※この記事は、要点だけを抜き出して理解できる内容ではありません。モーセ五書・旧約・新約の連続した文脈の中でのみ読まれることを意図しています。
【読み方のご案内】 第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。 時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。
目次
第一部:トーラーポーション(出エジプト12:16-36)
―過越から種なしパンへ―「一つも残さない」聖別の完全性―
過越の夜、イスラエルは小羊の血によって死の使いから守られました。しかし神の救いの計画はそこで終わりません。12章16節以降、神は「種なしパンの祭り」という七日間の儀式を命じられます。この祭りには、過越よりもさらに深い霊的意味が隠されています。
マッツォート(種なしパン)が示す徹底した聖別
ヘブライ語で「種なしパン」は「マッツォート(מַצּוֹת)」と言います。神は「七日間はあなたがたの家にパン種があってはならない」(12:19)と命じられました。ここで重要なのは、「パン種を入れて焼いてはならない」ではなく、「家の中にパン種があってはならない」という徹底ぶりです。
なぜここまで厳しいのでしょうか。
パウロは「古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから」(第一コリント5:7-8)と教えています。パン種は少量でも生地全体を膨らませ、変質させます。同じように、わずかな罪・わずかな妥協・わずかな偽善が、人の心全体を変えてしまうのです。
イスラエルがエジプトで430年間過ごした間に、どれほどエジプトの価値観が染み込んでいたでしょうか。神は「エジプトから出る」だけでなく、「エジプトを完全に取り除く」ことを求められました。それが「一つもパン種を残さない」という命令の意味です。
「急いで作った」以上の意味
私たちは種なしパンを「急いで出発したから発酵させる時間がなかった」と理解しがちです。確かに12:34には「パン種を入れないままの生地を取り、こね鉢を衣服に包んで肩に担いだ」とあります。
しかし、神が七日間も種なしパンを食べ続けることを命じたのは、単なる記念以上の意味があります。これは「新しい始まり」の象徴なのです。
古いパン種(エジプトでの奴隷生活、罪に慣れた価値観)を完全に取り除き、まったく新しい生活を始める。それが神の民として歩む第一歩でした。これは私たちの信仰生活にも当てはまります。キリストを信じて救われた時、私たちは「新しく造られた者」(第二コリント5:17)となりました。古い価値観・古い習慣を「少しくらいいいだろう」と残すのではなく、徹底的に取り除く必要があるのです。
過越と種なしパンの連続性
過越は第一の月14日の夕方、種なしパンの祭りは15日から21日まで(12:18)。二つは連続しています。
小羊の血による救い(過越)と、徹底した聖別の生活(種なしパン)は切り離せません。「救われた」だけで終わらず、「きよめられた生活」へと進むのが神の計画です。ヘブル12:14も「聖くなければ、だれも主を見ることはできません」と警告しています。
「エジプトからはぎ取った」の正義(12:35-36)
最後に、イスラエルが「エジプトに銀の飾り、金の飾り、そして衣服を求めた」(12:35)ことについて。神は「エジプトがこの民に好意を持つようにされた」ので、エジプト人は求めを聞き入れました。
これは略奪ではなく、神の正義です。イスラエルは430年間、奴隷として無償労働させられました。神は創世記15:14で既に約束されていました。「彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともにそこから出て来る」と。
神は正当な報酬を、超自然的な方法で与えられたのです。この財産は後に幕屋建設のために用いられました(出エジプト25章以降)。神の救いは、ただ「苦しみから解放する」だけでなく、「新しい使命のために整える」のです。
私たちへの適用
今日、私たちは物理的なパン種を取り除く必要はありません。しかし、心の中の「古いパン種」—罪への妥協、世の価値観への迎合、信仰と生活の分離—を徹底的に取り除く必要があります。
「少しくらいいいだろう」が、やがて生活全体を変質させます。神は「一つも残すな」と言われます。それは厳しい要求ではなく、私たちを真の自由へと導く愛の命令なのです。
第二部:旧約聖書(第二歴代誌28-29章)
―アハズは閉じ、ヒゼキヤは開いた―「突然なのに備えられていた」神の憐れみ―
歴代誌は王たちの治世を記録しながら、神殿礼拝の歴史を特に重視します。今日の箇所は、最悪の王アハズと最良の王ヒゼキヤという、父と息子の劇的な対比を描いています。そしてここにも、出エジプト記の過越と同じ「血による贖い」のテーマが流れています。
アハズの背教―神殿の戸を閉ざした王
アハズ王は16年間統治しましたが、その治世は霊的暗黒時代でした。
彼は「自分の子どもたちに火の中を通らせ」(28:3)ました。これはモレク神への人身供犠で、律法が最も忌み嫌う行為です(レビ18:21)。さらに彼は「神の宮の用具を取り外し、主の宮の戸を閉じ」(28:24)ました。
神殿の戸を閉じるとは、神との関係を公式に断絶することです。イスラエルにとって神殿は神の臨在の場所、祈りの家、民が神と出会う場所でした。その扉を閉ざすことは、「もう神とは関わらない」という宣言に等しいのです。
しかも28:22には衝撃的な記述があります。「アッシリアの王が彼を苦しめたとき、このアハズ王は、さらに主の信頼を裏切った」と。普通、苦しい時こそ神に立ち返るはずです。しかしアハズは逆方向へ進みました。「アラムの王たちの神々は彼らを助けている。この神々に、私もいけにえを献げよう」(28:23)と。
これは私たちへの警告です。苦難の中で神から離れる道と、神に立ち返る道、どちらを選ぶかは決定的な分岐点なのです。
ヒゼキヤの改革―治世第一年の第一月に
アハズの息子ヒゼキヤが即位した時、25歳でした(29:1)。彼は父とはまったく違う道を選びました。
「彼はその治世の第一年の第一の月に、主の宮の戸を開いてこれらを修理した」(29:3)。
注目してください。「第一年の第一月」です。即位してすぐ、最優先事項として神殿を再開したのです。世継ぎ問題、外交関係、経済立て直し—新しい王には課題が山積みのはずです。しかしヒゼキヤは「まず神殿」と決断しました。
そして29:17を見ると、第一月の1日から聖別を始め、8日目に主の玄関に入り、さらに8日間かけて16日に完了しました。合計16日間です。この徹底ぶりは、父アハズの16年間の汚れを一掃する決意を示しています。
「レビ人は祭司たちよりも直ぐな心をもって」(29:34)
聖別作業の中で、興味深い記述があります。「祭司たちが少なかったので、すべての全焼のささげ物の皮を剝ぎ尽くすことができなかった。そこで、彼らの兄弟に当たるレビ人が…助けた。レビ人は、祭司たちよりも直ぐな心をもって、身を聖別したのである」(29:34)。
「祭司たちが少なかった」とは、人数の問題ではなく、聖別に応じた祭司が少なかったということです。アハズの時代、多くの祭司は妥協し、神殿が閉ざされても「仕方ない」と諦めていたのでしょう。
しかしレビ人—祭司を補佐する「二番手」の立場—の中には、たとえ公的な奉仕ができなくても、心だけは神に向け続けた人々がいました。そして神殿再開の知らせを聞いた瞬間、「待っていました!」と飛び出してきたのです。
これは私たちへの大きな励ましです。教会で目立つ役割がなくても、誰も見ていなくても、神は心を見ておられます。「直ぐな心」を持ち続ける者を、神は必ず用いてくださるのです。
血の儀式が過越にリンクする
29:22を読むと、「彼らは牛を屠り、祭司たちがその血を受け取って祭壇に振りかけた。次に雄羊を屠り、その血を祭壇に振りかけた。次に子羊を屠り、その血を祭壇に振りかけた」とあります。
この「血を祭壇に振りかける」儀式は、まさに出エジプトの過越を思い起こさせます。過越では小羊の血を鴨居と門柱に塗りました(出12:22)。ヒゼキヤの聖別でも、血が中心です。
なぜ血なのか。ヘブル9:22は明確に答えます。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはありません」と。
過越の血は死の使いから守り、聖別の血は罪の汚れをきよめます。そしてこれらはすべて、キリストの十字架の血を指し示しているのです。
「突然のことなのに、神が備えてくださった」(29:36)
最後に29:36の美しい言葉。「ヒゼキヤとすべての民は、神が民のために備えてくださったことを喜んだ。このことが突然のことだったからである」。
アハズが16年間も神殿を閉ざしていたのに、ヒゼキヤが扉を開けたらわずか16日で聖別が完了しました。これは人間的には「突然」ですが、神の側では準備されていたのです。
暗黒の時代にも、神は「直ぐな心」を持つレビ人たちを密かに保っておられました。そして時が満ちた瞬間、すべてが動き出したのです。
私たちの人生でも同じことが起こります。長い暗闇の後、突然光が差し込む時、それは偶然ではなく、神がずっと備えておられた結果なのです。
第三部:新約聖書(ルカ10:1-24)
―70人の派遣と真の勝利―「名が天に書かれている」喜び―
イエスは12弟子だけでなく、さらに70人(別の写本では72人)を二人ずつ派遣されました。この派遣には、過越の急ぎとは対照的な、神への全面的依存という深い意味があります。
「履き物をはかずに」―過越との対比
イエスは派遣する弟子たちに命じられました。「財布も袋も持たず、履き物もはかずに行きなさい」(10:4)。
当時のパレスチナ、人々は子供の頃から裸足で生活していたので足の裏は丈夫でした。しかしそれでも、旅をする時には履き物を履くのが普通です。石だらけの道、灼熱の砂、危険な場所—履き物なしで歩くのは容易ではありません。
ここで思い起こすべきは、出エジプト12:11との対比です。過越の夜、イスラエルは「履き物を履いて」小羊を食べました。これは「すぐに出発できる準備」を意味しました。
しかし70人の派遣では「履き物をはかずに」です。これは何を意味するのでしょうか。
一つは、祭司が聖所に入る時、履き物を脱いだことを思い起こさせます(出3:5でモーセも「履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である」と命じられました)。弟子たちの使命は聖なる奉仕だったのです。
もう一つは、神の超自然的な守りへの全面的依存です。人間的な準備や保険なしで、ただ神を信頼して出て行く—これが信仰の本質です。
「足の塵を払う」の重さ(10:11)
イエスは「どの町であれ、人々があなたがたを受け入れないなら、大通りに出て言いなさい。『私たちは、足に付いたこの町のちりさえ、おまえたちに払い落として行く』」と命じられました。
これはユダヤ人が異邦人の地から帰る時の慣習でした。異邦の地は汚れていると考えられていたので、その土地の塵さえ聖地に持ち込まないよう払い落としたのです。
イエスの弟子たちが同胞のユダヤ人の町に対してこれを行うということは、極めて重い意味を持ちます。「あなたたちは神の民でありながら福音を拒否したので、異邦人と同じになった」というメッセージです。
使徒13:51でパウロとバルナバも実際にこれを行いました。これは「私たちはもう責任を果たした。後はあなたたちと神との問題だ」という厳粛な宣言なのです。
福音の拒否は、単なる一つの意見の相違ではありません。それは神ご自身を拒否することであり、永遠の結果を伴います(10:12-15)。
「サタンが稲妻のように天から落ちるのを見た」(10:18)
70人は喜んで帰って来て報告しました。「主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します」(10:17)。
彼らは興奮していました。自分たちの手で悪霊を追い出せた!これは確かに驚くべき体験です。
しかしイエスの応答は意外なものでした。「サタンが稲妻のように天から落ちるのを、わたしは見ました」(10:18)。
これはどういう意味でしょうか。イエスは弟子たちの個々の悪霊追い出しを見ていたのではなく、もっと大きな現実を見ておられたのです。サタンの支配全体が崩壊しつつある—神の国がこの地に侵入している—その霊的現実を見ておられました。
黙示録12:7-9では、天での戦いの結果、サタンが地に投げ落とされる場面が描かれています。イエスはそれを既に見ておられたのです。
そして19節で、イエスは「確かにわたしはあなたがたに、蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けました」と言われました。これは創世記3:15の原福音の成就です。女の子孫(キリスト)が蛇の頭を踏み砕く—その勝利に、弟子たちも参与しているのです。
「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(10:20)
しかしイエスは続けて、最も重要なことを言われました。「しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(10:20)。
なぜこの区別が大切なのでしょうか。
悪霊の服従を喜ぶ危険:
- 自分の力や能力に目が向く
- 霊的高慢に陥る
- 結果や体験に依存する
- 一時的な成功に心が動く
名が天に書かれていることを喜ぶ祝福:
- 神の選びと恵みに目が向く
- 謙遜が保たれる
- 変わらない救いの確信
- 永遠の視点
使徒パウロも同じことを経験しました。彼は「第三の天にまで引き上げられ」る体験をしましたが(第二コリント12:2-4)、それを誇らないよう「肉体の棘」が与えられました。神は私たちを、体験や奇跡ではなく、ご自身との関係に立たせようとされるのです。
「幼子たちに現してくださいました」(10:21)
この直後、聖書の中で唯一「イエスが聖霊によって喜びにあふれた」と記録されている場面が来ます(10:21)。
イエスは何を喜ばれたのでしょうか。弟子たちの成功ではありません。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました」。
「知恵ある者や賢い者」とは、自分の知識や理解に頼る人々です。律法学者やパリサイ人たちは聖書の専門家でしたが、目の前のメシアを認識できませんでした。
しかし「幼子たち」—素直に信じる者、自分には何もないと認める者—には、神の国の奥義が啓示されます。
これは私たちへの励ましです。神学的知識がなくても、雄弁でなくても、ただ素直に「主よ、信じます」と言う者に、神は最も深い真理を示してくださるのです。
私たちの喜びの源泉
「主イエスに出会ったものとして生きることができますように」。
これこそルカ10章の核心です。奇跡を行う力ではなく、主イエスに出会い、その方に名を知られているという事実—これが私たちの喜びの源泉です。
ヨハネ10:27でイエスは言われました。「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊を知っており、彼らはわたしについて来ます」。
私たちの名が天に書かれている。主が私たちを知っていてくださる。この確信こそ、どんな状況でも揺るがない喜びなのです。
第四部:一貫性と適用
―三つの箇所を貫く「血」の系譜―過越から十字架へ続く贖いの一本線―
2026年1月28日 出エジプト12章・第二歴代誌28-29章・ルカ10章
今日読んだ三つの箇所は、時代も状況も異なります。しかし、一本の太い線が貫いています。それは**「血による贖いと、それに応答する信仰」**というテーマです。
三つの箇所に現れる「血」
改めて見てみましょう:
出エジプト12:22-23 ― 「ヒソプの束を一つ取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血を鴨居と二本の門柱に塗り付けなさい…主は鴨居と二本の門柱にある血を見たら、その戸口を過ぎ越して、滅ぼす者があなたがたの家に入って打つことのないようにされる」
第二歴代誌29:22 ― 「彼らは牛を屠り、祭司たちがその血を受け取って祭壇に振りかけた。次に雄羊を屠り、その血を祭壇に振りかけた。次に子羊を屠り、その血を祭壇に振りかけた」
ルカ10:19 ― 直接「血」という言葉は出ませんが、「蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威」は、創世記3:15の原福音(女の子孫が蛇の頭を砕く)を指しています。これはキリストの十字架の勝利、つまり血による勝利です。
この三つは偶然ではありません。過越の血 → 聖別の血 → 十字架の血という一本の救済史の線が走っているのです。
血が意味するもの―いのちの代価
レビ記17:11は明確に教えています。「肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で宥めるため、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である」。
血はいのちそのものです。そして罪の赦しには、いのちの代価が必要です。
過越の小羊は、本来エジプトの長子を打つべき神のさばきを、代わりに受けました。傷のない小羊のいのちが、イスラエルの長子のいのちの代わりとなったのです。
ヒゼキヤの聖別の儀式でも、雄牛、雄羊、子羊が屠られ、その血が祭壇に振りかけられました。これは「罪のきよめのささげ物」(29:21, 24)であり、「全イスラエルのために宥めを行った」のです。
そしてこれらすべては、キリストの十字架を指し示していました。ヘブル9:12-14は言います。「キリストは…ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。…まして、キリストの血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか」。
応答する信仰―血を塗る、扉を開く、出て行く
しかし、血が流されるだけでは不十分です。それに応答する信仰が必要です。
出エジプトの場合:イスラエルは小羊の血を「鴨居と門柱に塗る」という行動をしなければなりませんでした。ただ小羊を屠っただけでは守られません。神の命令に従って血を塗り、家の中にとどまる信仰が必要でした。
ヒゼキヤの場合:彼は「治世の第一年の第一月に」神殿の戸を開きました(29:3)。父アハズが閉ざした扉を、再び開く決断です。そしてレビ人たちは「直ぐな心をもって」応答しました(29:34)。血の儀式を行うだけでなく、心からの献身が伴ったのです。
70人の弟子たちの場合:彼らは「履き物もはかずに」出て行きました(ルカ10:4)。人間的な準備や保険なしで、神の言葉だけを信じて従う信仰です。そして彼らは体験ではなく「名が天に書かれている」ことを喜ぶよう教えられました(10:20)。
この三つに共通するのは、能動的な信仰の応答です。神の恵みを受け取るには、私たちの側の応答が必要なのです。
「完全な聖別」への招き
今日の三つの箇所は、いずれも「徹底すること」「中途半端にしないこと」を教えています。
- 出エジプト:「一つもパン種を残すな」(12:19-20)
- 歴代誌:16日間かけて徹底的に聖別(29:17)、「忌まわしいものを取り除く」(29:5)
- ルカ:「収穫の主に祈りなさい」(10:2)、「名が天に書かれていることを喜べ」(10:20)
「少しくらい残してもいいだろう」「このくらい妥協してもいいだろう」「この程度の献身でいいだろう」―そのような中途半端さを、神は求めておられません。
なぜなら、神ご自身が中途半端ではないからです。御子のいのちという最高の代価を払って、私たちを贖ってくださいました。その神に対する応答が中途半端であってよいはずがありません。
私たちへの適用―主イエスに出会った者として
では、今日の箇所から私たちは何を学び、どう生きるべきでしょうか。
1. 心の中の「パン種」を取り除く 少しの妥協、わずかな偽善、小さな罪—それらが生活全体を変質させる前に、徹底的に取り除きましょう。「このくらい」が命取りになります。
2. 神殿の「閉ざされた扉」を開く あなたの心の中で、神に閉ざしている領域はありませんか。アハズは神殿の戸を閉じましたが、ヒゼキヤは開きました。今日、あなたも「主よ、この領域をあなたに明け渡します」と祈りましょう。
3. 「直ぐな心」を持ち続ける レビ人たちは、暗黒の時代にも心を神に向け続けました。あなたが今、目立たない立場にいても、誰も見ていなくても、「直ぐな心」を持ち続けてください。神は見ておられます。
4. 体験ではなく、救いの確信を喜ぶ 奇跡や感動的な体験ではなく、「あなたの名が天に書かれている」という事実を喜びましょう。それは環境に左右されない、永遠の喜びです。
5. 主イエスに出会った者として歩む 過越の血、聖別の血、十字架の血—すべてはあなたのためです。その愛に応答して、「主イエスに出会った者として、キリストの香りを放ち、福音が現れる者」(私達の祈り)として歩みましょう。
結び―一本の線が指し示すもの
出エジプト記、歴代誌、ルカ福音書—1000年以上の時代を越えて、一本の線が貫いています。
それは「神は血によって贖い、それに応答する信仰を求められる」という真理です。
そしてその線は、私たちの時代にも続いています。キリストの血はすでに流されました。今、求められているのは私たちの応答です。
血を塗りますか。扉を開きますか。出て行きますか。
あなたの名は既に天に書かれています。その恵みに応答して、今日も主とともに歩みましょう。
ここまで読んでくださったあなたへ、プレゼント!この音楽本当に癒されます。
🔵 愼悟先生のYouTube

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