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聖書通読 申命記30章・ホセア書5〜6章・ペテロの第一の手紙3章|露の愛と夜明けの真実—命を選ぶ者への雨—

ペテロの第一の手紙1章
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聖書通読 第327回

通読箇所:申命記30章15〜20節/ホセア書5〜6章/ペテロの第一の手紙3章

朝の雲はなぜ雨を降らせないまま消えてしまうのでしょうか。聖書はなぜ、神の現れを「夜明け」と「雨」にたとえ、人の愛を「露」にたとえたのでしょうか。そして、ノアの洪水の水が、なぜ今の私たちを救う水とつながるのでしょうか。

※本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。

【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。

第一部 トーラー(申命記30章15〜20節)

「きょう」、命があなたの前に置かれた

モーセの生涯の最後の説教は、ヨルダン川の東、モアブの平野で語られました。川を渡れば約束の地です。けれどもモーセ自身はそこに入りません。だからこの言葉は、遺言のような重さを帯びています。

この短い箇所で目を引くのは、「きょう」という言葉の繰り返しです。ヘブライ語では「ハヨーム」、「この日」という意味です。15節、16節、18節、19節と、モーセは何度もこの言葉を差し込みます。いつか考えればよい問題ではなく、いま、この日に決める問題なのだと言わんばかりです。

命と死が「前に置かれる」ということ

「わたしは命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた」(15節)。

神は二つの道を隠さず、テーブルの上に並べるように差し出されます。ここで注目したいのは、選択肢が示されるということ自体が、人間への尊重だという点です。神は人を操り人形として扱わず、応答できる者、選べる者として向き合っておられます。

「選ぶ」はヘブライ語で「バーハル」。申命記では多くの場合、この動詞の主語は神です。「主はあなたを選ばれた」(7:6)。ところがここでは、主語がイスラエルになります。先に選んでくださった方に、今度は民が選び返す。命を選ぶとは、選ばれた者の応答なのです。

なぜ「天と地」が証人なのか

「わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする」(19節)。

古代オリエントの王と属国が交わした契約文書には、最後に神々の名が証人として列挙されるのが通例でした。しかしイスラエルの神の前に、ほかの神々は存在しません。そこで呼ばれるのが、神の造られた天と地です。

興味深い点として、天と地は単なる立会人ではありません。天は雨を降らせ、地は実りを生み出します。つまり証人そのものが、祝福を運ぶ手でもあるのです。申命記11章には、主の声に聞き従うなら「秋の雨、春の雨」を季節どおりに降らせると約束され、背けば「天を閉ざして雨を降らせない」と警告されています(11:14、17)。契約を見届けた天が、雨によって応答する。この「初めの雨」と「後の雨」は、第二部のホセア書で再び登場します。

命とは、主ご自身

20節は、日本語訳では「そうすればあなたは命を得」と訳されていますが、ヘブライ語の原文をそのまま読むと「なぜなら、彼こそがあなたの命であり、あなたの日々の長さだからだ」となります。

命を選ぶとは、何か良い生き方の条件を選ぶことではなく、主ご自身を選ぶことなのです。

その中身として、三つの動詞が並びます。「愛する」「その声を聞く」「つき従う」。最後の「つき従う」は「ダーヴァク」、「しっかりくっつく、離れない」という意味の言葉です。創世記2章24節で、夫が妻と「結び合う」と訳されているのと同じ動詞です。命を選ぶとは、神にぴたりと寄り添って離れない関係を選ぶことです。

「命」という言葉にも触れておきましょう。ヘブライ語で命は「ハイーム」で、文法上は複数形の形をしています。乾杯の言葉「レハイーム(命に!)」もここから来ています。とはいえ、これは「命がいくつもある」という意味ではありません。「水(マイム)」や「天(シャマイム)」と同じように、複数形の形で定着した言葉です。

帰る道は開かれている

この箇所の直前、30章1〜10節には、「立ち返る」と訳される言葉「シューヴ」が何度も繰り返されます。たとえ民が契約を破って散らされても、心を尽くして主に立ち返るなら、主もまたあなたを回復される、と。

命の選択は一度きりの試験ではありません。道を外れた者にも、帰る道が用意されています。

そしてこの「帰ろう」という言葉は、何百年ものち、預言者ホセアの口から、民自身の歌として響くことになります。

第二部 旧約(ホセア書5〜6章)

露の愛と、夜明けの真実

ホセアは、北イスラエル王国が滅亡へ向かう最後の数十年に語った預言者です。王が次々に暗殺され、国はアッシリアとエジプトの間で揺れ動いていました。5章13節には、傷を負ったエフライム(北イスラエルの別名)が、神ではなくアッシリアの大王に助けを求めたことが記されています。しかし神は言われます。「彼はあなたがたをいやすことができない」。

「わたしの所に帰っていよう」

5章の終わりで、神は驚くべきことを言われます。「わたしは彼らがその罪を認めて、わが顔をたずね求めるまで、わたしの所に帰っていよう」(15節)。

神が民から身を引き、ご自分の場所へ戻って待たれる。その沈黙に応えるように、6章1節で民が歌い出します。「さあ、わたしたちは主に帰ろう」。

ここで使われているのが、第一部で見た「シューヴ(立ち返る)」です。申命記で開かれていた帰り道を、民が自分の口で歌い始めた場面です。

2節の「三日目にわたしたちを立たせられる」は、ユダヤ教のアラム語訳(タルグム)が「死者の復活の日に」と訳していることで知られます。この言葉は、第四部で改めて取り上げます。

イスラエルの三つの雨

3節は、雨の言葉で満ちています。

「主は…大雨のように、わたしたちに臨み、後の雨のように地を潤される」。

イスラエルは、夏の乾季と冬の雨季がはっきり分かれた土地です。雨季の雨には、時期ごとに名前がありました。

最初に降るのが「初めの雨」、ヘブライ語で「ヨーレー」。10〜11月ごろ、乾ききって固くなった大地を柔らかくし、耕して種を蒔けるようにする雨です。

続いて冬の本格的な雨、「ゲシェム」。雨一般を指す言葉でもあり、日本語訳の「大雨」「冬の雨」はこれにあたります。

そして最後が「後の雨」、「マルコーシュ」。3〜4月ごろ、雨季の終わりに降り、穂を膨らませ、実を充実させます。

この後の雨の後に、大麦の収穫(過越の祭りの頃)、さらに小麦の収穫(七週の祭り=ペンテコステの頃)が続きます。後の雨がなければ、どんなに種を蒔いても実りは得られません。

【図解①:イスラエルの雨と収穫の暦】

イスラエルの雨と収穫の暦

ホセア6:3「主は大雨のように臨み、後の雨のように地を潤される」の背景

10月
11月
12月
1月
2月
3月
4月
5月
6月
雨
初めの雨ヨーレー יוֹרֶה
固い土を柔らかくする
大雨・冬の雨ゲシェム גֶּשֶׁם
雨季の本格的な雨
後の雨マルコーシュ מַלְקוֹשׁ
穂を膨らませる
乾季へ雨はほとんど降らない
畑
耕す・種を蒔く初めの雨の後に
大麦刈り入れ
小麦刈り入れ
祭り
過越の祭り安息日の翌日に大麦の初穂を献げる(レビ23:10〜11)
七週の祭り50日後・ペンテコステ(レビ23:15〜17)

後の雨がなければ、蒔いた種は実りません。

新約では、初穂の日にキリストがよみがえり(Ⅰコリント15:20「眠っている者の初穂」)、七週の祭りに聖霊が注がれました(使徒2章)。

※月は目安です。年によって雨の時期は前後し、祭りの日付も太陰暦のため毎年変わります。

一つの言葉に響く二つの意味

ここで注目したいのは、3節の最後の言葉です。「潤す」と訳されている語は「ヨーレー」。申命記11章14節などで「初めの雨」と訳される言葉と、同じ綴りを持っています。

ホセア書6章3節では、文法的には「雨を降らせる、地を潤す」という動詞として読むのが自然で、現代の多くの訳もそう訳しています。一方、英語の欽定訳は名詞として読み、「後の雨と先の雨のように」と訳しました。動詞として読んでも、耳には「初めの雨」の響きが重なります。ここには、「雨」と「潤す」の二重の響きを聞き取ることができます。

さらに、この言葉の根っこ「ヤーラー」には、「投げる、射る」から転じて「指し示す、教える」という意味があります。「教師」を意味する「モーレー」、そして「教え」を意味する「トーラー」も、同じ語根に結びつく言葉です。

天から大地に降る雨と、天から人に与えられる教え。聖書が「雨とは教えのことだ」と言っているわけではありませんが、ヘブライ語の言葉の響きの中で、この二つが重なって見えてくるのは興味深いことです。

「切に追い求めよう」

「せつに主を知ることを求めよう」の「求める」は、ヘブライ語で「ラーダフ」。「追いかける、追跡する」という意味で、逃げる敵を追撃する場面にも使われる、足を使って走る言葉です。

主を知ることは、座って待つことではなく、走って追いかけることなのです。この「ラーダフ」は、第三部のペテロの手紙にも姿を現します。

朝の雲と、夜明けの光

ところが、この美しい歌の直後、4節で神はこう答えられます。

「あなたがたの愛はあしたの雲のごとく、また、たちまち消える露のようなものである」。

ここでの「愛」は「ヘセド」、変わらぬ真実の愛を指す言葉です。しかし民のヘセドは、朝の雲のように雨を降らせないまま消え、露のように日が昇ると蒸発してしまう。6章1〜3節が心からの悔い改めだったのか、「どうせすぐ治してくださる」という軽い期待だったのか、注解者の間でも意見が分かれています。

興味深いのは、ホセアが同じ「朝・空・水」のイメージで、神と人を対比させていることです。

主の現れは「あしたの光のように必ず」来る。原文を直訳すると「彼の現れは、夜明けのように確かである」。「必ず」と訳された「ナホン」は、「確立された、揺るがない」という意味です。夜がどれほど長くても、夜明けが来なかった日は一日もありません。主は雨のように、必ず降ってくださる。

それに対して、人の愛は朝の雲、そして露です。

【図解②:露の愛と夜明けの真実(対比図)】

露の愛と夜明けの真実

ホセアは同じ「朝・空・水」のイメージで、人の愛と神の真実を対比させています。

人の愛

ホセア6:4

あなたがたの愛はあしたの雲のごとく、また、たちまち消える露のようなものである

朝の雲空にかかっても、雨を降らせないまま消える
露日が昇ると、すぐに蒸発する
愛=ヘセド(変わらぬ真実の愛)のはずが、続かない

神の真実

ホセア6:3

主はあしたの光のように必ず現れいで、冬の雨のように臨み、春の雨のように地を潤される

夜明け来なかった日は一日もない
雨季節ごとに、確かに地を潤す
必ず=ナホン(確立された、揺るがない)

直訳すると「彼の現れは、夜明けのように確かである」。

神が求めておられるのは、いけにえではなく、消えない愛(ヘセド)と、神を知ることでした(ホセア6:6、マタイ9:13・12:7)。

6節で神は言われます。「わたしはいつくしみ(ヘセド)を喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ」。

イエスはこの言葉を二度引用されました(マタイ9:13、12:7)。神が求めておられるのは、儀式ではなく、消えない愛と、神を知ることでした。

第三部 新約(ペテロの第一の手紙3章)

洪水の水から、契約の応答へ

ペテロの第一の手紙は、小アジア各地に散らされ、周囲から誤解やそしりを受けていたクリスチャンたちに宛てて書かれました。ペテロ自身、この手紙の冒頭で読者を「離散して寄留している者たち」と呼んでいます。約束の地を目前にしたモーセの民のように、彼らもまた、まだ旅の途中にいる人々でした。

「いのちを愛する人は」

10節から12節で、ペテロは詩篇34篇を引用します。

「いのちを愛し、さいわいな日々を過ごそうと願う人は…」。

ここで思い出したいのは、第一部の申命記です。モーセは「命を選べ」と迫りました。ペテロは詩篇を通して、命を選んだ者がどのように生きるのかを具体的に示します。舌を制すること、偽りを語らないこと、悪を避けて善を行うこと。そして「平和を求めて、これを追え」(11節)。

この「追え」は、ギリシャ語で「ディオーコー」、「追いかける、追跡する」という意味の言葉です。ペテロが引用した詩篇34篇14節のヘブライ語原文では、第二部でホセアが使っていた「ラーダフ」と同じ動詞が使われています。ペテロはそれを、ギリシャ語の「ディオーコー」で伝えたのです。

ホセアは「主を知ることを追い求めよう」と歌い、詩篇とペテロは「平和を追え」と勧める。言語は違っても、どちらも走って追いかける強い動きを表す言葉です。神を知ることと、人との平和。二つの追いかけるべきものが、「追う」という一つの動きでつながっています。

神に「近づける」ために

18節は、この手紙の中心の一つです。

「キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた」。

「近づける」はギリシャ語で「プロサゴー」、「導き入れる、連れて行く」という意味です。王の前に人を案内して謁見させる場面にも使われる言葉です。

ホセアの時代、民は「主に帰ろう」と歌いながら、その愛は露のように消えてしまいました。自分の力で帰りきれない人間を、キリストご自身が手を取って神の前へ連れて行ってくださる。帰り道は、ここで一人の方によって切り開かれています。

ノアの洪水とバプテスマ

20節から21節で、ペテロは話をノアの時代へと広げます。箱舟に乗り込み、「水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった」。そして「この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである」。

「象徴する」と訳された言葉は、ギリシャ語で「アンティテュポン」。「テュポス(型)」に対応する「対型」という意味です。はんこと、それを押した印影のような関係を思い浮かべると分かりやすいでしょう。ノアの洪水の出来事を「型」とし、ペテロはそれに対応するものとして、バプテスマを「対型」と呼んでいます。

洪水は古い世界を終わらせ、箱舟の中の者を新しい世界へ運びました。バプテスマもまた、古い自分に終わりを告げ、復活のキリストにある新しい命へと人を移します。

【図解③:型と対型(ノアの洪水 → バプテスマ)】

型と対型 ノアの洪水からバプテスマへ

Ⅰペテロ3:20〜21「この水はバプテスマを象徴するもの(アンティテュポン)であって、今やあなたがたをも救う」

型ノアの洪水(創世記6〜9章)対型バプテスマ(Ⅰペテロ3:21)
水をくぐる箱舟の中の者が、水を経て救われた⇔水の中をくぐって、救いにあずかる
終わるもの悪に満ちた古い世界⇔古い自分
始まるもの水が引いた後の新しい大地⇔復活のキリストにある新しい命
救いの根拠神の命じた箱舟⇔イエス・キリストの復活(3:21)
アンティテュポン ἀντίτυπον=「型(テュポス)」に対応するもの。はんこ(型)と、それを押した印影(対型)のような関係です。
本文が語ること洪水の出来事に対応するものとして、バプテスマが「対型」と呼ばれる。バプテスマは体の汚れを除くことではなく、神に向かう良心の応答。
ユダヤ的背景ミクヴェ(清めの浸礼槽)。後代の解釈には、四十日の雨をミクヴェの「四十セア」と結びつけるものもある。
古代教会の読み2世紀のユスティノスは、救われた「八人」を、キリストがよみがえった「八日目」のしるしと読んだ。

ユダヤ的な背景にも目を向けてみましょう。ユダヤ教には「ミクヴェ」と呼ばれる清めの浸礼槽があり、全身を水に沈めて清める習慣が根付いていました。後代のユダヤ教の解釈には、洪水を世界の浄化ととらえ、四十日間の雨を、ミクヴェに必要とされる水の量「四十セア」と結びつけるものがあります。ペテロがこの解釈を知っていたとは言えませんが、洪水とバプテスマを結びつけるペテロの言葉と並べると、興味深い並行関係が見えてきます。

ここからは、本文の直接の説明というより、古代の教会が行った象徴的な読み方です。2世紀の教父ユスティノスは、箱舟で救われた「八人」に目を留め、キリストがよみがえられた「八日目」のしるしと読みました。七日で一週が満ちるなら、八日目は新しい週の始まり、新しい創造の日です。そしてキリストがよみがえられたのも、週の初めの日でした。この読み方に立つなら、箱舟から出た八人は、新しい世界の最初の人々だったと言えるでしょう。

「明らかな良心を神に願い求める」

21節の後半は、バプテスマの本質を語ります。

「からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである」。

ここで注目したいのは、「願い求める」と訳された「エペローテーマ」という言葉です。新約聖書ではこの箇所にしか出てこない珍しい言葉で、基本的には「問いかけ、要請、願い」を意味します。

そのため、この箇所を「良い良心を求める神への願い」と訳す聖書もあれば、「神に対する良い良心の誓約(応答)」と訳す聖書もあり、解釈が分かれています。後者は、この時代から少し後のギリシャ語の契約文書に、問いに答えて交わす誓約をこの言葉で表した例があることを根拠の一つにしています。

どちらの読み方を取っても、バプテスマが体を洗う外面的な儀式ではなく、神に向かう内面の応答であることは確かです。

そして誓約の応答として読むなら、ここにはもう一つの響きが聞こえてきます。申命記でモーセは、天と地を証人に立てて「命を選べ」と迫りました。バプテスマの水の中で、人は神に向かって「命を選びます」と答える。旧約の問いかけに、新約が答えている姿を見ることができます。

王座に着かれたキリスト

最後の22節は、詩篇110篇1節「わたしの右に座せよ」の成就です。19節の「獄に捕われている霊ども」と対照的に、いまや天使たちも、もろもろの権威も権力も、キリストの足もとに置かれています。

洪水の水をくぐった箱舟の先に、新しい大地があったように、バプテスマの水の先には、王座に着かれたキリストがおられるのです。

第四部 全体の一貫性

露の愛を包む、夜明けの真実

申命記、ホセア書、ペテロの手紙。書かれた時代は千年以上も離れています。しかし三つの箇所を並べて読むと、同じ糸が何本も通っていることに気づかされます。ここでは四本の糸をたどってみましょう。

第一の糸:「帰る」

申命記30章でモーセは、たとえ民が散らされても、心を尽くして主に「立ち返る(シューヴ)」なら、主もまた回復してくださると語りました。

ホセア書6章1節で、民は同じ言葉を使って歌います。「さあ、主に帰ろう(ナシューヴァー)」。

しかし神はその愛を「朝の雲」「露」と呼ばれました。帰ろうと歌いながら、帰りきることができない。これが人間の現実でした。

ペテロは言います。キリストは「あなたがたを神に近づけようとして」死なれた。自分の足で帰りきれない者を、キリストご自身が神の前へ導き入れてくださる。キリスト教的に読むなら、申命記で示された「主に帰る」道は、ここでいっそう明確な形をとって示されているのです。

第二の糸:「追い求める」

ホセアは「主を知ることを追い求めよう(ラーダフ)」と歌いました。詩篇34篇も同じヘブライ語の動詞で「平和を追え」と勧め、ペテロはその言葉をギリシャ語の「ディオーコー」で引用しました。

神を知ることと、人との平和。この二つを追いかける生き方こそ、申命記が語る「命を選んだ者」の歩みです。ペテロが引用した詩篇が「いのちを愛する人は」と始まるのは偶然ではないでしょう。

第三の糸:「三日目」と二つの収穫

ホセア書6章2節「三日目にわたしたちを立たせられる」を、ユダヤ教のアラム語訳タルグムは「死者の復活の日に」と訳しました。パウロが「聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえった」(コリント第一15:4)と書いたその「聖書」に、この箇所が含まれているのではないかと考える研究者もいます。ただし、この結びつきについては議論があります。

ここで、第二部で見た雨と収穫の暦を思い出してください。

後の雨が穂を実らせると、まず大麦の初穂が過越の祭りの頃に捧げられます。レビ記23章によれば、初穂の束が揺り動かされるのは「安息日の翌日」、つまり週の初めの日です。キリストがよみがえられたのもこの日であり、パウロはキリストを「眠っている者の初穂」と呼びました(コリント第一15:20)。

そして五十日後、小麦の収穫を祝う七週の祭り、ペンテコステに、聖霊が注がれました。その日、説教に立ったのはペテロです。彼が引用したヨエル書2章は、「初めの雨と後の雨」の約束のすぐ後に、「わたしの霊をすべての肉なる者に注ぐ」と続きます。

ホセアが歌った「後の雨のように地を潤される」主は、復活と聖霊の注ぎによって、その歌を現実にされたのです。

第四の糸:「水」

申命記で、天は契約の証人として立てられ、祝福の雨を運ぶ手でもありました。

ホセア書で、主ご自身が雨のように民のもとへ来ると歌われました。

ペテロの手紙で、洪水の出来事はバプテスマに対応する型とされ、その水の中で人は「きよい良心をもって」神に応答します。

天から降る雨、裁きと新しい始まりの洪水、そして救いのバプテスマ。水はいつも、神が人に近づき、人が神に応答する場所でした。

【図解④:三箇所を貫く糸】

三箇所を貫く四本の糸

申命記30章・ホセア書5〜6章・Ⅰペテロ3章を並べて読む

申命記30章命を選べ
ホセア書5〜6章露の愛と夜明けの真実
Ⅰペテロ3章水を経て救われる
帰る
立ち返る(シューヴ)なら、主は回復される(30:1〜10)
「さあ、主に帰ろう」(6:1)。しかしその愛は露のよう(6:4)
キリストが「神に近づける」(プロサゴー、3:18)
追い求める
主を愛し、その声を聞き、主につき従う(30:20)
主を知ることを追い求めよう(ラーダフ、6:3)
平和を追え(ディオーコー、3:11=詩篇34篇)
三日目・実り
主こそあなたの命、あなたの日々の長さ(30:20)
三日目に立たせられる(6:2)/後の雨が地を潤す(6:3)
キリストの復活によって救われる(3:21)
水
天と地が証人。天は祝福の雨を運ぶ(30:19、11:14)
主は雨のように来てくださる(6:3)
洪水の出来事とバプテスマ、良心の応答(3:20〜21)

私たちの愛は露でも、神の真実は夜明け。その光の中で、きょう、命を選ぶ。

命を選ぶ者への雨

モーセは「命を選べ」と言いました。そして20節の原文は、その命が何であるかを明かしています。「彼こそがあなたの命」。

命を選ぶとは、主ご自身を選ぶことです。

けれども正直に言えば、私たちの選びは露のようです。朝には心から「帰ろう」と歌っても、日が高くなる頃には蒸発してしまう。ホセアの時代の民と、私たちは少しも変わりません。

それでも、この三つの箇所が最後に指し示すのは、人の側の確かさではなく、神の側の確かさです。主の現れは「夜明けのように確か」です。夜明けが来なかった日は、歴史上一日もありません。

キリストは三日目の朝によみがえり、その確かさを歴史の中に刻まれました。

私たちの愛は露でも、神の真実は夜明けです。その夜明けの光に照らされて、今日、命を選ぶ。バプテスマの水の中で「はい」と答えた人も、まだ答えていない人も、この「きょう」の招きの前に立っています。

乾いた大地に後の雨が降るように、主は必ず来てくださいます。

語彙集

第一部 申命記30章

ヘブライ語

原語発音意味
הַיּוֹםハヨームきょう、この日
בָּחַרバーハル選ぶ
חַיִּיםハイーム命(形は複数形で定着した語)
כִּי הוּא חַיֶּיךָキー・フー・ハイェイハー彼こそあなたの命
└ כִּי キーなぜなら
└ הוּא フー彼
└ חַיֶּיךָ ハイェイハーあなたの命
דָּבַקダーヴァクくっつく、離れない
שׁוּבシューヴ帰る、立ち返る

第二部 ホセア書5〜6章

ヘブライ語

原語発音意味
נָשׁוּבָהナシューヴァーさあ、帰ろう(シューヴから)
יוֹרֶהヨーレー初めの雨(名詞)/雨を降らせる、潤す(動詞)
גֶּשֶׁםゲシェム雨、大雨、冬の雨
מַלְקוֹשׁマルコーシュ後の雨(春の雨)
יָרָהヤーラー投げる、射る、教える(語根)
מוֹרֶהモーレー教師
תּוֹרָהトーラー教え
נִרְדְּפָהニルデファーさあ、追い求めよう(ラーダフから)
שַׁחַרシャハル夜明け、暁
נָכוֹןナホン確かな、揺るがない
חֶסֶדヘセド変わらぬ真実の愛、いつくしみ
דַּעַת אֱלֹהִיםダアト・エロヒーム神を知ること
└ דַּעַת ダアト知ること、知識
└ אֱלֹהִים エロヒーム神

第三部 ペテロの第一の手紙3章

ギリシャ語

原語発音意味
διώκωディオーコー追いかける、追い求める
προσάγωプロサゴー導き入れる、近づける
└ πρός プロス〜の方へ
└ ἄγω アゴー連れて行く
τύποςテュポス型、打ち跡
ἀντίτυπονアンティテュポン対型、対応するもの
└ ἀντί アンティ〜に対応して
└ τύπος テュポス型
βάπτισμαバプティスマバプテスマ、浸礼
ἐπερώτημαエペローテーマ問いかけ、願い(「誓約・応答」と読む説もある)
συνείδησις ἀγαθήスネイデーシス・アガテーきよい(良い)良心
└ συνείδησις スネイデーシス良心
└ ἀγαθή アガテー良い

ヘブライ語(参考)

原語発音意味
רָדַףラーダフ追う、追いかける、追い求める(語根)
מִקְוֶהミクヴェ清めの浸礼槽

第四部 全体の一貫性

ヘブライ語

原語発音意味
בִּכּוּרִיםビックリーム初穂
שָׁבוּעוֹתシャブオット七週の祭り
בַּיּוֹם הַשְּׁלִישִׁיバヨーム・ハシュリシー三日目に
└ בַּיּוֹם バヨームその日に
└ הַשְּׁלִישִׁי ハシュリシー三番目の

ギリシャ語

原語発音意味
ἀπαρχήアパルケー初穂
πεντηκοστήペンテーコステー五十番目(の日)
τῇ ἡμέρᾳ τῇ τρίτῃテー・ヘーメラー・テー・トリテー三日目に
└ ἡμέρα ヘーメラー日
└ τρίτος トリトス三番目の

🌱 聖書を初めて読む方へ
同じ通読箇所を、聖書の専門用語を知らない方のために再構成したnote記事もあります。原語の表は省きましたが、聖書解説の深さは変わりません。
聖書を初めて読みたい方、ご家族やご友人に紹介したい方は、ぜひこちらからどうぞ。

【参考】聖書本文は口語訳(日本聖書協会)を用いています。原語の確認には、聖書ソフトやオンラインの原典・辞書などを参照しました。語の説明は筆者の言葉で書き直しています。

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