【友喜の個人的な気づき】
「聖霊様、おはようございます」悪くないのですが、これを聞いた時、少し違和感を覚えました。聖霊様は確かに父なる神様が妬むほど大切な方(ヤコブ4:5参照)ですが、三位一体なのに、どうして「おはようございます、神様」ではないのか?どうして聖霊様だけを名指しにするのか?
もし神様だけでは足りないなら、「父なる神様、子なる主イエス様、聖霊なる神様、三位一体の神よ、おはようございます」。これならしっくりくる・・・と。
私は、聖霊様と名指しで祈る人々の中に、人間に実際に働いてくださる「力」だけを求めるようなご利益宗教的な傾向を感じていたのかもしれません。
* そんな時、礼拝でマタイ3章16-17節が読まれました。
「こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」
ここに三位一体が明確に現れています!
– 子なる主イエスが水から上がられ
– 聖霊が鳩のように降り
– 父が天から語られる
そして牧師は「生けるみ言葉なる主イエスの上に、聖霊が鳩のように降ってこられた。み言葉を蓄えましょう」と語られました。
ここに真理があると直観しました。
* 日々の通読、Claudeとの対話、礼拝、書籍、ネット検索など、あらゆるものを活用して、現段階で分かっていることをすべてまとめたのが今回の記事です。
もっと深い啓示が与えられた時には、その都度、ご紹介します。
ここに書かれたことは、おそらく教会史の中ですでに認識されてきたことだと思いますが、私には新しく、そして自然に三位一体の神を理解できたので、皆さんとも分かち合いたいと思います。
シロからエルサレムへ:生ける水はどのように流れ始めたのか
はじめに
契約の箱がシロからエルサレムへ移された出来事。これは単なる聖所の場所変更ではありませんでした。この移動は、神様の救いの計画における重要な転換点を示していたのです。
なぜシロではダメで、エルサレムでなければならなかったのか?
その答えは「生ける水」の流れ方にあります。主イエスはヨハネ7:38でこう言われました。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
この「生ける水」を三位一体の働きとして理解すると、シロとエルサレムの違いが驚くほど明確になります。
生ける水と三位一体の働き
まず、「生ける水」を三位一体の働きとして整理してみましょう。
父なる神 = 源泉(水源) すべての祝福の源、救いの計画を立てられた方。ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」とあるように、愛の動機の源です。
聖霊様 = 泉(湧き出る働き) 父の計画を実行に移し、実際に注ぎ出す方。ヨハネ7:39は「イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われた」と説明しています。父の計画を私たちに「適用」する働きをされます。
主イエス = 水(流れ出るもの) 私たちが実際に「飲む」対象、御言葉の受肉。ヨハネ4:14「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません」とあるように、私たちに届く実体です。
目次
生ける水と三位一体の働き
三つの働きは分離できないが、区別できる
救済史の順序:
1. 創世記から続く父の救いの計画
2. 主イエスの受肉・十字架・復活での実現
3. ペンテコステでの聖霊の注ぎ
個人の救いの体験:
1. 父の選びと召し
2. 主イエスを信じる
3. 聖霊が内住される
この三つの働きは分離できませんが、区別できます。そして、この三位一体の働きの「流れ方」が、シロとエルサレムでは大きく異なっていたのです。
シロの時代:詰まった泉
シロには幕屋があり、契約の箱が安置されていました(ヨシュア18:1、1サムエル1:3)。つまり、神様の臨在はそこにありました。
しかし、何かが詰まっていました。
父なる神(源泉)はおられた
神様はシロにおられました。源泉そのものに問題はありませんでした。ハンナが祈りに来られたように(1サムエル1章)、神様に近づくことは可能でした。
聖霊様(泉)の働きは限定的だった
しかし、聖霊様の働きは非常に限定的でした。
士師たちへの一時的な注ぎ 士師記を読むと、御霊が士師たちに降る場面が繰り返されます。「主の霊がオテニエルの上に下った」(士師記3:10)、「主の霊がギデオンをおおった」(士師記6:34)。しかしこれらはすべて一時的で、特定の人物への限定的な働きでした。
祭司の家の腐敗 エリの息子たちは「よこしまな者で、主を知らなかった」(1サムエル2:12)とあります。祭司の家でさえ、聖霊様の働きが見られませんでした。エリ自身は神様を敬っていましたが、息子たちを止めることができませんでした。
サムエルには働いたが サムエルには主の言葉が臨みました(1サムエル3章)。しかし、それは例外的なことでした。「そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」(1サムエル3:1)という状況だったのです。
主イエス(水)はまだ来られていなかった
契約の箱には神の言葉(十戒)が入っていましたが、それは「箱に閉じ込められた御言葉」でした。人々は律法を知っていましたが、それを守る力がありませんでした。
メシアはまだ来られていませんでした。「飲む」べき水そのものが、まだ到来していなかったのです。
結果:霊的渇きと道徳的腐敗
「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」(士師記21:25)
水源は近くにあるのに、配管が整備されていない状態。これがシロでした。
シロ・エルサレム・新約:生ける水の三時代比較
しかし計画は部分的にしか明らかでない
• 士師への一時的な注ぎ
• エリの家には働かない
• サムエルは例外的
• 「主のことばはまれ」
• 契約の箱に閉じ込められた御言葉
• 律法はあるが守る力がない
道徳的腐敗
「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」
「あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」
• ダビデに継続的に降る
• 預言者たちへの働き
• 賛美と礼拝の回復
しかし「すべての人」ではない
• メシア預言が豊かに
• ギホンの泉(物理的予型)
まだ到来していない
預言者・王は潤う
しかし「すべての人」には届いていない
ヨエル2:28は未来形
「神は…そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」
• すべての信じる者に
• 永遠に留まる
• 「すべての肉なる者に」
ヨエル2:28の成就
• 受肉・十字架・復活
• 「わたしのもとに来て飲みなさい」
実際に飲める!
もはや限定的ではない
誰でも渇く者は来て飲める
配管システムの比喩で理解する
エルサレムの時代:流れ始めた泉
ダビデが契約の箱をエルサレムに運び上げたとき(2サムエル6章)、何かが変わり始めました。
ダビデ契約による啓示の明確化
父なる神は、ダビデを通して救いの計画をより明確に啓示されました。
「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」(2サムエル7:16)
これは単なる政治的王朝の約束ではありません。メシア(油注がれた王)の到来の約束でした。水源からの「計画」が、より明確に示されたのです。
聖霊様がより豊かに働き始めた
ダビデへの豊かな注ぎ 「サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油をそそいだ。主の霊が激しくダビデの上に下った。その日以来、ずっとそうであった」(1サムエル16:13)
注目すべきは「その日以来、ずっとそうであった」という表現です。士師たちへの一時的な注ぎとは異なり、継続的な働きが始まったのです。
預言者たちへの継続的な働き エルサレム時代には、ナタン、ガド、そして後のイザヤ、エレミヤなど、多くの預言者が立てられました。聖霊様の働きは、より継続的で広範囲になっていきました。
ダビデの賛美と礼拝 ダビデは契約の箱の前で賛美と礼拝のシステムを整えました(1歴代誌16章)。これは聖霊様の働きの現れでした。
メシア預言という「将来の水」の約束
ダビデとその子孫を通して、メシア預言が豊かに語られるようになりました。詩篇22篇、110篇、イザヤ53章など、来るべきメシアについての啓示が増していきました。
水はまだ完全には流れていませんが、「将来必ず流れる」という約束が明確になったのです。
ギホンの泉の整備:物理的な予型
興味深いことに、エルサレムには実際の「ギホンの泉」がありました。ヒゼキヤ王はこの泉から町の中心部に水を引くトンネルを掘りました(2列王記20:20、2歴代誌32:30)。
これは霊的真理の物理的予型でした。水源(神様)から、すべての民に水を届けようとする努力。これはまさに、聖霊様がすべての民に注がれる将来を指し示していたのです。
ギホンの泉とヒゼキヤのトンネル
(水源)
(町の中心)
アッシリアのセナケリブ王がエルサレムを包囲する直前、ヒゼキヤ王は大胆な土木工事を行いました。
ギホンの泉(城壁の外)から城壁内のシロアムの池まで、岩盤をくり抜いて約533メートルのトンネルを掘削。これにより:
- 敵に水源を奪われない
- 包囲されても水を確保できる
- すべての民が水にアクセスできる
ギホンの泉 = 神様(源泉)
泉は自ら湧き出る。人の力では作れない。
トンネル = 御霊の働き
見えないところで水を運ぶ。岩盤(人の心)を貫通する力。
シロアムの池 = すべての民へ
もはや特定の人だけでなく、町のすべての人が水にアクセスできる。
なぜこの水路が重要なのか
この発見は、聖書の記述が歴史的事実であることを裏付けるだけでなく、当時の土木技術の高さを証明しています。そして何より、神様が「すべての民に水を」という心を持っておられたことを、物理的証拠として示しています。
しかし、まだ完全ではない
預言者ヨエルはこう預言しました。
「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ」(ヨエル2:28-29)
「その後」「その日」という表現に注目してください。これは未来形です。エルサレム時代でさえ、まだ完全な実現ではありませんでした。
泉は流れ始めましたが、「すべての人」には届いていませんでした。
新約時代:完全に開かれた泉
そして、ペンテコステの日が来ました(使徒2章)。
三位一体の完全な働き
父なる神がひとり子を遣わされた 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」(ヨハネ3:16) 源泉からの愛の計画が、ついに実行されました。
主イエスが来られた 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14) 水そのものが到来しました。私たちが実際に「飲む」ことができる方が来られたのです。
聖霊様がすべての信じる者に注がれた 「彼らはみな聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした」(使徒2:4)
ペテロはヨエルの預言を引用して言いました。「これは、預言者ヨエルによって語られた事です」(使徒2:16)
「その後」と言われていた時が、ついに来たのです。
ヨハネ7:37-39の成就
仮庵の祭りの最後の大いなる日に、主イエスは立って叫ばれました。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7:37-38)
そしてヨハネは説明を加えます。
「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである」(ヨハネ7:39)
「後になってから」―それがペンテコステでした。
信じる者の心から流れ出る水
もはや聖霊様の働きは、預言者や王といった特定の人々に限定されていません。
「信じる者」すべての「心の奥底から」生ける水の川が流れ出るのです。
これがシロとの、そしてエルサレム時代とさえも、決定的に異なる点です。
三つの時代の比較
シロ時代
- 源泉(父):おられる
- 泉(聖霊):詰まっている(限定的・一時的な働き)
- 水(主イエス):まだ来られていない
- 結果:民は渇いている、道徳的腐敗
エルサレム時代
- 源泉(父):ダビデ契約で計画を明確化
- 泉(聖霊):流れ始めた(預言者・王への継続的な働き)
- 水(主イエス):予型と預言(まだ到来していないが約束されている)
- 結果:シロより良いが、まだ「すべての人」には届いていない
新約時代(ペンテコステ以降)
- 源泉(父):ひとり子を遣わされた
- 泉(聖霊):完全に開かれた(すべての信じる者に注がれる)
- 水(主イエス):来られた!受肉・十字架・復活
- 結果:信じる者の心から生ける水が流れ出る
結論:なぜ箱はエルサレムへ移されたのか
契約の箱がシロからエルサレムへ移されたのは、神様の救いの計画における重要な前進を示すためでした。
シロは「詰まった泉」の時代を象徴していました。源泉(父なる神)はおられましたが、泉(聖霊)の働きは限定的で、水(主イエス)はまだ来られていませんでした。
エルサレムは「流れ始めた泉」の時代を象徴しています。ダビデ契約を通して計画が明確化され、聖霊様の働きがより豊かになり、メシアの到来が約束されました。
そして、新約時代に完全な実現を見ます。主イエスが来られ、十字架と復活を成し遂げ、聖霊様がすべての信じる者に注がれました。
今、私たちは「完全に開かれた泉」の時代に生きています。
あなたは渇いていますか?
主イエスのもとに来て、飲んでください。そうすれば、あなたの心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。
「御霊も花嫁も言う。『来てください。』これを聞く者は、『来てください』と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」(黙示録22:17)
生ける水と三位一体の働き
三つの働きは分離できないが、区別できる
救済史の順序:
1. 創世記から続く父の救いの計画
2. 主イエスの受肉・十字架・復活での実現
3. ペンテコステでの聖霊の注ぎ
個人の救いの体験:
1. 父の選びと召し
2. 主イエスを信じる
3. 聖霊が内住される



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