2026年2月13日の聖書通読

聖書の名言集
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神が先に捜しておられる

——モーセの暗やみ、エステルの沈黙、ザアカイの木——

日本語には「恐れる」と「畏れる」という二つの漢字がある。しかしヘブライ語にはこの区別が存在しない。では今日の通読箇所に現れる「おそれ」は、どちらなのか——そしてその違いが、信仰のすべてを分けるとしたら。

神に近づく方法を、あなたはどこで学んだだろうか——人間の知恵からか、それとも神ご自身からか。

—モーセの暗やみ、エステルの沈黙、ザアカイの木—

通読箇所:出エジプト記20:18-26/エステル記1-2章/ルカの福音書19:1-27

※この記事は、要点だけを抜き出して理解できる内容ではありません。モーセ五書・旧約・新約の連続した文脈の中でのみ読まれることを意図しています。

【読み方のご案内】 第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。 時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。

第一部:トーラーポーション(出エジプト記20:18-26)

二つの「恐れ」——同じ言葉、正反対の方向

シナイ山で十戒が与えられた直後、イスラエルの民は雷といなずま、角笛の音と煙る山を目の当たりにした。民の反応は明確だった。「退いて遠く離れて立った」(20:18)。神に語ってほしくない、モーセを通してだけ話してほしい——それが民の願いだった。

これに対してモーセは言った。「恐れてはいけません。神が来られたのはあなたがたを試みるためなのです。また、あなたがたに神への恐れが生じて、あなたがたが罪を犯さないためです」(20:20)。

ここで注目したいのは、一つの節に「恐れ」が二度登場しながら、その意味が正反対だということである。興味深いことに、ヘブライ語ではどちらも同じ語根「ירא」(ヤーレー)から来ている。古代ヘブライ語には「恐怖」と「畏敬」を区別する別々の単語が存在しない。では何が意味を分けるのか——文法構造と文脈である。

最初の「恐れてはいけません」は動詞形「אַל־תִּירָאוּ」(アル・ティーラウー)で、否定命令として用いられている。民が雷と煙を見て逃げ出したくなるパニック的恐怖を指す。一方「神への恐れ」は名詞形「יִרְאָתוֹ」(イルアトー)で、「罪を犯さないため」という目的と直接結びついている。同じ語根から派生した言葉を、一つの節の中で意図的に対比させているのである。

日本語では「恐れ」と「畏れ」を漢字で書き分けることができるが、ヘブライ語原文ではあくまで同じ言葉である。だからこそ文脈を読む力が求められる。パニックの恐怖は人を神から遠ざける。畏敬の恐れは人を神に近づける。同じ言葉でありながら、ベクトルがまったく逆なのである。民は前者に支配されて「遠く離れて立った」。モーセは後者に導かれて、神のもとへ進んだ。

暗やみの中の神——アラフェルの神学

21節の描写は印象的である。「民は遠く離れて立ち、モーセは神のおられる暗やみに近づいて行った。」

この「暗やみ」はヘブライ語で「עֲרָפֶל」(アラフェル)——ただの闇ではない。濃密な雲、深い暗黒を意味する言葉である。後にソロモンも神殿奉献の際に「主は、暗やみの中に住む、と仰せられました」(第一列王記8:12)と語っている。

これは信仰における深い逆説を示している。神の臨在があまりにも濃密であるとき、人間の感覚にはむしろ「何も見えない」と感じられる。雷や稲妻という目に見える顕現を恐れて退いた民と、目に見えない暗やみの中に神がおられると信じて進んだモーセ。この対比は、感覚に頼る信仰と、神の言葉に信頼する信仰の分水嶺を示している。

興味深いことに、この構造は今日の他の通読箇所にも現れる。エステルは自分の運命が見えない中で王の前に進み出る。ザアカイは群衆に阻まれて見えない中で、それでも見ようとして木に登る。見えないからこそ近づく信仰——これが聖書の一貫した信仰の姿である。

人間の加工を拒む祭壇——神への近づき方の原則

シナイ山での啓示に続いて、神は祭壇についての具体的な規定を与えられた。「わたしのために土の祭壇を造り」(20:24)、そして石の祭壇を造る場合は「切り石でそれを築いてはならない。あなたが石に、のみを当てるなら、それを汚すことになる」(20:25)と命じられた。

ここで「のみ」と訳されているヘブライ語「חֶרֶב」(ヘレブ)は、実は「剣」と同じ語根である。人間が武器や道具で加工を施すことは、神の祭壇を「汚す」(חלל ハーラル=冒涜する)ことになる。神への礼拝に、人間の技巧や装飾は要らない。むしろそれは冒涜になりうるのである。

さらに26節では「階段で、わたしの祭壇に上ってはならない。あなたの裸が、その上にあらわれてはならないからである」と命じられている。表面的には実用的な規定に見えるが、より深い神学的意味がある。創世記3章で罪の後、人間は自分の裸を恥じるようになった。祭壇に階段で上ること——つまり人間が自力で高く上ろうとすること——は、かえって恥を露わにする行為なのである。バベルの塔が天に届こうとして裁かれたのと同じ原理がここにある。

この原則は明確である。神に近づく方法は、人間の側で考案するものではない。神ご自身が定められた方法で、飾ることなく、自力で高く上ろうとすることなく、ただ神の言葉に従って近づく。それが神に受け入れられる礼拝の姿である。

シナイ山での出来事は、一つの根本的な問いを私たちに突きつけている。神が語りかけてくださるとき、私たちは民のように恐れて退くのか、それともモーセのように暗やみの中に進むのか。そしてその神に近づくとき、人間の装飾で自分を飾るのか、それとも神が定められた方法にただ従うのか。


第二部:旧約(エステル記1-2章)

この世の王と天の王——力による支配と愛による招き

エステル記の幕開けは、圧倒的な権力の誇示から始まる。「アハシュエロス王がシュシャンの城で、王座に着いていたころ」(1:2)。このアハシュエロスはホドからクシュまで百二十七州を治める大帝国ペルシャの王であった。ホド(הֹדּוּ ホッドゥー)は現在のパキスタンからインド西部にあたるインダス川流域の属州、クシュ(כּוּשׁ クーシュ)は現在のスーダンからエチオピア北部にあたる。つまり南アジアから北東アフリカまで——現代の国名で言えば、インド・パキスタンからイラン、イラク、トルコ南部、シリア、イスラエル、エジプトを経てスーダン・エチオピアに至る、当時の世界最大の帝国である。歴史的にはペルシャ帝国(アケメネス朝)のクセルクセス一世(在位前486-465年)として知られる人物である。アハシュエロスはヘブライ語での呼び名で、ギリシャ語ではクセルクセスと呼ばれる。その宴会は百八十日間にも及んだ(1:4)。白綿布と青色の布、大理石の柱と銀の輪、金と銀の長いす、モザイクの床——聖書はこの世の栄華を驚くほど詳細に描写している。

しかしこの壮麗な舞台の上で、最初に起こった出来事は王の権威の挫折であった。

七日目、酒で心が陽気になった王は、王妃ワシュティに王冠をかぶらせて人々の前に連れて来るよう命じた。「それは、彼女の容姿が美しかったので、その美しさを民と首長たちに見せるためであった」(1:11)。王妃を「展示品」として見せびらかそうとしたのである。

しかしワシュティは拒んだ。

この拒否の背景には、ある種の正当性があったかもしれない。酔った王が妻を宴席に呼び出して衆目にさらす行為は、王妃の尊厳を踏みにじるものだった。ラビの伝承の中には、王が王冠「だけを」かぶって来るよう命じたという解釈もある。確証はないが、少なくとも文脈から読み取れるのは、王が妻の美しさを自分の権力の装飾品として利用しようとしたということである。

ここで出エジプト記20:26の祭壇の規定が思い起こされる。「あなたの裸が、その上にあらわれてはならない」——人の栄光をさらけ出すことは、聖書的な価値観において「恥」に近い。アハシュエロスが王妃を衆目にさらそうとした行為と、神が祭壇での「裸の露出」を禁じた規定は、同じ原則の表裏である。

王の怒りに対して顧問メムカンが進言した。「女たちは自分の夫を軽く見るようになるでしょう」(1:17)。その解決策は勅令による強制——「男子はみな、一家の主人となること」を法令で命じた(1:22)。法律で尊敬を強制しようとする滑稽さがここにある。尊敬とは本来、権力で勝ち取るものではなく、人格によって自然に生まれるものではないだろうか。

ここに、この世の王と天の王の根本的な違いが浮かび上がる。アハシュエロスは法令によって妻の従順を強制しようとした。しかし天の父は、ご自身のすばらしさを自由意志で認める者だけを花嫁として招かれる。強制ではなく、愛による招き。後にルカの福音書で見るザアカイの物語は、まさにこの天の王の姿を映し出している。

ヘガイの導き——聖霊の型としての宦官

ワシュティの退場によって、歴史の舞台にエステルが登場する。

モルデカイに養育されたユダヤ人の孤児エステルは、容姿の美しい娘たちとともにシュシャンの城に集められ、「女たちの監督官である王の宦官ヘガイの管理のもとに置かれた」(2:8)。

ヘガイの役割は預型的に読むと、聖霊の働きの型である。ヘガイは王の好みを熟知し、花嫁候補を整え、王に喜ばれるために必要なものを与える存在である。エステルはすぐに「ヘガイの心にかない、彼の好意を得た」(2:9)。ヘガイは急いで化粧に必要な品々とごちそうを彼女に与え、七人の侍女をあてがい、「婦人部屋の最も良い所に移した」。

ここで花嫁の準備過程にも注目したい。「十二か月の期間が終わって後、ひとりずつ順番にアハシュエロス王のところに、入って行くことになっていた。これは、準備の期間が、六か月は没薬の油で、次の六か月は香料と婦人の化粧に必要な品々で化粧することで終わることになっていたからである」(2:12)。

最初の六か月が没薬(מֹר モル)の油であるのは象徴的である。没薬は聖書全体を通して死と献身に結びつく香料である。東方の博士がイエスに捧げた贈り物(マタイ2:11)、十字架上のイエスに差し出された没薬入りのぶどう酒(マルコ15:23)、埋葬時の香料(ヨハネ19:39)——いずれもキリストの死と結びついている。

花嫁の準備がまず没薬から始まるということは、霊的に読むなら、キリストの花嫁となる者はまず「自分に死ぬこと」から始めなければならないということである。イエスの言葉「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(ルカ9:23)と重なる。華やかな香料による装いは、この没薬の過程を経た後に来る。自我の死なくして、真の美しさは生まれない。

エステルの選択——聖霊の勧め以外を求めない信仰

エステルの信仰の核心が最も鮮やかに現れるのは2:15である。「王のところに入って行く順番が来たとき、彼女は女たちの監督官である王の宦官ヘガイの勧めたもののほかは、何一つ求めなかった。」

他の娘たちは王の前に出るとき、自分の好みのものを持って行った(2:13)。与えられたものに加えて、自分の判断で何かを付け足した。しかしエステルはヘガイの勧めだけに従った。自分の好みも、自分の判断も挟まなかった。

この姿勢は、出エジプト記の祭壇の規定と深く共鳴する。神は祭壇に人間の加工を加えることを禁じられた。のみを当てれば「汚す」ことになる。エステルは自分という「祭壇」に人間の装飾を加えなかった。ヘガイ(聖霊)が整えてくださったそのままの姿で王の前に出た。

結果はどうだったか。「王はほかのどの女たちよりもエステルを愛した。このため、彼女はどの娘たちよりも王の好意と恵みを受けた」(2:17)。聖霊の導きに完全に従順な者が、神に最も喜ばれる。人間の装飾を加えない礼拝が、神に最も受け入れられる。シナイ山の祭壇の原則が、ペルシャの王宮で成就しているのである。

モルデカイ——門に座るとりなし手

エステルが王宮の中で試練を通っている間、モルデカイは「毎日婦人部屋の庭の前を歩き回り、エステルの安否と、彼女がどうされるかを知ろうとしていた」(2:11)。

モルデカイの預型的意味は複合的である。彼はバビロン捕囚の子孫でありながら信仰を守り続ける忠実な残りの民(レムナント)の型であり、エステルを養育し導く聖霊的な働きの側面も持つ。しかし最も印象的なのは、門に座って絶えず花嫁のために見守る「とりなし手」としての姿である。

さらに2:21-23で、モルデカイは王への暗殺計画を発見してエステルに知らせ、王の命を救う。この功績は「年代記の書に記録された」が、すぐには報われない。報いが来るのはずっと後のことである(6章)。この「隠された功績がやがて明るみに出て高く上げられる」パターンは、キリストの謙卑と高挙(ピリピ2:6-11)を彷彿とさせる。

ここで一つの問いが浮かぶ。エステルが自分の民族を隠していたのはなぜか(2:10、20)。モルデカイが「明かしてはならない」と命じたからである。単に捕囚民として低く見られることを避けるためだけではなかっただろう。後にエステルの民族が明かされるタイミングが、ハマンの陰謀を覆す決定的な鍵となる。「この時のためにこそ、あなたは王妃の位に着いたのではないか」(4:14)。沈黙にも神のタイミングがある。情報を隠すことが、神の摂理の中で最大の効果を発揮する時が来る。

エステル記の最初の二章は、一見すると宮廷の政治劇に過ぎない。しかしその背後に、神が花嫁を整え、守り、導く壮大な摂理のドラマが流れている。そしてこの摂理は、力による強制ではなく、自由意志による応答と、聖霊の導きへの従順を通して展開されるのである。

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第三部:新約(ルカの福音書19:1-27)

捜す者と捜される者——ザアカイの木とミナのたとえ

エリコの町に、一人の男がいた。取税人のかしらで、金持ちで、そして背が低かった。ザアカイという名のこの男は、「イエスがどんな方か見ようとしたが、群衆のために見ることができなかった」(19:3)。

ザアカイの状況を考えてみたい。取税人のかしらということは、ローマ帝国のために同胞から税を取り立てる人間の元締めである。当時のユダヤ社会で、これほど嫌われる職業はなかった。群衆がザアカイに道を譲るはずがない。彼が「見ることができなかった」のは、単に身長の問題だけではなかっただろう。社会的な壁、軽蔑の壁が彼とイエスの間に立ちはだかっていたのである。

それでもザアカイは走った。体裁も捨てて前方に走り出て、いちじく桑の木に登った(19:4)。取税人のかしらという地位ある大人が木に登る姿は、人目には滑稽に映ったことだろう。しかしこの「みっともない姿」こそが、信仰の本質を映し出している。

ここで出エジプト記20:26の祭壇の規定との対比が浮かび上がる。祭壇に階段で上ると「裸があらわれる」——自力で神の前に高く上ろうとすれば恥が露わになる。しかしザアカイが木に上ったのは、自分の功績や地位を誇示するためではなかった。むしろ地位も体裁もかなぐり捨てて、ただイエスを「見たい」という一心で登ったのである。祭壇の階段は自己高揚の象徴だが、ザアカイの木は自分の無力さを認めた上での必死の行為だった。動機がまったく違う。

「きょうは、あなたの家に泊まることにしてある」——神的必然の訪問

イエスの応答は驚くべきものだった。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」(19:5)。

ここで注目すべきは「泊まることにしてある」という表現である。ギリシャ語で「δεῖ」(デイ)——「〜しなければならない」「神的必然」を意味する言葉が使われている。ルカはこの言葉をイエスの使命的行為に繰り返し用いる。「人の子は多くの苦しみを受け……殺され……よみがえらなければならない(δεῖ)」(ルカ9:22)と同じ言葉である。つまりザアカイの家を訪れることは、イエスにとって十字架と同じレベルの神的必然だった。偶然の出会いではない。天の父の計画として、この訪問は定められていたのである。

これはエステル記の「この時のためにこそ、あなたは王妃の位に着いたのではないか」(4:14)と同じ摂理の構造である。ザアカイが「たまたま」いちじく桑の木に登ったのも、エステルが「たまたま」美しい娘だったのも、偶然ではない。人が神を捜し求めるとき、実は神がその人を先に捜しておられる。

さらに深いことがある。ザアカイがイエスを「見ようとした」(19:3)で使われている動詞と、イエスが「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」(19:10)の「捜して」(ζητῆσαι ゼーテーサイ)は、同じ「求める・捜す」という意味の動詞系統に属する。ザアカイがイエスを求めていたとき、イエスがザアカイを捜しておられた。この二つの「捜す」が交差した場所が、いちじく桑の木の下だったのである。

強制なき変革——アハシュエロスとイエスの対比

ザアカイの応答も注目に値する。「ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた」(19:6)。そして自発的にこう宣言した。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」(19:8)。

誰もザアカイに命じていない。法令も勅令もない。イエスは「財産を手放せ」とも「不正を償え」とも一言も言っていない。ただ「あなたの家に泊まる」と言われただけである。それだけで、ザアカイの人生は根底から変わった。

ここにエステル記1章のアハシュエロス王との鮮烈な対比がある。アハシュエロスは法令によって妻の従順を、帝国中の女たちの尊敬を強制しようとした。百二十七州に書簡を送り、「男子はみな、一家の主人となること」を命じた(1:22)。権力による支配、法律による強制である。

しかしイエスは権力を一切行使しなかった。罪人の家に泊まるという、むしろ社会的には自分の評価を下げる行為を選ばれた。「あの方は罪人のところに行って客となられた」(19:7)と人々がつぶやいたように。そしてその愛の行為が、いかなる法令よりも強力にザアカイの心を変えた。

この世の王は力で人を従わせようとする。天の王は愛で人を変えられる。強制された従順と、愛に応答した自発的な献身——その間には天と地ほどの違いがある。

ミナのたとえ——恐怖の信仰と信頼の信仰

ザアカイの物語に続いて、イエスはミナのたとえを語られた。その理由をルカは明確に記している。「イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現れるように思っていたからである」(19:11)。

たとえの構造はこうである。ある身分の高い人が王位を受けるために遠い国に行く前に、十人のしもべに一ミナずつ与え、「私が帰るまで、これで商売しなさい」と命じた(19:13)。これは昇天と再臨の間の教会時代を指している。王は去るが、やがて帰って来る。その間に与えられたものをどう用いるかが問われる。

帰って来た王の前で、最初のしもべは一ミナから十ミナを、二番目は五ミナを生み出した。しかし三番目のしもべは一ミナをふろしきに包んでしまっておいた。その理由は「あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました」(19:21)。

ここで出エジプト記20:20の「二つの恐れ」が再び現れている。最初の二人のしもべは主人への健全な畏れ——信頼に基づく敬意——を持っていた。だからこそ与えられたものを積極的に用いることができた。しかし三番目のしもべは主人への歪んだ恐怖——「きびしい方」「預けなかったものを取り立てる方」——に支配されていた。この恐怖が彼を麻痺させ、与えられたミナを隠させた。

主人の応答は厳しい。「悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたをさばこう」(19:22)。注目すべきは、主人がしもべの「能力」ではなく「主人への認識」によって裁いていることである。問題は才能の有無ではなかった。神をどのような方として知っているか——それが信仰の実を左右するのである。

パニック的恐怖は神から離れさせ、タラントを隠させ、実を結ばせない。健全な畏れは神に近づかせ、タラントを用いさせ、豊かな実を結ばせる。シナイ山で民が恐れて退いたのと、三番目のしもべがミナを隠したのは、同じ霊的構造の表れである。

「失われた人を捜して」——この箇所全体の福音

イエスはザアカイに向かって宣言された。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」(19:9-10)。

「アブラハムの子」という宣言は重い。ザアカイはローマの手先として同胞を搾取してきた人間である。ユダヤ社会からは「罪人」の烙印を押され、アブラハムの契約から外れた者と見なされていた。しかしイエスは彼を「アブラハムの子」と呼ばれた。失われていたが、血筋が変わったわけではない。契約の外に追い出されたように見えていたが、神の目にはずっとアブラハムの子だった。

そして「人の子は、失われた人を捜して救うために来た」——この一文にルカ19章全体、そして今日の通読箇所全体の福音が凝縮されている。神は遠く離れて立つ民を放置されない。暗やみの中でモーセを待っておられる。ペルシャの王宮にエステルを備えておられる。エリコのいちじく桑の木の下で、ザアカイを見上げておられる。捜しているのは人間の側だけではない。神が先に捜しておられるのである。

第四部:全体の一貫性——神が先に捜しておられる

今日の三つの通読箇所——シナイ山の祭壇規定、ペルシャ宮廷の花嫁選び、エリコの取税人との出会い——は、時代も舞台もまったく異なる。しかしその根底に、一本の太い神学的な糸が貫いている。それは「神に近づく方法は、人間が考案するものではなく、神ご自身が備えてくださる」という真理である。

三つの「近づき方」——人間の方法と神の方法

出エジプト記で神は、祭壇に人間の加工を加えることを明確に禁じられた。のみを当てれば汚すことになる。階段で上れば裸があらわれる。人間の技巧や自己高揚は、神への礼拝を冒涜するものとなる。

エステル記では、王の前に出る娘たちの姿にこの原則が映し出された。多くの娘たちは自分の好みのものを持って行った。自分の判断で飾りを加えた。しかしエステルだけがヘガイの勧めたもの以外何一つ求めなかった。人間の装飾を加えない純粋な従順が、王に最も愛された。

ルカの福音書では、ザアカイが体裁も地位もかなぐり捨てて木に登った。自分の功績で神に近づいたのではない。自分の無力さを認めた上での必死の行為だった。そしてイエスの方から「きょうは、あなたの家に泊まることにしてある」と宣言された。

切り石の祭壇と自然石の祭壇。自分の好みの装飾品とヘガイの勧め。タラントを隠す恐怖と信頼して用いる信仰。三つの箇所すべてに「人間の方法」と「神の方法」の対比が鮮明に描かれている。

二つの「恐れ」が貫くもの

この対比の根底にあるのは、出エジプト記20:20で明らかにされた二つの「恐れ」の違いである。

同じヘブライ語の語根「ヤーレー」から生まれながら、パニック的な恐怖と健全な畏敬ではベクトルがまったく逆になる。恐怖は人を神から遠ざけ、畏敬は人を神に近づける。この原理は今日の三箇所すべてに貫かれている。

シナイ山で民は恐怖に支配されて「遠く離れて立った」。モーセは畏敬をもって暗やみの中の神に近づいた。エステル記では、アハシュエロス王が法令と権力で人々の恐怖を利用して従順を強制した。しかしエステルはヘガイへの信頼と畏敬をもって、静かに王の前に進んだ。ルカの福音書では、三番目のしもべが主人への歪んだ恐怖に支配されてミナを隠した。一方ザアカイは群衆の目も社会的体裁も恐れず、イエスを見たいという一心で木に登った。

恐怖は麻痺させる。畏敬は行動させる。恐怖は隠させる。畏敬は差し出させる。どちらの「恐れ」に立つかで、信仰の実がまったく変わるのである。

この世の王と天の王——力と愛の対比

今日の箇所に現れるもう一つの重要な対比は、権力による支配と愛による招きの違いである。

アハシュエロス王はインドからアフリカに至る百二十七州を治める世界最大の帝国の王であった。しかしその絶大な権力をもってしても、妻の心を動かすことはできなかった。ワシュティの拒否に対して王ができたのは、怒りに任せて追放し、法令で帝国中の女性に夫への尊敬を強制することだけだった。力で得た従順は、表面的な服従に過ぎない。

一方イエスは、ザアカイに対して何の権力も行使しなかった。命令も法令も脅しもない。むしろ「罪人の家に泊まる」という、自らの社会的評価を下げる行為を選ばれた。しかしその愛の行為が、いかなる法令よりも強力にザアカイの心を根底から変えた。誰にも命じられていないのに、財産の半分を貧しい人に施し、不正に取った物は四倍にして返すと自発的に宣言した。

この世の王は栄光を集める。百八十日間にわたって自分の富と栄誉を見せびらかす。天の王は栄光を分配する。しもべたちにミナを与え、「私が帰るまでこれで商売しなさい」と委ねられる。集める王と分かち与える王——その違いが、従う者の姿をも変える。強制された服従は恐怖と反発を生む。愛に応えた献身は喜びと自由を生む。

「見えない暗やみ」に進む信仰

三つの箇所には、もう一つ見逃せない共通点がある。それは「見えない中で神に向かって進む」という信仰の姿である。

モーセは神のおられる暗やみ(アラフェル)に近づいた。この暗やみは、神の不在ではなく、神の臨在があまりにも濃密であるがゆえに人間の目には闇にしか見えない状態である。見えないからこそ退くのか、見えないからこそ進むのか——それが信仰の分水嶺であった。

エステルは自分の運命が見えない中で、モルデカイの命じた沈黙を守り続けた。自分の民族を明かさない日々は、先の見えない暗やみの中を歩くようなものだったろう。しかしその沈黙が、神のタイミングで「この時のためにこそ」(4:14)という摂理の成就へとつながった。

ザアカイは群衆に阻まれてイエスが見えなかった。社会的にも霊的にも「見えない」状態にあった。しかし見えないからこそ走り、見えないからこそ木に登った。そしてイエスの方から見上げてくださった。

三者に共通するのは、感覚に頼らず、見えないまま神に向かって一歩を踏み出したということである。そしてその一歩の先に、神がすでに待っておられた。

神が先に捜しておられる

ルカ19:10でイエスは宣言された。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

この「捜す」という言葉が、今日の通読箇所全体の鍵である。

ザアカイはイエスを見ようとした。しかしイエスの方が先にザアカイを捜しておられた。「きょうは、あなたの家に泊まることにしてある」——神的必然を示すギリシャ語「デイ」が使われている。この出会いは天の父の計画の中に定められていた。

モーセが暗やみに近づいたとき、神はすでにその暗やみの中で待っておられた。「わたしの名を覚えさせるすべての所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福しよう」(出エジプト20:24)——神の方から臨み、祝福すると約束しておられる。

エステルが王宮に導かれたのも、人間の計画ではなかった。モルデカイが毎日婦人部屋の庭の前を歩き回ってエステルの安否を気にかけていたように(エステル2:11)、神は歴史の舞台裏で絶えずご自分の民を見守っておられた。

聖書が一貫して語るのは、信仰とは人間が神を見つけ出す営みではないということである。むしろ神が先に人を捜し、備え、招いておられる。私たちが「神を求めよう」と心に思う、その思い自体が、すでに神の捜しの実りなのかもしれない。暗やみの中で一歩を踏み出すとき、その暗やみの中にすでに神がおられる。見えない中で手を伸ばすとき、神の手がすでにこちらに伸ばされている。

シナイの雷鳴の中で、ペルシャの宮廷で、エリコのいちじく桑の木の下で——時代と場所を超えて、同じ神が同じように人を捜しておられる。今日もなお、この神は変わらない。

エステル記の預型的読み方——隠された福音の構造

人間の方法 vs 神の方法——三箇所対比表

人間の方法 vs 神の方法

——三つの通読箇所に貫かれる対比——

✋ 人間の方法
✝ 神の方法
📜 祭壇の規定 出エジプト記 20:24-26
人間の方法
切り石の祭壇——のみ(חֶרֶב ヘレブ=剣)で加工する
階段で上る——自力で高く上ろうとする
神の方法
自然石・土の祭壇——人間の加工を加えない
そのままの高さで——神が定めた方法で近づく
→ 裸(恥)があらわれる
→ 「わたしはあなたに臨み、祝福しよう」
👑 王の前に出る花嫁 エステル記 2:13-17
人間の方法
自分の好みのものを持って行く
自分の判断で装飾を加える
神の方法
ヘガイ(聖霊の型)勧めたもの以外何一つ求めない
自分を飾らず、導きに従う
→ 記録に名前すら残らない
→ 「王はほかのどの女よりもエステルを愛した」
📖 与えられたミナの用い方 ルカの福音書 19:12-27
人間の方法
恐怖でミナを隠す
「きびしい方」——主人への歪んだ認識
(パニック的恐怖 = アル・ティーラウー)
神の方法
信頼してミナを用いる
主人への健全な畏敬に基づく忠実さ
(健全な畏れ = イルアト・エロヒーム)
→ 持っている物までも取り上げられる
→ 「十の町を支配する者になりなさい」
神に近づく方法は、人間が考案するものではない
切り石ではなく自然石で。自分の好みではなく聖霊の導きで。
恐怖ではなく畏敬をもって。
——そのとき、神ご自身が臨み、祝福してくださる——
エステル記の預型的読み方——隠された福音の構造

エステル記の預型的読み方

——登場人物に隠された福音の構造——

預型(タイプ)とは、旧約の人物・出来事が新約の霊的真理を
あらかじめ指し示している聖書の読み方です

👑
アハシュエロス王
אֲחַשְׁוֵרוֹשׁ
預型 ▶
神の主権・王権(不完全な型)
127州を治める絶対的王権は神の主権を反映する。しかし酔って妻をさらし者にしようとするなど、不完全な型である点に注意が必要。神の王権の「規模」を示すが「品性」は示さない。
🕊️
宦官ヘガイ
הֵגַי
預型 ▶
聖霊の型
王の好みを熟知し、花嫁を内側から整え、王に喜ばれるものを与える。エステルがヘガイの勧め以外何も求めなかったことが、王に最も愛される結果を生んだ。
「彼女は…ヘガイの勧めたもののほかは、何一つ求めなかった」(2:15)
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エステル
אֶסְתֵּר(ハダサ הֲדַסָּה)
預型 ▶
キリストの花嫁(教会)の型
孤児から王妃へ——恵みによる選び。没薬による清めを経て、聖霊の導きのみに従い、自分を飾らず王の前に出る。やがて「この時のためにこそ」命をかけてとりなす花嫁となる。
「王はほかのどの女たちよりもエステルを愛した」(2:17)
🙏
モルデカイ
מׇרְדְּכַי
預型 ▶
忠実なとりなし手 / 信仰の残りの民
門に座り、花嫁のために毎日見守り続ける「とりなし手」の型。バビロン捕囚の子孫でありながら信仰を守る「レムナント(残りの民)」。隠された功績がやがて明るみに出て高く上げられるパターンは、キリストの謙卑と高挙(ピリピ2章)をも彷彿とさせる。
「モルデカイは毎日婦人部屋の庭の前を歩き回り…」(2:11)
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ハマン
הָמָן
預型 ▶
反キリストの型
神の民を滅ぼそうとする者。アガグ人の子孫——つまりアマレク(イスラエルの宿敵)の末裔。自分が崇められることを求め、従わない者を抹殺しようとする。しかし自分が用意した処刑台で自ら裁かれる。
「ハマンはアガグ人ハメダタの子」(3:1)※後の章で登場
🚪
ワシュティ
וַשְׁתִּי
預型 ▶
退けられた契約(議論あり)
王妃の位を失い、新しい花嫁(エステル)に取って代わられる。一部の解釈では古い契約(律法による義)の型とされるが、ワシュティの拒否には尊厳を守る正当性もあり、単純な善悪の二分法では読めない複雑な人物である。
エステル記の霊的構造
王(神)
ヘガイ(聖霊)
エステル(花嫁)
モルデカイ(とりなし手)
ハマン(反キリスト)
⚡ 花嫁と民を滅ぼそうとする ⚡
聖霊が花嫁を整え、とりなし手が見守る中で
花嫁は王に近づき、民の救いのためにとりなす
花嫁の準備過程(エステル2:12)——没薬から始まる整え
最初の6か月
没薬(מֹר モル)の油
=自我に死ぬこと
次の6か月
香料と化粧品
=聖霊の実による装い
王の前へ
ヘガイの勧めのみで
=聖霊の導きへの従順
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