通読箇所:出エジプト記14:1-14、第二歴代誌36章、エズラ記1章、ルカ2:1-21
※この記事は、要点だけを抜き出して理解できる内容ではありません。モーセ五書・旧約・新約の連続した文脈の中でのみ読まれることを意図しています。
【読み方のご案内】 第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。 時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。
目次
第一部:トーラー(出エジプト記14:1-14)—紅海を前にした絶体絶命の状況
神が仕組まれた「引き返し」の戦略
出エジプト記14章は、イスラエルの民が紅海(ヘブライ語「ヤム・スフ」יָם סוּף、葦の海)を前にして、背後からエジプト軍に追い詰められる場面から始まります。ここで注目すべきは、主がモーセに命じられた行動です。
「イスラエルの子らに言え。引き返して、ミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンの手前で宿営せよ」(14:2)
この「引き返し」は一見、無謀な命令に思えます。せっかくエジプトを出たのに、なぜ戻る方向へ移動するのか。しかし、これは神の戦略でした。ファラオに「彼らはあの地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった」(14:3)と思わせるためです。
ファラオの追撃と民の恐怖
神がファラオの心を頑なにされたため、ファラオは「選り抜きの戦車六百、そしてエジプトの全戦車」(14:7)を率いて追跡を開始します。当時のエジプトの戦車は、古代世界最強の軍事力の象徴でした。
イスラエルの民が目を上げると、「なんと、エジプト人が彼らのうしろに迫っているではないか」(14:10)。前は海、後ろは軍隊。完全に袋小路です。
民の反応は人間的には当然でした:「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか」(14:11)。皮肉と絶望が入り混じった叫びです。エジプトでの奴隷生活は確かに苦しかったが、少なくとも生きてはいた。今は死が目前です。
モーセの宣言:「主があなたがたのために戦われる」
この絶望的状況で、モーセは神からの言葉を宣言します:
「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい」(14:13-14)
このヘブライ語表現を見てみましょう:
- 「恐れてはならない」(אַל־תִּירָאוּ、アル・ティラウ):継続的に恐れ続けるなという命令形
- 「しっかり立って」(הִתְיַצְּבוּ、ヒトヤツヴ):自分の位置を保つ、立ち続ける
- 「見なさい」(וּרְאוּ、ウルウ):単なる視覚ではなく、経験し、目撃する
- 「ただ黙っていなさい」(תַּחֲרִישׁוּן、タハリシュン):静かにする、沈黙を保つ
この最後の命令は、単に口を閉じよということではありません。むしろ「人間的な努力を止めて、神の御業を待つ」という積極的な信仰の姿勢を表しています。
神学的意味:救いは主の御業
ここで提示されているのは、聖書全体を貫く救済論の核心です:
救いは人間の努力や戦略ではなく、神の一方的な恵みによる
民は何もできません。戦う武器もない、逃げる場所もない。できることは、ただ神の救いを「見る」ことだけです。この受動的な姿勢こそが、信仰の本質です。
明日の箇所(14:15以降)で、主は海を分けられます。しかし今日の箇所で強調されているのは、その奇跡の「前」の状態—人間の無力さと、それゆえに神だけが栄光を受けるという構造です。
「わたしはファラオとその全軍勢によって栄光を現す。こうしてエジプトは、わたしが主であることを知る」(14:4)
救いの目的は、主ご自身の栄光の現れです。そして、その救いを経験する者たちが「主が主であること」を知る—これが出エジプトの神学です。
第二部:旧約(第二歴代誌36章、エズラ記1章)—バビロン捕囚から帰還への神の御手
王たちの失敗と神殿の破壊
第二歴代誌36章は、ユダ王国の最後の四人の王たちの記録です。エホアハズ(3ヶ月)、エホヤキム(11年)、エホヤキン(3ヶ月10日)、ゼデキヤ(11年)—いずれも「主の目に悪であることを行った」(36:5, 9, 12)と記されています。
特に深刻だったのは、霊的指導者たちの堕落でした:
「そのうえ、祭司長全員と民も、異邦の民の忌み嫌うべきすべての慣わしをまねて、不信に不信を重ね、主がエルサレムで聖別された主の宮を汚した」(36:14)
祭司長たちは、本来王と民を神の道に導くべき立場にありました。しかし彼ら自身が異邦の習わしを取り入れ、聖別された神殿を汚してしまったのです。これは単なる個人の罪ではなく、神の民全体の方向性を誤らせる深刻な背信でした。
憐れみの神と拒絶された警告
ここで注目すべきは、神の忍耐と憐れみです:
「彼らの父祖の神、主は、彼らのもとに早くからたびたび使者を遣わされた。それは、ご自分の民と、ご自分の住まいをあわれまれたからである」(36:15)
ヘブライ語「早くから」(הַשְׁכֵּם、ハシュケーム)は文字通り「早起きして」という意味で、神の熱心さを表す慣用句です。神は繰り返し預言者たちを送り、悔い改めの機会を与え続けました。エレミヤ、エゼキエル、ハバクク—多くの預言者たちが警告を発しました。
しかし民の反応はどうだったでしょうか:
「ところが、彼らは神の使者たちを侮り、そのみことばを蔑み、その預言者たちを笑いものにしたので、ついに主の激しい憤りが民に対して燃え上がり、もはや癒やされることがないまでになった」(36:16)
「もはや癒やされることがない」—これは恐ろしい宣言です。神の憐れみには限界があるのではなく、人間の側が悔い改めの可能性を完全に閉ざしてしまったということです。
カルデア人の王による裁き
「主は、彼らのもとにカルデア人の王を攻め上らせた」(36:17)
「カルデア人の王」とは、バビロンの王ネブカドネツァルのことです。カルデアは新バビロニア帝国を建てた民族で、バビロニアの別名として使われました。
バビロン軍は容赦なく攻撃しました:「若い男たちを剣で殺し、若い男も若い女も、年寄りも弱い者も容赦しなかった」(36:17)。神殿は焼かれ、城壁は破壊され、すべての宝物はバビロンへ運ばれました。
70年の安息—土地への憐れみ
ここで神学的に極めて重要な記述があります:
「剣を逃れた残りの者たちをバビロンへ捕らえ移した。こうして彼らは、ペルシア王国が支配権を握るまで、彼とその子たちの奴隷となった。これは、エレミヤによって告げられた主のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。その荒廃の全期間が七十年を満たすまで、この地は安息を得た」(36:20-21)
70年という数字の意味:
レビ記25章は、7年ごとに土地を休ませる「安息年」の規定を定めています。イスラエルは約490年間、この安息年を守りませんでした。490年÷7年=70回の安息年が未履行だったのです。
神は土地にも憐れみを持っておられます。人間が神の定めを無視したので、神ご自身が強制的に土地に安息を与えられました。これは裁きであると同時に、創造の秩序への回復でもあったのです。
エレミヤ29:10の預言:「バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる」が、ここで成就し始めます。
ペルシア王キュロスの登場
「ペルシアの王キュロスの第一年に、エレミヤによって告げられた主のことばが成就するために、主はペルシアの王キュロスの霊を奮い立たせた」(36:22、エズラ1:1)
バビロンは紀元前539年、ペルシアのキュロス大王によって征服されました。そしてキュロスの即位第一年(538年頃)、驚くべき勅令が発せられます:
「天の神、主は、地のすべての王国を私にお与えくださった。この方が、ユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てるよう私を任命された」(エズラ1:2)
異邦人の王が「天の神、主」を認め、神殿再建を命じているのです。
イザヤの預言の成就
さらに驚くべきことに、このキュロスの登場は、約150-200年前にイザヤによって預言されていました:
「わたしは、キュロスについては、『わたしの牧者、わたしの望む事をすべて成し遂げる者』と言う。エルサレムについては、『再建される』と言い、神殿については、『その基が据えられる』と言う」(イザヤ44:28)
「主は、油注がれた者キュロスに、こう言われた。『わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前に扉を開いて、門が閉じられないようにする』」(イザヤ45:1)
キュロスが生まれるはるか前に、神は彼の名を呼び、「油注がれた者」(メシア)という称号さえ与えておられたのです。
伝承によれば(ヨセフスの『ユダヤ古代誌』)、キュロスはこのイザヤ書の預言を見せられ、深く感動したと言われています。それが勅令発布の一因だったかもしれません。
帰還の始まり—霊を奮い立たせる神
「ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たちは立ち上がった。エルサレムにある主の宮を建てるために上って行くように、神が彼ら全員の霊を奮い立たせたのである」(エズラ1:5)
キュロスの霊だけでなく、イスラエルの民の霊をも「奮い立たせた」のは主でした。
バビロンで生まれ育った世代にとって、エルサレムは聞いたことがあるだけの遠い土地です。そこへ戻るという決断は容易ではありません。しかし神は、人々の心を動かし、不可能を可能にされました。
注目すべきは、帰還したのが「ユダとベニヤミン、レビ人」が中心だったことです。北イスラエル王国の10部族は、約200年前にアッシリアに滅ぼされ、散らされていました(いわゆる「失われた10部族」)。しかし一部は南ユダ王国に逃れていた可能性もあります。
神殿の器の返還—完全な回復
キュロスは、ネブカドネツァルが持ち去った神殿の器をすべて返還させました:
「金の皿三十、銀の皿一千、香炉二十九、金の鉢三十、予備の銀の鉢四百十、その他の器一千。金や銀の用具は全部で五千四百あった」(エズラ1:9-11)
これは単なる寛大さではありません。神ご自身が、ご自分の神殿の器を取り戻されたのです。70年前に奪われたものが、一つ残らず戻ってきました。
第二部の神学的意味:主の言葉は必ず成就する
この箇所で見るべきは:
- 神の忍耐と警告:繰り返し預言者を送られた
- 拒絶への応答としての裁き:バビロン捕囚
- 裁きの中にある憐れみ:70年という期限、土地の安息
- 預言の完全な成就:エレミヤとイザヤの預言
- 異邦人の王をも用いる主権:キュロスを「油注がれた者」と呼ぶ
- 人の心を動かす神:霊を奮い立たせる
出エジプトでは「主が戦う」でした。ここでは「主が異邦の王の心を動かし、民の霊を奮い立たせ、預言を成就させる」のです。どちらも、人間の力ではなく、神の一方的な御業による救いという点で一致しています。
第三部:新約(ルカ2:1-21)—飼葉桶に寝かされた救い主
皇帝の勅令と神の摂理
「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た」(2:1)
ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスによる住民登録の命令。これは税収管理と軍事徴募のための行政措置でした。しかし神の視点から見れば、この世界帝国の勅令は、メシア誕生の預言を成就させるための道具でした。
ミカ5:2の預言:「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたから、わたしのためにイスラエルを治める者が出る」
ヨセフとマリアはナザレに住んでいました。普通なら、イエスはナザレで生まれたはずです。しかし皇帝の一言が、彼らをベツレヘムへと移動させました。
現代の地理的状況:
- ナザレ:現在のイスラエル領内(ガリラヤ地方、北部)
- ベツレヘム:現在のパレスチナ自治区(西岸地区)、エルサレムから南約10km
「ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った」(2:4)
ヨセフがダビデの子孫であることが、ここで明確に示されています。メシアはダビデの家系から来るという預言(イザヤ11:1、エレミヤ23:5)の成就です。
飼葉桶に寝かされた王
「ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」(2:6-7)
天地の創造主、全世界の王として来られる方が、家畜の餌箱に寝かされています。この対比は偶然ではありません。
「布にくるむ」:当時の慣習的な新生児の様子ですが、後に「しるし」となります(2:12) 「飼葉桶」:ギリシャ語「ファトネー」(φάτνη)、家畜の餌を入れる桶 「宿屋には場所がなかった」:神の御子を受け入れる場所がない世界の象徴
ヨハネ1:11が思い起こされます:「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった」
しかし、この飼葉桶こそが、神の救いの方法を示しています。高い所からではなく、最も低い所から。権力によってではなく、無力な赤ん坊として。
羊飼いたちへの啓示
「その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた」(2:8)
12月25日問題: 羊飼いたちが野外で夜番をしていたという記述から、イエスの誕生は冬(12月)ではなかったと考えられます。イスラエルの12月は雨季で寒く、羊飼いたちは羊を囲いの中に入れ、野外で夜を過ごすことはありませんでした。
仮庵の祭り(9-10月)の頃という説が有力です。12月25日は、後にローマの冬至祭(太陽神の誕生日)をキリスト教化したものと考えられています。
羊飼いという選択: 神は、なぜ最初の知らせを羊飼いたちに送られたのでしょうか。
当時、羊飼いは社会的に低く見られていました。常に野外で過ごすため、律法の細則を守ることが難しく、法廷での証言も認められませんでした。しかし:
- ダビデ王も元羊飼いでした(第一サムエル17:34-35)
- 詩篇23篇:「主は私の羊飼い」
- エゼキエル34章:神ご自身が羊飼いとなられる預言
- ヨハネ10:11:「わたしは良い羊飼いです」
羊飼いへの啓示は、メシアが「失われた羊」(マタイ10:6)を捜しに来られたことの象徴です。
天使の宣言—「大きな喜び」の知らせ
「御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです』」(2:10-11)
「恐れるな」—出エジプト記14:13のモーセの言葉と同じ 「見なさい」—これも出エジプト記14:13と同じ動詞(ギリシャ語イドゥー) 「大きな喜び」—ヘブライ語的表現、最上級の喜び 「この民全体に」—イスラエル全体への知らせ
三つの称号が与えられています:
- 救い主(ソーテール):罪から救う方
- 主(キュリオス):神ご自身の称号
- キリスト(メシア、油注がれた者):約束された王
しるし—「布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりご」
「あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです」(2:12)
通常「しるし」は、超自然的な奇跡を指します。しかしここでの「しるし」は、貧しさと無力さです。
王が生まれたなら、宮殿を探すべきでしょう。しかし救い主を見分ける「しるし」は、飼葉桶でした。これが神の道です。
フィリピ2:6-7が重なります:「キリストは、神の形を持っておられましたが、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの形をとり、人間と同じようになられました」
天の軍勢の賛美
「すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。『いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように』」(2:13-14)
天の軍勢(ストラティアス・ウーラニオス)—天の大軍が、戦いのためではなく、賛美のために現れました。
二つの領域での結果:
- 天において:神への栄光
- 地において:平和(シャローム)—神と人との和解、人と人との和解
「みこころにかなう人々」—ギリシャ語原文は「エウドキアス」(εὐδοκίας、好意・善意)という語の属格形であり、「神の好意に属する人々」「神の善意のもとに置かれた人々」を意味します。
これは人間の善意や功績を指すのではなく、神の側から先立って注がれる恵みによって平和が与えられることを示しています。
そしてルカの神学において、この恵みは神の主権的な賜物でありながら、悔い改める者、低くされた者、信仰によって応答する者に向かって開かれています。
神の恵みの先行性と人の応答という緊張関係の中でこそ、地における真の平和が実現するのです。
羊飼いたちの応答—「見届けて来よう」
「御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。『さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう』」(2:15)
「見届ける」(ギリシャ語イドーメン)—出エジプト記14:13の「見なさい」と同じ語根
羊飼いたちは命じられたわけではありません。しかし彼らは「さあ、行こう」と自発的に動きました。これが信仰の応答です。
「そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた」(2:16)
彼らは「しるし」の通りに見つけました。そして:
「それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた」(2:17-18)
最初の伝道者は、社会的に最下層の羊飼いたちでした。
マリアの応答—「心に納めて、思いを巡らす」
「しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた」(2:19)
ギリシャ語「スンテレオー」(συντηρέω)—一緒に保つ、大切に守る ギリシャ語「スュンバロー」(συμβάλλω)—一緒に投げる、比較する、熟考する
マリアは、これらの出来事の意味を即座に理解したわけではありません。しかし彼女は、すべてを心に留め、後で理解するために保存しました。信仰の旅は、時に待つことを含みます。
羊飼いたちの帰還—賛美しながら
「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(2:20)
出エジプト記14:13-14との対比:
- 出エジプト:「主の救いを見なさい。ただ黙っていなさい」
- ルカ2章:見て、聞いて、賛美して帰る
どちらも、神の御業を「見る」ことから始まります。しかしルカでは、見た者たちが賛美をもって応答します。これが、成就した救いへの応答です。
イエスという名の意味
「八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子の名はイエスとつけられた。胎内に宿る前に御使いがつけた名である」(2:21)
イエス(ギリシャ語イエースース、ヘブライ語イェシュア יֵשׁוּעַ):
- 「ヤハウェは救い」「主は救う」という意味
- ヨシュア(旧約のカナン征服の指導者)と同じ名前
マタイ1:21:「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」
インマヌエルとの関係: マタイ1:23でイザヤ7:14の預言が引用されます:「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」
- インマヌエル(עִמָּנוּ אֵל):「神は私たちとともにおられる」—これは称号
- イエス:「主は救う」—これは実際の名前
両方が組み合わさることで、完全な啓示となります: 神ご自身が人となって共におられ、私たちを救われる
第三部の神学的意味:神が人となって救いを成し遂げる
ルカ2章で見るべきは:
- 神の主権的摂理:皇帝の勅令さえ、預言成就のために用いる
- へりくだりの極み:飼葉桶に寝かされる王
- 最下層への啓示:羊飼いたちが最初の証人
- しるしとしての貧しさ:飼葉桶こそが神の救いの方法を示す
- 見ることから始まる信仰:羊飼いたちは「見届けて」賛美した
- 名前に込められた使命:イエス=「主は救う」
出エジプト記では「主が戦う」、歴代誌では「主が預言を成就し、王の心を動かす」、そしてルカでは「主ご自身が人となって来られる」—すべてに共通するのは、神の一方的な恵みによる救いです。
第四部:全体の一貫性—「ただ黙って主の救いを見なさい」に貫かれる神の救済史
三つの場面に共通する神の救いのパターン
今日読んだ三つの箇所は、時代も状況も異なります。しかし、驚くべき一貫性が貫いています。
共通する構造:
- 絶望的な状況:紅海の前/70年の捕囚/宿屋に場所なし
- 人間の無力さ:武器も道もない/王も祭司も失敗/飼葉桶に寝かされる
- 神の一方的な介入:主が戦う/主が王の心を動かす/主ご自身が来られる
- 人間に求められる応答:見ること、そして信じること
「ただ黙っていなさい」の深い意味
出エジプト記14:14の「あなたがたは、ただ黙っていなさい」というヘブライ語「タハリシュン」(תַּחֲרִישׁוּן)は、単なる沈黙ではありません。
これは、人間的な努力を止めて、神の御業を待つという積極的な信仰の姿勢です。自分で戦おうとせず、自分で解決しようとせず、神が働かれるのを信頼して待つ—これが「黙る」ことの意味です。
バビロン捕囚でも、民は70年間「黙って」神の約束を信じ続けました。そして時が満ちた時、「主はキュロスの霊を奮い立たせ」(エズラ1:1)、民の霊をも奮い立たせました(1:5)。
ルカ2章では、この「見る」信仰が完成形を迎えます。羊飼いたちは告げられた通りに「見届けて」(2:15)、「見聞きしたこと」を信じて、「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(2:20)のです。
「主が戦う」から「主ご自身が来られる」へ—救済史の進展
三つの箇所を並べると、救済史の深化が見えてきます:
出エジプト記:主が戦われる 「主があなたがたのために戦われるのだ」(14:14)—神が外部から介入され、奇跡によって救われる
バビロン捕囚からの帰還:主が王の心を動かされる 「主はペルシアの王キュロスの霊を奮い立たせた」(エズラ1:1)—神が歴史を支配され、異邦の王さえも用いられる
イエス誕生:主ご自身が来られる 「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました」(ルカ2:11)—神が人となられ、距離が完全に取り除かれる。「インマヌエル—神は私たちとともにおられる」の成就
飼葉桶と紅海—神の救いの方法
深い神学的対比がここにあります。
紅海の奇跡は、壮大な自然現象でした。誰の目にも明らかな神の力、エジプト軍全体が飲み込まれる圧倒的な救い。
しかし飼葉桶の救い主は、小さな、見過ごされやすい出来事でした。貧しさと無力さのしるし、家畜の餌箱に寝かされた赤ん坊。
それでも、どちらも同じ真理を示しています:神の救いは人間の力や知恵によらない
紅海では、民は武器を持たず、戦わず、ただ神が海を分けるのを見ました。ベツレヘムでは、救い主は権力も富も持たず、飼葉桶に寝かされました。
イザヤ55:8-9:「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ」
預言の成就という一貫性
三つの箇所すべてで、「預言の成就」が強調されています。
出エジプトはアブラハムへの約束の成就(創世記15:13-14)、バビロン帰還はエレミヤとイザヤの預言の成就(「これは、エレミヤによって告げられた主のことばが成就するために」歴代誌36:22)、イエス誕生はミカ5:2とイザヤ7:14の成就です。
神の言葉は、一つとして地に落ちることがありません。時には70年かかっても、時には200年前の預言であっても、神は必ず約束を果たされます。
「あなたがたのために」—今日の救い
三つの箇所すべてに、「あなたがたのために」という表現があります。
「今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい」(出エジプト14:13) 「主があなたがたのために戦われるのだ」(14:14) 「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました」(ルカ2:11)
神の救いは、抽象的な概念ではありません。「あなたがたのために」—具体的な、個人的な、今ここでの救いです。出エジプトの民にとっても、羊飼いたちにとっても、そして私たちにとっても、キリストの救いは「今日」有効なのです。
今日の適用—「ただ黙って主の救いを見なさい」
現代の私たちへの適用は明確です:
人間の無力さを認める—私たちは自分で自分を救えません。それを認めることが、信仰の始まりです。
神の一方的な恵みに信頼する—「主が戦われる」「主が霊を奮い立たせる」「主が救い主を送られる」—すべては神の側からの恵みです。
「ただ黙って見る」信仰—これは受動的な諦めではなく、人間的な努力を止めて神の御業を待つ積極的な信仰です。
見たことを証しする—羊飼いたちは見たことを知らせました。私たちも、主の救いを見た者として、賛美と証しをもって歩むのです。
結び—変わらぬ神の救いの御手
紅海からバビロン捕囚を経て、ベツレヘムの飼葉桶に至るまで—神の救いの御手は、決して変わりません。
「主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい」(出エジプト14:14)
今日も、この言葉を信じて、主の救いを見る者として歩みましょう。



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