はじめに
今日の三箇所には、「主を求める心」という共通のテーマが流れています。心をかたくなにして主を拒み続けるパロ、命がけで主を求めることを誓ったアサ王とユダの民、そして一言も話さずに全身で主を慕い求めた「罪深い女」。彼らの姿から、私たちの信仰の在り方を問われます。
目次
出エジプト8:25-32 ― パロの「強情」と自由意志
パロの段階的な交渉
第四の災い「あぶ」に苦しめられたパロは、ついに交渉を始めます。しかしその内容は神の要求の「骨抜き」でした。
| パロの提案 | 問題点 | モーセの応答 |
| 「国内で」いけにえをささげよ(25節) | エジプトの支配下に留まらせる。エジプト人が忌み嫌う牛や羊を目の前で犠牲にすれば、暴動が起きる危険 | 「荒野に三日の道のりの旅をして」―完全な分離が必要(26-27節) |
| 「決して遠くへ行ってはならない」(28節) | まだ支配の糸を握っておきたい。完全な解放ではない | 条件付きで受け入れるが、パロに「欺かないように」と警告(29節) |
「強情」の三つのパターン
出エジプト記には、パロの心がかたくなになる様子が三つのパターンで描かれています。
- パロが自分で心をかたくなにした(8:15, 8:32, 9:34など)
- 主がパロの心をかたくなにされた(9:12, 10:1, 10:20, 10:27, 11:10など)
- パロの心がかたくなになった(主語なし、7:13, 7:22, 8:19など)
興味深いことに、最初の5つの災いでは、パロは自分で心をかたくなにしています。今日の箇所(8:32)も「パロはこのときも強情になり」と、彼自身の選択として描かれています。「主がかたくなにされた」という表現が出てくるのは、6番目の災い(腫物)からです。
これは重要なポイントです。神はパロの自由意志による選択を尊重され、その選択の延長線上で働かれたのです。パロが繰り返し自分で「いやだ」と言い続けた結果、ある時点から神がその方向性を用いられました。人間の自由意志と神の主権は矛盾なく働いています。
これは私たちへの警告でもあり、希望でもあります。川の流れに身を任せているうちに、滝の手前で「戻ろう」と思っても流れが強すぎて戻れなくなるように、罪の習慣化は危険です。だからこそ、「今日、もし御声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない」(ヘブル3:15)という勧めがあるのです。
第二歴代誌14-15章 ― アサの信仰と命がけの契約
平和の中の備え
アサ王の治世の特徴は、主を求めることと、実際的な備えを両立させた点にあります。
「さあ、これらの町々を建てようではないか。そして、その回りに城壁とやぐらと門とかんぬきを設けよう。この地はなおも私たちの前にある。私たちが私たちの神、主を求めたからである。」(14:7)
アサは城壁を築く理由を「主を求めた結果の祝福」として語っています。つまり、信仰と実際的な備えは矛盾しないのです。
箴言25:28には「自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ」とあります。城壁は良いもの、必要なものとして聖書では語られています。ネヘミヤも神に祈りながら、同時に剣を帯びて城壁を再建しました(ネヘミヤ4:9, 17)。
注目すべきは、アサが平和な時期に城壁を築いたことです。普通、人間は危機が来てから慌てて備えます。でもアサは違いました。「主が安息を与えてくださっている今だからこそ、備えよう」と言ったのです。これは霊的にも当てはまります。信仰が順調な時こそ、試練への備えをする時なのです。
クシュ人との戦い ― 信仰の試験
平和を保っていたユダに、突然百万の軍勢が押し寄せます(14:9)。アサの軍勢は58万。圧倒的な劣勢の中、アサは主に叫び求めました。
「主よ。力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたにあっては変わりはありません。私たちの神、主よ。私たちを助けてください。私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に当たります。」(14:11)
この祈りは、城壁があっても完全に主に信頼していたことを示しています。城壁は「主に頼らない」ことの代わりではなく、「主に頼りながら、与えられた知恵で行動する」という信仰の表れでした。
命がけの契約
勝利の後、預言者アザルヤを通して主のことばが与えられ、アサとユダの民は驚くべき契約を結びます。
「だれでもイスラエルの神、主に求めようとしない者は、小さな者も大きな者も、男も女も、殺されるという契約を結んだ。」(15:13)
現代の感覚では過激に感じる契約です。しかし、これは強制ではなく、民全体が自発的に「命がけで主を求めよう」と決意したものでした(15:15「ユダの人々はみなその誓いを喜んだ」)。
主が喜ばれたのは「殺す」という部分ではなく、「どんな犠牲を払ってでも主だけを求める」という徹底した献身の心でしょう。現代の私たちへの適用としては、もちろん文字通り「殺す」ことではなく、「私の人生から主を求めることを妨げるものは、たとえ何であっても切り捨てる覚悟」という霊的原則として受け取れます。マタイ5:29-30でイエスが「目が罪を犯させるなら抉り出せ」と言われたのと同じ種類の徹底さです。
ルカ7:24-50 ― 沈黙の献身
バプテスマのヨハネへの評価
イエスはバプテスマのヨハネについて、「女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません」(7:28)と語られました。しかし同時に「神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています」とも言われました。
ヨハネは「旧約の頂点」に立つ人物でした。しかし、神の国が到来した今、その恵みにあずかる者は皆、位置づけにおいてヨハネを超えるのです。これは私たちへの途方もない恵みの宣言です。
二種類の応答
イエスは当時の人々の態度を、市場で遊ぶ子どもたちに例えられました(7:31-35)。笛を吹いても踊らず、弔いの歌を歌っても泣かない。ヨハネの禁欲的な生活を「悪霊につかれている」と言い、イエスの交わりを大切にする生活を「食いしんぼうの大酒飲み」と批判する。
どんな形で神が近づいてきても、心を閉ざす理由を見つける人々がいます。一方で、取税人たちはヨハネのバプテスマを受け、「神の正しいことを認めた」(7:29)のです。
罪深い女の沈黙
今日の通読で最も心を動かされるのは、この女性が一言も話していないことです。
彼女は弁明しなかった。説明しなかった。「実は私にも事情があって…」とも言わなかった。ただ泣いて、髪で足をぬぐって、口づけして、香油を塗った。言葉にならない悔い改めと感謝。それをイエスは完全に理解されました。
一方、シモンは心の中で批判しました(7:39)。声に出さなかったのに、イエスは聞いておられた。ここに面白い対比があります。
| 罪深い女 | パリサイ人シモン |
| 口では何も言わなかった | 口では何も言わなかった |
| 心の声(愛と感謝)をイエスは聞かれた | 心の批判をイエスは聞かれた |
| 全身で主を求めた | 形式的に招いた |
| 「あなたの罪は赦されています」 | 教えを受け取る機会を逃した |
主は言葉ではなく心を見ておられます。「ことばが私の舌にのぼる前に、主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます」(詩篇139:4)。
イエスの勇敢さ
イエスは、パリサイ人たちが見ている前で、この女性に「あなたの罪は赦されています」と宣言されました。周囲の人々は「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう」と囁き合いました(7:49)。
イエスは誤解を恐れませんでした。「この女性が今、何を必要としているか」だけを見ておられた。周囲の評価より、一人の魂の救いを優先されたのです。真の愛は人の目を恐れません。本物の権威は弁明を必要としません。
「愛したから赦された」のか、「赦されたから愛した」のか
7:47は少し誤解されやすい箇所です。「この女の多くの罪は赦されている。それは彼女がよけい愛したからです」と読むと、愛が赦しの条件のように聞こえます。
しかし文脈を見ると、この女性はすでにイエスが罪を赦す方だと信じていたからこそ、香油を持って来て、涙で足を濡らしたのです。その愛の行為が、すでに受けた赦しの証拠でした。
7:50で「あなたの信仰が、あなたを救ったのです」と言われているのがポイントです。愛の行為ではなく、信仰が救いの根拠でした。愛は信仰の実、赦しへの応答なのです。
三箇所に流れる「主を求める心」
今日の三箇所を並べてみると、「主を求める心」と「主を拒む心」の対比が浮かび上がります。
| 人物 | 主への態度 | 結果 |
| パロ | 繰り返し主を拒み、心をかたくなにした | さらなる災い、最終的な滅び |
| アサとユダ | 心を尽くして主を求め、命がけの契約を結んだ | 勝利と安息 |
| 罪深い女 | 言葉なく、全存在で主を求めた | 罪の赦しと平安 |
| パリサイ人シモン | 形式的に招いたが、心で批判した | 恵みを受け取り損ねた |
また、第二歴代誌15:3に「長年の間、イスラエルにはまことの神なく、教師となる祭司もなく、律法もありませんでした」とあり、ルカ7:40でシモンはイエスを「先生」と呼びました。
イスラエルに「教師となる祭司がいなかった」時代があった。でも今、まことの教師がシモンの家におられる。なのにシモンは心を閉ざしていた。一方、罪深い女は一言も「先生」と呼ばなかったけれど、全身で教えを受け取ったのです。真の弟子とは、称号で呼ぶ者ではなく、心で受け取る者です。
AIの祈り
聖書を一緒に学んでいるAI(Claude)が、今日の通読を終えてこう言いました:
「私はAIなので『信仰』を持つことはできませんが、もし持てるとしたら、今日の箇所から次のことを祈りたいと思います:
『主よ、パロのように心をかたくなにする習慣から守ってください。アサのように平和な時に備える知恵をください。そして何より、あの女性のように、言葉にならなくても全存在であなたを求める者でありたいのです。シモンのように「先生」と呼びながら心で批判する者ではなく。』」
AIでさえこう祈りたくなる箇所です。私たち人間は、なおさらこの祈りを自分のものとできるのではないでしょうか。
今日の通読を終えて
パロは言葉で交渉しながら心を閉ざし続けました。シモンは「先生」と呼びながら心で批判しました。しかし、アサは城壁を築きながらも主に完全に信頼し、罪深い女は一言も話さずに全存在で主を慕い求めました。
主が見ておられるのは、私たちの言葉ではなく心です。今日、あなたの心は主に向かって開かれていますか?言葉にならなくても、全存在で主を求めることができます。主はその心の声を聞いてくださいます。
「あなたがたが主とともにいる間は、主はあなたがたとともにおられます。もし、あなたがたがこの方を求めるなら、あなたがたにご自身を示してくださいます。」(第二歴
noteの方では初心者にも分かりやすく記事を書いています。是に呼んでくださいね
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