくればよい。そうすれば、羊飼いは弁償しなくてよい(出エジプト記22章13節)。
④ だから、羊飼いは命がけで取り返す
だから羊飼いは、ししの口に残った羊の足や耳を、必死に取り返したと考えられます。それを持ち主に見せれば、「盗んでいません。本当に獣にやられたのです」と証明できたからです。律法の決まりから見えてくる、当時の羊飼いの姿です。
⑤ でも、その羊は生きていない
ここが大切なところです。取り返した足や耳は、羊が助かった証拠ではありません。羊が死んでしまった証拠なのです。
⑥ 「救われる」という言葉の皮肉
神は、サマリヤの人々も「救われるであろう」と言われます。聞いた人は、一瞬ほっとしたかもしれません。
でも、その「救い」で残るのは、長いすのすみ(はし)や、寝台のかけらだけです。お金持ちが寝そべっていた、ぜいたくな家具。そのかけらしか残らない。それは、「この国は確かに滅んだ」という証拠にすぎないのです。
このかけらを、ほんのわずかに生き残る人々のことと読む人もいます。どちらにしても、元の豊かな姿はもう残っていません。
この「救われる」は、ヘブライ語で「ナツァル」という言葉です。実は、神がイスラエルをエジプトから「救い出す」と言われた時と同じ言葉です(出エジプト記3章8節)。
実は、羊飼いが「取り返す」も、同じナツァルです。そして、かつて神は、この言葉で民をエジプトから救い出されました。その同じ言葉が、ここでは滅びを語るために使われています。
⑦ それでも、羊飼いはあきらめない
けれど、もう一つ見えることがあります。羊飼いは、耳の切れ端ひとつでも、ししの口から取り返そうとします。危ないのに、手を伸ばします。
アモス書は、最後の9章で希望を語って終わります。
“その日には、
わたしはダビデの倒れた幕屋を興し、
その破損を繕い、そのくずれた所を興し、
これを昔の時のように建てる。”
(アモス書9章11節)
かけらしか残らない民を、神はあきらめておられません。
豊かさの頂点で、神は問いかけておられます。「あなたは本当に、わたしと一緒に歩いているのか」と。
*この部に出てきた言葉
- *質(しち):お金を借りる時、返せなかった時のために相手に預ける品物。借金のかた。
- *ナジルびと:神に自分をささげる誓いを立てた人。誓いの間はぶどう酒を飲まず、髪を切らない(民数記6章)。
- *契約(けいやく):神と民とのあいだで結ばれた約束。神は民を自分の民とし、民は神に従って歩む。
- *語根(ごこん):言葉の根っこ。ヘブライ語では多くの場合、三つの子音でできていて、同じ語根から意味のつながった言葉がいくつも生まれる。
第二部 ヨハネの第一の手紙2章
この手紙が書かれたころ
この手紙は、古くから使徒(イエスが選んだ十二人の弟子*)ヨハネが書いたと伝えられています。紀元90年ごろに書かれたという説があり、そのころヨハネは年老いて、エペソの町にいたと伝えられています。
そのころ、教会の中から出て行った人たちがいました。彼らは、イエスがキリストであることを否定していました(22節)。4章を読むと、神の子が本当に人となられたことを認めない人たちもいたようです。
教会に残った人たちは、迷っていたはずです。「あの人たちのほうが、神をよく知っているのではないか」と。
年老いたヨハネは、そんな人たちに「わたしの子たちよ」と呼びかけます。叱る声ではありません。おじいさんが孫に語りかけるような、やさしい声です。
罪を犯してしまう者のために
手紙は、こう始まります。
“わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。”
(ヨハネの第一の手紙2章1節)
ここで注目したいのは、順番です。ヨハネは「罪を犯さないように」と言ったすぐあとで、「もし、罪を犯す者があれば」と書いています。
人は罪を犯してしまう。ヨハネはそれを知っていました。
「助け主」は、ギリシャ語で「パラクレートス」です。「そばに呼ばれた人」という意味です。そばに立って助け、弁護してくれる人のことです。
そして2節の「あがないの供え物」は、「ヒラスモス」です。罪を覆い、神との関係を元に戻すためのささげ物です。
これは、旧約のささげ物、とくにヨム・キプール(大贖罪日*)を思い起こさせる言葉です。年に一度だけ、大祭司が幕の奥の至聖所(神殿の一番奥の部屋*)に入り、民の罪のために血を携えた日です。
イエスは、そのささげ物そのものになってくださいました。しかも、「全世界の罪のため」です。
「知っている」と言いながら
続いて、ヨハネはこう書きます。
“もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである。”
(ヨハネの第一の手紙2章3節)
この「知る」は、ギリシャ語で「ギノースコー」です。頭で知ることではなく、人格と人格が交わる「知る」です。
しかも、「知っている」は、ギリシャ語では完了形(*)という形です。前に知って、その関係が今も続いている、という意味です。
大切なのは、言葉の順番です。「戒めを守ることで、神を知ることができる」とは書いていません。「戒めを守るなら、それによって、すでに神を知っていることが分かる」と書いています。
知ることが先です。歩くことは、その証拠です。木に実がなるのは、木が生きている証拠です。実をつけたから木が生き返るわけではありません。
だからヨハネは、こう続けます。
“「彼におる」と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである。”
(ヨハネの第一の手紙2章6節)
イエスと一緒にいる人は、イエスが歩かれたように歩き始める。それは、命令というより、関係から自然に生まれる歩みです。
光の中にいる、と言いながら
ヨハネは、その歩みを「兄弟を愛すること」だと言います。
“「光の中にいる」と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。”
(ヨハネの第一の手紙2章9節)
兄弟を憎む人は、自分ではどこへ行くのか分からない。やみが目を見えなくしたからです(11節)。
自分は光の中にいると思っている。でも本当は、やみの中を歩いている。これは、とても怖いことです。
油を注がれた者と、それに逆らう者
18節から、ヨハネは「反キリスト」について書きます。
ここには、ギリシャ語でしか見えない言葉のつながりがあります。
- キリスト =「クリストス」(油を注がれた方)
- 反キリスト =「アンティクリストス」(油を注がれた方に逆らう者)
- 油 =「クリスマ」(注がれた油)
三つとも、同じ根っこの言葉です。
クリストス・アンティクリストス・クリスマ(言葉の根っこ)
「油」でつながる三つの言葉
ヨハネの第一の手紙2章18〜27節 反キリストを見分けるかぎ
根っこの言葉
χρίωクリオー油を注ぐキリスト
Χριστόςクリストス油を注がれた方神に選ばれ、油を注がれた救い主。
イエスがその方。
2章22節
反キリスト
ἀντίχριστοςアンティクリストス反キリストἀντίアンティ〜に逆らって・代わって
+ Χριστόςクリストス油を注がれた方
イエスがキリストであることを否定する者。
2章18・22節
油
χρῖσμαクリスマ注がれた油キリストからいただき、信じる者のうちにとどまっている油。
2章20・27節
だから、見分けられる
油を注がれた方(キリスト)を否定する者がいても、信じる者のうちには、その方からいただいた油(クリスマ)がとどまっている。
その油が、すべてのことを教えてくれる。
反キリストは、イエスがキリストであることを否定する者です(22節)。つまり、「油を注がれた方」を否定する者です。
けれど、信じる者のうちには、その方からいただいた「油」がとどまっています(27節)。だから、偽りを見分けることができるのです。
ヨハネは、知識を持った先生に頼りなさいとは言いませんでした。あなたのうちにとどまっている油が教えてくれる、と言いました。
とどまりなさい
この章で、ヨハネが何度も繰り返す言葉があります。「とどまる」です。ギリシャ語で「メノー」。24節、27節、28節と続きます。
“そこで、子たちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、彼が現れる時に、確信を持ち、その来臨に際して、みまえに恥じいることがないためである。”
(ヨハネの第一の手紙2章28節)
出て行った人たちがいました。でもヨハネは、「とどまっていなさい」と言います。
頑張って歩きなさい、とは言いませんでした。とどまっていなさい、と言ったのです。
*この部に出てきた言葉
- *使徒(しと):イエスが選び、遣わした十二人の弟子。ヨハネはその一人。
- *ヨム・キプール(大贖罪日):年に一度、大祭司が至聖所に入り、民の罪のためのいけにえの血を携えた日(レビ記16章)。
- *至聖所(しせいじょ):幕屋や神殿の一番奥の部屋。厚い幕で仕切られ、大祭司だけが年に一度入ることができた。
- *完了形(かんりょうけい):ギリシャ語の動詞の形の一つ。前に起きたことの結果が、今も続いていることを表す。
第三部 全体の一貫性
「〜と言う者」
アモス書とヨハネの手紙には、同じ姿の人が出てきます。「言っている」けれど、「歩いていない」人です。
アモスの時代の北イスラエルは、「わたしたちは神の民だ」と言っていました。ベテルの祭壇でささげ物をし、祭りも守っていました。でもその祭壇のそばで、貧しい人の上着を敷いて寝ていたのです。
ヨハネの手紙にも、こう書かれています。
- 「彼を知っている」と言いながら、その戒めを守らない者(2章4節)
- 「光の中にいる」と言いながら、その兄弟を憎む者(2章9節)
およそ850年の時を越えて、同じ姿が描かれています。言葉はある。でも、歩みがない。
「歩く」という言葉
アモス書3章3節の「一緒に歩く」の「歩く」は、ヘブライ語で「ハーラフ」です。
この言葉から、のちに「ハラハー」という言葉が生まれました。もとは「歩み」に関わる言葉で、ユダヤ教では、神の教えに従って歩むための毎日の生き方の決まりのことです(*)。
ユダヤの人々にとって、信仰とは「何を信じているか」だけではありませんでした。「どう歩いているか」でもあったのです。
ヨハネもユダヤ人でした。その背景を考えると、次の言葉も、旧約の「歩み」と響き合って聞こえてきます。
“「彼におる」と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである。”
(ヨハネの第一の手紙2章6節)
この「歩く」は、ギリシャ語で「ペリパテオー」です。「ペリ」は「まわりを」、「パテオー」は「踏む」。もとは「歩き回る」という意味の言葉です。新約聖書では、「生きる」「生き方をする」という意味でもよく使われます。
イエスが歩かれたように歩く。それは、特別な日だけのことではありません。台所でも、職場でも、家族の前でも、毎日の一歩一歩のことなのです。
知る → 一緒に歩く → とどまる(アモスとヨハネをつなぐ図)
「知る」と「一緒に歩く」
アモスの厳しい声と、ヨハネのやさしい声は、同じことを語っている
紀元前760年ごろ・ヘブライ語
紀元90年ごろ・ギリシャ語
「わたしはただ、あなたがただけを知った」
神がイスラエルを選び、関係を結ばれた。
アモス書3章2節
前に知って、その関係が今も続いている。
戒めを守る時、それに「気づく」。
ヨハネの第一の手紙2章3節
הָלַךְハーラフ歩く
「ふたりの者がもし約束しなかったなら、一緒に歩くだろうか」
アモス書3章3節
「彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである」
ヨハネの第一の手紙2章6節
「神の民」と言いながら、貧しい人を踏みつけた。
残るのは、ししの口から取り返した耳の切れ端だけ。
アモス書2章6〜8節、3章12節
罪を犯してしまう者のために、父のみもとに助け主がおられる。
παράκλητοςパラクレートス助け主・弁護してくれる方ヨハネの第一の手紙2章1〜2節
それでも羊飼いはあきらめない。
「ダビデの倒れた幕屋を興し」
アモス書9章11節
「キリストのうちにとどまっていなさい」
ヨハネの第一の手紙2章28節
幕は、上から裂かれた
人の手では裂けなかった至聖所の幕を、神の側から裂いてくださった。
だから、歩けない日も、関係はなくならない。
知ることが先。歩みは、その実として現れる。
会う約束と、閉ざされた幕
もう一度、アモス書3章3節を思い出してください。
「ふたりの者がもし約束しなかったなら、一緒に歩くだろうか」。
第一部で見たように、この「約束する」は「時と場所を決めて会う」という意味でした。そして同じ根っこから、「オヘル・モエード」(会見の幕屋*)という言葉が生まれました。神と人とが会う場所です。
けれど、その会見の幕屋の一番奥には、厚い幕がありました。神のおられる至聖所(*)と、人とを分ける幕です。大祭司でさえ、年に一度しか入れませんでした。
神と会う約束はある。でも、自由には近づけない。旧約の民は、その幕の手前で礼拝していたのです。
幕は、上から裂かれた
イエスが十字架で息を引き取られた時のことを、聖書はこう記しています。
“そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。”
(マルコによる福音書15章38節)
下から裂けたのではありません。人が手を伸ばして破ったのではありません。上から、神の側から裂かれたのです。
ここで、ヨハネの手紙2章1節がつながります。罪を犯してしまう者のために、父のみもとに「助け主」がおられる。
アモスの羊飼いは、ししの口から耳の切れ端を取り返しました。それは「死んでしまった」という裁きの証拠でした。でもヨハネの手紙では、裁きの証拠が置かれるはずの場所に、イエスご自身が立っておられます。「この人のためには、わたしが供え物になった」と言って、弁護してくださるのです。
厳しい声と、やさしい声
アモスの声は厳しい声です。ししがほえるような声です(3章8節)。ヨハネの声はやさしい声です。「わたしの子たちよ」と呼びかける声です。
でも、二人は同じことを語っています。神が求めておられるのは、形だけの礼拝ではありません。神と一緒に歩くこと、交わりです。
ヨハネは「頑張って歩きなさい」とは言いませんでした。「とどまっていなさい」と言いました(2章28節)。
歩けない日もあります。実感がない日もあります。それでも、裂かれた幕の向こうで、主は私たちを待っておられます。いいえ、私たちが近づくより先に、幕を裂いて、主のほうから出てきてくださったのです。
その平安を、歌にしました。
「裂かれた幕」
*この部に出てきた言葉
- *ハラハー:ヘブライ語の「歩く(ハーラフ)」から生まれた言葉。ユダヤ教で、神の教えに従って歩むための日々の生き方の決まり。
- *会見の幕屋(オヘル・モエード):荒野でイスラエルが持ち運んだ礼拝の天幕。神と民とが「会う」場所。
- *至聖所(しせいじょ):幕屋や神殿の一番奥の部屋。厚い幕で仕切られ、大祭司だけが年に一度入ることができた。
賛美「裂かれた幕」
どれほど手を伸ばしても、あの厚い幕は人の手では裂けなかった。
けれど神は、ご自分の側から、上から下まで幕を裂いてくださいました。
主イエスが十字架で息を引き取られたとき、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました(マルコ15:38)。
洗礼の日に天が裂けたときと同じ言葉です(マルコ1:10)。
神のほうから開かれた、救いの道と礼拝の道。
「実感がない」「従えない」と感じる日にも、
主は私たちを先に知り、愛していてくださいます。
その平安を歌にしました。
歌詞
どれほど 手を伸ばしても
どれほど もがいても
あの厚い 幕は
わたしの手では 裂けなかった
けれど あの日
幕は 上から 裂かれた
わたしが 近づくより先に
あなたのほうから
愛が 降りてきた
永遠のいのちとは
あなたを 知ること
顔と顔を 見つめ合うように
互いの名を 呼び合うように
聴くことは 従うこと
信じることは 歩き出すこと
分かっていても この足は止まり
この胸は ときどき冷える
主よ 実感がありません
それでも あなたを 信じています
この「それでも」を
あなたは 弱さと呼ばない
十字架の 闇の中で
御子もまた 叫ばれた
わが神 わが神と
それでも 父を呼びながら
だから あの日
幕は 上から 裂かれた
わたしが あなたを知る前に
あなたは わたしを
知っていてくださる
知ることは 交わりの中で深まり
交わりは 知ることで 豊かにされる
永遠に 永遠に
あなたと ともに
この歌が生まれるまで
永遠のいのちとは、イエス・キリストを知ること(ヨハネ17:3)。
この「知る」(ギリシャ語 ギノースコー)は、頭で知ることではなく、人格と人格が交わる「知る」です。
では、どうしたら神との関係を持つことができるのでしょうか。
Ⅰヨハネ2:3は、神の命令を守ることによって、自分が神を知っていることが分かると語ります。
そしてヨハネ5:24とヨハネ3:36は、永遠のいのちが、主を信じ、その御言葉に聴き従うことと結びついていることを教えています。
永遠のいのち ― 主を知ることー主を信じること ― 聴き従うこと。
レーマ聖書学院で学んだこの流れを、頭では、言葉では分かっていても……。
その「……」の中で、礼拝で聞いた「裂かれた天」のメッセージが心に届きました。
私の手では裂けなかった幕を、神が上から裂いてくださった。
実感がなくても、従えないもどかしさの中にいても、主はすでに私を知っていてくださる。
その平安を歌にしました。
語彙集
第一部 ヘブライ語
| 原語 | 発音 | 意味 |
| יָדַע | ヤーダ | 知る(関わりや経験をふくむ広い「知る」) |
| יָדַעְתִּי | ヤダーティ | わたしは知った(3章2節の形) |
| יָעַד | ヤーアド | 定める(語根)→時と場所を決めて会う |
| נוֹעֲדוּ | ノアドゥー | (ふたりが)会う約束をした(3章3節の形) |
| מוֹעֵד | モエード | 定められた時・会う時、祭り |
| אֹהֶל מוֹעֵד | オヘル・モエード | 会見の幕屋 |
| └ אֹהֶל | オヘル | 天幕、テント |
| └ מוֹעֵד | モエード | 定められた時・会う所 |
| נָזִיר | ナーズィール | ナジルびと(神にささげられた者) |
| נָצַל | ナツァル | 救い出す、取り返す |
| יַצִּיל | ヤツィール | (羊飼いが)救い出す・取り返す(3章12節の形) |
| יִנָּצְלוּ | イッナツェルー | (彼らは)救われる(3章12節の形) |
第二部 ギリシャ語
| 原語 | 発音 | 意味 |
| παράκλητος | パラクレートス | 助け主、そばで弁護してくれる人 |
| ἱλασμός | ヒラスモス | あがないの供え物 |
| γινώσκω | ギノースコー | 知る(交わりの中で知る) |
| ἐγνώκαμεν | エグノーカメン | わたしたちは知っている(完了形・2章3節) |
| Χριστός | クリストス | キリスト、油を注がれた方 |
| ἀντίχριστος | アンティクリストス | 反キリスト |
| └ ἀντί | アンティ | 〜に代わって、〜に逆らって |
| └ Χριστός | クリストス | 油を注がれた方 |
| χρῖσμα | クリスマ | 注がれた油 |
| μένω | メノー | とどまる |
第三部 ヘブライ語
| 原語 | 発音 | 意味 |
| הָלַךְ | ハーラフ | 歩く |
| הֲלָכָה | ハラハー | 神の教えに従って歩むための生き方の決まり |
| אֹהֶל מוֹעֵד | オヘル・モエード | 会見の幕屋 |
| └ אֹהֶל | オヘル | 天幕、テント |
| └ מוֹעֵד | モエード | 定められた時・会う所 |
第三部 ギリシャ語
| 原語 | 発音 | 意味 |
| περιπατέω | ペリパテオー | 歩く、生きる・生き方をする |
| └ περί | ペリ | まわりを |
| └ πατέω | パテオー | 踏む |
参考:聖書ソフトなど
聖書引用について
本記事では『口語訳聖書』©1954,1955,1975,1984,2002 日本聖書協会を使用しています。1954年・1955年の本文を基本とし、改訂箇所は原語からの拙訳、または章節のみを記載しています。拙訳箇所には「拙訳」と明記しています。


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