神は見ておられる、共にいてくださる

通読

創世記31:25-32:3/第二サムエル18-19章/マタイ28章

はじめに

今日の通読箇所は、創世記31:25-32:3、第二サムエル18-19章、マタイ28章です。

一見、全く異なる時代、異なる状況を描いた三つの箇所。しかし読み進めるうちに、一つの深いテーマが浮かび上がってきます。

「神は見ておられる。そして共にいてくださる。」

ヤコブとラバンの対立と和解、ダビデの悲しみと王としての責任、そして復活の朝の主イエスの約束。これらすべてを貫くのは、人間の目には隠れていても、神の目には何も隠れていないという真実です。

第一部:創世記31:25-32:3 ― 証拠の石塚と神の陣営

ラバンの追跡とヤコブの弁明

ヤコブがラバンのもとを密かに去ってから三日後、ラバンは追跡を開始しました。七日間の旅を経て、ギルアデの山地でヤコブに追いつきます。

ラバンの非難は激しいものでした。

「何ということをしたのか。私にないしょで私の娘たちを剣で捕らえたとりこのように引いて行くとは。」(31:26)

しかしラバンは、その前夜に神から警告を受けていました。

「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ」(31:29)

ここに神の介入があります。人間の怒りを制限し、和解への道を開くのは、神ご自身の働きなのです。

ヤコブの二十年間

ヤコブの反論は、二十年間の労苦を振り返るものでした。

「私はこの二十年間、あなたの家で過ごしました。十四年間はあなたのふたりの娘たちのために、六年間はあなたの群れのために、あなたに仕えてきました。それなのに、あなたは幾度も私の報酬を変えたのです。」(31:41)

昼は暑さに、夜は寒さに悩まされ、眠ることもできなかった日々。野獣に裂かれた家畜の損失は自分が負い、盗まれたものの責任も負わされた。

しかしヤコブは、この苦難の中に神の守りを見ていました。

「もし、私の父の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方が、私についておられなかったなら、あなたはきっと何も持たせずに私を去らせたことでしょう。神は私の悩みとこの手の苦労とを顧みられて、昨夜さばきをなさったのです。」(31:42)

「イサクの恐れる方」(パハド・イツハク)

ここでヤコブが神を「イサクの恐れる方」(פַּחַד יִצְחָק/パハド・イツハク)と呼んでいることに注目しましょう。

פַּחַד(パハド) は「恐れ、畏怖」を意味しますが、一部の学者は「守護者、避け所」という意味もあると指摘しています。

イサクは、アブラハムのような劇的な試練もなく、ヤコブのような波乱万丈の人生でもありませんでした。静かに井戸を掘り、争いを避け、淡々と生きた人物です。

しかし、そのイサクが「恐れた方」、イサクの「避け所」となった方。目立たなくても、淡々と神を畏れて歩む人生を、神は見ておられるのです。

ガルエデとエガル・サハドタ ― 二つの言語、一つの意味

契約を結ぶにあたり、ヤコブは石を取って柱とし、一族と共に石塚を作りました。

「ラバンはそれをエガル・サハドタと名づけたが、ヤコブはこれをガルエデと名づけた。」(31:47)

興味深いことに、同じ意味の言葉を二人は異なる言語で呼んでいます。

人物名称言語意味ラバンエガル・サハドタ(יְגַר שָׂהֲדוּתָא)アラム語証拠の石塚ヤコブガルエデ(גַּלְעֵד)ヘブライ語証拠の石塚
  • גַּל(ガル)=石塚
  • עֵד(エド)=証拠、証人

ラバンはハラン(メソポタミア)に住んでいたため、アラム語を話していました。この言語の違いは、ヤコブがもはやラバンの世界の住人ではなく、約束の地へ向かうヘブライ人であることを示しています。

ミツパ ― 主が見張りをされる

この場所にはもう一つの名前が付けられました。

「またそれはミツパとも呼ばれた。彼がこう言ったからである。『われわれが互いに目が届かない所にいるとき、主が私とあなたとの間の見張りをされるように。』」(31:49)

ミツパ(מִצְפָּה)צָפָה(ツァファー)「見張る、監視する」という動詞から来ています。

この言葉は、現代では「主があなたと私を見守ってくださるように」という祝福の言葉として使われることがありますが、原文の文脈は少し異なります。

ラバンの意図は、「私たちが互いに見えない所にいても、神が監視しているから、契約を破るなよ」 という警告的なニュアンスでした。

しかし、この言葉は逆説的に深い真理を語っています。人間の目が届かない所でも、神の目は届いている。それは監視ではなく、守りでもあるのです。

マハナイム ― 神の陣営

ラバンと別れた後、ヤコブが旅を続けていると、驚くべきことが起こりました。

「神の使いたちが彼に現れた。ヤコブは彼らを見たとき、『ここは神の陣営だ』と言って、その所の名をマハナイムと呼んだ。」(32:1-2)

マハナイム(מַחֲנָיִם)מַחֲנֶה(マハネー)「陣営」の 双数形 です。つまり「二つの陣営」という意味。

ヤコブは、自分の陣営と神の陣営、二つの陣営が共にあることを悟りました。

この直後、ヤコブは兄エサウが400人の部下を連れて来るという知らせを受けます(32:6)。20年前に殺すと誓った兄との再会。ヤコブの不安は計り知れないものだったでしょう。

しかし神は、その恐れに直面する前に、天の軍勢を見せてくださいました。

「あなたは一人ではない。私の陣営があなたと共にある。」

信仰生活において、神の守りを見た直後に現実の脅威に直面することがあります。礼拝で恵みを受けた翌日に困難が来る。神の臨在を感じた後に不安が押し寄せる。

でもヤコブは、神の陣営を「見た」から、エサウに向かって進むことができました。その記憶が、次の一歩を踏み出す力になるのです。


第二部:第二サムエル18-19章 ― 父の悲しみ、王の責任

エフライムの森の戦い

ダビデの息子アブシャロムが反乱を起こし、ダビデはエルサレムを追われました。ヨルダン川の東、マハナイムに逃れたダビデは、そこで軍を再編成します。

興味深いことに、ダビデが逃れた場所もまたマハナイムでした。かつてヤコブが神の陣営を見た、あの場所です。

ダビデは自ら戦いに出ようとしましたが、民に止められます。

「あなたは私たちの一万人に当たります。今、あなたは町にいて私たちを助けてくださるほうが良いのです。」(18:3)

そしてダビデは、将軍たちに一つの命令を下しました。

「私に免じて、若者アブシャロムをゆるやかに扱ってくれ。」(18:5)

父としてのダビデの心が表れています。反逆者であっても、息子への愛を捨てることができなかったのです。

アブシャロムの最期

戦いはダビデ軍の勝利に終わりましたが、その過程で悲劇が起こりました。

アブシャロムは騾馬に乗って逃げる途中、大きな樫の木の枝に頭が引っ掛かり、宙づりになってしまいます。

一人の兵士がこれを見つけ、ヨアブに報告しましたが、自分の手で打つことを拒否しました。

「たとい、私の手に銀千枚をいただいても、王のお子さまに手は下せません。王は私たちの聞いているところで、あなたとアビシャイとイタイとに、『若者アブシャロムに手を出すな』と言って、お命じになっているからです。」(18:12)

しかしヨアブは、王の命令を無視してアブシャロムを殺しました。

「こうしておまえとぐずぐずしてはおられない」と言って、手に三本の槍を取り、まだ樫の木の真ん中に引っ掛かったまま生きていたアブシャロムの心臓を突き通した。(18:14)

アブシャロムの記念碑 ― 人は覚えられたい

聖書は、アブシャロムが生前に建てていた記念碑について記録しています。

「アブシャロムは存命中、王の谷に自分のために一本の柱を立てていた。『私の名を覚えてくれる息子が私にはいないから』と考えていたからである。」(18:18)

アブシャロムには息子が三人いたと記録されています(14:27)。しかし、おそらく彼らは早くに亡くなったのでしょう。自分の名を残してくれる者がいない。その孤独が、彼を記念碑建設に駆り立てました。

人は誰かに覚えられたい、意識されたいと願います。

しかし、もしアブシャロムに何でも話せる相手がいたなら、あるいは神に何でも話せる間柄だったなら、彼の孤独は和らいだかもしれません。

神は、聞くに耐えないことを聞いても、簡単に善悪を判断するのではなく、絶対的な判断をしてくださいます。神にお任せできる。私的な願いも。

神様は生きておられる。愛を持って生きておられる。 これを知らなかったアブシャロムは残念でなりません。

二人の使者 ― アヒマアツとクシュ人

勝利の知らせをダビデに届けたのは二人の使者でした。

アヒマアツは祭司ツァドクの息子で、ダビデに忠実な人物でした。彼は真っ先に走って行きたいと願いましたが、ヨアブに止められます。

「きょう、あなたは知らせるのではない。ほかの日に知らせなさい。きょうは、知らせないがよい。王子が死んだのだから。」(18:20)

代わりにヨアブはクシュ人(エチオピア人)を遣わしました。彼はおそらく外国人の傭兵で、ダビデの命令を直接聞いていなかったのでしょう。

アヒマアツは結局、クシュ人の後を追って走り、先に着きました。しかし、王に「若者アブシャロムは無事か」と聞かれると、こう答えました。

「ヨアブが王の家来のこのしもべを遣わすとき、私は、何か大騒ぎの起こるのを見ましたが、何があったのか知りません。」(18:29)

アヒマアツは知っていたはずです。しかし、愛する王に息子の死を告げる勇気がなかった。

一方、クシュ人は率直に告げました。

「王さまの敵、あなたに立ち向かって害を加えようとする者はすべて、あの若者のようになりますように。」(18:32)

皮肉なことに、ダビデの命令を知らなかったからこそ、正直に伝えることができたのです。

ダビデの嘆きとヨアブの叱責

アブシャロムの死を知ったダビデの嘆きは、聖書の中でも最も痛切な場面の一つです。

「わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。」(18:33)

王は顔をおおい、大声で泣き続けました。その結果、勝利の日が民の嘆きの日となってしまいました。

ヨアブはダビデに厳しく言いました。

「あなたは、あなたを憎む者を愛し、あなたを愛する者を憎まれるからです。」(19:6)

そして警告します。

「あなたが外においでにならなければ、今夜、だれひとりあなたのそばに、とどまらないでしょう。」(19:7)

門に座る王

ダビデは立ち上がり、門のところに座りました(19:8)。

古代イスラエルにおいて「門に座る」ことは、単に座ることではありませんでした。それは王として、裁判官として、民の前に出ることを意味していました。

息子を失った悲しみの中にいても、王としての責任がある。自分の感情と、与えられた役割。その間で、ダビデは立ち上がったのです。

倒れても、悲しんでも、それでも立ち上がって門に座る。これがダビデの姿であり、私たちが見習うべき姿勢かもしれません。

シムイの変わり身

ダビデがヨルダン川を渡って帰還する時、かつてダビデを呪ったシムイが真っ先に迎えに来ました。

「わが君。どうか私の咎を罰しないでください。王さまが、エルサレムから出て行かれた日に、このしもべが犯した咎を、思い出さないでください。」(19:19)

シムイは忠臣ではありませんでした。情勢が変わった時の切り替わりの早さ。だから鼻で息をする者(人間)に頼ることはできないのです(イザヤ2:22参照)。

アビシャイは「シムイを殺すべきだ」と進言しましたが、ダビデは赦しました。

「きょう、イスラエルのうちで、人が殺されてよいだろうか。私が、きょう、イスラエルの王であることを、私が知らないとでもいうのか。」(19:22)

しかし、ダビデは完全に忘れたわけではありませんでした。後に、死の床でソロモンにシムイへの対応を遺言しています(Ⅰ列王記2:8-9)。赦しても、心のどこかに残っていた。これもまた人間の正直な姿です。

メフィボシェテの真実

サウルの孫メフィボシェテも、王を迎えに来ました。

「彼は、王が出て行った日から無事に帰って来た日まで、自分の足の手入れもせず、ひげもそらず、着物も洗っていなかった。」(19:24)

メフィボシェテは、しもべツィバに騙されていました。ツィバはダビデに「メフィボシェテはエルサレムにとどまって王位を狙っている」と中傷していたのです(16:3)。

メフィボシェテは弁明しました。

「私の家来が、私を欺いたのです。このしもべは『私のろばに鞍をつけ、それに乗って、王といっしょに行こう』と思ったのです。しもべは足のなえた者ですから。」(19:26)

しかしダビデは、真実を完全に見極めることができず、「あなたとツィバとで、地所を分けなければならない」と裁定しました(19:29)。

メフィボシェテの答えは驚くべきものでした。

「王さまが無事に王宮に帰られて後なら、彼が全部でも取ってよいのです。」(19:30)

全部取られたら、これからの生活はどうするつもりだったのでしょうか。しかし、メフィボシェテは物質的なものよりも、ダビデとの関係を大切にしていました。ずるがしこいところがない、真実な人でした。

ダビデは誤解したままでした。メフィボシェテは冤罪を晴らすことができませんでした。

しかし、神は見ておられました。 真実は聖書に記録されました。私たちはダビデが誤解していることを知っています。人に理解されなくても、神は真実を知っておられるのです。

バルジライの謙遜とキムハム

ギルアデ人バルジライは、ダビデがマハナイムにいる間、王を養っていた富んだ人物でした。

ダビデは感謝を込めて、バルジライをエルサレムに招きました。

「私といっしょに渡って行ってください。エルサレムで私のもとであなたを養いたいのです。」(19:33)

しかし80歳のバルジライは辞退しました。

「私はもう善悪をわきまえることができません。しもべは食べる物も飲む物も味わうことができません。」(19:35)

自分の限界を正直に認めたバルジライは、代わりにキムハムを送り出しました。

「しかしここに、あなたのしもべキムハムがおります。彼が、王さまといっしょに渡ってまいります。」(19:37)

キムハムはバルジライの息子と考えられています。直接は書かれていませんが、エレミヤ41:17に「キムハムの宿営地」という地名が出てきます。ダビデはバルジライへの感謝として、キムハムに土地を与えたと推測されます。

自分にできないことを認め、次の世代に託す。 これは弱さではなく、成熟です。

ユダとイスラエルの争い

この章の最後は、ユダ族とイスラエルの他の部族との争いで終わります。

「われわれは、王に十の分け前を持っている。だからダビデにも、あなたがたよりも多くを持っているはずだ。それなのに、なぜ、われわれをないがしろにするのか。」(19:43)

エフライム族を中心とする北の部族は、士師記の時代からこのような傾向がありました。ギデオンの時も、ミデヤン人との戦いに遅れて参加し、「なぜ私たちを呼ばなかったのか」と怒っています(士師記8:1)。

この争いは、後のイスラエル王国分裂の伏線となっています。王からの功績をより多く得たいという人間の欲望が、神の民を引き裂いていくのです。


第三部:マタイ28章 ― 復活の朝と永遠の約束

空の墓

安息日が終わり、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤとほかのマリヤが墓を見に来ました。

すると大きな地震が起こり、主の使いが天から降りてきて、墓を塞いでいた石をわきへ転がしました。

「その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」(28:3-4)

死を守るために置かれた番兵が「死人のように」なり、死んでいたはずの方が生きておられる。なんという逆転でしょうか。

「恐れてはいけません」

御使いは女たちに言いました。

恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。」(28:5-6)

「前から言っておられたように」—イエスは何度もご自分の死と復活を予告しておられました。しかし弟子たちには理解できなかった。今、その言葉が成就したのです。

カイレテ ― 喜べ

女たちが急いで弟子たちに知らせに行く途中、復活のイエスが現れました。

「すると、イエスが彼女たちに出会って、『おはよう』と言われた。」(28:9)

新改訳では「おはよう」と訳されているこの言葉、原語は χαίρετε(カイレテ) です。

これは日常的な挨拶として使われていましたが、本来の意味は「喜びなさい」「喜べ」です。

死を打ち破って復活された主が、恐れと混乱の中にいた女たちに最初に言われた言葉が「喜べ」でした。

難しい神学的説明ではなく、ただ「喜べ」と。

そして彼女たちは「御足を抱いて」イエスを拝みました。自信がない時、私たちは何か大きなことをしなければと思います。でもイエスは「御足を抱く」ことを受け入れてくださいました。ただそばにいること、しがみつくこと。それでいい。

祭司長たちの嘘

番兵たちは起こったことを祭司長たちに報告しました。御使いを見て「死人のようになった」ほどの体験でした。

しかし祭司長たちの反応は驚くべきものでした。

「そこで、祭司長たちは民の長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、こう言った。『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った』と言うのだ。」(28:12-13)

神殿で仕える祭司でありながら、神の御業を目の前にしても認めようとしない。御使いの証言を聞いても、金で口封じをする。

神がすべてを知っておられることを、彼らは信じていなかったのでしょうか。

これは知識の問題ではなく、心の問題です。認めたら自分たちの立場が崩れる。だから真実を見ても見ないふりをする。宗教的な立場にいても、心が神に向いていなければこうなってしまうのです。

「それで、この話が広くユダヤ人の間に広まって今日に及んでいる。」(28:15)

この嘘が、多くのユダヤ人がイエスを信じられない一因となりました。嘘の影響は、世代を超えて続くのです。

大宣教命令

十一人の弟子たちは、ガリラヤに行き、イエスの指示された山に登りました。

「そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。」(28:17)

復活のイエスを目の前にしても、疑う者がいた。これは驚くべきことですが、同時に慰めでもあります。完璧な信仰でなくても、イエスはご自分の働きに招いてくださる。

「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(28:18-19)

そして、最後の約束。

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(28:20)

これがマタイの福音書の締めくくりです。

「いつも、あなたがたとともにいます」—これは条件付きの約束ではありません。私たちが完璧な時だけでなく、疑う時も、失敗する時も、自信がない時も、主は共にいてくださる。

世の終わりまで。そして世の終わりの後、新天新地でも。


まとめ:神は見ておられる、共にいてくださる

今日の三つの箇所を貫くテーマは、「神は見ておられる、共にいてくださる」ということでした。

ミツパとマハナイム

創世記で、ラバンは「主が私とあなたとの間の見張りをされるように」と言い、ヤコブは神の使いたちを見て「ここは神の陣営だ」と言いました。

神は見張っておられる。そして神の陣営が私たちと共にある。

ダビデとメフィボシェテ

第二サムエルで、ダビデは息子の死を嘆きながらも王として立ち上がり、メフィボシェテは誤解されたままでも真実を貫きました。

人に理解されなくても、神は真実を知っておられる。

復活のイエス

マタイ28章で、復活のイエスは「喜べ」と言われ、「世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」と約束されました。

イエスは共にいてくださる。いつも。


私たちは時に自信を失います。自分の能力に、自分の信仰に、自信が持てなくなることがあります。

しかし、信仰とは自分への信頼ではなく、神への信頼です。

ダビデも、ヤコブも、自分に自信があったわけではありません。むしろ弱さを知っていたからこそ、神にしがみつきました。

一歩ずつでいい。今日の通読ができた。それが今日の一歩。明日はまた明日の一歩がある。

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

この約束は、自信がある時もない時も、変わりません。


※今日の通読箇所:創世記31:25-32:3、第二サムエル18-19章、マタイ28章

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