聖書通読2026.8.4 申命記9章・エレミヤ48-49章・第一テサロニケ4章 器から器へ——注ぎ移されなかった民——

エレミヤ書
スポンサーリンク

——注ぎ移されなかった民——

通読箇所:申命記9章7-29節/エレミヤ書48章・49章/テサロニケ人への第一の手紙4章

一度も揺さぶられなかった国が、なぜ滅びたのでしょうか。

聖書には、千年のあいだ一度も国を失わなかった民が登場します。捕囚も、亡国も経験しなかった。ところが預言者は、その安泰こそが滅びの理由だと告げるのです。そしてその同じ日の通読で、私たちは荒野で何度も砕かれ続けた民の姿を読みます。揺さぶられなかった国が滅び、砕かれ続けた民が残った。この逆転の意味を、今日の三つの箇所からたどってみたいと思います。

※本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。

【読み方のご案内】第一部(トーラー)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。

第一部 トーラー — 申命記9章7-29節

「わたしを止めるな」と神は言われた

旅の途中に立てられた記念碑

モーセは民に、忘れてはならないことを語り始めます。

あなたは荒野であなたの神、主を怒らせたことを覚え、それを忘れてはならない。(9章7節)

そして22節から23節にかけて、四つの地名が並びます。タベラ、マッサ、キブロテ・ハッタワ、カデシ・バルネア。

この地名は、ただの地図上の点ではありません。すべて意味を持った名前です。

タベラは「燃える所」。民がつぶやいたとき、主の火が宿営の端を焼いた場所です(民数記11章)。

マッサは「試み」。水がないと言って民が争い、「主はわたしたちの中におられるかどうか」と試した場所です(出エジプト記17章)。

キブロテ・ハッタワは「貪欲の墓」。肉が食べたいと泣き叫んだ民が、うずらを与えられ、そして死んで葬られた場所です(民数記11章)。

カデシ・バルネアは、十二人の偵察隊が戻ってきて、民が約束の地に入ることを拒んだ場所です。

ここで注目したいのは、イスラエルが旅をしながら、自分たちの罪に名前をつけて、その場所に置いてきたということです。荒野の地図は、そのまま罪の履歴書になっています。振り返れば、通ってきた道のあちこちに記念碑が立っている。しかもその記念碑には、自分たちが刻んだ名前が書いてある。

〔図解A:荒野の旅程と四つの反逆地点〕

荒野に立てられた四つの記念碑
申命記9章22-23節 モーセが数え上げた反逆の地名
記念碑 1
タベラ
地名の意味 ── 燃える所
民がつぶやいたとき、主の火が宿営の端を焼いた。
民数記11章1-3節
記念碑 2
マッサ
地名の意味 ── 試み
水がないと言って争い、主が共におられるかどうかを試した。
出エジプト記17章1-7節
記念碑 3
キブロテ・ハッタワ
地名の意味 ── 貪欲の墓
肉を求めて泣き叫んだ民が、うずらを与えられ、そこに葬られた。
民数記11章31-34節
記念碑 4
カデシ・バルネア
出来事 ── 約束の地を拒んだ場所
十二人の偵察隊が戻り、民は上って行くことを拒んだ。四十年の回り道が始まる。
民数記13章から14章
荒野の地図は、罪の履歴書だった
イスラエルは旅をしながら、自分たちの罪に名前をつけ、その場所に置いてきた。振り返れば、通ってきた道のあちこちに記念碑が立っている。しかもその碑文は、自分たちが刻んだものだった。

首の向きを変えられない

13節で、主はモーセにこの民をこう呼びます。口語訳では「強情な民」。

原語をそのまま訳すと、「うなじが硬い民」となります。「うなじ」とは首の後ろのことです。

これは農耕の情景から来た言葉です。牛に軛(くびき)をつけて畑を耕すとき、農夫は牛の首を軽く押して方向を教えます。従順な牛は、その合図で向きを変える。ところが首の筋肉が硬く張った牛は、どれだけ押されても向きを変えません。まっすぐ、自分の行きたい方向へ進んでしまう。

つまりこの言葉が指しているのは、単なる頑固さではありません。方向転換ができない、ということです。

悪意があって逆らっているのではない。ただ、進んできた方向をそのまま進み続けてしまう。押されても、痛くても、首が回らない。この診断は、私たち自身にも当てはまるのではないでしょうか。

神が先に「取っ手」を渡している

さて、この箇所でいちばん不思議な一言が14節です。

わたしを止めるな。わたしは彼らを滅ぼし、彼らの名を天の下から消し去り……

原語を直訳すると、「わたしから手を放せ」となります。「手を放す、緩める」という意味の言葉が使われています。

ここで立ち止まってみてください。「手を放せ」と言われるということは、この時点でモーセは神の腕をつかんでいる、ということになります。

ところが本文を読むと、モーセはまだ何も言っていません。祈ってもいない。とりなしてもいない。それなのに神の側が先に「放せ」と言う。

ユダヤの伝統的な解釈では、ここを神がモーセに祈りのヒントを与えた場面として読みます。「止めるな」と言われて、モーセは初めて気づくのです。自分には、止めることができるのだと。

神は扉を閉めようとしながら、その取っ手をわざとモーセの手に握らせています。滅ぼすと語りながら、執り成す者を探しておられる。

モーセが受け取らなかった提案

14節の後半には、もう一つ見過ごせない言葉があります。

おまえを彼らよりも強く、かつ大いなる国民としよう

この言葉の形は、創世記12章2節でアブラハムに与えられた約束とほとんど同じです。「わたしはあなたを大いなる国民とし」。

つまり神は、モーセに「第二のアブラハムにならないか」と提案しているのです。ここで系図をリセットし、モーセの子孫から新しい選民を起こす道。人間的に考えれば、これほどの栄誉はありません。長年つぶやかれ続けた重荷から解放され、なおかつ族長の列に加えられる。

モーセはこの提案を、一言も検討しません。返事すらしていない。彼が口を開いたとき、出てきたのは自分のことではなく、民のための祈りでした。

執り成しの三本の柱

25節から29節のモーセの祈りは、執り成しの祈りの教科書と言っていいものです。彼が神に差し出した根拠は、三つしかありません。

第一に、この民はあなたのものだという事実。

あなたの民、あなたの嗣業を滅ぼさないでください。(26節)

「嗣業」とは、相続財産のことです。父から子へ受け継がれ、決して手放してはならないもの。モーセは民の価値ではなく、所有権を持ち出しています。「彼らは良い民です」とは一言も言っていない。「彼らはあなたのものです」と言っている。

第二に、あなたが結んだ約束。

あなたのしもべアブラハム、イサク、ヤコブを覚えてください。この民の強情と悪と罪とに目をとめないでください。(27節)

見てくださいと差し出すのは族長たちの名前であり、見ないでくださいと願うのは目の前の民の罪です。今の世代には差し出せるものが何もない。だから四百年前の約束にすがっている。

第三に、あなたの御名の評判。

あなたがわれわれを導き出された国の人はおそらく、「主は、約束した地に彼らを導き入れることができず……」と言うでしょう。(28節)

エジプト人が何と言うか。神の名誉がどうなるか。

この三つのどこにも、モーセ自身の功績は出てきません。四十日四十夜の断食も、二度も山に登ったことも、一言も持ち出していない。そして民の悔い改めも根拠にしていません。というより、この時点で民はまだ悔い改めていない。

執り成しとは、差し出せるものが何一つない者のために、神ご自身の中にある理由だけを頼りに立つことなのです。

とりなしをやめる理由に、罪はならない

ここで、もう一歩踏み込んで考えてみたいことがあります。

私たちは、ある人やある民族の罪を知ったとき、祈るのをやめたくなることがあります。ニュースを見て、あるいは身近な人の振る舞いを見て、「この人のためにはもう祈れない」と手を下ろしてしまう。祈りをやめる正当な理由が、自分の中に立ち上がってくるのです。

モーセの祈りは、その理由を根こそぎ奪います。

彼は「彼らは良い民です」とは、一言も言いませんでした。言えるはずもない。彼が持ち出したのは、彼らが神のものだという事実だけです。とりなしは、相手が正しいから立つのではなく、相手が神のものだから立つ。この一点で成り立っています。

しかも見落としてはならないのは、モーセが罪から目をそらしていないことです。この章そのものが、民の罪を四つの地名で名指しした章でした。「わたしがあなたがたを知ったその日からこのかた、あなたがたはいつも主にそむいた」(24節)。これほど厳しい言葉を、彼は面と向かって語っています。

罪をいちばん厳しく数え上げた人が、同じその人が、四十日四十夜ひれ伏している。

罪を見ないことは愛ではありません。しかし、罪を見たから手を下ろすことも、また愛ではない。モーセはその両方を拒んだ場所に立っています。私たちがとりなしを学ぶとすれば、まずこの立ち位置からでしょう。

〔図解B:執り成しの三本の柱〕

執り成しの三本の柱
申命記9章25-29節 モーセが神に差し出した根拠
柱 その一 ── 所有権
この民は、あなたのものです
あなたの民、あなたの嗣業を滅ぼさないでください(26節)
「嗣業」は相続財産のこと。父から子へ受け継がれ、決して手放してはならないもの。モーセは民の価値ではなく、神の所有権を持ち出している。
柱 その二 ── 約束
あなたが結んだ契約があります
あなたのしもべアブラハム、イサク、ヤコブを覚えてください(27節)
見てくださいと差し出すのは族長たちの名前。見ないでくださいと願うのは目の前の民の罪。今の世代には差し出せるものがないので、四百年前の約束にすがっている。
柱 その三 ── 御名
あなたの御名がかかっています
主は、約束した地に彼らを導き入れることができず……と言うでしょう(28節)
エジプト人が何と言うか。神の名誉がどうなるか。祈りの理由を、神ご自身の評判の中に置いている。
ここに一つも含まれていないもの
モーセ自身の功績 ── 四十日四十夜の断食も、二度山に登ったことも、一言も持ち出していない
民の悔い改め ── この時点で、民はまだ悔い改めていない
とりなしとは
差し出せるものが何一つない者のために、神ご自身の中にある理由だけを頼りに立つこと。とりなしは、相手が正しいから立つのではなく、相手が神のものだから立つ。

二度の四十日四十夜

もう一つ、静かに気づかされることがあります。

モーセはこの章で、四十日四十夜の断食を二度行っています。

一度目は9節。石の板を受け取るため、山に登っての四十日。これは神から受け取るための四十日でした。

二度目は18節。民の罪のために主の前にひれ伏しての四十日。これは民のために執り成すための四十日です。

パンも食べず、水も飲まず。二度目の断食には、板をもらうという報酬もなければ、山の栄光もありません。ただ地面にひれ伏し続けるだけの四十日です。

そして20節には、こう記されています。

主はまた、はなはだしくアロンを怒って、彼を滅ぼそうとされたが、わたしはその時もまたアロンのために祈った。

金の子牛を実際に作ったのは兄アロンでした。モーセにとって、最も責めていい相手です。その相手のために、彼は別に祈っています。

執り成す人は、罪の張本人のためにも祈る。ここに、後に来られる大祭司の影が、はっきりと落ちています。

第二部 旧約 — エレミヤ書48章・49章

香りが変わらなかった酒

褒め言葉に見える告発

エレミヤ書48章は、モアブへのさばきの宣告です。地名が次々に並び、滅びの叫びが響きます。ところがその只中に、一つだけ調子の違う節があります。11節です。

モアブはその幼い時から安らかで、酒が、沈んだおりの上にとどまって、器から器に、くみ移されなかったように、捕え移されなかったので、その味はなお存し、その香気も変ることがない。

初めて読むと、これは褒め言葉のように聞こえます。安らかで、味も香りも変わらない。何が問題なのでしょうか。

古代のぶどう酒造りを知ると、この節の意味が反転します。

ぶどうを踏み、汁を器に入れて発酵させると、底に澱(おり)が沈みます。果皮のかけら、酵母の死骸、酒石。この澱をそのままにしておくと、苦味と濁りが酒全体に移ってしまいます。ですから醸造の職人は、澱が沈んだ頃合いを見計らって、上澄みだけを静かに別の器へ注ぎ移します。そしてまた沈むのを待ち、また移す。これを何度か繰り返して、初めて澄んだ酒になるのです。

つまりこの節は、こう言っています。モアブは一度も注ぎ移されなかった。だから澱が底に残ったままだ、と。

「その味はなお存し、その香気も変ることがない」——この言葉は、変わらなかったことへの賞賛ではありません。変わる機会が一度もなかったという告発です。

〔図解D:ぶどう酒の注ぎ移し工程図〕

器から器へ ── 古代のぶどう酒づくり
エレミヤ書48章11節の背景にある情景
工程 1
踏んで、器に入れる
ぶどうを踏み、汁を器に入れて発酵させる。
工程 2
澱(おり)が底に沈む
果皮のかけら、酵母の死骸、酒石が底にたまる。このまま置けば、苦味と濁りが酒全体に移ってしまう。
工程 3
上澄みだけを別の器へ注ぎ移す
職人が器を傾け、澄んだ部分だけを移す。澱は前の器に置いていかれる。
工程 4
また沈むのを待ち、また移す
これを何度か繰り返して、初めて澄んだ酒になる。
二つの器の運命
一度も注ぎ移されなかった器 ── モアブ
その味はなお存し、その香気も変ることがない(48章11節)
およそ千年のあいだ、国として一度も滅ぼされず、捕囚も経験しなかった。褒め言葉に見えるこの一節は、変わる機会が一度もなかったという告発である。澱を抱えたまま、棚の上に静かに置かれていた器。
結末 ── 国を成さないようになる(48章42節)
何度も注ぎ移された器 ── イスラエル
エジプトでの奴隷。荒野の四十年。士師時代の繰り返される侵略。北王国はアッシリヤに、南王国はバビロンに。国が壊れ、人が散らされ、神殿が焼かれた。
痛かったはずである。しかしその度に、澱は前の器に置いてこられた。
結末 ── 民は残された
器を移す手は、器を守る手
酒は自分で器を移ることができない。誰かの手が、器を傾ける必要がある。揺さぶられていることは、忘れられている印ではない。器が傾いている音である。

揺さぶられなかった国の歴史

モアブは死海の東側、比較的肥沃な高原地帯に位置していました。北にはアンモン、南にはエドム、西には死海という自然の防壁があり、大国が通る主要な国際街道からはやや外れています。

エレミヤの時代までのおよそ千年、モアブは国として一度も滅ぼされていません。捕囚も、国家の消滅も経験していない。「その幼い時から安らかで」とは、そういう歴史のことです。

そしてイスラエルはどうでしょうか。エジプトでの奴隷。荒野の四十年。士師時代の繰り返される侵略。北王国はアッシリヤに、南王国はバビロンに。何度も何度も、器から器へ注ぎ移されてきました。

痛かったはずです。国が壊れ、人が散らされ、神殿が焼かれた。しかしその度に、澱は前の器に置いてこられました。

高慢という名の澱

では、モアブの器の底に沈んでいた澱とは何だったのか。エレミヤははっきり名指しします。

われわれはモアブの高慢な事を聞いた、その高慢は、はなはだしい。すなわち、その尊大、高慢、横柄、およびその心の高ぶりのことを聞いた。(29節)

一つの節の中に、高ぶりを表す言葉が四つから五つ、畳みかけるように重ねられています。数え方は訳によって分かれますが、原語では「尊大」「高慢」「高さ」「高くなること」といった近い意味の語が、次々と積み上げられていくのです。エレミヤはここで、語彙を尽くしてモアブの高慢を描写しています。

そして42節。

モアブは滅ぼされて、国を成さないようになる。主に敵して自ら誇ったからである。

安住が高慢を育てました。揺さぶられなかったことが、モアブを守ったのではなく、モアブを固めてしまったのです。

7節にはこうあります。「おまえが、とりでと財宝とを頼みにしたので」。とりでと財宝——揺さぶられなかった者が手に入れるものが、そのまま滅びの理由になっています。

神々も縄で縛られて行く

もう一つ、見過ごせない描写があります。

またケモシは、その祭司とつかさたちと共に、捕えられて行く。(48章7節)

ミルコムとその祭司およびつかさが共に捕え移されるからだ。(49章3節)

ケモシはモアブの国民神です。もう一方の「ミルコム」については、ヘブライ語本文をそのまま読むと「彼らの王」とも訳せる形をしています。ただし古くから、アンモンの国民神ミルコムを指すものと理解されてきました。多くの翻訳がこの読みを採っています。

どちらに取っても、この節が描く光景は変わりません。その神が、祭司と役人と一緒に捕虜の列に加えられている。

考えてみれば奇妙な光景です。神が民を守るのではなく、民と一緒に縛られて連れて行かれる。イザヤ書46章でも、バビロンの神々ベルとネボが家畜の背に積まれて運ばれる様子が描かれていました。担がれる神は、担ぐ者が倒れれば一緒に倒れます。

聖書の神は、担がれる神ではありません。イザヤ46章4節で、主はこう言われます。「わたしは造った、わたしは負う、わたしは携えて救う」。神々を運ぶ民と、神に運ばれる民。この対比が、48章と49章の背景に静かに流れています。

さばきを語りながら、葬儀の笛を吹く

そしてこの章で、最も立ち止まらされるのは31節と36節です。

それゆえ、わたしはモアブのために嘆き、モアブの全地のために呼ばわる。キルヘレスの人々のためにわたしは悲しむ。(31節)

それゆえ、わたしの心はモアブのために笛のように嘆き、わたしの心はキルヘレスの人々のために笛のように嘆く。(36節)

「笛のように嘆く」——古代イスラエルでは、葬儀のときに笛が吹かれました。悲しみを空気の震えに変える楽器です。マタイ9章23節で、少女の死の家に「笛吹く者」がいたと記されているのも同じ習慣です。

滅ぼすと宣言している当の主が、同時に葬儀の笛の音を立てている。

この言葉が預言者エレミヤの心なのか、神ご自身の心なのか、注解者の間で意見は分かれます。しかし文脈は「主は言われる」という枠の中にあります。少なくとも、預言者を通して神の心が漏れ出していると読むべきでしょう。

ここで第一部を思い出してください。申命記9章で、神は「わたしを止めるな」と言われました。滅ぼすと語りながら、止める者を探しておられた。

エレミヤ48章の神も、同じ神です。さばきの宣告と、葬儀の笛。この二つが同じ口から出ています。

回復の約束がある国と、ない国

49章まで通して読むと、通読でしか気づけないことが見えてきます。この二章には六つの国へのさばきが記されていますが、その結び方が一様ではないのです。

モアブ——48章47節「しかし末の日にわたしは再びモアブを栄えさせる」

アンモン——49章6節「のちになって、わたしはアンモンびとを再び栄えさせる」

エラム——49章39節「末の日に、わたしはエラムを再び栄えさせる」

この三箇所には、原語で同じ慣用句が使われています。直訳すれば「捕囚を返す」となる表現ですが、近年の研究では、単に捕虜が帰ってくることだけでなく、境遇そのものを元に戻す、繁栄を回復するという広い意味を持つ句だと理解されています。国が立ち上がり直すところまでを含んだ言葉です。

ところが、

エドム——回復の言葉がない

ダマスコ——ない

ケダルとハゾル——ない

血縁で言えば、不思議なことです。モアブとアンモンはロトの子孫。イスラエルから見れば又従兄弟のような関係です。それに対してエドムはエサウの子孫、つまりヤコブの実の兄の子孫であり、はるかに近い。

その近い兄弟にこそ、回復の約束が置かれていない。

理由は聖書の他の箇所が語っています。オバデヤ書は、エルサレムが陥落した日にエドムが傍観し、喜び、逃げる者を捕らえて渡したことを告発します。詩篇137篇7節では「エルサレムの日にエドムの人々が『こぼて、こぼて、その基までも』と言った」と記されます。エゼキエル35章も同じ主題です。

兄弟の傷を喜ぶこと。それが、ここでは最も重い罪として扱われています。

〔図解C:六つの国の裁きと回復一覧〕

回復の約束がある国と、ない国
エレミヤ書48章・49章 六つの国へのさばきと、その結び方
回復の約束が置かれている国
モアブ 48章
イスラエルとの関係 ── ロトの子孫
しかし末の日にわたしは再びモアブを栄えさせる(48章47節)
アンモン 49章1-6節
イスラエルとの関係 ── ロトの子孫
のちになって、わたしはアンモンびとを再び栄えさせる(49章6節)
エラム 49章34-39節
イスラエルとの関係 ── 血縁なし、遠い東方の民
末の日に、わたしはエラムを再び栄えさせる(49章39節)
この三箇所には、原語で同じ慣用句が使われている
直訳すれば「捕囚を返す」。転じて、境遇そのものを元に戻す、繁栄を回復するという広い意味を持つ。国が立ち上がり直すところまでを含んだ言葉。
回復の約束が置かれていない国
エドム 49章7-22節
イスラエルとの関係 ── エサウの子孫、ヤコブの実の兄
最も血縁が近いのに、国家的な回復の言葉がない。エルサレム陥落の日に傍観し、喜んだことが、オバデヤ書・詩篇137篇・エゼキエル35章で繰り返し告発される。
ダマスコ 49章23-27節
イスラエルとの関係 ── アラムの都、長年の敵国
回復の言葉なし。
ケダルとハゾル 49章28-33節
イスラエルとの関係 ── 東方の遊牧の民
回復の言葉なし。山犬のすまいとなり、いつまでも荒れ地となると告げられる。
それでも、扉が一つ開いている
あなたのみなしごを残せ、わたしがそれを生きながらえさせる。あなたのやもめには、わたしに寄り頼ませよ(49章11節)
エドムに国家としての回復はない。しかし孤児とやもめには、名指しで神ご自身が語りかけている。国は倒れても、最も弱い者への招きは閉じられていない。

滅びの宣告の中に残された一つの招き

しかし、エドムへの言葉には例外があります。49章11節です。

あなたのみなしごを残せ、わたしがそれを生きながらえさせる。あなたのやもめには、わたしに寄り頼ませよ。

国家としての回復はない。しかし孤児とやもめには、名指しで神ご自身が語りかけています。「わたしに寄り頼ませよ」——これは招きの言葉です。

滅びゆく国の真ん中で、最も弱い者にだけ、扉が開いたままになっている。国は倒れても、個人への招きは閉じられていない。エドムへのさばきの中で、ここだけが違う色をしています。

触れておきたい一節

なお、48章10節には注意が必要です。

主のわざを行うことを怠る者はのろわれる。またそのつるぎを押えて血を流さない者はのろわれる。

この節は歴史上、宗教的な暴力を正当化する口実として引用されてきました。しかし文脈を見れば、これはモアブへのさばきを執行するバビロン軍に向けられた言葉です。「怠る」と訳された語は、原語では「不誠実」「いい加減」という意味も持ちます。神の御業を半端に扱うな、という警告であって、後の時代の誰かに剣を取れと命じている言葉ではありません。

聖書には、こうして時代の文脈の中で語られた言葉があります。文脈から切り離された一節は凶器になりうる。通読して前後を読むことの意味が、こういう箇所ではっきりします。

第三部 新約 — テサロニケ人への第一の手紙4章

静かであることに、野心を燃やせ

「ますます」という言葉

この章は、意外な言葉から始まります。

あなたがたが、どのように歩いて神を喜ばすべきかをわたしたちから学んだように、また、いま歩いているとおりに、ますます歩き続けなさい。(1節)

テサロニケの教会は、パウロが叱る必要のない教会でした。彼らはすでに正しく歩いている。それをパウロも認めています。それなのに彼が求めるのは、「ますます」です。

同じ言葉が10節にも出てきます。兄弟愛について「あなたがたは、互に愛し合うように神に直接教えられており」と認めた上で、「しかし、兄弟たちよ。あなたがたに勧める。ますます、そうしてほしい」。

できていることを認めた上で、なお「ますます」と言う。この繰り返しが、この章全体の調子を決めています。

清くなることは、到達点ではない

3節に、この手紙で最も知られた一句があります。

神のみこころは、あなたがたが清くなることである。

「清くなること」と訳された言葉は、日本語の教会では「聖化(せいか)」と呼ばれてきました。原語は「聖なるものにされていく過程」を指す言葉で、完了した状態ではなく、進行している動きを表します。

パウロがここで扱っているのは、抽象的な理想ではありません。具体的には性的な純潔(3-8節)、兄弟愛(9-10節)、そして日々の労働(11-12節)です。ずいぶん地味な項目が並びます。

聖なる者にされていくとは、非日常的な体験のことではなく、この三つが少しずつ変わっていくことだ。パウロはそう言っています。

静かであることへの野心

11節は、原語を知ると印象がまるで変わる節です。

そして、あなたがたに命じておいたように、つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい。

「つとめて」と訳された言葉は、もともと「名誉を愛する」「名誉を求めて競う」という意味の語です。当時のギリシャ都市国家で、市民が公職を目指し、人前で名を挙げようと競い合う——そういう政治的な上昇志向を表す言葉でした。

その言葉が、ここでは「静かにしている、平穏でいる」という語と結びつけられています。

つまりパウロは、正反対の二語をわざとぶつけているのです。直訳すれば、「静かであることに、野心を燃やせ」。

目立つ働き、大きな奉仕、人の目に見える成果。そこへ向かおうとする心のエネルギーを、パウロは否定しません。否定せずに、向きを変えさせています。そのエネルギーを、静かな生活に注ぎなさい、と。

続く言葉も具体的です。自分の仕事に身をいれること。手を使って働くこと。12節では、その目的が「外部の人々に対して品位を保ち、まただれの世話にもならずに、生活できる」ことだと言われます。

背景には、主の再臨が近いと考えて仕事をやめてしまった人々がいたようです(第二の手紙3章11節に、より明確に出てきます)。終末を待つ姿勢が、日々の労働をやめる理由になってはならない。パウロの答えは一貫しています。

「眠る」という言葉が生んだもの

13節から、話題が大きく変わります。

兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。

死んだ信者のことを、パウロは「眠っている人々」と呼びます。ここで使われている語は、日常のごく普通の「眠る」という動詞です。

この言葉の名詞形は「眠る場所」「宿泊所」を意味しました。そしてこの語が、初代教会でキリスト者の墓地を指す言葉として使われるようになります。それがラテン語を経て、英語の cemetery(墓地)という語になりました。

つまり英語圏の人々は、墓地を「眠る場所」と呼び続けてきたわけです。その言葉づかいそのものが、復活信仰から生まれたものでした。

死を眠りと呼ぶことができるのは、目を覚ます朝があると信じている場合だけです。

悲しむな、ではなく

13節の後半を、注意して読んでみてください。

望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。

パウロは「悲しむな」とは言っていません。「望みを持たない人々のように悲しむな」と言っています。

悲しみは禁じられていない。禁じられているのは、望みのない悲しみです。信仰は、涙を止める装置ではありません。涙の向こう側に朝を置くものです。

三つの音

16節には、主の来臨のときに響く音が三つ重ねられています。

すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。

「合図の声」と訳された言葉は、日常語ではありません。ガレー船で漕ぎ手たちに拍子を叫ぶ声、あるいは軍隊に突撃を命じる号令を指す語です。命令が実行に移される、まさにその瞬間の声。新約聖書の中で、この語が使われているのはここ一箇所だけです。

次に、天使のかしらの声。

そして、神のラッパ。出エジプト記19章で、シナイ山に主が降られたとき、角笛の音がきわめて高く鳴り響きました。イスラエルの祭りでも、角笛は神の臨在の合図として吹かれます。

聴覚から始まる場面です。まず音が来る。そして主ご自身が降ってこられる。

二つの動詞

17節に、この章で最も重要な二つの動詞があります。

それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。

「引き上げられ」と訳された語は、「奪い取る」「力ずくでさらう」という強い意味を持つ言葉です。この語のラテン語訳から、英語の rapture(携挙)という語が生まれました。優しく持ち上げるのではなく、有無を言わせず取り去るという語感です。

もう一つ、「会い」と訳された語。これは単なる出会いを指す言葉ではありません。

ヘレニズム世界には、王や将軍が都市を訪問するとき、市民が城門の外まで出迎えに行き、そのまま王と一緒に都市へ入っていくという公式の儀礼がありました。この出迎えの儀礼を指すのが、ここで使われている語です。同じ語が使徒行伝28章15節にも出てきます。ローマの兄弟たちがパウロを迎えるために町の外まで出てきて、そして一緒にローマへ入っていく場面です。

この語は、当時の人々にとって「出迎えの儀礼」を連想させる言葉でした。城門の外まで出て、王を迎え、そして共に入っていく。パウロがこの語を選んだとき、読者の頭にその光景が浮かんだ可能性は高いと言えます。

ただし、この語が使われているからといって、その後どこへ向かうのかまでが決まるわけではありません。携挙の時期や、その後の展開については、教派によって解釈が分かれています。ここでは断定を避けます。

覚えておきたいのは、この語が「出会って終わり」ではなく「出迎えて共に行く」という含みを持っているということです。

慰めの言葉として

そしてこの壮大な場面は、こう締めくくられます。

だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。(18節)

パウロがこの終末の描写を書いた目的は、預言のスケジュール表を与えるためではありませんでした。愛する人を失って泣いている人たちに、「その人とまた会える」と伝えるためです。

順序を確かめてください。15節と16節で、パウロは繰り返し強調しています。先に眠った人々が後回しにされることはない。むしろ、キリストにあって死んだ人々がまず最初によみがえる。

テサロニケの人々が心配していたのは、まさにこの点だったのでしょう。主が来られるとき、すでに死んでしまった家族はどうなるのか。取り残されるのではないか。

パウロの答えは明快です。彼らが先だ、と。

〔図解E:主の来臨の順序図〕

主の来臨 ── その順序
テサロニケ人への第一の手紙4章15-18節
はじめに ── 三つの音が響く
合図の声
ガレー船の漕ぎ手に拍子を叫ぶ声、軍隊への突撃命令を指す語。命令が実行に移される瞬間の声。新約聖書ではここ一箇所にしか使われていない。
天使のかしらの声
神のラッパ
シナイ山に主が降られたとき、角笛の音がきわめて高く鳴り響いた(出エジプト記19章)。角笛は神の臨在の合図。
次に
主ご自身が天から下ってこられる
使者が遣わされるのではなく、主ご自身が来られる。
まず最初に
キリストにあって死んだ人々がよみがえる
テサロニケの人々が心配していたのは、この点だった。主が来られるとき、すでに死んでしまった家族は取り残されるのではないか。パウロの答えは明快である ── 彼らが先だ。
それから
生き残っている者が、共に引き上げられる
「引き上げられ」の原語は、奪い取る、力ずくでさらうという強い言葉。この語のラテン語訳から、英語の rapture(携挙)が生まれた。
そして
空中で主に会い、いつも主と共にいる
「会い」と訳された語は、王や将軍が都市を訪問するとき、市民が城門の外まで出迎え、そのまま共に入っていくという公式の儀礼を連想させる言葉。使徒行伝28章15節にも使われている。
出会って終わりではなく、出迎えて共に行く、という含みを持つ。ただしこの語から、その後どこへ向かうのかまでが決まるわけではない。携挙の時期や展開については、教派によって解釈が分かれている。
この描写が書かれた目的
だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい(18節)
預言のスケジュール表を与えるためではない。愛する人を失って泣いている人たちに、その人とまた会えると伝えるためだった。

第四部 全体の一貫性

器から器へ

二つの民の対照

今日の三つの箇所を並べると、一本の線が通っているのが見えてきます。

エレミヤ48章11節に戻ります。モアブは、一度も器から器へ注ぎ移されなかった。だから味も香りも変わらなかった。そして滅びた。

では申命記9章のイスラエルはどうだったでしょうか。

タベラで火に焼かれ、マッサで水を求めて争い、キブロテ・ハッタワで墓を掘り、カデシ・バルネアで四十年を失いました。金の子牛を作り、石の板が目の前で砕かれるのを見た。うなじが硬く、方向転換ができない民だと神ご自身から名指しされた。

これほど揺さぶられた民は、他にありません。

ところが、モアブは滅び、イスラエルは残りました。

この対照は、私たちが普通に考える「祝福」の定義をひっくり返します。揺さぶられなかった国が滅び、砕かれ続けた民が残った。安住していた酒が捨てられ、何度も器を移された酒が澄んでいった。

注ぎ移しの痛みの中に立つ人

しかし、ここで大事なことを見落としてはなりません。

酒は自分で器を移ることができません。誰かの手が、器を傾ける必要があります。

申命記9章で、イスラエルが砕かれるその場所に、誰が立っていたでしょうか。

モーセです。

彼は四十日四十夜、地にひれ伏しました。パンも食べず、水も飲まず。金の子牛を粉にし、水に流し、そして祈り続けた。「この民はあなたの民です。あなたの嗣業です」と。

第一部で見た通り、彼が差し出した根拠は三つだけでした。この民はあなたのもの。あなたが結んだ約束がある。あなたの御名がかかっている。彼自身の功績も、民の悔い改めも、そこには一つも含まれていません。

そして忘れてはならないのは、その同じモーセが、この章で誰よりも厳しく民の罪を数え上げていることです。「あなたがたはいつも主にそむいた」。罪を見ないまま祈ったのではない。罪をすべて見た上で、それでもひれ伏した。

器を移す手は、乱暴に見えて、器を守る手です。そしてその器のかたわらには、いつもとりなす者が立っています。

「わたしを止めるな」の意味

ここで、申命記9章14節の不思議な一言がもう一度光ります。

「わたしを止めるな」。

神は、まだ何も祈っていないモーセに向かって、そう言われました。手を放せ、と言うことは、モーセが神の腕をつかんでいるということです。神が先に、扉の取っ手をモーセの手に握らせている。

そしてエレミヤ48章31節と36節で、その同じ神が、滅ぼすと宣言しながら葬儀の笛のように嘆いておられます。

さばきを語る口と、嘆く口が同じであること。滅ぼすと言いながら、止める者を探しておられること。

これは矛盾ではありません。神が器を傾けるとき、その手は決して機械的ではないのです。傾けながら痛み、傾けながら誰かがとりなすのを待っておられる。

エドムへのさばきの真ん中に、孤児とやもめへの招きが残されていたのも、同じ神の性質でしょう。「あなたのやもめには、わたしに寄り頼ませよ」。すべてが崩れる中で、最も弱い者への扉だけが開いたままになっている。

とりなしをやめないという選択

私たちは、ある人の罪を知ったとき、祈るのをやめる理由を手に入れたと感じます。

しかしモーセを見れば、それが逆であることが分かります。罪があるからとりなすのであって、罪が見えたから手を下ろすというのは、モーセがしなかったことです。

彼は罪を見ました。数え上げました。名指ししました。そして、ひれ伏しました。

この姿勢は、後に来られる大祭司の姿と重なります。ヘブル人への手紙7章25節はこう言います。イエスは「常に生きていて、彼らのためにとりなしておられる」。私たちの罪をすべて知っておられる方が、その罪を知ったままとりなしておられる。

そして申命記9章20節を思い出してください。モーセは、金の子牛を実際に作った兄アロンのためにも、別に祈っていました。最も責めていい相手のためにも、彼は祈った。

教会にとっての注ぎ移し

第一テサロニケ4章に戻ります。

パウロがテサロニケの人々に求めたのは、「ますます」でした。すでに正しく歩いている人々に、なお「ますます歩き続けなさい」と言う。すでに愛し合っている人々に、なお「ますます、そうしてほしい」と言う。

これが、教会にとっての注ぎ移しです。

聖なる者にされていく過程とは、一度きりの体験ではなく、器から器へと移され続けることでした。そのたびに、何かが底に置いていかれる。清さの領域で、兄弟愛の領域で、日々の労働の領域で。

そして11節が、その姿を静かに描いています。静かであることに、野心を燃やせ。目立つことへ向かおうとするエネルギーを、地味な日常へ向け直しなさい、と。

注ぎ移しは、劇的な出来事の中でだけ起こるのではありません。仕事に身を入れること、手を使って働くこと、誰の世話にもならずに生活すること。その繰り返しの中で、澱は少しずつ底に残されていきます。

最後の注ぎ移し

そして17節。

それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ

「引き上げられ」——奪い取る、力ずくでさらう、という強い言葉でした。

これが、最後の注ぎ移しです。器が最後にもう一度、持ち上げられる。しかしこの時、置いていかれるものはもう何もありません。澄んだ酒だけが、王の前へ運ばれていきます。

そして、城門の外へ出て王を迎えるように、主を出迎える。

モアブの器は、一度も持ち上げられませんでした。棚の上で、澱を抱えたまま静かに置かれていた。誰にも触られず、傾けられず、味も香りも変わらないまま。

揺さぶられているあなたへ

もしあなたが今、揺さぶられているなら。

それは忘れられている印ではありません。器が傾いている音です。

そして、その器のかたわらには、四十日四十夜ひれ伏す方が立っておられます。あなたの罪をすべてご存じで、それでも「この者はあなたのものです」と語り続けておられる方が。

パウロは終末の壮大な場面を描き終えた後、こう結びました。

だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。(4章18節)

慰め合いなさい。この言葉は、注ぎ移されている最中の者たちへ向けられています。今まさに傾けられ、揺れている器同士が、互いに支え合いなさい、と。

〔図解F:三つの箇所を貫く一本の線〕

三つの箇所を貫く一本の線
申命記9章/エレミヤ書48-49章/テサロニケ人への第一の手紙4章
第一部 ── トーラー
砕かれ続けた民と、そのかたわらに立つ人
タベラ、マッサ、キブロテ・ハッタワ、カデシ・バルネア。金の子牛。砕かれた石の板。うなじが硬く、方向転換ができない民。
その器が傾けられる場所に、モーセが四十日四十夜ひれ伏していた。神は先に「わたしを止めるな」と言い、扉の取っ手をモーセの手に握らせている。
第二部 ── 旧約
一度も傾けられなかった器
モアブは千年のあいだ安泰だった。捕囚も亡国も知らない。味も香りも変わらないまま、澱を抱えて棚の上にあった。安住が高慢を育て、国は滅びた。
それでも、滅ぼすと宣言した当の主が、葬儀の笛のように嘆いておられる。さばきを語る口と、嘆く口が同じである。
第三部 ── 新約
今も続いている注ぎ移し
聖なる者にされていく過程は、一度きりの体験ではなく、器から器へと移され続けること。清さの領域で、兄弟愛の領域で、日々の労働の領域で。
パウロは二度くり返す ── ますます歩き続けなさい。ますます、そうしてほしい。そして、静かであることに野心を燃やせ、と。
一本の線
揺さぶられなかった国が滅び、砕かれ続けた民が残った
安住していた酒が捨てられ、何度も器を移された酒が澄んでいった。私たちが普通に考える「祝福」の定義が、ここでひっくり返る。
器を移す手は、乱暴に見えて、器を守る手
そして、その器のかたわらには、いつもとりなす者が立っている。モーセは民の罪を誰よりも厳しく数え上げた人であり、その同じ人が四十日四十夜ひれ伏した。罪を見ないことは愛ではなく、罪を見たから手を下ろすこともまた愛ではない。
最後の注ぎ移し
器が最後にもう一度、持ち上げられる。しかしこの時、置いていかれるものはもう何もない。澄んだ酒だけが、王の前へ運ばれていく。
もしあなたが今、揺さぶられているなら。それは忘れられている印ではない。器が傾いている音である。

語彙表

原語の表記・発音はAIの支援を得てまとめています。発音はおおよそのカタカナ表記です。

ヘブライ語(申命記9章・エレミヤ書48-49章)

原語カタカナ発音意味
הֶרֶף מִמֶּנִּיヘレフ・ミメンニ「わたしを止めるな」(申9:14)。ヘレフ=手を放す・そのままにしておけ(語根 רפה)、ミメンニ=わたしから。直訳「わたしから手を放せ」
קְשֵׁה־עֹרֶףケシェー・オレフ「強情な民」(申9:13)。ケシェー=硬い、オレフ=うなじ。軛の牛が方向転換できない状態
נַחֲלָהナハラー「嗣業」(申9:26,29)。相続財産・受け継がれる所有地
תַּבְעֵרָהタベラ「燃える所」(申9:22)。語根 בער(燃える)
מַסָּהマッサ「試み」(申9:22)。語根 נסה(試す)
קִבְרוֹת הַתַּאֲוָהキブロテ・ハッタワ「貪欲の墓」(申9:22)。キブロート=ケベル(墓)の複数連語形、ハッタアヴァー=定冠詞+タアヴァー(欲望・渇望)
שְׁמָרִיםシェマリーム「おり(澱)」(エレ48:11)。ぶどう酒の底に沈む沈殿物。語根 שמר(とどまる・保つ)
מִכְּלִי אֶל־כֶּלִיミッケリー・エル・ケリー「器から器に」(エレ48:11)。ケリー=器・容器、エル=〜へ
טַעְמוֹ / רֵיחוֹタアモー/レイホー「その味/その香気」(エレ48:11)。タアム(味)・レアハ(香り)+人称接尾辞
גְּאוֹן / גַּאֲוָה / גֹּבַהּ / רוּםガオーン/ガアヴァー/ゴーバハ/ルム「その尊大、高慢、横柄、およびその心の高ぶり」(エレ48:29)。高ぶりを表す近義語が四〜五語畳みかけられる
כַּחֲלִלִיםカハリリーム「笛のように」(エレ48:36)。ハリール(葬儀で吹かれる笛)の複数形+比較のカフ
כְּמוֹשׁケモシュモアブの国民神(エレ48:7,13,46)
מַלְכָּםマルカム「ミルコム」(エレ49:1,3)。本文の形は「彼らの王」とも読める。伝統的にはアンモンの国民神ミルコムと理解される
שׁוּב שְׁבוּתシューヴ・シェヴート「再び栄えさせる」(エレ48:47・49:6・49:39)。直訳「捕囚を返す」。転じて境遇・繁栄を回復するという広い意味の慣用句
רְמִיָּהレミヤー「怠る」(エレ48:10)。不誠実・怠慢・いい加減。神の御業を半端に扱うこと

ギリシャ語(テサロニケ人への第一の手紙4章)

原語カタカナ発音意味
ἁγιασμόςハギアスモス「清くなること/聖化」(4:3,4,7)。ハギオス(聖なる)から派生。状態ではなく進行する過程
περισσεύωペリッスエウオー「ますます」(4:1,10)。あふれる・増し加わる
φιλοτιμέομαιフィロティメオマイ「つとめて」(4:11)。フィロス(愛する)+ティメー(名誉)。名誉を求めて競うが原意
ἡσυχάζωヘースカゾー「落ち着いた生活をし」(4:11)。静かでいる・平穏を保つ
κοιμάομαιコイマオマイ「眠っている」(4:13,14,15)。日常語の「眠る」。名詞形コイメーテーリオン(眠る場所)→ラテン語 coemeterium →英語 cemetery
κέλευσμαケレウスマ「合図の声」(4:16)。号令・突撃命令・漕ぎ手への掛け声。新約ではこの一箇所のみ
ἀρχάγγελοςアルカンゲロス「天使のかしら」(4:16)。アルケー(首位)+アンゲロス(使者)
σάλπιγξサルピンクス「ラッパ」(4:16)。角笛。七十人訳で出エジプト19章のシナイの角笛にも使用
ἁρπάζωハルパゾー「引き上げられ」(4:17)。奪い取る・力ずくでさらう。ラテン語 rapio →英語 rapture(携挙)の語源
ἀπάντησιςアパンテーシス「主に会い」(4:17)。王・高官の訪問時に市民が城外へ出迎え、共に入城する公式儀礼を連想させる語。使徒28:15にも使用
παρακαλέωパラカレオー「慰め合いなさい」(4:18)。パラ(傍らに)+カレオー(呼ぶ)

本記事の聖書本文は、日本聖書協会発行の口語訳聖書(1954・1955年発行)を使用しています。著作権の保護期間(財産権)は満了していますが、本文の改変は行っておりません。※聖書語句訂正一覧に該当する語句は使用しておりません。

🌱 聖書を初めて読む方へ
同じ通読箇所を、聖書の専門用語を知らない方のために再構成したnote記事もあります。原語の表は省きましたが、聖書解説の深さは変わりません
聖書を初めて読みたい方、ご家族やご友人に紹介したい方は、ぜひこちらからどうぞ。
スポンサーリンク

コメント

タイトルとURLをコピーしました