―創世記17章、士師記18章、ヨハネ4章から学ぶ契約・従順・福音宣教―
目次
序文
今日の聖書通読から、創世記17章ではアブラハムに与えられた契約を、士師記18章では霊的に堕落した士師記時代を、そして新約聖書では主イエスがサマリアの女に語られた「霊と真の礼拝」について学びます。これらの箇所を通して、神様が私たちに求めておられる「真の関係」とは何かを探っていきましょう。
第1部:アブラハムに見る神様との正しい関係
1. 「わたしの前を歩む」という招き
創世記17:1
「アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れ、こう仰せられた。『わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。』」
この「わたしの前を歩む」というヘブライ語の表現「ハレーク・レファナイ(הִתְהַלֵּךְ לְפָנַי)」には、三つの深い意味があります。
第一に、**神様の臨在を意識して生きる**ことです。「神様が見ておられる」という意識をもって日々を過ごすことを意味します。
第二に、**神様を先導者として仰ぐ**ことです。神様の御顔を目指して進む生き方です。これは「み後をたどる」という表現と矛盾しません。神様の前を歩みながら、同時に神様に従っていくのです。
第三に、**隠れた罪のない生活**です。「全き者であれ」という言葉が示すように、神様の視線を避けるのではなく、むしろその視線の中で堂々と生きることができる潔白さが求められています。
エノクについて「神とともに歩んだ」(創世記5:22)という別の表現もありますが、ここアブラハムへの言葉では特に「完全性」と「潔白さ」が強調されています。つまり、「わたしの目の前で、何も隠さず、全き者として生きなさい」という神様からの招きなのです。
2. 割礼:契約のしるし
創世記17:10-11
「次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。」
ここで重要なのは、**契約そのもの**と**契約のしるし**を区別することです。
• **契約そのもの**は、創世記15章で既に神様が一方的に結ばれました。あの時、アブラハムは深い眠りの中にいて、神様だけが契約の責任を負われたのです。
• **契約のしるし**として、創世記17章で割礼が追加されました。これは契約を目に見える形で表すものです。
では、現代のクリスチャンは割礼を受けていないので、契約を破っているのでしょうか?
いいえ!使徒15章と使徒21章で、**異邦人信者に割礼は不要**と決議されました。
ガラテヤ5:6
「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」
コロサイ2:11-12
「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。」
つまり:
• **旧契約**では肉体の割礼
• **新契約**では**心の割礼**(霊的な意味での成就)
割礼という形は変わりましたが、その本質―神様との契約関係―は今も続いているのです。
3. 心の包皮:内面の変化が必要
申命記10:16
「あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじをこわくしてはならない。」
エレミヤ4:4
「ユダの人々とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。さもないと、わたしの憤りが、あなたがたの悪い行いのため、火のように出て燃え上がり、消す者もいない。」
旧約時代から既に、神様は**心の割礼**を求めておられました!
「心の包皮」とは、**神様との関係を妨げるもの**すべてを指します:
• 頑なさ、不従順
• 神様の言葉を聞かない態度
• プライド、自己義認
• 罪への愛着
そして重要なのは、この「心の包皮」は**女性にもある**ということです!パウロは「心の割礼」を語るとき、性別を問いません。
ローマ2:29
「かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」
神様が求めておられるのは、外側の儀式ではなく、**内側の変化**なのです。
4. 契約の継承:イサク、ヤコブ、そしてキリストへ
創世記17:19-21
「すると神は仰せられた。『いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。確かに、わたしは彼を祝福し、多くの子孫に恵ませ、非常にふえさせる。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民としよう。しかしわたしは、来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる。』」
ここで注意したいのは、「イサク契約」という別の契約があるわけではないということです。**アブラハム契約がイサクに継承される**という宣言なのです。
この契約の継承は続きます:
• イサク → ヤコブへ継承(創世記26:3-4)
• ヤコブ → イスラエル民族へ(創世記28:13-15)
• 究極的に → **キリストにおいて全人類へ**(ガラテヤ3:16, 29)
ガラテヤ3:16
「ところが、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫とに告げられました。神は『子孫たちに』と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、『あなたの子孫に』と言っておられます。その方はキリストです。」
ガラテヤ3:29
「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」
つまり、アブラハムへの約束は、最終的に**イエス・キリストを通してすべての信じる者に与えられる**のです!
第2部:士師記時代の堕落
アブラハムの時代から約800年後、イスラエルは約束の地に定住しました。しかし士師記時代、彼らは霊的に大きく堕落していきます。その様子を士師記18章から見てみましょう。
5. 偽預言者に伺う危険
士師記18:5-6
「彼らはそのレビ人に言った。『どうか、神に伺って、私たちの行く道がうまくいくかどうか、知らせてください。』その祭司は彼らに言った。『安心して行きなさい。あなたがたの行く道は主が認めておられる。』」
この場面には複数の重大な問題があります:
第一の問題:不正な祭司
このレビ人は、ミカという人が勝手に雇った祭司でした(士師記17章)。神様が任命した正式な祭司ではありません。
第二の問題:不正な偶像
ミカの家にはエポデと彫像がありました。これは神様が厳しく禁じられた偶像です。
第三の問題:間違った動機
ダン部族の人々は、神様の御心を求めたのではなく、自分たちの計画が成功するかどうかを知りたかっただけです。
これは**真の預言ではなく、占いに近いもの**です。
では、なぜ彼らは神様に直接祈らなかったのでしょうか?
士師記の時代の霊的状態は、この一言に要約されます:
士師記21:25
「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」
形式だけの宗教に堕落していたのです。
対照的に、旧約時代でも信仰のある人は神様に直接祈ることができました:
• ハンナ(1サムエル1章)は神様に直接祈り、主に出会いました
• イシュマエルの母ハガル(創世記16:13)も神様に直接出会いました
**新約時代の私たちは特に**、すべての信者が「王であり祭司」(1ペテロ2:9)とされています。現代でも「預言」を求める前に、**まず御言葉と祈りで神様に直接聞くべき**なのです。
6. レビ人の本来の役割と堕落
士師記18:20
「祭司は喜んで、エポデとテラフィムと彫像とを取り、その民の中に加わった。」
ここで疑問が生じます。レビ人は幕屋で仕えるべきではないのか?なぜ個人の家にいるのか?
実は、これは**矛盾していません**。レビ人には二つの役割がありました:
レビ人の本来の役割:
• **主に仕える** – 民数記18:2-6
• **幕屋(後に神殿)で仕える** – 民数記1:50-53
• **各部族に散らばって住む** – レビの町48箇所(民数記35章)
つまり、レビ人は:
• 各部族に住んで**教える役割**を果たし
• **礼拝は中央聖所(当時はシロ)で**行い
• 定期的に**シロの幕屋で奉仕する交代制**でした
士師記18章の問題点:
1. **個人の家で祭司をする** = 完全に違法(ミカの家)
2. **勝手に聖所を作る** = 違法(ダン部族の聖所)
3. **偶像を置く** = 最悪の罪
申命記12:5-6
「あなたがたの神、主が御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ぶ場所、すなわち主の住まいを尋ね求めて、そこに行かなければならない。そこにあなたがたの全焼のいけにえや、その他のいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、誓願のささげ物、進んでささげるささげ物、および牛や羊の初子を携えて行き…」
つまり、**主が選んだ場所(当時はシロ)だけで礼拝すべき**でした。
ヨシュア18:1
「イスラエル人の全会衆はシロに集まり、そこに会見の天幕を建てた。この地は彼らによって征服されていた。」
シロには約300年間、モーセの幕屋があり、契約の箱が安置されていました。しかしダン部族は、神様が定めた場所を無視して、勝手に偶像を置いた聖所を作ったのです。
7. 平穏な民を襲う罪
士師記18:27
「こうして、彼らはミカが造った物と、彼のところにいた祭司とを奪って、ライシュに行き、平穏で安心している民を襲い、剣の刃で彼らを打ち、町を火で焼いた。」
これは**明らかに罪**です。なぜなら:
第一に、神様の命令ではなかった
ヨシュアの時代のカナン征服は、神様の明確な命令によるものでした。しかしこの襲撃は、神様の命令なしに行われました。
第二に、貪欲による襲撃だった
彼らは自分たちが楽に土地を得るために、平穏に暮らしている民を襲ったのです。
第三に、不正な偶像を持ち込んだ
彼らはミカから盗んだ偶像を持ち込みました。これは神様の祝福ではなく、呪いを招くものでした。
その結果:
ダン部族の地は後に、北イスラエル王国の偶像礼拝の中心地になりました。
1列王記12:29-30
「彼は一つをベテルに据え、一つをダンに置いた。このことは罪となった。民はこの一つを礼拝するためダンにまで行った。」
ヤロブアムの金の子牛が置かれた場所の一つがダンでした。霊的堕落の象徴となったのです。
第3部:霊と真の礼拝と神の臨在の歴史
では、神様が本当に求めておられる礼拝とは何でしょうか?主イエスはサマリアの女に、このことを明確に教えられました。
8. サマリアの女への主イエスの言葉
ヨハネ4:20-24
「私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。』イエスは彼女に言われた。『わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊と真によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、霊と真によって礼拝しなければなりません。』」
ここで主イエスが教えられたのは:
第一に、場所ではなく心
「この山でもなく、エルサレムでもない」―神様は特定の場所ではなく、**心の態度**を見ておられます。
第二に、霊と真による礼拝
• **「霊」による礼拝** = 神の霊(聖霊)によって、心から、生きた礼拝をすること
• **「真」による礼拝** = 真理(神の言葉、律法)に基づいた、正しい礼拝をすること
両方が必要です!
「霊」だけでは:
• 感情的になりすぎる危険
• 聖書の根拠がない礼拝
• 個人的な体験だけに頼る
• 教理から外れる可能性
「真」だけでは:
• 形式的で命がない
• 律法主義に陥る
• 神との生きた関係がない
• 頭だけの信仰になる
両方が統合されると:
• 聖書に基づいた(真理の上に立つ)
• 聖霊に満たされた(生きた礼拝)
• バランスのとれた(健全な信仰)
これこそが、神様が求めておられる礼拝なのです!
9. 神の臨在の歴史的流れ(簡潔に)
この「霊と真の礼拝」は、旧約聖書の中でどのように示されてきたのでしょうか。神の臨在の歴史を簡単に追ってみましょう。
①シロのモーセの幕屋(約300年間)
ヨシュア18:1
「イスラエル人の全会衆はシロに集まり、そこに会見の天幕を建てた。」
1サムエル1:3
「この人は自分の町から毎年シロに上って行き、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていた。」
シロには約300年間、モーセの幕屋があり、契約の箱が安置されていました。
②契約の箱が奪われる
1サムエル4:10-11
「ペリシテ人は戦った。イスラエルは打ち負かされ、おのおの自分の天幕に逃げた。その敗北は非常にひどく、イスラエルのうち、歩兵三万人が倒れた。神の箱は奪われ、エリのふたりの息子、ホフニとピネハスは死んだ。」
イスラエルの罪のゆえに、シロは破壊され、契約の箱はペリシテ人に奪われました。
③ダビデが取り返す→ダビデの幕屋へ
2サムエル6:17
「彼らは主の箱を運び入り、ダビデがそのために張った天幕の真ん中の場所に安置した。」
ダビデは契約の箱を取り戻し、エルサレムに「ダビデの幕屋」を設置しました。
④ソロモン神殿へ
1列王記8:1,6
「そのとき、ソロモンは、イスラエルの長老たち、すべての部族のかしらたち、イスラエル人の一族の長たちを、エルサレムのソロモン王のもとに召集した。ダビデの町、すなわちシオンから主の契約の箱を運び上るためであった。…祭司たちは、主の契約の箱を、その場所、すなわち、神殿の内堂である至聖所の、ケルビムの翼の下に運び入れた。」
ソロモンが神殿を建て、ダビデの幕屋から契約の箱を神殿へ移しました。ここで幕屋と契約の箱が統合されたのです。
⑤アモス書の預言と使徒の働きでの成就
アモス9:11-12
「その日、わたしは倒れかかっているダビデの仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のように、これを建て直す。これは、彼らがエドムの残りの者と、わたしの名がつけられたすべての国々を手に入れるためだ。──これをなされる主の御告げ──」
この預言が、使徒の働き15章のエルサレム会議でヤコブによって引用されました。
使徒15:16-17
「『この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。』」
この預言は、**初代教会時代に異邦人が福音を受け入れたことで成就し始めました**。しかし、多くの聖書学者は、この預言が**終末時代により完全に成就する可能性**も指摘しています。ダビデの幕屋の特徴である賛美と礼拝、神の臨在への飢え渇きが、終末時代の教会に回復されるという理解です。
詳しくは後日、ダビデの幕屋シリーズでご紹介します。
⑥新約の成就:私たちの内に神の宮
そして新約時代、神の臨在の場所は根本的に変わりました。
1コリント3:16
「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」
1コリント6:19
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」
2コリント6:16
「神の宮と偶像とに、何の調和があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。『わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。』」
もはや神殿という建物ではなく、**私たち一人ひとりが神の宮**とされました!神様は私たちの内に住んでくださるのです。
これこそが、「霊と真の礼拝」の最終的な成就です。
第4部:主イエスが奇跡をなさらなかった理由
最後に、新約聖書から重要な学びを見てみましょう。主イエスが故郷ナザレで奇跡を「なさらなかった」という出来事です。
10. 「できなかった」ではなく「なさらなかった」
マタイ13:53-58
「イエスはこれらのたとえを話し終えると、そこを去られた。それから、ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った。『この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。とすると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。』こうして、彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。『預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです。』そして、イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇跡をなさらなかった。」
この最後の一文をよく見てください。
「そして、イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇跡を**なさらなかった**。」
**「できなかった」ではなく「なさらなかった」**のです!
これは文法的にも明確です。ギリシャ語原文では「οὐκ ἐποίησεν(ouk epoiēsen)」= 「なさらなかった」(意志的な選択)が使われています。もし「できなかった」なら「οὐκ ἐδύνατο(ouk edynato)」という別の語を使うはずです。
つまり、主イエスは**奇跡を行う力がなかったのではなく、あえて行わないことを選ばれた**のです。
11. なぜ「なさらなかった」のか
では、なぜ主イエスは奇跡をなさらなかったのでしょうか?
**不信仰な人々の前でも、主イエスは本当は奇跡を行うことができました。**しかし、ここで奇跡をすると、人々は**奇跡だけに目を留めるようになる**危険がありました。
主イエスの目的は、人々に驚きを与えることではなく、**真の信仰へと導くこと**でした。
このことは、他の聖書箇所からも確認できます。
ヨハネ6:26
「イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。』」
→ 奇跡だけに目を留める危険!
マタイ12:38-39
「そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。『先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。』しかし、イエスは答えて言われた。『悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。』」
→ しるしを求める心の問題!
ルカ16:31
「アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たとい、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」
→ 信仰なしでは、奇跡も無意味!
主イエスの奇跡の目的:
• 奇跡は**信仰への応答**であって、信仰を強制する手段ではない
• 主イエスは**真の関係(心の変化)**を求めておられた
• 奇跡だけを見る人は、パンだけを求める人と同じ
もし主イエスが不信仰な人々の前で次々と奇跡を行ったら、彼らは驚くかもしれません。しかし、それは**真の信仰ではなく、ただの好奇心や利益を求める心**です。
主イエスは、そのような表面的な反応ではなく、**心からの信頼と従順**を求めておられたのです。
結論:神様が求めるのは形ではなく心
創世記17章のアブラハムから、士師記18章の堕落した時代を経て、主イエスのサマリアの女への教えに至るまで、一貫したメッセージがあります。
神様が求めておられるのは:
• 外側の儀式ではなく、**心の割礼**
• 形だけの宗教ではなく、**霊と真による礼拝**
• 奇跡への好奇心ではなく、**真の信仰**
• 特定の場所での礼拝ではなく、**どこにいても神様を礼拝する心**
士師記時代の人々は、正しい場所(シロ)を捨て、偽りの祭司に伺い、偶像を立て、神様の命令なしに行動しました。それは形だけの宗教でした。
しかし神様は、アブラハムに「わたしの前を歩み、全き者であれ」と言われたように、**神様の前で堂々と生きる、心からの従順**を求めておられます。
そして新約時代、これはイエス・キリストにおいて完全に成就しました:
• **割礼**は**心の割礼**(バプテスマ)に
• **神殿**は**私たちの内なる神の宮**に
• **特定の場所**は**どこでも霊と真による礼拝**に
ガラテヤ5:6
「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、**愛によって働く信仰**だけが大事なのです。」
神様との真の関係は、外側の形ではなく、**内側の心の変化**から始まります。
あなたは今日、「神様の前を歩んで」いますか?
何も隠すことなく、堂々と神様の視線の中で生きていますか?
形だけの宗教ではなく、心から「霊と真」で神様を礼拝していますか?
これこそが、神様が私たち一人ひとりに求めておられる、「契約と従順の本質」なのです。
参考聖句一覧
創世記17:1, 10-11, 19-21
申命記10:16, 12:5-6
エレミヤ4:4
ローマ2:29
ガラテヤ3:16, 29, 5:6
コロサイ2:11-12
ヨシュア18:1
士師記18:5-6, 20, 27, 21:25
1サムエル1:3, 4:10-11
2サムエル6:17
1列王記8:1,6, 12:29-30
アモス9:11-12
マタイ12:38-39, 13:53-58
ルカ16:31
ヨハネ4:20-24, 6:26
使徒15:16-17
1コリント3:16, 6:19
2コリント6:16
第5部:ダビデの幕屋の最終成就―全世界への福音宣教
私たちはここまで、神様との真の関係、霊と真の礼拝について学んできました。そして神の臨在の歴史の中で、使徒15:16-17のアモスの預言を見ました。
では、この預言の最終的な成就とは何でしょうか?
使徒15:16-17を改めて見てみましょう:
「『この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。それは、残った人々、すなわち、**わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである**。』」
12. 「わたしの名で呼ばれる異邦人」とは誰か?
この「**わたしの名で呼ばれる異邦人**」とは誰でしょうか?
それは**クリスチャン(キリスト者)**です!
使徒11:26
「こうして彼らは、まる一年の間、教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、**キリスト者**と呼ばれるようになった。」
つまり、「主(キリスト)の名で呼ばれる人々」です。
まだクリスチャンと呼ばれていなくても:
• 福音を聞き
• キリストを知り
• キリストを信じ
• キリストを内に宿し
• キリストに従う者とされる
これこそが、**「主の名で呼ばれる」**ようになることです。
13. 種から実へ:異邦人の包含から福音宣教へ
使徒15章のエルサレム会議は、歴史的な転換点でした。異邦人が律法を守らなくても、信仰によって救われることが認められたのです。
これは**「種」**でした。
そしてその種が成長し、**「実」**となります。それが**全世界への福音宣教**です!
マタイ24:14
「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」
これはイエス様の教えと完全に一致します:
ヨハネ12:24
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」
異邦人の包含という「一粒の麦(種)」が、全世界への福音宣教という「豊かな実」を結ぶのです。
14. 内側から外側へ:ダビデの幕屋の完結
**ダビデの幕屋の回復**とは、単に賛美や礼拝の回復だけではありません。
内側の経験:
• 霊と真の礼拝を経験する
• 神の臨在に触れる
• 主の愛に包まれる
• 励まされ、力を受ける
外側への使命:
• 全ての人に福音を届ける
• 主の愛を分かち合う
• 主の心を伝える
• ダビデの幕屋の心(神の臨在への飢え渇き)を届ける
これこそが、**ダビデの幕屋の最終成就**です!
自分一人が神様との関係を楽しむだけではなく、主の愛に包まれて励まされた者が、全ての人に福音を届けるのです。
使徒1:8
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
霊と真の礼拝を経験した者が、聖霊の力を受けて、地の果てまで証人となる。
これが、使徒15:17の預言の完全な成就です:
「わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるため」
全世界のすべての国民が福音を聞き、主の名で呼ばれるキリスト者となる―これがダビデの幕屋の最終的な完結なのです。
あとがき
本日の聖書通読を通して、神様が求めておられる「真の関係」と、その最終的な成就について学びました。
• **創世記17章**からは、「わたしの前を歩む」という神様との個人的な関係
• **士師記18章**からは、形だけの宗教への警告
• **ヨハネ4章**からは、霊と真の礼拝
• **使徒15章**からは、全世界への福音宣教という最終成就
この「霊と真の礼拝」の具体的な表れが、旧約聖書の「ダビデの幕屋」です。
ダビデの幕屋とは何か?
• なぜそれが重要なのか?
• どのように段階的に回復されてきたのか?(宗教改革、アズサストリート等)
• 契約の箱(神の臨在)の回復とは?
• そして福音宣教との関係は?
これらについて、**後日「ダビデの幕屋シリーズ」で詳しくご紹介します**。
1サムエル1章から2サムエル8章にかけて記されている契約の箱の旅路は、神の臨在を求める私たちの旅路であり、同時に全世界に福音を届ける私たちの使命でもあるのです。
どうぞご期待ください!
そして何より、あなた自身が今日から:
• 神様の前を堂々と歩み
• 霊と真で神様を礼拝し
• 主の愛に包まれて
• 全ての人に福音を届ける者
となりますように。
マタイ24:14
「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」
あなたも、この偉大な使命の一部です!
—
制作:聖書の名言集
本日の聖書通読より

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