今日も頑張って?いいえ・・楽しんで通読続けます。なぜ、どうしてという疑問を持ちながら、気になるところをチェックしておいて、疑問を心の引出に入れて置き、
後で祈りつつ調べると深みが増し、次に来る通読が待ち遠しくなります。この作業をするようになって、通読を楽しく続けられるようになりました。
これは人それぞれなので、このやり方が正しいとか間違いだとか?ということは分かりませんが、少なくとも私にはこのやり方が一番継続の力になっています。解決できてインプットしたところは記事でアウトプットしています。
このBGMをバックに聖書通読と学び、ご一緒しましょう。
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目次
創世記42章:ヤコブとイスラエルの使い分け
飢饉の中でエジプトへ
カナンの地に飢饉が広がり、ヤコブは息子たちにエジプトへ穀物を買いに行くよう命じます。しかしベニヤミンだけは「わざわいが彼にふりかかるといけない」と手元に残しました。かつてヨセフを失った悲しみが、ヤコブの心に深く刻まれていたのです。
「ヤコブ」と「イスラエル」
ここで興味深いのは、42:1-4では「ヤコブ」、42:5では「イスラエルの息子たち」と呼び分けられていることです。
- ヤコブ(יַעֲקֹב / ヤアコーブ):「かかとをつかむ者」の意。人間的な弱さ、不安、父としての心配を表す場面で使用
- イスラエル(יִשְׂרָאֵל / イスラエール):「神と格闘した者」の意。神の民としての集合的アイデンティティ、信仰的文脈で使用
同じ人物でありながら、個人としての弱さと神に召された者としての使命の両面を持つことを、名前の使い分けで表現しています。
通訳者がいた——神はすべてを聞いておられる
兄たちはエジプトの宰相(ヨセフ)の前でヘブル語で語り合いました。「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ」(42:21)。彼らは通訳者がいたので、この宰相が自分たちの言葉を理解しているとは夢にも思いませんでした。
しかしヨセフはすべてを聞いていました。そして「彼らから離れて、泣いた」(42:24)。
これは霊的な真理を示しています。私たちが「神には聞こえていない」と思っている言葉も、神はすべて聞いておられます。詩篇139篇の「あなたは遠くから私の思いを読み取られます」という言葉そのものです。
第二列王記9-10章:アハブ家への裁き、イゼベルの血縁の聖絶
エフーへの油注ぎ——なぜ「逃げなさい」と命じられたか
預言者エリシャは若い預言者を遣わし、将軍エフーに油を注いでイスラエルの王とし、アハブの家を滅ぼす使命を与えました。そして「戸をあけて、ぐずぐずしていないで逃げなさい」(9:3)と命じました。
なぜ逃げる必要があったのでしょうか。
- 安全上の理由:謀反を扇動したと見なされれば、イゼベル側に殺される危険があった
- 使命の性質:極秘任務であり、長居すれば計画が漏れる恐れがあった
- 預言者の役割の明確化:預言者は神のことばを伝えるだけで、政治的謀議には関わらない。これが人間の策略ではなく神の介入であることを明確にした
ナボテの畑——すべての裁きの発端
ヨラム王がエフーに出会った場所は「イズレエル人ナボテの所有地」(9:21)でした。これは偶然ではありません。
第一列王記21章で、アハブ王はナボテのぶどう畑を欲しがりました。ナボテは「主が禁じておられます。先祖の嗣業を売ることはできません」と断りましたが、イゼベルが偽りの証言で彼を殺害させ、土地を奪い取りました。
その時、預言者エリヤは神の裁きを宣言しました:
「犬どもがナボテの血をなめたその場所で、犬どもがあなたの血をなめる」(第一列王記21:19)
「犬がイズレエルの地所でイゼベルを食らう」(第一列王記21:23)
約14年後、この預言は一字一句その通りに成就しました。
もっと正確に記すなら、
場所がナボテの畑ではない
(ただし神の言葉は「地に落ちていない」とⅡ列王10:10が保証)
「表現の細部においてではなく、神の裁きの本質と意図において、預言は完全に成就した。」
裁きの連鎖
エフーによる裁きは徹底的でした:
- ヨラム(北イスラエル王):ナボテの畑で射殺され、その畑に投棄された(9:24-26)
- アハズヤ(南ユダ王):イゼベルの孫であり、たまたま見舞いに来ていた。メギドで死亡(9:27-28)。「アハズヤの滅亡は神から出たことであった」(第二歴代誌22:7)
- イゼベル:窓から転落し、犬に食われて頭蓋骨・両足・両手首しか残らなかった(9:33-37)
- 70人の王子:サマリアで斬首された(10:6-7)
- バアル礼拝者:神殿に集められ、一掃された(10:18-28)
イゼベルの影響——北も南も汚染
イゼベルの罪は北イスラエルだけにとどまりませんでした。彼女の娘アタルヤは南ユダのヨラム王に嫁ぎ、ユダ王家にもバアル礼拝を導入しました。
アハズヤ(南ユダ王)が殺された後、アタルヤはダビデの子孫を皆殺しにして自ら王となりました(6年間)。しかし幼いヨアシュだけが隠されて生き残り、ダビデの血筋——メシアへの系図——は守られました(第二列王記11:1-3 / 第二歴代誌22:10-12)。
エフーの熱心さの限界
エフーは「私の主に対する熱心さを見なさい」(10:16)と誇りました。主もこれを評価し「あなたの子孫は四代目まで王座に着く」と約束されました(10:30)。
しかし同時に「心を尽くして主の律法に歩もうと心がけなかった」(10:31)とも記されています。エフーはバアルを滅ぼしましたが、ベテルとダンの金の子牛——ヤロブアムの罪——はそのまま残しました。
なぜでしょうか。政治的理由が大きかったと考えられ、信仰と権力維持の間で妥協した可能性が高いです。金の子牛は民がエルサレムに行かないようにするための装置でした。これを廃止すれば、民は南ユダの神殿に流れてしまいます。
エフーは「自分に都合の良い従順」を選んだのです。部分的な従順は、真の従順ではありません。
東ヨルダンの破れ口
10:32-33で、アラムのハザエルがガド、ルベン、マナセの東ヨルダン地域を攻撃しました。
民数記32章で、この2部族半はモーセに「ヨルダンを渡らせないでください」と願い出て、自分たちで選んだ土地に住みました。歴史的に見ると、この地域は常に最初に攻撃を受け、最初に捕囚されました。
「自分で選んだ相続地」は、神の最善ではなかったという教訓です。主の御心を待たずに自分の判断で決めることの危険性を示しています。
マルコ10:1-22:神の本来の意図に立ち返る
「許可」と「意図」の違い
パリサイ人たちは「離婚は許されるか」とイエスを試しました。彼らは律法の許可範囲を知りたかった——「どこまでやっても大丈夫か」という発想です。
イエスは「モーセはあなたがたの心がかたくななので許した」と答え、「創造の初め」に立ち返らせました:
「神は、人を男と女に造られたのです。それゆえ、人はその父と母を離れ、ふたりは一体となるのです。」(10:6-8)
神の本来の意図は何だったのか。これは聖書解釈の根本姿勢として重要です:
- 「これは禁じられているか?」ではなく「神は何を望んでおられるか?」
- 「どこまで許されるか?」ではなく「神の心は何か?」
律法主義は境界線を探します。愛は神の心を探します。
今日の箇所から学ぶこと
1. 神の言葉は一つも地に落ちない
「だから知れ。【主】がアハブの家について告げられた【主】のことばは一つも地に落ちないことを。」(第二列王記10:10)
エリヤの預言から約14年後、場所も状況も細部まで預言通りに実現しました。神は忘れておられません。
2. 罪の影響は世代を超える
イゼベルの罪は北イスラエルだけでなく、娘アタルヤを通じて南ユダまで汚染しました。悪い同盟は子孫に災いをもたらします。
3. 神はダビデの契約を守られる
アタルヤがダビデの血筋を断とうとしても、ヨアシュが守られました。メシアへの系図は絶えませんでした(第二列王記11:1-3 / 第二歴代誌22:10-12)。
4. 部分的な従順は真の従順ではない
エフーはバアルを滅ぼしましたが、金の子牛はそのまま残しました。神は心を尽くした従順を求めておられます。
5. 神はすべてを聞いておられる
ヨセフの兄たちは「通訳者がいた」ので安心して本音を語りました。しかしヨセフはすべてを聞いていました。私たちの言葉も、思いも、神の前には隠れることができません。
今日の通読箇所
- 創世記42:1-25
- 第二列王記9-10章
- マルコ10:1-22
あとがき
主イエスの様に、御国の学者になりたい、み言葉の人になりたい、主イエスと一体となりたい。聖書に、神の言葉に、神の国に、あこがれをもっています。聖書全体を視野に入れて学びたい、自分の蔵から、新しいもの(新約聖書)と古いもの(旧約聖書)を自由に取り出せるようになりたい。そんな思いが私自身ブログを書こうとする意欲につながっています。今日の箇所は第一列王記21章のエリヤをと通しての神の預言の成就です。時がたつとごちゃごちゃになってしまい、なんだったっけ?となるのを防ぐために、何度も反復しています。日々、完全ではない内なる都市を発見しますが、あきらめずに今日の一歩、通読を続けたいと願います。下記のリンクでは私自身がごちゃごちゃになっていた箇所を整理しています。よろしかったらどうぞ
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