逃げる勇気、静かな声、心の内側

通読

― 創世記39章・第一列王記18-20章・マルコ7章から学ぶ ―

2025年12月17日

はじめに

今日の通読箇所(創世記39章、第一列王記18-20章、マルコ7章)は、一見バラバラに見えて、実は「内側と外側」という深いテーマで繋がっています。

ヨセフは奴隷という「外側」の境遇にありながら、神への畏れという「内側」を保ちました。エリヤは劇的な火という「外側」の現象ではなく、かすかな細い声という「内側」に響く声で神に出会いました。そしてイエス様は、手を洗うという「外側」の儀式ではなく、心という「内側」から出るものが人を汚すと教えられました。

この三箇所を通して、私たちの信仰の本質について深く考えてみましょう。

第1部:創世記39章「逃げる勇気」

1. 異邦人が見た神の祝福

「彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。」(創世記39:3)

興味深いことに、異邦人であるエジプト人のポティファルでさえ、ヨセフへの神の祝福を認識することができました。ポティファルは「主(ヤハウェ)」という名を知らなかったかもしれませんが、ヨセフの人生に働く超自然的な力を見て取ることができたのです。

これは私たちへの励ましでもあります。信仰者の生き方は、言葉による証し以上に、周囲の人々に神の存在を示す証しとなり得るのです。私たちの日常の誠実さ、勤勉さ、品性が、神の栄光を反映するものとなることができます。

2. ヨセフの拒絶の三つの理由

ポティファルの妻の誘惑に対するヨセフの応答(39:8-9)には、三つの明確な理由が含まれています。

第一に、主人への忠誠です。「私の主人は、家の中のことは何でも私に任せ、気を使わず、全財産を私の手にゆだねられました。」ヨセフは自分に与えられた信頼を裏切ることを拒みました。

第二に、人間関係の秩序への敬意です。「あなたがご主人の奥さまだからです。」ヨセフは人間社会における秩序と境界線を尊重しました。

第三に、そして最も重要なのは、神への畏れです。「どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」

この最後の言葉は、ヘブライ語で וְחָטָאתִי לֵאלֹהִים(ヴェハーターティー レエロヒーム)と表現されています。ヨセフは異邦の地エジプトにいながら、神を忘れていませんでした。しかも彼はこの行為を「ご主人への罪」ではなく「神への罪」として認識していたのです。これは、ヨセフの信仰の深さを示しています。

3. 「愛」と「情欲」の違い

ポティファルの妻がヨセフに対して抱いていた感情は、本当の「愛」だったのでしょうか?

ヘブライ語には「愛」を表す言葉として אַהֲבָה(アハヴァー)があります。しかし、彼女の感情はむしろ תַּאֲוָה(タアヴァー)、つまり「欲望」「貪り」と呼ぶべきものでした。

本当の愛とは何でしょうか。本当の愛であれば、たとえ拒絶されても、相手を守ろうとするはずです。相手の幸せを願い、相手の最善を求めるのが愛だからです。

しかし、ポティファルの妻は拒絶されるや否や、即座に復讐に転じました(39:14-15)。彼女はヨセフを守るどころか、嘘の告発によって彼を陥れようとしました。これは愛ではなく、満たされなかった欲望が怒りに変わったものです。ここに、愛と情欲の本質的な違いが明らかにされています。

4. 「逃げる」という勇気

創世記39:12で、ヨセフは上着を残して「逃げた」と記されています。

私たちは「逃げる」ことをどこか恥ずかしいこと、弱さの表れだと思いがちではないでしょうか。「立ち向かえ」「戦え」「克服しろ」という声の方が勇ましく聞こえます。

しかし聖書は、逃げるべき時に逃げることを知恵として教えています。パウロもテモテへの手紙で「若い時の情欲を避けなさい」と命じています(IIテモテ2:22)。ここで使われているギリシャ語 φεῦγε(フェウゲ)は、まさに「逃げよ」という意味です。

ヨセフは議論しませんでした。説得しようともしませんでした。弁明もしませんでした。ただ逃げたのです。上着を残してでも。

ここに、ヨセフの本当の強さを見ることができます。誘惑に「勝つ」のではなく、誘惑から「距離を取る」という判断ができる強さ。自分の弱さを知っているからこそできる選択です。これは臆病ではなく、真の知恵なのです。

第2部:第一列王記18章「カルメル山の対決」

1. 「イスラエルの神」という呼びかけ

「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。」(第一列王記18:36)

エリヤの祈りの中で、興味深い表現が使われています。通常、聖書では「アブラハム、イサク、ヤコブの神」という定型句が用いられます。しかしここでエリヤは、「ヤコブ」ではなく「イスラエル」という名を使っています。

これには深い意味があります。この場面はカルメル山での対決、つまりイスラエル民族全体がバアルと主のどちらに従うかを決める場面です。エリヤは「ヤコブ」という個人名ではなく、「イスラエル」という民族名・契約の名を使うことで、この対決が個人の信仰ではなく、民族としての契約関係の問題であることを強調しています。

さらに18:31では、エリヤが「主がかつて『あなたの名はイスラエルとなる』と言われたヤコブの子らの部族の数にしたがって十二の石を取った」と記されています。分裂王国の時代にあって、エリヤは敢えて十二部族の統一性を象徴する行動を取りました。北王国の預言者でありながら、全イスラエルの回復を見据えていたのです。

2. 火をもって答える神

バアルの預言者たちは朝から真昼まで叫び続けました。踊り回り、剣や槍で自分たちの身を傷つけ、血を流しながら神を呼び求めました。しかし「何の声もなく、答える者もなく、注意を払う者もなかった」(18:29)のです。

一方、エリヤの祈りは簡潔でした。長々とした儀式もなく、自傷行為もなく、ただ信仰をもって主に呼びかけました。すると主の火が降り、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしました(18:38)。

民の応答は感動的です。「主こそ神です。主こそ神です」(18:39)。ヘブライ語で「ヤハウェ フー ハエロヒーム」。これは単なる知的同意ではなく、全存在をかけた告白でした。

第3部:第一列王記19章「燃え尽きたエリヤへの神の処方箋」

1. 絶頂から絶望へ

18章でエリヤは霊的な絶頂を経験しました。天から火が降り、民が悔い改め、三年半ぶりの雨が降りました。主の手がエリヤの上に下り、彼は超人的な力でアハブの戦車の前を走りました(18:46)。

そして19章1節。「アハブは、エリヤがしたすべての事と、預言者たちを剣で皆殺しにしたこととを残らずイゼベルに告げた。」

注目すべきは、アハブが何も変わっていなかったということです。あの劇的な出来事の後でさえ、彼は妻イゼベルに「報告」しているだけで、エリヤの側についたわけではありません。

そしてイゼベルの脅迫一つで、カルメル山の英雄は恐れて逃げ、死を願うまでになりました。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください」(19:4)。霊的な勝利の直後に、深い絶望に陥る。これは、燃え尽き症候群(バーンアウト)の典型的なパターンです。

2. 神の対応 ― 責めではなく回復

ここで神がエリヤにどのように対応されたかは、私たちに深い慰めを与えます。

第一に、神は責めませんでした。「なぜ逃げたのか」「信仰が足りない」とは言われませんでした。

第二に、まず体を休ませました。御使いを遣わして、エリヤを寝かせ、食べさせ、また寝かせました(19:5-7)。霊的な問題の前に、身体的なケアが必要でした。

第三に、旅の伴走をしました。40日間、ホレブ山までの道のりを支えてくださいました。

第四に、話を聞いてくださいました。エリヤは同じ訴えを二度繰り返しています(19:10, 14)。神はそれを忍耐強く聞いてくださいました。

第五に、次の使命を与えました。でもそれは「一人で全部やれ」ではなく、後継者エリシャを与え、仲間の存在(七千人)を示すことでした。

3. かすかな細い声

「火のあとに、かすかな細い声があった。」(第一列王記19:12)

この「かすかな細い声」は、ヘブライ語で קוֹל דְּמָמָה דַקָּה(コール・デマーマー・ダッカー)と表現されています。直訳すると「静けさの細い声」あるいは「沈黙のささやき」となります。

神は大風の中にも、地震の中にも、火の中にもおられませんでした。神は時に劇的に働かれますが、神ご自身との親密な交わりは、静かな細い声の中にあるのです。

この声は、静かなところでないと聞こえない声というよりも、周囲に音があっても心の内に響く声、魂の奥底に語りかける声ではないでしょうか。それを聴き分けるには、心を神に向ける姿勢が必要です。

そして慰め深いのは、エリヤがこの時、信仰的には最低の状態だったということです。恐れに負け、逃げ、死を願っていた。それでも神は彼に語りかけてくださいました。罪を犯していても、弱っていても、聞こえる主の声があるのです。

4. 孤独からの解放

エリヤは繰り返し「ただ私だけが残りました」と訴えています(19:10, 14)。彼は深い孤独感の中にいました。

しかし神の答えは驚くべきものでした。「わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である」(19:18)。エリヤは一人ではなかったのです。彼が知らないところで、神は多くの忠実な者たちを保っておられました。

第4部:第一列王記20章「偽りの寛容」

1. ベン・ハダデの傲慢

アラムの王ベン・ハダデは、イスラエルの神を侮辱しました。20:10では異教の神々に誓い、20:23では「彼らの神々は山の神です。だから、彼らは私たちより強いのです。しかしながら、私たちが平地で彼らと戦うなら、私たちのほうがきっと彼らより強いでしょう」と言いました。

これはイスラエルの神を、地理的に限定された局所的な神として見下す発言でした。そのため主ご自身が、「アラムが、主は山の神であって、低地の神でない、と言っているので、わたしはこのおびただしい大軍を全部あなたの手に渡す」(20:28)と宣言されたのです。この戦いは、主の御名の栄光をかけた聖戦となりました。

2. 預言者の不思議な行動

20:35で、預言者のともがらの一人が仲間に「私を打ってくれ」と頼むという、一見奇妙な場面があります。これは何だったのでしょうか?

これは「預言的行為」(prophetic act)と呼ばれるもので、たとえ話を身をもって演じるためでした。預言者は傷を負った兵士に変装して王に近づき、「捕虜を逃がした者」の物語を語りました。アハブは「そのとおりにさばかれる。あなた自身が決めたとおりに」と即座に判決を下しました。

すると預言者は正体を明かし、「あなた自身がその人だ」と告げました。これは、ナタンがダビデに対して行ったこと(IIサムエル12章)と同じ手法です。自分で自分を裁かせるのです。

3. アハブの「兄弟」発言と偽りの寛容

ベン・ハダデの家来たちが「イスラエルの王たちはあわれみ深い王である」と言った時(20:31)、それは外交的なお世辞でした。しかしアハブはそれを真に受けて、「彼は私の兄弟だ」と言ってしまいます(20:32)。

ここに「偽りの寛容さ」があります。アハブは「あわれみ深い」と言われて気分が良くなりました。敵の王を許すことで、自分が寛大で立派な王だという自己イメージを満たしたのです。しかしそれは、神が求めた裁きを無視することでした。

20:42で神は「わたしが聖絶しようとした者をあなたが逃がした」と言われています。「聖絶」はヘブライ語で חֶרֶם(ヘレム)、つまり主に捧げるべき滅ぼし尽くすべきものです。

私たちも時に、「優しい人」「寛容な人」と思われたくて、神が「ノー」と言っていることに「イエス」と言ってしまうことがないでしょうか。本当のあわれみは、神の義と矛盾しません。ミカ6:8が教えるように、「公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩む」という三つは、切り離すことができないのです。

第5部:マルコ7章「心から出るもの」

1. パリサイ人の問題

パリサイ人たちは外側をきよめることに熱心でした。手を洗い、器を洗い、体をきよめました。それ自体は悪いことではありません。しかし問題は、彼らが外側の形式に固執するあまり、内側の本質を見失っていたことです。

イエス様はイザヤ書を引用して言われました。「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから」(7:6-7)。

2. コルバンの問題

イエス様は具体例として「コルバン」の慣習を挙げられました(7:11-13)。「私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました」と言えば、父や母を養う義務から免れることができたのです。

これは、神への献身を装った親不孝です。宗教的な行為を口実にして、神の戒め(「あなたの父と母を敬え」)を回避していたのです。人間の言い伝えが神のことばを空文にしてしまう危険性を、イエス様は厳しく指摘されました。

3. 人を汚すものの本質

「外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」(マルコ7:15)

イエス様は、人を汚すものの本質を明らかにされました。問題は外から入ってくるものではなく、内側から出てくるものです。

7:21-22のリストは圧倒的です。「悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさ」。これらはすべて、人の心の中から出てくるものです。

この教えは私たちに謙遜を教えます。問題は外にあるのではなく、私たちの内側にあるのです。だからこそ、私たちには福音が必要です。外側を整えるだけでは根本的な解決にならず、心そのものが変えられる必要があるからです。

第6部:三箇所を貫くテーマ「内側と外側」

今日の三箇所を通して、「内側と外側」というテーマが浮かび上がってきます。

人物外側内側
ヨセフ奴隷の身分神への畏れ
エリヤ火・風・地震(劇的な現象)かすかな細い声
パリサイ人手を洗う儀式神から離れた心
アハブ寛大な王という自己イメージ神の命令を無視する心

一つの問い:「あなたは何によって生きているのか?」

今日の箇所を通して、一つの問いが浮かんできます。「あなたは何によって生きているのか?」

・ヨセフは神への畏れによって誘惑に打ち勝った

・エリヤは神の静かな声によって立ち直った

・パリサイ人は人間の言い伝えによって生きていた

・アハブは自分の判断によって生き、神の命令を無視した

私たちは何によって日々の決断をしているでしょうか。何が私たちの「内側」を形作っているでしょうか。

結び

私たちの内側には何があるでしょうか。外側を整えることに熱心になりながら、心の中は汚れたままということはないでしょうか。

ヨセフのように逃げる知恵、エリヤのように休息を受け取る素直さ、そしてパリサイ人のような自己義認から解放されること。これらはすべて、恵みによって与えられるものです。

神は今日も、かすかな細い声で私たちに語りかけておられます。その声を聴くために、心を静め、神の前に出る時を持ちましょう。

「主よ、お話しください。しもべは聞いております。」

― 主の御名によって ―

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