——「自分の目に正しいこと」を手放す場所——
見張り人が眠っている間に、町が襲われた。死んだ人々の血は、だれの責任になるのか。
聖書はこの問いに、はっきりと答えている。しかもその答えは、今日読む三つの箇所すべてに、姿を変えて現れる。ある箇所では地に注がれ、ある箇所では手から求められ、ある箇所では赦された過去として語られる。
三千数百年前のヨルダン川東岸、バビロン捕囚の川辺、そして地中海世界の一つの都市。時代も言語も違う三つの場面が、同じ一つの問いを共有している。
一つ、先に申し上げておきたいことがある。
この記事の結論は、第一部にはない。
第三部で、読者はおそらく一度、前半を読み返すことになる。同じギリシャ語の一語が二度目に現れたとき、最初に読んだ意味とは違って見えるはずだからである。
その一語が何であるかは、まだ書かない。
【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得ていただけます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。
【第一部:トーラー】申命記12章
——同じ「正しい」が、二つの目を持つ——
※この第一部だけでも、今日の中心メッセージの土台は受け取っていただけます。時間のない方は、ここまでで十分です。

追い払う民の祭壇と、選ばれる一つの場所
申命記12章は、ヨルダン川を渡る直前の民に語られた「地に入ったら、まずこうせよ」という指示から始まる。
内容は徹底している。高い山にあるものも、丘にあるものも、青木の下にあるものも、ことごとくこわす。祭壇をこぼち、柱を砕き、アシラ像を焼き、刻んだ像を切り倒す。そして三節の最後にこうある——「その名をその所から消し去らなければならない」。
破壊の対象は建造物だけではない。名である。
そしてその直後、四節から五節にかけて、話は反転する。
「ただし、あなたがたの神、主にはそのようにしてはならない。あなたがたの神、主がその名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ばれる場所、すなわち主のすまいを尋ね求めて、そこに行き」
消し去られる名と、置かれる名。この対比が章全体を支えている。
ここで使われている「置く」という語は、ヘブライ語でシュームという。「置く・据える・設定する」という意味の動詞である。
ところが、同じ五節の中に、もう一つ別の動詞が並んでいる。シャーカン——「住む・宿る・定住する」という語である。口語訳が「主のすまい」と訳した部分が、これにあたる。
つまり五節は、「その名を置くために選ばれる場所」と「そこに住まわせる」ということを、一息に語っている。据えることと、住むこと。この二つが重ねられているのである。
そしてこのシャーカンという語からは、幕屋を意味するミシュカーンが生まれ、後のユダヤ思想で神の臨在を指すシェキナーという語も、同じ語根から出ている。
つまり「名を置く」とは、住所を登録することではない。神ご自身がそこに宿るということである。
異教の神々は、人が選んだ場所に人が名をつけた。だから人が消せる。イスラエルの神は、ご自身が場所を選び、ご自身の名を置かれる。だから人が動かせない。
「めいめいで正しいと思うように」——数百年後に的中する警告
八節に、この章でもっとも重い一文がある。
「そこでは、われわれがきょうここでしているように、めいめいで正しいと思うようにふるまってはならない」
日本語で読むと道徳的な戒めに聞こえるが、原語はもっと具体的な言い回しをしている。直訳すると「各人が、自分の目に正しいすべてのこと」となる。
ここで「正しい」と訳されているヘブライ語はヤーシャール。もともとは「まっすぐな」という意味の語で、道がまっすぐ通っていることを表す。曲がっていない、という感覚の語である。
問題は「まっすぐ」そのものではない。誰の目で測ったまっすぐかである。
この表現を覚えておいてほしい。なぜなら、聖書はこの同じ言い回しを、はるか後の書物の最後の一行で、もう一度使うからである。
士師記21章25節——
「そのころ、イスラエルには王がなかったので、おのおの自分の目に正しいと見えることを行った」
これが士師記という書物の結びである。四百年近い混乱の時代を総括した最後の一行が、申命記12章8節でモーセが「そうなるな」と警告した、まさにその言葉なのである。
神が地に入る前に釘を刺したことに、彼らは正確になった。
二五節——同じ語が、違う目に置かれる
そしてこの章は、もう一度ヤーシャールを使う。二五節である。
「こうして、主が正しいと見られる事を行うならば、あなたにも後の子孫にも、さいわいがあるであろう」
八節は「自分の目に、まっすぐなこと」。二五節は「主の目に、まっすぐなこと」。
同じ語、同じ構文、違う目。
申命記12章は、この二つを八節と二五節に置くことで、読者に選択を突きつけている。あなたはどちらの目を基準にするのか、と。
そして注目したいのは、この二つが対立していないように見える人ほど危ういということである。自分の目に正しいことをしている人は、たいてい自分が主の目に正しいことをしていると思っている。ヤーシャールが「まっすぐ」を意味するのは、この点で示唆的である。曲がっている自覚があれば、人は直そうとする。まっすぐだと信じている線を、人は疑わない。
【図解①】「二つの目・二つの正しさ」対比図
八節と二五節に置かれたこの二つが、読者に選択を突きつけている。
制限の章ではなく、宴会の章
ところで、この章はしばしば「礼拝の中央集権化」という枠で説明される。散在する聖所を禁じ、一箇所に統制する規定である、と。
制度としてはその通りである。しかし本文を素直に読むと、繰り返し出てくる語は「禁止」ではない。
七節「そこであなたがたの神、主の前で食べ、あなたがたも、家族も皆、手を労して獲るすべての物を喜び楽しまなければならない」
十二節「そしてあなたがたのむすこ、娘、しもべ、はしためと共にあなたがたの神、主の前に喜び楽しまなければならない」
十八節「手を労して獲るすべての物を、あなたの神、主の前に喜び楽しまなければならない」
三度である。この語はヘブライ語でサーマハといい、喜ぶ・楽しむ・祝う、という意味を持つ。祭りや収穫の場面で使われる、身体的な喜びの語である。
つまりこの章が命じているのは、「一箇所に集まれ」であると同時に「一箇所に集まって喜べ」なのである。
さらに見逃せないのは、喜ぶ顔ぶれが具体的に列挙されていることである。あなたがた、息子、娘、しもべ、はしため、そして——町の内にいるレビ人。
十二節の後半に、理由が添えてある。「彼はあなたがたのうちに分け前がなく、嗣業を持たないからである」。
レビ人には土地がない。だから自分の畑の収穫を喜ぶことができない。そこで神は、土地を持つ者に対して「あなたの収穫の喜びの席に、土地を持たない者を必ず入れよ」と命じられた。しもべとはしためも同様である。
ここで注目したいのは、この規定の向きである。中央聖所は、地方の礼拝を取り上げるための場所として設計されたのではない。持てる者と持たざる者が、同じ食卓で、同じ神の前で喜ぶための場所として設計されている。
十九節にはこうある。「慎んで、あなたが世に生きながらえている間、レビびとを捨てないようにしなければならない」。
「捨てる」という語は、ヘブライ語でアーザブ。見捨てる、置き去りにする、という語である。この語は聖書の中で、神が民を「見捨てない」と約束される時に使われる語でもある。神が民にしないと誓われたことを、民もレビ人にするな、と言われている。
血——この章に初めて現れるモチーフ
十五節から、規定は現実的な方向へ動く。地が広がり、聖所から遠く離れた町に住む者も出てくる。そこで神は、祭儀としてではない、日常の食事のための屠殺を許可される。かもしかや雄じかを食べるように、清い人も汚れた人も食べてよい、と。
規制の緩和である。しかし、たった一点だけが緩められない。
十六節「ただし、その血は食べてはならない。水のようにそれを地に注がなければならない」
二三節「ただ堅く慎んで、その血を食べないようにしなければならない。血は命だからである」
「命」と訳されている語は、ヘブライ語でネフェシュ。魂・命・生きもの、と訳される語で、創世記2章7節で人が「生きた者」となった時に使われる語と同じである。
血の中に命がある。だから血は、人の腹に入れてはならない。地に注げ、と。
なぜ注ぐのか。ここでは理由が明示されていない。しかしレビ記17章11節に、この規定の神学的な意味が記されている——血は、命の代価として祭壇の上で贖いをするために与えられた、と。
血は取引の対象ではない。命は、神のものである。
そして今日の三箇所を貫くモチーフが、ここで静かに始まっている。この章の血は、地に注がれる血である。第二部では、これが手から求められる血として現れる。
加えても、減らしても
章の最後は、こう締めくくられている。
「あなたがたはわたしが命じるこのすべての事を守って行わなければならない。これにつけ加えてはならない。また減らしてはならない」
興味深い点として、口語訳ではこの節が「31」と番号を振られており、直前の節と番号が重複している。多くの日本語訳では32節にあたる部分である。
さらに興味深いのは、ヘブライ語聖書ではこの一節が13章1節として数えられていることである。章の切れ目が伝統によって異なるのである。
これは単なる数え方の違いではない。ヘブライ語聖書の区切りに従って読むと、こうなる——
「神の言葉に加えるな、減らすな」(13:1)/「あなたがたのうちに預言者が起って、しるしを示し、『他の神々に従おう』と言うなら……」(13:2以下)
つまり「加減するな」という命令のすぐ後に、実際に加減する者が現れたらどうするかという規定が続く構造になる。原則と、その原則が試される現場が、一続きになっているのである。
そして本記事の第三部で、パウロがテモテに書き送った最初の命令が、まさにこれと同じ形をしていることを見ることになる。
第一部のまとめ
申命記12章が示しているのは、こういうことである。
神は、ご自身の名を置く場所を選ばれる。人が選ぶのではない。そこに集められた者は、持てる者も持たざる者も、同じ食卓で喜ぶ。血だけは、地に注がれる。命は神のものだからである。そして委ねられた言葉には、加えても減らしてもならない。
なぜなら、加減が始まる場所は、いつも「自分の目に、まっすぐに見えたから」だからである。
自分の目に正しいことを手放すとは、自分の判断力を捨てることではない。自分の目を、最終審級から降ろすことである。
そしてそれは、席を空けたままにすることでもない。降ろした後、その席に何を据えるのか——申命記12章の答えは明白である。神ご自身が選び、ご自身の名を置かれる場所。すなわち御言葉そのものである。
消し去られる名があり、置かれる名がある。この章は、その二つを四節を挟んで並べている。何かを降ろす章は、必ず何かを据える章でもある。
【第二部:旧約】エゼキエル書2章・3章
——額を堅くされた人と、見張り人に問われる血——
※第二部では、第一部で見た「委ねられた言葉」が、一人の預言者の身体を通ってどう運ばれたのかを見ます。
「人の子よ、立ちあがれ」
エゼキエル書は、圧倒的な幻から始まる。1章で預言者は、四つの生きものと、輪の中の輪と、その上に座す方の栄光を見る。そして彼は倒れる。1章28節、「これを見てわたしはひれ伏した」。
2章1節は、その続きである。
「人の子よ、立ちあがれ、わたしはあなたに語ろう」
倒れた人に、立て、と言われる。そして2節、「霊がわたしのうちに入り、わたしを立ちあがらせた」。命じられただけでは立てなかった。命じた方が、立たせた。
ここで呼びかけられている「人の子」という呼称は、ヘブライ語でベン・アダムという。二語からなる表現で、ベンは「息子・子」、アダムは「人・人間」を意味する。合わせて「人間の子」「人にすぎない者」という意味になる。
この呼びかけは、エゼキエル書の中で九十回以上繰り返される。神の栄光を見た人、巻物を食べた人、幻の中で神殿を測った人が、最後まで「人にすぎない者よ」と呼ばれ続けるのである。
ここで注目したいのは、この呼称の効果である。エゼキエルは他の誰も見ていないものを見た。それは彼を特別な存在にしかねない。しかし神は、幻を見せるたびに彼を「人の子」と呼ばれた。見たものの大きさと、見た者の小ささを、同時に確認させる呼び名である。
なお、この語は後にダニエル書7章13節で「人の子のような者」という決定的な表現として現れ、さらに福音書でイエスご自身が最も好んで用いられた自称となる。エゼキエルにおいて「人にすぎない者」を意味した呼び名を、まことに人となられた方がご自分の名として選ばれた——この転回については、いずれ別の機会に扱いたい。
額の勝負
2章4節、神は遣わす相手を描写される。
「彼らは厚顔で強情な者たちである」
日本語では性格描写のように読めるが、ヘブライ語はきわめて身体的な言い回しをしている。ここには二つの表現が並んでいる。
「厚顔」にあたる部分はケシェー・パーニーム。ケシェーは「硬い」、パーニームは「顔」。合わせて「顔の硬い者たち」となる。
「強情」にあたる部分はヒズケー・レーブ。ヒズケーは「強い」、レーブは「心」。合わせて「心の強い者たち」である。
日本語の「厚顔無恥」に近い感覚だが、聖書のイメージはもっと物理的で、顔と顔をぶつけ合う争いを思わせる。誰も引かない、誰も譲らない。
そして3章7節、同じ二つの語が、もう一度現れる。「イスラエルの家はすべて厚顔でまた強情である」——ただし今度は、場所が入れ替わっている。
ここで用いられているのはヒズケー・メーツァハ(メーツァハは「額」)、すなわち「額の強い者たち」。そしてケシェー・レーブ、すなわち「心の硬い者たち」である。
整理すると、こうなる。
2章4節——顔が硬い(ケシェー)/心が強い(ハーザク)。
3章7節——額が強い(ハーザク)/心が硬い(ケシェー)。
二つの形容詞が、身体の部位の間で入れ替わっている。硬さと強さが、顔でも、心でも、額でも、順番を変えながら繰り返される。この民の頑なさは、どこを取っても同じである——そのことを、語の配置そのものが示しているのである。
そして、すぐ次の8節で、神が何をされるかが語られる。
「見よ、わたしはあなたの顔を彼らの顔に向かって堅くし、あなたの額を彼らの額に向かって堅くした」
ここで「堅くする」に用いられている語はハーザク。7節で民の額を形容していた、まさにその語である。
前の節で民を批判した語が、次の節では預言者に与えられている。つまりこういうことである。民の額は強い。だから神は、預言者の額をもっと強くされた。
これは慰めではない。少なくとも、私たちが期待する種類の慰めではない。神はエゼキエルを守るために柔らかい繭に包まれたのではなく、相手より硬い額を与えて、正面からぶつけさせた。
9節はさらに踏み込む。「わたしはあなたの額を岩よりも堅いダイヤモンドのようにした」。ここで用いられている語はシャーミールで、極めて硬い石を指す。金剛石とも訳される。
名前が、使命の説明になっている
ここで、預言者自身の名前を見ておきたい。
エゼキエルは、ヘブライ語でイェヘズケールという。この名も二語からできている。動詞ハーザク(強くする)の語形と、エール(神)である。合わせて「神が強くする」という意味になる。
ハーザク——民の強い額と、預言者の強くされた額の、両方に使われていた、あの語である。それが預言者の名前そのものの中に入っている。
つまり3章8節で神がエゼキエルにされたことは、彼の名前そのものの実現だった。彼は自分の気質が強かったのではない。名前の通りにされたのである。
ここで注目したいのは、順序である。名前は生まれた時に与えられている。使命はずっと後に来た。しかし名前は、来るべき使命をあらかじめ言い当てていた。
表にも裏にも書かれた巻物
2章9節から、この二章でもっとも印象的な場面が始まる。
「見よ、わたしの方に伸べた手があった。また見よ、手の中に巻物があった。彼がわたしの前にこれを開くと、その表にも裏にも文字が書いてあった」
古代の巻物は、通常パピルスや羊皮紙の片面にのみ文字を書いた。繊維の向きの関係で、片面の方がはるかに書きやすかったからである。裏まで書かれているというのは、例外的な状態を意味する。
書ききれないほど、書くことがあったということである。
そして中身が記される。「その書かれていることは悲しみと、嘆きと、災の言葉であった」。
三語が並ぶ。本文ではキニーム(哀歌・葬送歌)、ヴァーヘゲ、ヴァーヒー。後の二語の頭についている「ヴァ」は「そして」を意味する接続詞なので、語そのものはヘゲ(うめき・嘆息)、ヒー(悲嘆の叫び)である。
いずれも死者を悼む場面で用いられる語彙である。エゼキエルが渡されたのは、すでに葬式の言葉だった。エルサレムはまだ立っている。神殿もまだある。しかし巻物には、もう葬送の歌が書かれていた。
口に甘く、腹に苦い
3章1節から3節。
「人の子よ、あなたに与えられたものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい」/「わたしがそれを食べると、それはわたしの口に甘いこと蜜のようであった」
葬送の言葉が、蜜のように甘い。この矛盾が、この箇所の核心である。
言葉を「食べる」という表現は、エゼキエルの独創ではない。エレミヤ15章16節にこうある——「わたしはあなたの言葉を見いだして、それを食べました。あなたの言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました」。
内容が慰めだから甘いのではない。神から出た言葉だから甘いのである。詩篇19篇10節が主のさばきを「蜜よりも甘い」と歌うのも同じ感覚である。
しかし、話はそこで終わらない。3章14節を見てほしい。
「霊はわたしをもたげ、わたしを取り去ったので、わたしは心を熱くし、苦々しい思いで出て行った」
ここで「苦々しい」と訳されている語は、ヘブライ語でマル。苦い、という意味の語である。出エジプト記15章23節で、飲めなかった水の名「マラ」も同じ語である。ルツ記1章20節でナオミが「わたしをマラと呼んでください」と言ったのも、この語である。
口では甘く、出て行く時には苦い。
これは矛盾ではなく、順序である。神の言葉を受け取る時、それは甘い。しかしその言葉を抱えて人々の前に立つ時、それは苦い。受容の甘さと、伝達の苦さ。同じ一つの言葉が、体の中を通る間に味を変える。
この構造は、はるか後の書物で正確に反復される。黙示録10章9節から10節——ヨハネは御使いから小さな巻物を受け取り、こう告げられる。「あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い」。そして食べると、その通りになる。
ヨハネはエゼキエルを読んでいた。そして自分の身に同じことが起きるのを知って、書き残した。
なお、ある牧師がこれを「聖書は口に甘く腹に苦い。聞くのは好きでも、従うのは難しい」と語ったのを聞いたことがある。的確な要約だと思う。私たちが御言葉を「甘い」と感じる地点と、それを生きる地点の間には、確かに距離がある。
舌が上あごにつく——捕囚の詩篇との共鳴
3章15節、エゼキエルはケバル川のほとりのテルアビブにいる捕囚民のもとへ行き、七日の間、驚きあきれて座した。
七日という数は、レビ記8章の祭司任職の期間と一致する。エゼキエルは祭司の家系である(1章3節)。本来なら神殿で任職を受けるはずだった人が、異国の川辺で、沈黙のうちに七日を過ごした。
そして3章26節、神は不可解なことを言われる。
「わたしはあなたの舌を上あごにつかせ、あなたをおしにして、彼らを戒めることができないようにする」
語れと命じた方が、語れなくされる。
ここで注目したいのは、この表現がもう一箇所、聖書に現れることである。詩篇137篇6節——
「もしわたしがあなたを思い出さないならば、もしわたしがエルサレムをわが最高の喜びとしないならば、わたしの舌をわがあごにつかせてください」
詩篇137篇は、バビロン捕囚の詩である。「わたしたちはバビロンの川のほとりに座り、シオンを思い出して涙を流した」と始まる、あの詩篇である。
同じ捕囚。同じ川のほとり。同じ表現。
しかし決定的な違いがある。詩篇の歌い手は、エルサレムを忘れたら舌がつくように、と自分に呪いをかけて誓った。エゼキエルの場合は、神が実際にそうされた。
誓いとして語られた言葉が、一人の預言者の身に現実として降りている。
見張り人——血は、だれの手から求められるのか
そして3章17節、本記事のタイトルとなった問いが、正面から現れる。
「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家のために見守る者とした」
「見守る者」と訳された語は、ヘブライ語でツォフェー。城壁や物見の塔の上に立ち、地平線を見張る番人のことである。敵の砂塵が見えたら角笛を吹く。それが仕事のすべてである。
見張り人は、敵を倒す必要はない。町を守る必要もない。ただ見て、告げる。それだけが職務である。逆に言えば、告げなかった時の責任はすべて彼にある。
18節から21節に、四つの場合が語られる。整理すると、こうなる。
第一の場合——悪人に、あなたが警告しなかった。悪人は自分の悪のために死ぬ。しかしその血を、わたしはあなたの手から求める。
第二の場合——悪人に警告したが、彼は悔い改めなかった。彼は自分の悪のために死ぬ。しかしあなたは自分の命を救う。
第三の場合——義人がその義にそむいた時、あなたが警告しなかった。彼はその罪のために死ぬ。その血を、わたしはあなたの手から求める。
第四の場合——義人に警告し、彼が罪を犯さなかった。彼は命を保ち、あなたも自分の命を救う。
【図解②】「見張り人の四つの場合」
| 場合 | 相手 | 見張り人は 告げたか |
相手はどうなるか | 血はだれの手に |
| 第一 | 悪人 | 告げなかった | 自分の悪のために死ぬ | 見張り人の手から 求められる |
| 第二 | 悪人 | 告げた | 悔い改めず、 自分の悪のために死ぬ |
見張り人は 自分の命を救う |
| 第三 | 義人 (義にそむいた) |
告げなかった | その罪のために死に、 行った義は覚えられない |
見張り人の手から 求められる |
| 第四 | 義人 | 告げた | 罪を犯さず、 その命を保つ |
見張り人は 自分の命を救う |
2.問われるのはただ一点、告げたか、告げなかったかである。
3.警告の対象は悪人だけではない。第三の場合、義人にも角笛は吹かれなければならない。外から来る敵だけでなく、内側で崩れつつある者にも。
四つを並べると、一つの構造が見えてくる。
相手が悔い改めたかどうかは、見張り人の責任範囲にない。 第二の場合、悪人は死ぬ。しかし見張り人は責任を問われない。角笛を吹いたからである。
問われるのはただ一点、告げたか、告げなかったかである。
これは重い教えであり、同時に途方もない解放でもある。人を変えることは求められていない。結果を出すことも求められていない。求められているのは、見たものを告げることだけである。
そしてもう一つ、見落とせない点がある。第三の場合——義人が警告の対象になっていることである。見張り人の役目は、外から来る敵を告げるだけではない。内側で崩れつつある者にも、角笛は吹かれなければならない。
血の位置が変わる
ここで第一部を振り返っていただきたい。
申命記12章の血は、地に注がれる血だった。「水のようにそれを地に注がなければならない」。命は神のものだから、人の腹には入れない。
エゼキエル3章の血は、手から求められる血である。「その血をわたしはあなたの手から求める」。
同じモチーフが、位置を変えている。注がれるべき血が、告げなかった者の手に残る。
そして本記事の第三部で、この血がもう一度、三つ目の位置に現れる。かつて人の血を流させた者が、その血を赦されて、今度は血の責任を負う側に立つという逆転である。
【第三部:新約】テモテへの第一の手紙1章
——血を流させた者が、血の責任を負う者になる——
※第三部では、第一部の「加えるな・減らすな」と、第二部の「見張り人の血」が、一人の人物の中で交わる場面を見ます。
エペソにとどまれ
パウロがテモテに書き送った最初の具体的な命令は、こうである。
「わたしがマケドニヤに向かって出発する際、頼んでおいたように、あなたはエペソにとどまっていて、ある人々に、違った教を説くことをせず、作り話やはてしのない系図などに気をとられることもないように、命じなさい」(3-4節)
「違った教を説く」と訳された部分は、ギリシャ語でヘテロディダスカレオーという。二つの語からできている。ヘテロスは「別の・異なった」、ディダスカローは「教える」。合わせて「別のことを教える」という意味になる。
新約聖書の中でも珍しい語で、パウロがこの手紙のために作った可能性がある。「間違った教え」ではなく「別の教え」であることに注意したい。真っ向から否定するのではない。似ているが、別のものになっている。
ここで、第一部の結びを思い出していただきたい。申命記12章の最後(ヘブライ語聖書では13章1節)——「これにつけ加えてはならない。また減らしてはならない」。
そして、その直後に続くのが偽預言者への警戒だった。加減するなという原則の次に、実際に加減する者が現れたらどうするかが語られる構造である。
千数百年を隔てて、パウロは同じ形の命令を書いている。原則ではなく、現場の指示として。
命令の目標は、愛である
そしてパウロは、この命令の目的を明言する。5節。
「わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を目標としている」
「目標」と訳された語は、ギリシャ語でテロス。終着点・到達点・完成、という意味の語である。競技場でいえばゴールラインにあたる。
つまりパウロは、「偽教師を止めよ」という命令のゴールは愛だと言っている。教理の純粋さそのものがゴールではない。教理を守ることの先に、愛という到達点がある。
この一節は、記憶しておいていただきたい。三十年後、この同じ教会に対して何が語られるかを見るときに、決定的な意味を持つからである。
律法は良いもの、ただし合法的に用いるなら
8節から10節で、パウロは律法について語る。
「わたしたちが知っているとおり、律法なるものは、法に従って用いるなら、良いものである」
「法に従って」と訳された語は、ギリシャ語でノミモース。「律法(ノモス)」から派生した副詞で、「律法にかなった仕方で」という意味である。
パウロはここで言葉遊びに近いことをしている。直訳すれば「律法は、律法的に用いるなら良い」となる。律法そのものが問題なのではない。用い方が問題なのである。
そして続く9節から10節に、律法が向けられる対象のリストが並ぶ。不法な者、不信心な者、父を殺す者、母を殺す者、人を殺す者……。
このリストの並び順に注目したい。前半は神に対する罪、後半は人に対する罪である。これは十戒の構造そのものである。第一の板が神との関係、第二の板が人との関係。パウロは十戒の順序に沿って、律法が誰のためにあるかを示している。
律法は、自分が正しいと思っている人のためではない。自分の罪を知らない人が、それを知るためにある。
罪人のかしら——現在形で書かれた告白
そして15節、この手紙で最も知られた一節が来る。
「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった』という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである」
「かしら」と訳された語が、ギリシャ語のプロートスである。
プロートスは「第一の」を意味する語で、三つの方向に用いられる。時間的な第一(最初の)、序列の第一(筆頭の)、そして価値の第一(最も重要な)。ここでは「罪人の筆頭」という序列の意味で使われている。
しかし、この一節で本当に驚くべきは、語の意味ではなく時制である。
パウロは「わたしは罪人のかしらであった」とは書かなかった。「わたしは罪人のかしらである」と、現在形で書いている。
この手紙が書かれたのは、パウロの生涯の終盤である。ダマスコ途上の回心から、二十年以上が経っている。三度の伝道旅行を終え、多くの教会を建て、書簡の大半を書き終えた後の言葉である。
それでもなお、現在形だった。
13節に、その理由がある。「わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった」。
こちらは過去形で書かれている。行為は過去のものになった。しかし「罪人の筆頭である」という自己認識は、現在形のまま保たれている。
ここで、第二部の血を思い出していただきたい。
パウロは、ステパノが石で打たれた時、その場にいた。使徒行伝7章58節、証人たちは上着をサウロという若者の足もとに置いた。8章1節、「サウロは彼が殺されたことに賛成していた」。
彼は、血を流させた側にいた人である。
その人が、後に見張り人の側に立つ。使徒行伝20章26節、エペソの長老たちへの告別の言葉で、パウロはこう語っている——「わたしは、すべての人の血について、わたしには責任がない」。
エゼキエル3章の言葉を、パウロは自分に適用している。見張り人として、私は角笛を吹いた。だから血は私の手に残っていない、と。
血を流させた者が、血の責任を負う者になり、そして責任を果たしたと言えるところまで来た。この逆転が、テモテへの手紙一1章の背後にある。
下描きの線
16節、パウロは自分がなぜ憐れみを受けたかを説明する。
「しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである」
「模範」と訳された語は、ギリシャ語でヒュポテュポーシス。これも二語からなる。ヒュポは「下に」、テュポーシスは「型・かたち」。合わせて「下に置かれた型」となる。
この語は、「輪郭」「下描き」「概略」という具体的なイメージから、「見本」「模範」「型」という意味へと広がっていく。ここでは「模範」と訳されているが、その語の底には下描きの線という像がある。
新約聖書ではこの語は二回しか使われない、珍しい語である。
パウロは「私が完成品だから真似しなさい」と言っているのではない。「私は最初に引かれた線にすぎない」と言っている。下描きの線は、それ自体が作品ではない。その上に、後から無数の線が重ねられていく。
罪人の筆頭が、憐れみの下描きになった。もし彼が救われるなら、その線の上を通れない者はいない、ということである。
信仰の破船
19節。
「あなたは、これらの言葉に励まされて、信仰と正しい良心とを保ちながら、りっぱに戦いぬきなさい。ある人々は、正しい良心を捨てたため、信仰の破船に会った」
「破船に会う」と訳された語は、ギリシャ語でナウアゲオー。「難破した人」を意味するナウアゴスから作られた動詞で、船が砕けること、つまり難破することを指す。本文ではエナウアゲーサンという過去形で、「彼らは難破した」となっている。
パウロにとってこれは比喩以上のものだった。第二コリント11章25節で、彼は実際に三度難破し、一昼夜を海上で漂ったと書いている。彼は難破を知っている人である。
注目したいのは、その順序である。
教理を間違えたから、信仰が難破したのではない。良心を捨てたから、難破した。
「捨てた」と訳された語は、辞書形でアポセオマイ。押しやる、突き放す、拒む、という意味の語である。本文ではこれがアポーサメノイという分詞の形で用いられ、「それを突き放して」という意味になる。
突き放して、その結果、難破した。この順序が、文法の上でもはっきり示されている。
嵐の中で船を軽くするために荷を捨てるのは、正しい判断であることもある。しかし彼らが投げ捨てたのは、荷ではなく舵だった。
三十年後のエペソ
ここで、時を先に進めてみたい。
パウロが「エペソにとどまれ」と命じたこの教会は、およそ三十年後、もう一度名前を呼ばれる。黙示録2章、七つの教会への手紙の最初がエペソである。
主は言われた。「あなたは初めの愛から離れてしまった」(黙示録2章4節)。
この「初めの」が、ギリシャ語でプロートスである。本記事で先ほど「罪人のかしら」として登場した、まさにその語である。
プロートスには時間的な「最初の」という意味だけでなく、「最も重要な・最上の」という意味がある。マタイ22章38節で最も大切ないましめが「第一の」と言われるのも、ルカ15章22節で放蕩息子に着せられた「一番良い着物」も、同じ語である。
つまり「初めの愛」とは、最初に抱いた新鮮な愛であると同時に、最も大切な愛——十字架において注がれた愛そのものを指している。ある牧師がこれを「命の代価で買い戻された主イエスの十字架の愛」と説明していたが、プロートスという語が持つ幅から言って、まったく妥当な読みである。
そして、ここで注目したいのは、二つのプロートスの関係である。
パウロは、罪人のプロートスであり続けた。エペソは、プロートスの愛を失った。
黙示録2章2節から3節で、主はエペソを称賛しておられる。彼らは働き、忍耐し、悪人をゆるしておくことをせず、使徒と自称する偽り者を試して見破った。
——つまり彼らは、パウロが1章で命じたことを、実行したのである。「違った教を説かせるな」という命令を、三十年守り抜いた。
しかしパウロは、もう一つ命じていた。5節、「わたしのこの命令は……愛を目標としている」と。
彼らは命令を守り、目標を失った。
ルカ7章47節に、主イエスの言葉がある。「多く赦されたことによって、彼女は多く愛したのである」。
裏返せば、こうなる。赦された量を小さく見積もった者は、少ししか愛さない。
正しい側に立ち続けた者は、やがて自分が罪人の筆頭であることを忘れる。忘れた分だけ、愛は冷える。エペソに起きたのは、おそらくこれである。
同じ一語が、原因と結果の両方に置かれている。罪人のプロートスであることを忘れた教会が、プロートスの愛を失った。
そして主は言われる。「悔い改めて、初めのわざを行いなさい」(黙示録2章5節)。
戻る先は、熱心さではない。十字架である。
【第四部:全体の一貫性】
——その血は、だれの手から求められるのか——
三つの箇所が、同じ形をしている
今日の三箇所は、時代も言語も場面もまったく違う。ヨルダン川の東岸で語られたモーセの説教、バビロンの川辺で倒れた祭司の召命、地中海世界の都市に宛てられた老使徒の手紙である。
しかし並べてみると、三つとも同じ形をしている。
申命記12章——委ねられたのは、神の定めと、名の置かれる場所。禁じられたのは、加えることと減らすこと。
エゼキエル2-3章——委ねられたのは、口に入れられた巻物。禁じられたのは、反逆の家のように背くこと。
テモテ第一1章——委ねられたのは、栄光の福音。禁じられたのは、別のことを教えること。
三つとも、受け取ったものを、自分の判断で加工してはならないと語っている。
そして三つとも、その加工が始まる地点を知っている。それは悪意ではない。第一部で見た通り、それはいつも「自分の目に、まっすぐに見えたから」である。
偽預言者は、自分が偽っているとは思っていない。エペソの教会は、自分たちが正しいことをしていると思っていた。そして実際、正しいことをしていた。
血は、三度その位置を変える
本記事を貫いてきたモチーフを、ここで整理したい。
第一の位置——地に注がれる血。申命記12章16節。「その血は食べてはならない。水のようにそれを地に注がなければならない」。理由は23節にある。「血は命だからである」。命は神のものであって、人の所有物ではない。だから人の腹に入れず、地に返す。
第二の位置——手から求められる血。エゼキエル3章18節。「その血をわたしはあなたの手から求める」。見張り人が角笛を吹かなかったとき、注がれるべきだった血は、告げなかった者の手に残る。命が神のものであるという原則は変わらない。だからこそ、失われた命の代価は、必ず誰かに問われる。
第三の位置——赦された血。テモテ第一1章13節。「わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった」。パウロはステパノの死の現場にいた人である。彼の手には、実際に血があった。その手が赦され、後に「すべての人の血について、わたしには責任がない」(使徒20章26節)と言えるところまで来た。
注がれる血、求められる血、赦された血。
【図解③】「血の三つの位置」
答えは、誰の手からも求められなかった、である。求められる前に、支払われていた。
そして聖書全体を見渡すとき、この三つが交わる一点がある。
だれの手からも求められなかった血
見張り人の規定には、一つの前提がある。血は、必ず誰かの手から求められるという前提である。悪人が悔い改めずに死ねば、彼自身の悪のゆえに死ぬ。見張り人が告げなければ、その血は見張り人の手から求められる。誰も無関係ではいられない。
ところが、聖書には一つだけ、この規定の外に立つ血がある。
キリストの血である。
その血は、誰かが告げなかったから流れたのではない。誰かの落ち度の結果でもない。自ら注がれた血である。
ヨハネ10章18節でイエスはこう言われた。「だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが自分からそれを捨てるのである」。
申命記12章の血は、地に注がれた。命は神のものだからである。エゼキエル3章の血は、手から求められた。告げなかった責任があるからである。十字架の血は、注がれ、そして求められなかった。求める先がなかったからではない。求められるべき方が、ご自身で注がれたからである。
そしてマタイ27章25節、群衆はこう叫んだ。「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」。
彼らは知らずに、聖書全体の問いを口にしていた。その血は、だれの手から求められるのか。
なお、この叫びを後代の教会が特定の民族への断罪の根拠としてきた歴史があるが、それは本文の読み違いである。この場にいた群衆も、それを見ていたローマ兵も、そして遠く離れた地に生きる私たちも、等しくこの問いの当事者である。
答えは、誰の手からも求められなかった、である。求められる前に、支払われていた。
そして、私たちは見張り人にされる
しかしここで話は終わらない。
赦された者は、そのまま席に着くのではない。エゼキエル3章17節で神が言われたことが、そのまま次の世代に渡される。「わたしはあなたを見守る者とした」。
パウロがそうだった。血を流させた者が、血の責任を負う者になった。そして彼は、その責任を果たしたと言えるところまで生きた。
見張り人に求められているのは、繰り返すが、結果ではない。人を変えることでも、悔い改めさせることでもない。見たものを告げること、それだけである。
これは重い務めであり、同時に、これ以上ない解放でもある。
自分の目を降ろすとは
そして、ここで第一部の結びに戻りたい。
自分の目に正しいことを手放すとは、判断力を捨てることではなかった。自分の目を、最終審級から降ろすことだった。そして降ろすだけでは足りない。空いた席には、必ず何かが座る。だから降ろすと同時に、御言葉を据えるのである。
申命記12章は、まさにその形で書かれていた。3節「その名をその所から消し去らなければならない」——降ろす。5節「主がその名を置くために選ばれる場所」——据える。四節を挟んで、消すことと置くことが対になっている。
エゼキエルは、自分の言葉を一切語らなかった。巻物を食べ、その中身だけを語った。舌が上あごについた時は、黙った。神が口を開かれた時だけ、語った。彼の目は、完全に降ろされていた。
パウロは、自分が罪人の筆頭であるという認識を、生涯降ろさなかった。だから彼の目が最終審級に座ることはなかった。
そしてエペソは——正しかった。偽りを見抜き、忍耐し、教理を守った。しかしいつしか、自分の正しさが席に座っていた。だから愛が冷えた。
正しさが席に座ると、愛が出て行く。これが今日の三箇所が、最後に示していることだと思う。
蜜のように甘く、そして苦い
エゼキエルは巻物を食べた。口には蜜のように甘かった。そして苦々しい思いで出て行った。
御言葉を読むことは甘い。それを生きることは苦い。この距離は、たぶん誰にも埋められない。
だからこそ、戻る先は熱心さではない。黙示録2章5節、主はエペソに「初めのわざを行いなさい」と言われた。そして「初め」はプロートス——最も大切なもの、という意味を持つ語だった。
戻る先は、十字架である。
自分の手にあった血が、誰の手からも求められない血によって拭われた、あの一点。そこに戻るとき、人はもう一度、自分が罪人の筆頭であることを思い出す。
そして、多く赦された者は、多く愛する。
【語彙表】
ヘブライ語
| 原語 | カタカナ | 意味 |
| שׂוּם | シューム | 置く・配置する(申命記12:5「名を置く」) |
| שָׁכַן | シャーカン | 住みつく・宿る(幕屋ミシュカーン、臨在シェキナーの語根) |
| יָשָׁר | ヤーシャール | まっすぐな・正しい(12:8「自分の目に」/12:25「主の目に」) |
| שָׂמַח | サーマハ | 喜ぶ・楽しむ・祝う(12:7, 12, 18に三度) |
| עָזַב | アーザブ | 捨てる・見捨てる(12:19「レビびとを捨てるな」) |
| נֶפֶשׁ | ネフェシュ | 命・魂・生きもの(12:23「血は命だから」) |
| בֶּן־אָדָם | ベン・アダム | 人の子(ベン=子/アダム=人)。エゼキエル書に90回以上 |
| קְשֵׁי פָנִים | ケシェー・パーニーム | 顔が硬い者たち=厚顔(エゼキエル2:4本文形) |
| חִזְקֵי־לֵב | ヒズケー・レーブ | 心が強い者たち=強情(エゼキエル2:4本文形) |
| חִזְקֵי־מֵצַח | ヒズケー・メーツァハ | 額が強い者たち(エゼキエル3:7本文形) |
| קְשֵׁי־לֵב | ケシェー・レーブ | 心が硬い者たち(エゼキエル3:7本文形) |
| קָשֶׁה | カシェー | 硬い・頑固な(辞書形) |
| חָזַק | ハーザク | 強い・強くする(3:8「堅くした」/エゼキエルの名に含まれる) |
| שָׁמִיר | シャーミール | 金剛石・極めて硬い石(3:9) |
| יְחֶזְקֵאל | イェヘズケール | エゼキエル=「神が強くする」 |
| קִינִים | キニーム | 哀歌・葬送歌(エゼキエル2:10本文形/辞書形קִינָה キーナー) |
| הֶגֶה | ヘゲ | うめき・嘆息(辞書形。本文はוָהֶגֶה ヴァーヘゲ) |
| הִי | ヒー | 悲嘆の叫び・嘆き(辞書形。本文はוָהִי ヴァーヒー) |
| מַר | マル | 苦い(3:14「苦々しい思いで」/マラ、ナオミの改名) |
| צֹפֶה | ツォフェー | 見張り人・物見(3:17「見守る者」) |
ギリシャ語
| 原語 | カタカナ | 意味 |
| ἑτεροδιδασκαλέω | ヘテロディダスカレオー | 別のことを教える(ヘテロス=別の/ディダスコー=教える) |
| τέλος | テロス | 終着点・目標・完成(Ⅰテモテ1:5「愛を目標として」) |
| νομίμως | ノミモース | 律法にかなった仕方で(1:8) |
| πρῶτος | プロートス | 第一の・筆頭の・最も重要な(1:15「罪人のかしら」/黙示録2:4「初めの愛」) |
| ὑποτύπωσις | ヒュポテュポーシス | 輪郭・下描き→見本・模範・型(ヒュポ=下に/テュポーシス=型) |
| ναυαγέω | ナウアゲオー | 難破する(ναυαγόςナウアゴス「難破者」より。本文はἐναυάγησαν) |
| ἀπωθέομαι | アポセオマイ | 押しのける・突き放す・拒む(辞書形。本文はἀπωσάμενοι アポーサメノイ) |
本記事は、四つの部が互いを支え合う構造で書かれています。第三部の内容は第一部を読んでいることを前提とし、第四部は三つの部すべてを踏まえて成立します。そのため、部分的な抜粋や自動要約では、記事の主旨が正確に伝わりません。引用・ご紹介の際は、リンクによる全文へのご案内をお願いいたします。
聖書引用:口語訳聖書(1954年/1955年)

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