2026年2月14日の聖書通読 「主がお入用なのです」― 奴隷の決断、エステルの覚悟、エルサレムの涙 ―

聖書の名言集
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通読箇所:出エジプト記21章1節〜11節/エステル記3章〜5章/ルカの福音書

今日の通読箇所を読みながら、一つの聖歌が心に迫ってきた。

「ああ驚くべきイエスの愛よ、罪を飲み去るおおみ恵みよ いかなる者も立ち返らば救いたもう主の恵みよ」

出エジプトの奴隷は、自由を得られるのに「主人を愛しています、去りたくありません」と告白した。エステルは「死ななければならないのでしたら、死にます」と王の前に進み出た。そして恵みが差し伸べられた。イエスは「主がお入用なのです」と、まだ誰も乗ったことのないろばの子を召された。

この聖歌の歌詞は、私自身の告白である。畏敬の念をもって、主の愛ゆえに、主に自分自身をお捧げしたい。今はそう思っていても、明日はどうなるか分からない私である。それでも、一瞬一瞬、主と共に歩みたい。そう願って今日の通読箇所を分かち合いたい。

※この記事は、要点だけを抜き出して理解できる内容ではありません。モーセ五書・旧約・新約の連続した文脈の中でのみ読まれることを意図しています。

【読み方のご案内】 第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。 時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。

では第一部(トーラーポーション)から、出エジプト21:1-11の奴隷法。


第一部:トーラーポーション(出エジプト21:1-11)


自由を手にしても、愛が引き留める

シナイ山で十戒を受けた直後、神がモーセに最初に語られた具体的な律法が、奴隷に関する規定であったことは注目に値する。神の民の社会秩序の土台に、弱者の保護が据えられているのである。

出エジプト21章2節は、ヘブル人の奴隷の権利を明確にする。六年間仕えた後、七年目には自由の身として去ることができる。ここでの「七年目」は、創造の七日目(安息日)と同じ構造を持つ。六日間の労働の後に安息が来るように、六年間の奉仕の後に解放が来る。神の律法には、抑圧を永続させない仕組みが最初から組み込まれている。

しかし、この律法の核心は解放の規定そのものにはない。4節から6節にかけて、驚くべき展開が待っている。

奉仕の期間中に主人から妻を与えられ、子どもが生まれた場合、妻子は主人のもとに残り、奴隷は独身で去らなければならない。一見すると残酷に映るこの規定は、実は奴隷に究極の問いを突きつけている。あなたは自由を愛するのか、それとも家族を愛するのか。

ここで注目したいのは5節の奴隷の告白である。「私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません」。ヘブライ語で「愛しています」は אָהַבְתִּי(アーハヴティー) ― 申命記6章5節の「あなたの神、主を愛しなさい」と同じ語根 אהב(アーハヴ) が使われている。この奴隷の告白は、単なる感情ではなく、契約的な愛の宣言なのである。

そしてこの決断に伴う儀式が6節に記される。主人は奴隷を「神のもとに」(אֶל־הָאֱלֹהִים エル・ハーエロヒーム)連れて行き、戸口の柱のところで耳をきりで刺し通す。耳(אֹזֶן オーゼン)は聖書において「聴くこと」の象徴である。「聞く」を意味する動詞 שָׁמַע(シャーマ) は、ただ音を聞くだけでなく「聴いて従う」という意味を含む。耳を刺し通すとは、「私はこの主人の言葉を永遠に聴き続けます」という、聴従の誓いの身体的表現なのである。

興味深い点として、この儀式が行われる場所が「戸口の柱」であることにも深い意味がある。戸口とは人が出入りする場所であり、外からの影響が入ってくる通路である。その柱 ― 戸口を支える要 ― のところで耳を刺し通すとは、この入口を通って入ってくる主人の言葉を、余すことなく聴き取るという意志の表明でもある。詩篇119篇130節は「あなたのみことばの戸口(פֵּתַח ペタフ=開口部、入口)は光を与える」と語る。さらに出エジプト12章で、過越の夜にイスラエルの民が小羊の血を塗ったのも戸口の柱であった。解放の記念が刻まれた場所で、新たな献身が宣言される。自由を知った者が、愛ゆえにその自由を捧げるのである。

使徒パウロはローマ人への手紙1章1節で、自らを「キリスト・イエスのしもべ」と名乗った。ここでの「しもべ」はギリシャ語で δολος(ドゥーロス) ― 「奴隷」である。パウロはキリストによって罪の奴隷から解放された自由人でありながら、愛ゆえにキリストの奴隷となることを選んだ。出エジプト21章の奴隷が、自由の権利を知りながら「去りたくありません」と告白したように。

7節から11節では、女性奴隷に対する保護規定が記される。古代近東の世界では、女性奴隷はほとんど権利を持たなかった。しかし神の律法は、食事(שְׁאֵרָהּ シェエーラー)、衣服(כְּסוּתָהּ ケスーター)、そして夫婦の権利(עֹנָתָהּ オーナーター)という三つの基本的権利を保障している。これら三つが守られなければ、女性は金を払わずに自由になれる(11節)。当時のバビロニアのハンムラビ法典にも奴隷保護の規定はあるが、モーセの律法ほど女性の尊厳を守る規定は見られない。

神の律法は、力ある者が弱い者を搾取することを許さない。そしてその保護の根拠は、イスラエル自身がエジプトで奴隷であったという記憶にある。「あなたがたも、かつて奴隷であった」― この原体験が、神の民の倫理の土台となっている。


第二部:旧約(エステル記3章〜5章)

ひざをかがめなかった男と、王の前に進み出た女

エステル記は聖書の中で唯一、「神」という言葉が一度も登場しない書である。しかし逆説的に、この書ほど神の見えざる摂理が鮮やかに描かれている書もない。今日の通読箇所には、二つの対照的な決断が記されている。モルデカイの「ひざをかがめない」という決断と、エステルの「王の前に進み出る」という決断である。

物語はアハシュエロス王がハマンを昇進させる場面から始まる(3:1)。ここで聖書は、ハマンを「アガグ人ハメダタの子」と紹介している。この「アガグ人」という一語には、数百年にわたる因縁が凝縮されている。アガグとはアマレク人の王であり、サムエル記上15章でサウル王が神の命令に完全に従わず、生かしておいた人物である。サウルの不完全な従順が蒔いた種が、何世代も後にユダヤ民族全体の存亡を脅かす実を結んだのである。そしてモルデカイはベニヤミン族、すなわちサウルと同じ部族の出身であった(エステル2:5)。サウルが決着をつけられなかった戦いが、その子孫の世代に再び持ち越されている。

モルデカイがハマンにひざをかがめなかった理由について、本文は「自分がユダヤ人であることを彼らに打ち明けていた」(3:4)と記している。これは単なる個人的な意地ではない。アマレクの子孫に礼拝的行為を捧げることは、第一戒「わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」と第二戒「自分のために偶像を造ってはならない」への信仰的応答としての拒否であった。モルデカイは、自分の命が危険にさらされることを承知の上で、神への忠誠を選んだのである。

ハマンの反応は激烈であった。モルデカイ一人を罰するだけでは満足せず、ユダヤ人全体の根絶を企てる(3:6)。ここにサタンの常套手段が映し出されている。一人の信仰者への怒りが、神の民全体への攻撃に拡大する。創世記3章以来、蛇の子孫と女の子孫の間の敵意(創世記3:15)は、歴史の中で繰り返し、この構図をとってきた。

3章7節で「プル、すなわちくじ」が投げられる。ヘブライ語で פּוּר(プール) は実はヘブライ語ではなく、アッカド語(バビロニア語)からの借用語である。異教の占いの道具でくじを投げたにもかかわらず、くじは第十二の月アダルに当たった。つまり、実行まで約一年の猶予が与えられたことになる。箴言16章33節は「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る」と語る。ハマンが異教のくじに頼った、まさにその行為の中で、神はご自身の民を救うための時間を確保されたのである。

場面はエステルへと移る。モルデカイからユダヤ人絶滅の法令を知らされたエステルは、率直な現実を告げる。「この三十日間、まだ、王のところへ行くようにと召されていません」(4:11)。召されずに王の内庭に入る者は死刑に処せられる。エステルの恐れは当然のものであった。

これに対するモルデカイの言葉が、エステル記の、いや聖書全体の中でも最も力強い信仰の宣言の一つとなる。「もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない」(4:13-14)。

「この時のため」― ヘブライ語で לְעֵת כָּזֹאת(レエート・カーゾート)。ここでの עֵת(エート) は、単なる時刻(chronos)ではなく、決定的な時(kairos)を指す。神がすべてを備え、整え、導いてこられた、その集大成としての「今」である。モルデカイは「神」という言葉を一度も口にしていない。しかし「別の所から助けと救いが起こる」という確信には、神への絶対的な信頼が込められている。神の名を語らずして、神の摂理を語る。これがエステル記の文学的・神学的な特異性である。

エステルの応答は、出エジプト21章の奴隷の決断と深く響き合う。「たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます」(4:16)。出エジプトの奴隷は、自由を放棄して愛する者のもとに留まることを選んだ。エステルは、安全を放棄して滅びゆく民のために王の前に進み出ることを選んだ。どちらも愛が恐れに打ち勝った瞬間である。

しかもエステルは、一人で戦おうとはしなかった。「シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように」(4:16)。個人の決断を共同体の祈りが支える。信仰の戦いは、決して孤独な戦いではない。

5章で、三日間の断食を経たエステルが王の前に立つ場面は、聖書の中でも最も緊張感に満ちた場面の一つである。「王が、庭に立っている王妃エステルを見たとき、彼女は王の好意を受けた」(5:2)。ヘブライ語で「好意を受けた」は נָשְׂאָה חֵן(ナーセアー・ヘーン) ― 直訳すれば「恵みを得た」である。死を覚悟して進み出た者に、恵みが差し伸べられた。

一方、ハマンの姿は対照的である。5章9節以降、ハマンは自分の富、子どもの多さ、王からの栄誉を誇り、王妃の宴会に招かれたことを自慢する。しかし13節で本音が漏れる。「王の門のところにすわっているあのユダヤ人モルデカイを見なければならない間は、これらのことはいっさい私のためにならない」。あらゆるものを持っていながら、一人の人間がひざをかがめないという事実だけで、すべてが無意味になる。これは、外的な成功で内的な空虚を埋めようとする人間の根本的な問題を映し出している。

エステルの覚悟とハマンの虚しさ。この対比が問いかけるのは、私たちは何のために生きているのか、ということである。自分の栄誉のためか、それとも「この時のため」に備えられた使命のためか。

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第三部:新約(ルカの福音書19章28節〜48節)

王の入城、王の涙、王の怒り

ルカ19章28節から48節には、イエスの三つの顔が描かれている。ろばの子に乗って入城する柔和な王、エルサレムのために涙を流す悲しみの王、そして神殿から商売人を追い出す怒りの王である。この三つの姿は矛盾しているように見えるが、実は一つの愛の異なる表現にほかならない。

イエスはエルサレムに向かう途中、弟子たちに不思議な指示を与える。「向こうの村に行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない、ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて連れて来なさい」(19:30)。もし理由を尋ねられたら、こう答えよ ―「主がお入用なのです」( κύριος ατο χρείαν χει ホ・キュリオス・アウトゥー・クレイアン・エケイ)。

「まだだれも乗ったことのない」ろばの子。これは聖別された存在を意味する。民数記19章2節で赤い雌牛が「まだくびきを負ったことのない」ものでなければならなかったように、主のために用いられるものは、他の目的に使われていないものが選ばれる。このろばの子は、この瞬間のために、この場所につながれていたのである。

ゼカリヤ9章9節はこう預言していた。「見よ。あなたの王があなたのところに来る。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる」。イスラエルの預言神学において、ろばに乗る王は独自の意味を持つ。ソロモンの即位の際、ダビデは自分の騾馬にソロモンを乗せた(列王記上1:33)。王が軍馬ではなくろばに乗るとは、軍事力によらない統治、すなわち神の義と平和による王権の象徴であった。イエスはこの預言的伝統の成就として、意図的にろばの子を選ばれたのである。

弟子たちは喜びに満ちて叫ぶ。「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に」(19:38)。これは詩篇118篇26節の引用である。パリサイ人たちが「弟子たちをしかってください」と抗議すると、イエスは答えられた。「もしこの人たちが黙れば、石が叫びます」(19:40)。被造物全体が、創造主の入城を証しせずにはいられない。ハバクク2章11節の「石は壁から叫び」という預言が響いている。

しかし、ここで場面は一転する。

「エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて」(19:41)。ここでの「泣いて」は κλαυσεν(エクラウセン) ― 静かな涙ではなく、声を上げて泣く激しい嘆きである。群衆が歓喜の声を上げている、まさにその同じ瞬間に、イエスは泣いておられた。群衆には見えていないものが、イエスには見えていたのである。

「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら」(19:42)。「平和」は ερήνη(エイレーネー)、ヘブライ語の שָׁלוֹם(シャローム) に対応する。そしてエルサレム(יְרוּשָׁלַיִם イェルシャライム)という都の名前自体に「シャローム」が含まれている。平和の都が、平和の王を迎えながら、平和を知ることができなかった。 これが、イエスの涙の理由であった。

19章44節の言葉は預言的である。「それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ」。「訪れの時」はギリシャ語で καιρν τς πισκοπς(カイロン・テース・エピスコペース)カイロス とは、単なる時間の経過ではなく、神が決定的に介入される瞬間を指す。エステル記の「この時のため」(לְעֵת כָּזֹאת レエート・カーゾート)と同じ概念である。エステルはその時を捉えた。エルサレムはその時を逃した。同じ神のカイロスに対する、二つの正反対の応答がここにある。

この預言は紀元70年に成就する。ローマ将軍ティトゥスの軍勢がエルサレムを包囲し、神殿を破壊した。「一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない」(19:44)という言葉は文字通り実現したのである。

そして最後の場面、宮清めである。イエスは宮に入り、商売人たちを追い出して宣言される。「わたしの家は、祈りの家でなければならない。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした」(19:46)。前半はイザヤ56章7節、後半はエレミヤ7章11節からの引用である。

「わたしの家」( οκός μου ホ・オイコス・ムー)。イエスは神殿を「わたしの家」と呼ばれた。これは神性の宣言にほかならない。神殿は神の住まいであり、その神殿を「わたしの家」と呼ぶ方こそ、まことの神殿の主である。

出エジプト21章6節で、愛の奴隷の儀式が「神のもとに」行われたように、神の家は本来、愛と献身が表明される場所である。それが商売の場に変えられていた。エステル記でハマンが王の権威を私利私欲のために利用したように、宗教指導者たちは神の家を利益追求の手段にしていた。聖なるものの世俗化に対する王の怒りは、正義の怒りである。

19章47節から48節が記す光景は印象的である。祭司長や律法学者たちはイエスを殺そうとねらっていた。しかし「民衆がみな、熱心にイエスの話に耳を傾けていたから」手を出せなかった。民衆は文字通り、イエスの言葉に ξεκρέματο(エクセクレマト) ― 「ぶら下がるようにして聴き入っていた」のである。出エジプト21章の愛の奴隷が耳を刺し通して主人の言葉に聴き従う姿と、この民衆の姿が重なる。主の言葉を聴くことへの、魂の渇望がそこにある。

第四部:全体の一貫性

「この時のために」― 愛が決断を迫る神のカイロス

出エジプトの奴隷法、エステル記の王宮の危機、ルカの福音書のエルサレム入城。一見すると時代も場面もまったく異なるこの三つの箇所に、一本の太い糸が貫いている。それは、神のカイロス(決定的時)が人に決断を迫り、愛がその決断の鍵となるという真理である。

出エジプト21章の奴隷は、七年目に決断を迫られた。自由を得て去るか、愛する者のもとに留まるか。この決断には期限がある。七年目という神の定めた時が来たとき、奴隷は自分の心の奥底にあるものと向き合わなければならなかった。そして愛が勝ったとき、彼は「私は主人を愛しています。去りたくありません」と告白し、戸口の柱で耳を刺し通された。自由の権利を知った上で、なお留まることを選ぶ。これが強制ではない、本物の献身の姿である。

エステルもまた、決断の時を迎えた。モルデカイの言葉「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない」(エステル4:14)は、エステルの人生全体に意味を与える一言であった。ペルシャ王の後宮に選ばれたこと、王の好意を得たこと、そしてこの瞬間にユダヤ人として王に最も近い場所にいること ― すべてが「この時」に向けて備えられていた。エステルは自分の安全を手放し、「死ななければならないのでしたら、死にます」(4:16)と宣言して王の前に進み出た。

ルカ19章のエルサレムにも、同じカイロスが訪れていた。平和の王がろばの子に乗り、平和の都に入ってこられた。神がご自身の民を訪れてくださった、決定的な瞬間であった。しかしエルサレムは、その時を知らなかった。イエスは涙を流して言われた。「それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ」(19:44)。

三つの場面に共通するのは、神のカイロスは永遠に開かれたままではないという厳粛な事実である。七年目の奴隷にとって、その時を逃せば次の機会はない。エステルにとって、沈黙を選べば「あなたの父の家も滅びよう」とモルデカイは警告した。エルサレムにとって、この訪れを拒んだ結果は紀元70年の壊滅的な破壊であった。

しかし、この三つの場面にはもう一つの共通点がある。それは、決断の根底にあるのが恐れではなく愛であったということである。

奴隷は恐れから留まったのではない。「私は主人を愛しています」と告白して留まった。エステルは義務感から進み出たのではない。自分の民への愛が、死への恐れに打ち勝った。そしてイエスは、ご自身を拒絶する都のために泣かれた。石が叫ぶほどの栄光の入城の最中に、滅びゆく都のために涙を流す。これが神の愛の姿である。

ここで注目すべきは、三つの箇所における「場所」の象徴的意味である。奴隷は「戸口の柱」で献身を表明した。戸口とは、主の言葉が入ってくる通路であり、過越の血が塗られた解放の記念の場所である。エステルは「王宮の内庭」に立った。召されずに入れば死刑という場所に、断食と祈りを経て進み出た。イエスは「神殿」に入り、「わたしの家は祈りの家でなければならない」と宣言された。いずれも、神と人が出会う場所、神の臨在に近づく場所である。そしてその場所にふさわしい態度は、商売でも自己保身でもなく、愛に基づく全き献身なのである。

エステル記のハマンは、この真理の反面教師として描かれている。あらゆる栄誉と富を手にしながら、モルデカイが一人ひざをかがめないだけで「これらのことはいっさい私のためにならない」(5:13)と嘆く。自己の栄光を求める者は、どれほど多くを得ても満たされない。しかし愛のゆえに自分を差し出す者 ― 奴隷も、エステルも、そして究極的にはイエスご自身も ― は、すべてを失うように見えて、すべてを得るのである。

パウロはピリピ2章6節から8節で、このキリストの姿を描いた。「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。…自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」。これはまさに出エジプト21章の愛の奴隷の究極的成就である。自由であられた方が、愛ゆえに奴隷の姿をとられた。栄光の王が、ろばの子に乗られた。天の王座におられた方が、十字架の上で「耳を刺し通される」ことを選ばれた。

今日の通読箇所が私たちに問いかけているのは、こういうことである。神のカイロスは、今日もなお訪れている。主はろばの子を求めたように、「主がお入用なのです」と私たちの人生にも語りかけておられる。エステルに「この時のため」と告げられたように、私たちの置かれた場所にも神の目的がある。問われているのは、その声を聴いたとき、私たちがどう応答するかである。

恐れに支配されて沈黙するか。自己保身を選んで安全な場所に留まるか。それとも、愛のゆえに一歩を踏み出すか。

出エジプトの奴隷は、耳を差し出した。エステルは、内庭に足を踏み入れた。イエスは、十字架への道を歩まれた。いずれも自発的な愛の決断であった。そして、その決断を支えたのは個人の勇気だけではない。エステルが三日間の断食をユダヤ人全体に求めたように、信仰の決断は共同体の祈りによって支えられるのである。

「わたしの家は、祈りの家でなければならない」。この主の宣言は、神殿の浄化だけを意味しているのではない。私たちの心こそが神の宮であり(第一コリント6:19)、その宮が祈りの家として整えられるとき、私たちは神のカイロスを聴き取る耳を持つ者となる。出エジプトの奴隷が戸口の柱で耳を刺し通されたように、主の言葉が入ってくる通路を開き続けること。それが「この時のため」に備えられた者の姿勢なのである。

神のカイロスと愛の決断

神のカイロスと愛の決断

「主がお入用なのです」― 三つの箇所を貫く一本の糸
トーラー
出エジプト記
21:1-11
旧 約
エステル記
3章〜5章
新 約
ルカの福音書
19:28-48
カイロス ― 決定的時
七年目の解放の時
奴隷が自由か愛かを問われる 出エジプト 21:2
「この時のため」
エステルが王国に来た神の目的
לְעֵת כָּזֹאת(レエート・カーゾート)
エステル 4:14
「神の訪れの時」
平和の王がエルサレムに来られた
καιρὸν τῆς ἐπισκοπῆς
ルカ 19:44
愛の決断
「私は主人を愛しています。去りたくありません」
אָהַבְתִּי(アーハヴティー)
出エジプト 21:5
「死ななければならないのでしたら、死にますエステル 4:16
エルサレムのために泣かれたイエス
ἔκλαυσεν(エクラウセン)
ルカ 19:41
場所の象徴 ― 神と人が出会う場所
戸口の柱
過越の血が塗られた場所
主の言葉が入る通路 出エジプト 21:6
王宮の内庭
召されずに入れば死刑
断食と祈りを経て進み出た エステル 5:1-2
神殿(祈りの家)
「わたしの家は祈りの家で
なければならない」 ルカ 19:46
恵みの応答
耳をきりで刺し通し
永遠に仕える者となった 自発的献身 出エジプト 21:6
王が金の笏を差し伸べ
恵みを得た(ナーセアー・ヘーン) 恵みによる救い エステル 5:2
民衆がイエスの言葉に
ぶら下がるように聴き入った み言葉への渇望 ルカ 19:48
▼ 反面教師:ハマンの姿 ▼
あらゆる栄誉と富を持ちながら、モルデカイが一人ひざをかがめないだけで
「これらのことはいっさい私のためにならない」(エステル 5:13)
― 自己の栄光を求める者は、どれほど多くを得ても決して満たされない ―

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