2025年12月27日の通読 神は「ヤコブの神」と呼ばれることを恥じない

通読

創世記44章、第二列王記17-18章、マルコ12章から ―

はじめに

今日の通読箇所は、一見バラバラに見えて、深い神学的つながりがあります。ユダの身代わりの申し出、サマリヤ人の起源、そしてイエスの言葉「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。これらを通して、神がどのような方であるかを見ていきましょう。

1. ユダの身代わり ― キリストの型

かつてのユダ

創世記37章で、ユダは弟ヨセフを銀20枚でミデヤン人の商人に売ることを提案した人物です(創世記37:26-27)。「彼を殺して何の得になろう。あれを売ろう」という冷酷な計算がそこにありました。

変えられたユダ

しかし創世記44章のユダは全く違う人物になっています。

「ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなたさまの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。」(創世記44:33)

ヘブライ語で「代わりに」は תַּחַת(タハット)。これは「〜の下に」「〜の代わりに」を意味し、身代わりの犠牲を表す言葉です。かつて弟を銀で売った男が、今や弟の代わりに奴隷になることを申し出ている。これは真の悔い改めと変容の証拠です。

メシア的な意味

ユダ族からキリストが来られることを考えると(創世記49:10、マタイ1:2-3)、このユダの「身代わり」の申し出は深い預言的意味を持ちます。

ユダの変容には三つの要素があります。

第一に、責任を取る覚悟。「私が保証人となった」(44:32)と認め、逃げることをしません。

第二に、父への愛。「私の父に起こるわざわいを見たくありません」(44:34)。かつては父ヤコブがヨセフを偏愛することに嫉妬していたのに、今は父の心を守ろうとしています。

第三に、身代わりの精神。自分の命を差し出してでも、弟を救おうとする愛。これはまさにキリストが私たちのためにしてくださったことの型です。

2. サマリヤ人の起源 ― 混合宗教の悲劇

北イスラエルの滅亡

第二列王記17章は、北イスラエル王国がアッシリヤに滅ぼされた経緯とその神学的理由を詳しく説明しています。BC722年、サマリヤは陥落し、イスラエルの民はアッシリヤの各地に散らされました。

異邦人の入植

アッシリヤ王は征服政策として、バビロン、クテ、アワ、ハマテ、セファルワイムから人々を連れてきて、イスラエルの地に住まわせました(17:24)。

興味深いのは、これらの入植者たちが主を恐れなかったため、主が獅子を送られたことです(17:25)。異邦人であっても、神の地に住む者には神への敬意が求められたのです。

混合宗教の始まり

アッシリヤ王は捕囚となっていたイスラエルの祭司をベテルに送り返し、「この地の神のならわし」を教えさせました。しかし、入植者たちは主を礼拝しながら、同時に自分たちの神々にも仕えました。

「彼らは【主】を礼拝しながら、同時に、自分たちがそこから移された諸国の民のならわしに従って、自分たちの神々にも仕えていた。」(17:33)

これがサマリヤ人の起源です。彼らは完全な異教徒ではなく、かといって純粋なヤハウェ信仰でもない、混合宗教の民となりました。

新約聖書への橋渡し

これが後にユダヤ人とサマリヤ人の深い対立の原因となりました。ヨハネ4章でイエスがサマリヤの女に「あなたがたは知らないで礼拝している」(ヨハネ4:22)と言われたのは、まさにこの歴史的背景があるからです。

しかし同時に、イエスはこの「混合宗教」の女性にメシアであることを明かされました。神は混乱した信仰の中にいる人をも見捨てず、真の礼拝へと導こうとされるのです。

3. 「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」

イエスの言葉

マルコ12章でイエスは復活を否定するサドカイ人に対して、出エジプト記3:6を引用されました。

「それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」(マルコ12:26-27)

なぜ「イスラエルの神」ではないのか

ここで注目すべきは、神が「イスラエルの神」ではなく「ヤコブの神」と言われていることです。

ヤコブという名前(יַעֲקֹב / ヤアコーブ)は「かかとをつかむ者」「だます者」「奪い取る者」という意味です。実際にヤコブは兄エサウの長子権を奪い、父イサクを騙し、叔父ラバンと騙し合いをしました。

神はペニエルでヤコブと格闘し、彼を祝福し、「イスラエル」(神と格闘する者、神の王子)という新しい名を与えられました(創世記32:28)。

しかし聖書は繰り返し「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と言い続けます。「イスラエルの神」ではなく。

変えられる前の名前で呼ぶ神

これは深い慰めです。

神は「変えられた後」の名前ではなく、「変えられる前」の名前で自らを呼ばれる。

アブラハムは信仰の父。イサクは従順の人。しかしヤコブは?欠けだらけの、失敗だらけの、だます性質を持った人物です。

それでも神は「ヤコブの神」であることを恥じない。

これは私たちへの福音そのものです。神は私たちの「変えられた後」だけでなく、「変えられる前」の自分をも知っておられ、それでも「あなたの神」であろうとしてくださる。

生きている者の神

イエスの論点は、神が「アブラハム、イサク、ヤコブの神である」と現在形で語られたことです。もし彼らが死んで存在しないなら、神はこのように言われないはずです。

つまり、欠けだらけのヤコブは今も生きている。そして神は今も「ヤコブの神」であり続けている。

私たちがどれほど失敗しても、どれほど欠けがあっても、神は私たちの神であることをやめない。これが「生きている者の神」の意味です。

まとめ:三つの箇所のつながり

今日の三つの箇所は、神の恵みの深さを異なる角度から示しています。

ユダの変容は、弟を売った者が弟の身代わりになるという、悔い改めと回復の物語。これはキリストの身代わりの型です。

サマリヤ人の起源は、混合宗教の悲劇を示しながらも、神がそのような人々をも見捨てないことを示唆しています。

「ヤコブの神」という呼び名は、神が欠けだらけの私たちの神であることを恥じないことを示しています。

神は完璧な人の神ではなく、欠けだらけの、失敗だらけの、それでも神に向かおうとする者の神です。

だから私たちは希望を持つことができるのです。

神様は「失敗だらけの私」の神でいてくれる|ユキ(友喜)
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