神を知るのは、食卓か廃墟か
——喜びの中で学ぶ道が、先に用意されていた——
2026年8月11日 申命記14章/エゼキエル書6章・7章/テモテへの第一の手紙2章・3章・4章
神を畏れることを、人はどこで学ぶのでしょうか。
苦しみの中で、でしょうか。すべてを失って、頼るものが何もなくなったときでしょうか。
聖書には、そうやって神を知った人たちが確かに出てきます。今日読むエゼキエル書6章と7章は、まさにその記録です。祭壇は砕かれ、金と銀は路上に捨てられ、祭司も長老も預言者も同時に黙り込む。その廃墟の上に、七度くり返される一句があります——「あなたがたはわたしが主であることを知るようになる」。
けれども、今日はもうひとつの箇所を並べて読みます。申命記14章です。
そこには驚くべきことが書かれています。十分の一を神のもとへ運べないほど道が遠いなら、金に換えてよい。そして着いた先で、牛でも羊でもぶどう酒でも濃い酒でも、欲しいものに換えて食べよ、と。家族と共に楽しめ、と。
その理由が、こう記されています。「こうして常にあなたの神、主を恐れることを学ばなければならない」。
ごちそうと、酒と、家族の笑い声。そこが、主を畏れることを学ぶ場所だと言うのです。
同じ神が、一方では廃墟を通して知られ、もう一方では食卓を通して学ばれる。
どちらが、神の第一の選択だったのでしょうか。
そして今日の三つ目の箇所、テモテへの第一の手紙は、その問いにまっすぐ答えます。「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」——望んでおられる、と。
律法と、預言と、福音。時代も状況もまるで違う三つの箇所が、今日はひとつのことを語ります。神は、知られたいと願っておられる。
その願いが、どんな形をとったのか。一緒に見ていきましょう。
※本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。
【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。
第一部|申命記14章——命令の前に、あなたは子である

規則の章が、身分から始まる
申命記14章は、いわゆる「食べてよいもの・食べてはならないもの」のリストが並ぶ章です。読み飛ばしたくなる箇所かもしれません。
けれども、この章の入り口を見てください。
「あなたがたはあなたがたの神、主の子供である」(14:1)
食物規定の章が、規則からではなく身分の確認から始まっています。しかも一節おいて、こう続きます。
「あなたはあなたの神、主の聖なる民だからである。主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた」(14:2)
子である。聖なる民である。宝の民である。 三重の宣言です。
このうち「宝の民」と訳された語は、カタカナでセグッラーと読みます。単なる所有物ではありません。特別に取り分けられた、価値ある所有——主人が大切にする宝を指す語です。
この語の手触りは、実際の用例を見ると分かります。ダビデが神殿建設のために、公の備えとは別に自分自身の金銀を差し出したとき、それが「セグッラー」と呼ばれています(歴代志上29:3)。ソロモンが集めた「王たちと国々の財宝」も同じ語です(伝道の書2:8)。
つまり——王が大切にする、私的な宝。国の財産一般ではなく、その人の手元にある、いちばん大事にしているもの。
イスラエルは、そう呼ばれました。
さて、ここからが面白いところです。
この語はシナイ山で初めて語られ(出エジプト記19:5)、申命記の中で繰り返されます(7:6、14:2、26:18)。
ところが旧約聖書がギリシャ語に翻訳されたとき——紀元前3世紀ごろに始まった七十人訳と呼ばれる翻訳です——この一語が、二つの異なる表現に訳し分けられました。
ひとつ目は、出エジプト記19章5節で採用された訳。カタカナでラオス・ペリウーシオスと読みます。「ラオス」が民、「ペリウーシオス」が格別の・特別の、という意味の語。合わせて「特別な民」。この表現がそのまま、テトスへの手紙2章14節の「選びの民」に現れます。
ふたつ目は、マラキ書3章17節で採用された訳。カタカナでエイス・ペリポイエーシンと読みます。「エイス」が〜へ、「ペリポイエーシス」が獲得すること・所有とすること、という意味の語。合わせて「所有とされるものとして」。この表現が、ペテロの第一の手紙2章9節の「神につける民」の元になっています。
口語訳のペテロの手紙に「宝」という語が見えないのは、このためです。訳語の系統が違うだけで、根は同じ一語なのです。
シナイ山で語られた一語が、ギリシャ語で二つの川に分かれ、片方はテトスへ、片方はペテロへと流れ込んでいる。律法の山からの流れと、預言者からの流れ。その両方が、キリストにある神の民のところで合流しています。
ぜひ、ご自分の聖書でこの四箇所を辿ってみてください。出エジプト記19:5、マラキ書3:17、テトスへの手紙2:14、ペテロの第一の手紙2:9。申命記14章2節のたった一語の背後に、これだけの広がりがあります。
なぜ、自分を傷つけてはならないのか
1節の後半には、こうあります。
「死んだ人のために自分の身に傷をつけてはならない。また額の髪をそってはならない」(14:1)
これは古代カナンの哀悼儀礼です。近隣の宗教文書には、神が死んだときに他の神が自分の身を切り裂いて嘆く場面が描かれており、人々もそれに倣いました。血を流し、髪を剃ることで、死者の世界に働きかけようとしたのです。
ここで使われている「傷をつける」という動詞は、カタカナでガーダドと読みます。「切り込みを入れる」という意味の語です。
そしてこの語根は、列王紀上18章28節でカルメル山のバアル預言者たちが「身を傷つけた」場面と同じものです。彼らは朝から昼まで叫び、応答がないので、剣と槍で自分の身を切りました。神の注意を引くために、自分の血を流したのです。
イスラエルの民がこれを禁じられた理由は、衛生でも美観でもありません。1節の論理はこうです——あなたは主の子供である。だから傷をつけてはならない。
神の注意を引くために血を流す必要が、もうない。すでに子だからです。
これは現代の信仰にもそのまま通じます。「もっと熱心にならなければ聞いてもらえない」「これだけ犠牲を払えば応えてもらえるはずだ」——そういう思いが心を占めるとき、それは形を変えたガーダドかもしれません。父は、子の声をすでに聞いておられます。
同じリストが、違う場所に置かれている
3節から20節までの食物規定は、レビ記11章とほぼ同じ内容です。しかし、置かれている文脈が違います。
レビ記11章は祭司の書の中にあり、「清いもの・汚れたもの」という祭儀的な区分けの体系の一部でした。神殿に近づくための区別です。
申命記14章は違います。前後を「あなたは子である」「あなたは聖なる民だからである」(21節でもう一度繰り返されます)で挟まれている。日常の食卓において、自分が誰であるかを思い出すための区別なのです。
一日三度、何かを食べるたびに、この民は思い出す。わたしはこの神のものだ、と。
食物規定は、頭で覚える教義ではありません。体で覚える所属です。
反芻するもの、ひずめの分かれたもの
清い獣の条件は二つ、ひずめが完全に分かれていることと、反芻することでした。両方を満たさなければならない。らくだは反芻するがひずめが分かれておらず、豚はひずめが分かれているが反芻しない。
後代のユダヤ教の説教者たちは、ここに象徴を読みました。反芻は「御言葉を繰り返し噛みしめること」、ひずめの分かれは「歩みにおいて識別すること」。内側と外側の両方が必要だ、と。
これは本文が語っている意味ではなく、後から加えられた読み方です。ですから断定はできません。ただ、豚が外側は分かれているのに内側の反芻がない動物として扱われていることは、興味深い符合を生みます。イエスが、杯と皿との外側はきよめるが内側は貪欲と放縦とで満ちている、とパリサイ人を批判された言葉(マタイ23:25)と、静かに響き合うからです。
命の乳を、死の道具にしない
21節の最後に、唐突に一句が置かれています。
「子やぎをその母の乳で煮てはならない」(14:21)
この命令は聖書に三度出てきます(出エジプト記23:19、34:26、そしてここ)。ユダヤ教で肉と乳製品を同じ食卓に載せない習慣は、この一句から発展したものです。
理由は本文に書かれていません。カナンの豊穣儀礼への対抗だという説、単に残酷だからという説があります。
ただ、言葉そのものを見つめると、見えてくるものがあります。母の乳は、その子を生かすためのものです。それを、その子を煮る液体にする。命を養う手段が、命を奪う手段に転用される。
聖書はここに一線を引いています。命と死を混同するな。
そして、驚くほど陽気な十分の一
ここからが、この章のいちばん意外な部分です。
22節から、十分の一の規定が始まります。毎年、畑の産物の十分の一を取り分けよ。そして——
「主がその名を置くために選ばれる場所で、穀物と、ぶどう酒と、油との十分の一と、牛、羊のういごを食べ」(14:23)
食べるのです。納めるのではなく。
これは後に「第二の十分の一」と呼ばれるようになる規定で、祭司やレビ人に渡す十分の一とは別のものです。持ち主自身が、神の前で食べる。
さらに驚くのは24節以降です。道が遠くて運べないなら、金に換えて持って行けと言う。そして着いた先で——
「その金をすべてあなたの好む物に換えなければならない。すなわち牛、羊、ぶどう酒、濃い酒など、すべてあなたの欲する物に換え」(14:26)
「濃い酒」と訳された語は、カタカナでシェーカールと読みます。ぶどう酒とは別に挙げられている、強い酒・酔わせる飲み物を指す語です。
聖書が、神の前で酒を買えと命じている。しかも「すべてあなたの欲する物」という、驚くほど自由な言い方で。
そして26節はこう閉じられます。
「その所であなたの神、主の前でそれを食べ、家族と共に楽しまなければならない」(14:26)
主を恐れることを、どこで学ぶのか
さて、この一連の規定の目的が、23節の最後に書かれていました。もう一度読んでみてください。
「こうして常にあなたの神、主を恐れることを学ばなければならない」(14:23)
「学ぶ」と訳された語は、カタカナでラーマドと読みます。ユダヤ教の学びの伝統を表す「タルムード」という語も、同じ語根から来ています。
問いはこうです。主を恐れることを、どこで学ぶのか。
答えは、この文脈の中にあります。食卓で。ごちそうを食べ、酒を飲み、家族と笑いながら。
日本語の「恐れ」という語からは、震え上がるような感情を想像します。しかし聖書が語る主への恐れは、喜びと矛盾しません。むしろここでは、喜びの只中でこそ学ばれるものとして描かれています。
なぜでしょうか。おそらく、こういうことです。目の前の牛も羊もぶどう酒も、すべてこの方から来た。それを味わいながら、与え主を見上げる。恵みを受け取っている実感の中でしか、本当の畏れは育たないのです。
恐れを教えるために、神は罰を先に置かれませんでした。ごちそうを先に置かれた。
その食卓に、招くべき人がいる
しかし、この喜びは自分たちだけで完結してはなりません。
「町の内におるレビびとを捨ててはならない。彼はあなたがたのうちに分がなく、嗣業を持たない者だからである」(14:27)
レビ人には土地がありませんでした。だから収穫の喜びを、自分の畑からは得られない。彼らが喜べるかどうかは、他の人が招くかどうかにかかっている。
さらに28節、三年ごとには十分の一を町にたくわえ、レビ人と、寄留の他国人と、孤児と、寡婦を呼んで食べさせよ、と命じられます。土地を持たない者、家族を持たない者、身を守る者がいない者。
そして29節が、この章を閉じます。
「そうすれば、あなたの神、主はあなたが手で行うすべての事にあなたを祝福されるであろう」(14:29)
章の入り口は「あなたは子である」でした。出口は「その食卓に、他の子らを招け」です。
身分から始まり、食卓を通って、分かち合いに着地する。申命記14章は、そういう一本の線を描いています。
第二部|エゼキエル書6章・7章——山々に向かって、二度語られる
なぜ、山に向かって語るのか
6章2節で、預言者は奇妙な命令を受けます。
「人の子よ、あなたの顔をイスラエルの山々に向け、預言して、言え」(6:2)
人ではなく、山に向かって語れ。しかもエゼキエルは今、バビロンにいます。目の前にイスラエルの山などありません。それでも顔を向けろ、と言われる。
なぜ山なのか。3節が答えています。「あなたがたの高き所を滅ぼす」。
高き所——丘の上に築かれた祭壇です。カナンの宗教では、丘の頂が神々に最も近い場所とされました。
この「高き所」は、イスラエルの歴史の中で繰り返し問題になり続けます。ヒゼキヤが取り除き(列王紀下18:4)、その子マナセが再び建て(列王紀下21:3)、その孫ヨシヤが徹底的に破壊しました(列王紀下23:8-15)。
壊しても、壊しても、また建つ。山は、この民の分裂した心が刻まれた地形でした。だから、山に語りかけるのです。
そして——同じ山々に、もう一度語られる
ここで、覚えておいていただきたいことがあります。
エゼキエル書36章1節に、ほとんど同じ呼びかけがあります。
「人の子よ、イスラエルの山々に預言して言え。イスラエルの山々よ、主の言葉を聞け」(36:1)
言葉づかいがほぼ同じです。しかし、続く内容は正反対です。36章では、山々は枝を伸ばし、実を結び、民が帰ってきて増え、廃墟が建て直されると告げられます。
同じ山々が、二度呼ばれている。一度目は裁きのため。二度目は回復のため。
6章を読むとき、この対がすでに用意されていることを知っていると、絶望の質が変わります。これは終わりの宣告ではない。同じ地形に、神はもう一度語りかけるつもりでおられる。
破壊される山と、緑を回復する山は、別の山ではありません。同じ山です。
【図解B】イスラエルの山々への二度の呼びかけ(6章と36章の対比)
偶像を、わざと汚い語で呼ぶ
エゼキエル書には、他の預言書があまり使わない偶像の呼び名が頻出します。旧約全体で48回ほど用いられる語ですが、そのうち約40回がエゼキエル書に集中しています。カタカナでギッルーリームと読みます。
この語の語源については諸説あり、確定していません。ただ、はっきりしているのは、これが侮蔑をこめた語だということです。無価値なもの、取るに足りないものを嘲るニュアンスがある。
エゼキエルは祭司の家に生まれた人です。神殿の礼儀作法を身につけた人が、偶像に対してだけは、こういう語を選んでいる。
そして4節から5節に、恐ろしい言葉が続きます。
「わたしはあなたがたの偶像の前に、あなたがたの殺された者を投げ出す。わたしはイスラエルの民の死体を彼らの偶像の前に置き」(6:4-5)
論理は残酷なほど明快です。偶像の前で命を献げてきた民が、偶像の前に死体として置かれる。
これは神の気まぐれな残酷さではありません。裁きとは多くの場合、選んだものの正体を見せられることです。あなたが仕えた神は、あなたを守れなかった。そのことが、目に見える形で示される。
6章9節——ここに、しばらく立ち止まりたい
裁きの言葉が続いた後、9節で流れが変わります。
「あなたがたのうちののがれた者は、その捕え移された国々の中でわたしを思い出す」(6:9)
思い出す。散らされた先で。故郷を失い、神殿を失い、すべてを失った場所で、彼らは神を思い出す。
そして口語訳は、その理由をこう続けます。
「これはわたしが、彼らのわたしを離れた姦淫の心と、偶像を慕って姦淫を行う目をくじくからである」(6:9)
実は、この「くじく」の部分は、旧約聖書の中でも翻訳が分かれる箇所のひとつです。
その語は、カタカナでニシュバールティーと読みます。「砕く・壊す」を意味する動詞が、ニファルと呼ばれる形になったもので、一人称単数——つまり主語は神ご自身です。
ニファル形は、多くの場合「〜される」という受け身の意味を持ちます。ですからこの語をそのまま読むと、こうなります。
「わたしは砕かれた」
実際、英語訳の主要なものは、ほぼこの方向で一致しています。ESV、NRSV、KJV、NKJV、NETは「わたしは砕かれた/打ちひしがれた」と訳し、NIVは「わたしは悲しまされた」と訳しています。
一方、口語訳の「くじく」は、「わたしが彼らの心を砕く」という能動の方向です。日本語訳にはこの系統が多く、英語訳でも別読の可能性として注記されることがあります。本文には「彼らの心を」という目的語を示す語も置かれているため、この読みも文法上ありえないわけではありません。
ただし、主要な訳が受け身の方向で揃っていることは、記憶にとどめておく価値があります。
もしそう読むなら、6章の意味は変わります。
剣と飢えと疫病が並ぶこの章の真ん中に、傷ついた神の心が置かれていることになる。裁きを宣告しておられる神が、ご自分について「わたしは砕かれた」と言っておられる。
捨てられたのは民ではなく、神のほうだった、と。
この読みは、奇抜なものではありません。エゼキエル書がここで使っている比喩を思い出してください。姦淫です。契約は、法律ではなく結婚として語られている。
裏切られた夫が「わたしは砕かれた」と言うことに、何の不自然もありません。むしろ、この章の比喩の枠組みの中では、それがいちばん自然な言葉なのです。
どちらの読みを取るにせよ、確かなことがあります。この一句の主語は神であり、心が砕かれるという出来事が、神と民のあいだに起きている。
裁きの言葉の真ん中で、神は無表情ではありませんでした。
「わたしが主であることを知る」——七回
さて、今日の二章を通して、繰り返し現れる一句があります。
「これによって、あなたがたはわたしが主であることを知るようになる」(6:7ほか)
数えてみてください。6章7節、6章10節、6章13節、6章14節、7章4節、7章9節、7章27節。七回です。
この定型句は、エゼキエル書全体では七十回以上現れます。研究者はこれを「認識の定式」と呼びます。エゼキエル書という書物の背骨です。
ここに、重大なことが示されています。神が裁きによって目指しておられるのは、罰そのものではなく、認識なのです。
「あなたがたはわたしが主であることを知るようになる」。この文が来るたびに、破壊の描写が目的ではないことが示される。目的は、知られることです。
そして、この定式が6章の裁きと36章の回復の両方に現れることが決定的です。祭壇が砕かれるときも、山が緑を取り戻すときも、結論は同じ——「あなたがたはわたしが主であることを知るようになる」。
神は、知られたいのです。廃墟を通してでも。
7章——文体が変わる
7章に入ると、文章のリズムが変わります。短い句が畳みかけられる。
「終りが来る。その終りが来る。それが起って、あなたに臨む。見よ、それが来る」(7:6)
「終り」と訳された語は、カタカナでケーツと読みます。時間の終端、限界点を意味する語です。
この語には、旧約の中に強烈な先例があります。アモス書8章2節です。アモスはひとかごの夏のくだものを見せられ、わが民イスラエルの終りがきた、と告げられました。ヘブライ語では「夏の果物」(カイツ)と「終り」(ケーツ)が音の近い語で、言葉遊びになっているのです。別の語でありながら、音が呼び合う。熟れきった果実は、もう待てない。次は腐るだけです。
アモスがこれを語ったのは、北王国イスラエルに対してでした。紀元前8世紀。そして北王国は滅びました。
その同じ語が、いまエルサレムに向かって語られています。約150年後。北がどうなったかを見ていたはずの南に、同じ宣告が来る。
他人の終わりを見ていた者が、自分の終わりを告げられる。
芽を出したのは、何だったか
7章10節に、見逃せない一語があります。
「見よ、その日を。また見よ、かの日が来た。あなたの最後の運命が来た。不義は花咲き、高ぶりは芽を出した」(7:10)
この「芽を出す」という動詞は、カタカナでツァーツと読みます。植物が芽吹く、花が咲くという意味の語です。
そして、この語と同じ語根が使われている、忘れがたい場面があります。民数記17章8節——アロンの杖です。
十二部族の杖が幕屋に置かれた翌朝、アロンの杖だけが芽を出し、つぼみを生じ、花を咲かせ、アーモンドの実を結んでいました。死んだ木が一夜で命を吹き返した。祭司職を神が選ばれたことの、動かぬしるしです。
その同じ語根が、ここでは高ぶりの芽に使われている。
命が芽吹くはずの言葉で、傲慢が芽吹く。神が選びのしるしとして与えた芽吹きが、人間の高ぶりの描写になる。この逆転が、エゼキエル7章の絶望の深さです。
三つの声が、同時に絶える
7章の最後に近づくと、最も深い裁きが語られます。26節です。
「その時、彼らは預言者に幻を求める。しかし律法は祭司のうちに絶え、計りごとは長老のうちに絶える」(7:26)
これは、エレミヤ書18章18節の正確な裏返しです。
エレミヤを殺そうとした者たちは、こう言って自分を安心させました——祭司から律法が絶えることはない、知恵ある者から計りごとが、預言者から言葉が絶えることはない、と。
制度は残る。それが彼らの確信でした。預言者ひとりを黙らせても、神の言葉を伝える三つの経路——祭司の律法、賢者の計りごと、預言者の幻——は健在だ。だからエレミヤは要らない、と。
エゼキエルは、その三つが同時に沈黙する日を見ています。
祭司に問うても、律法が出てこない。長老に問うても、助言が出てこない。預言者に問うても、幻が与えられない。神の言葉を仲介するすべての経路が、同時に詰まる。
これが、裁きの最も深い形です。剣でも飢えでもなく、沈黙。
そして27節、王も、つかさも、地の民も、すべての階層が動けなくなる。
金と銀が、ごみになる日
もうひとつ、7章19節を見ておきましょう。
「彼らはその銀をちまたに捨て、その金はあくたのようになる。主の怒りの日には金銀も彼らを救うことはできない。それらは彼らの飢えを満足させることができない」(7:19)
これは経済の崩壊を描いているのではありません。価値の正体が露出する瞬間です。
金と銀の価値は、それを欲しがる人がいて、交換できる物があって、初めて成立します。包囲された町で、売る物がなくなったとき、金属は金属に戻る。食べられないから。
そして20節が、その金銀が何に使われていたかを明かします。
「彼らはその美しい飾り物を高ぶりのために用い、またこれをもってその憎むべき偶像と忌むべき物を造った」(7:20)
神が与えた富で、神ならぬものを造った。だからその富が、彼らを救わない。
ここに、今日の第一部と静かな対比が生まれます。申命記14章では、金は喜びのための手段でした。十分の一が重いなら金に換え、着いた先で牛や羊やぶどう酒に換え、家族と共に神の前で食べよ、と。金は食卓に変えるためのものだった。
エゼキエル7章では、その金が街に捨てられている。食卓に変えられなかった金は、ただの金属です。
第三部|テモテへの第一の手紙2章・3章・4章——真理の柱は、どこに立つのか
祈りから始まる
2章はこう始まります。
「そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい」(2:1)
この手紙が書かれたころ、ローマ皇帝はネロだったと考えられています。キリスト者を迫害した皇帝です。その支配者のために祈れ、と言う。
しかも祈りの内容が意外です。
「それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである」(2:2)
革命でも解放でもなく、静かな日常を求めよ、と。
そして4節が、この手紙全体の心臓部です。
「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」(2:4)
「悟る」と訳された語は、カタカナでエピグノーシスと読みます。単なる情報を得ることではなく、その対象を本当に認識することを指す語です。
覚えておいてください。この語が、今日の第四部で重要になります。
シェマーが響いている
5節です。
「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである」(2:5)
ここでパウロは、ユダヤ人なら誰もが暗唱している一句を下敷きにしています。申命記6章4節——イスラエルよ聞け、われわれの神、主は唯一の主である。
ユダヤ人はこの言葉を「シェマー」と呼びます。ヘブライ語の原文はこの「聞け」という命令形(シェマー)から始まっており、その最初の一語がそのまま告白全体の名前になりました。ユダヤ人はこれを毎日朝夕に唱えます。今日の第一部で読んだ申命記14章の、わずか八章前にある言葉です。
パウロは、その「唯一」にもうひとつの「唯一」を並べました。
神は唯一。仲保者も唯一。
これは、ユダヤ人にとって衝撃的な文でした。唯一性は神だけの属性です。そこに人の名を並べるなど、通常なら冒涜になる。しかもパウロは「人なるキリスト・イエス」と、あえて人性を強調している。
ヨブが、いないと嘆いたもの
「仲保者」と訳された語は、カタカナでメシテースと読みます。「真ん中」を意味する語から来ていて、二者のあいだに立つ者という意味です。契約の証人、交渉の仲介人、法廷の仲裁者。
ここで、旧約の一句を思い出したい箇所があります。ヨブ記9章33節です。
神の前で自分の正しさを訴えたいが、神は人ではないから法廷に立てない——そう嘆いたヨブは、われわれの間には、われわれふたりの上に手を置くべき仲裁者がない、と言いました。
両方の肩に手を置ける者。神の側にも、人の側にも届く者。それがいない、とヨブは言った。
ヨブが「いない」と嘆いたものが、ここにいます。
そしてその条件を満たすには、神であり、かつ人でなければならない。パウロが「人なるキリスト・イエス」と書いた理由が、ここにあります。
二重になった「あがない」
6節です。
「彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられた」(2:6)
この「あがない」の語は、二つの部分からできています。カタカナでアンティリュトロンと読みます。
「アンティ」は「〜の代わりに、〜と引き換えに」。
「リュトロン」は「解放金、身代金」——奴隷や捕虜を解放するために支払われる代価です。
合わせて、代わりに支払われる身代金。
興味深いのは、イエスご自身がマルコによる福音書10章45節で、多くの人のあがないとして自分の命を与えるためであると語られたとき、使われたのが後半の「リュトロン」だったことです。パウロはそこに「アンティ(代わりに)」を足している。
代価であることを、二重に言っているわけです。
2章11-15節——難しい箇所を、避けずに
ここから、新約聖書の中でも議論の多い箇所に入ります。
「女は静かにしていて、万事につけ従順に教を学ぶがよい。女が教えたり、男の上に立ったりすることを、わたしは許さない」(2:11-12)
正直に申し上げます。この箇所について、これが唯一の正解ですと言える立場にはありません。誠実な信仰者たちが、二千年にわたって真剣に議論してきた箇所です。
ですから、結論ではなく、読むときに知っておくと役立つ材料を三つ置きます。判断はご自分でなさってください。
第一の材料——手紙の宛先。
テモテがいるのはエペソです(1:3)。エペソはアルテミス(ローマ名ディアナ)信仰の中心地であり、女性が主導する宗教文化がありました。そしてこの手紙は冒頭から、ある人々が違った教を説くことをやめるように、という具体的な問題への対処として書かれています(1:3)。抽象的な男女論ではなく、特定の教会の、特定の混乱への指示として読む立場があります。
第二の材料——15節の「出産」。
「しかし、女が慎み深く、信仰と愛と清さとを持ち続けるなら、子を産むことによって救われるであろう」(2:15)
出産が救いの条件だとすると、聖書全体の教えと矛盾します。子を持たない女性はどうなるのか。
ここで注目されるのが、この「出産」という語に定冠詞が付いていることです。「ある出産によって」ではなく、「その出産によって」。
そこから、これは創世記3章15節の「女の子孫」——つまりキリストの誕生を指す、という古い解釈があります。直前の14節でエバの過ちが語られているので、この読みには筋が通ります。エバから始まった話が、エバの子孫による救いで閉じる。
第三の材料——同じパウロの他の言動。
パウロは、プリスキラとアクラの夫妻がアポロを招き入れ、さらに詳しく神の道を解き聞かせた出来事を知っています(使徒行伝18:26)。ここで注目されてきたのは、妻の名が先に置かれていることです。またローマ人への手紙16章では、パウロは多くの女性の同労者を名指しで讃えています。フィベを「執事」と呼び、ユニアスを使徒たちの間で評判の高い人と呼んでいる。
パウロの中に緊張があるのか、それとも私たちが当時の文脈を復元しきれていないのか。
聖書には、簡単に答えの出ない箇所があります。そのことを隠すのは、聖書に対しても読者に対しても不誠実だと思います。分からないことは、分からないまま置いておく。それも、御言葉への敬意のひとつのかたちです。
3章——資格リストに、能力が一つもない
3章に入ると、監督(教会の指導者)と執事の資質が並びます。読んでいて気づくことがあります。
非難のない人。ひとりの妻の夫。自らを制し、慎み深く、礼儀正しく、旅人をもてなし、酒を好まず、乱暴でなく、寛容で、人と争わず、金に淡泊で、自分の家をよく治め——
ほとんどが人格と生活習慣です。
能力として挙げられているのは、「よく教えることができ」の一つだけ。カリスマ性も、雄弁も、成功実績も、規模も、この表には現れません。
そして5節が、鋭い。
「自分の家を治めることも心得ていない人が、どうして神の教会を預かることができようか」(3:5)
いちばん近い場所での姿が、いちばん確かな証拠だとされている。
7節も見逃せません。
「さらにまた、教会外の人々にもよく思われている人でなければならない」(3:7)
教会の中での評判ではなく、外での評判が問われています。
3章15節——エペソの柱と、本当の柱
そして15節に、この手紙の中でも印象的な一句が来ます。
「神の家というのは、生ける神の教会のことであって、それは真理の柱、真理の基礎なのである」(3:15)
ここで、エペソという町を思い浮かべてください。
エペソにあったアルテミス神殿は、古代世界の七不思議のひとつに数えられた建造物でした。127本の巨大な大理石の柱が林立し、当時の地中海世界で最大級の神殿だったと伝えられています。エペソの人々は、毎日その柱を見上げて暮らしていた。
その町で、パウロはこう書きます。
真理を支える柱は、大理石ではない。あなたがたの集まりだ。
しかも当時の教会は、人の家に集まる小さな群れです。建物すら持っていない。壮麗な神殿の影で、家の一室に集まる数十人が、「真理の柱」と呼ばれている。
柱は、建てるものではなく、生きた人たちのことだった。
3章16節——教会が歌っていた歌
16節は、突然リズムが変わります。
「キリストは肉において現れ/霊において義とせられ/御使たちに見られ/諸国民の間に伝えられ/世界の中で信じられ/栄光のうちに天に上げられた」(3:16)
六行。ギリシャ語ではそれぞれの行が同じ構造で始まり、明確なリズムを持っています。このため多くの研究者は、これはパウロが作ったものではなく、すでに教会で歌われていた讃美歌をパウロが引用したのだと考えています。
内容を追うと、視線が上下に往復しているのが分かります。
肉において(地)→ 霊において(天)
御使たちに(天)→ 諸国民に(地)
世界の中で(地)→ 栄光のうちに(天)
天と地を三度往復する。そしてどの行にも、キリストが二つの世界をつなぐ方であることが刻まれている。5節の「仲保者」が、ここで歌になっています。
新約聖書の手紙の中に、初代教会が実際に歌っていた歌の断片が化石のように残っている——これは静かに感動的なことだと思います。彼らは、こう歌いながら集まっていたのです。
4章——申命記14章と、正面から出会う
4章に入ると、話は将来の危険に移ります。
「後の時になると、ある人々は、惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰から離れ去るであろう」(4:1)
その偽り者たちが何をするか。3節です。
「これらの偽り者どもは、結婚を禁じたり、食物を断つことを命じたりする」(4:3)
ここで、今日の第一部を思い出してください。私たちは申命記14章で、これは食べてよい、これは食べてはならないという規定を延々と読んできました。
そして今、食物を断つことを命じるのが偽りの教えだと言われている。
矛盾でしょうか。4節を読んでください。
「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない」(4:4)
ここには、はっきりした変化があります。
パウロが批判しているのは、物質そのものを汚れたものと見なす思想です。当時、体や物質を悪と見て、結婚や食事を汚れと考える教えが広がりつつありました。それに対してパウロは、創世記1章に戻ります。神は造られたものを見て、良しとされた。
申命記14章の食物規定は、物質が悪いから禁じたのではありません。イスラエルを他の民から区別するための境界線でした。今日読んだとおり、その規定は「あなたは主の聖なる民だからである」で挟まれていた。
そしてキリストにあって、その境界線の役割は終わりました。ペテロが幻の中で、神がきよめたものを清くないなどと言ってはならないと告げられた場面(使徒行伝10:15)が、その転換点です。
清めるのは、リストではなく感謝
5節が、この転換を一句で語ります。
「それらは、神の言と祈とによって、きよめられるからである」(4:5)
ここでパウロは、ユダヤ人の食卓を思い浮かべています。ユダヤ教では食事の前に祝福の言葉を唱えます。世界の王である神をほめたたえ、地からパンを生じさせる方として賛美する、短い祈りです。
食物を清めるのは、リストではなく、感謝になった。
そしてここが重要です。感謝が「呪文」になったわけではありません。感謝とは、この食物がどこから来たかを認めることです。神から来たと認める。だから受け取る。
申命記14章で主の前で食べ、家族と共に楽しめと言われたことと、同じ心が働いています。形は変わり、心は変わっていない。
訓練と、体育場
7節から8節に、面白い比喩が出てきます。
「信心のために自分を訓練しなさい。からだの訓練は少しは益するところがあるが」(4:7-8)
「訓練する」と訳された語は、カタカナでグムナゾーと読みます。この語からギュムナシオン(体育場)という語ができ、英語のジムナジウム、日本語の「ジム」につながっています。もともとは裸で運動することを意味する語でした。
エペソにも立派な体育場があり、運動競技は当時の都市文化の中心でした。パウロはその日常語を借りています。
注意したいのは、パウロが体の訓練を否定していないことです。「少しは益するところがある」と、はっきり認めています。その上で比較しているだけです。体の訓練には効果がある。しかし信心には、今の命と後の世の命の両方が約束されている、と。
信仰も訓練されるものだという発想が、ここにあります。一度の決心で完成するものではなく、日々の反復で育つもの。毎日の通読も、まさにこの訓練の一部です。
声に出して読むという奉仕
13節に、当時の教会の姿が垣間見えます。
「わたしがそちらに行く時まで、聖書を朗読することと、勧めをすることと、教えることとに心を用いなさい」(4:13)
この「朗読」は、集会で声に出して読むことを指します。ネヘミヤ記8章でエズラが民の前で律法の書を読んだこと、ユダヤ教の会堂で毎週巻物が読まれてきたこと——その直系です。
覚えておきたいのは、当時聖書を個人で所有できる人はほとんどいなかったという事実です。羊皮紙は高価で、写本は手作業です。
つまり、誰かが声に出して読まなければ、多くの人にとって聖書は存在しないのと同じでした。
礼拝で聖書が朗読されるという、当たり前に見える行為には、そういう重みがあります。そして今、印刷された聖書を自分の手で開ける時代に生きていること自体が、途方もない特権です。
若さと、賜物
12節と14節も、短く触れておきます。
「あなたは、年が若いために人に軽んじられてはならない」(4:12)
テモテはおそらく30代です。当時の基準では、教会を指導するには若い。パウロは「若さを克服せよ」とは言いません。言葉、行状、愛、信仰、純潔において模範になれと言う。年齢ではなく、生き方で信頼を得よ、と。
14節です。
「長老の按手を受けた時、預言によってあなたに与えられて内に持っている恵みの賜物を、軽視してはならない」(4:14)
按手——頭に手を置く行為は、ユダヤ教でラビが弟子を任命するときの儀式に遡ります。受け継がれるものを目に見える形で表す動作です。
そして「軽視してはならない」という言葉から、テモテが自分の賜物を疑っていた可能性が読み取れます。若く、体が弱く(5:23)、気弱だったかもしれない。
パウロは「もっと強くなれ」ではなく、すでに与えられているものを軽く見るなと書いた。ないものを求めるのではなく、あるものを認めよ、と。
第四部|神を知るのは、食卓か、廃墟か
三つの箇所すべてに、「知る」がある
今日読んだ三箇所は、時代も、状況も、文体もまるで違います。荒野の民に語られた律法。捕囚の地で見せられた幻。若い牧者に宛てられた手紙。
けれども、三つとも同じことを目指しています。人が神を知ることです。
申命記14章23節——「こうして常にあなたの神、主を恐れることを学ばなければならない」。「学ぶ」はヘブライ語のラーマド。
エゼキエル書6章・7章——「あなたがたはわたしが主であることを知るようになる」。「知る」はヘブライ語のヤーダ。
テモテへの第一の手紙2章4節——「すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」。「悟る」はギリシャ語のエピグノーシス。
学ぶ。知る。悟る。
神の目的は、一貫しています。律法においても、預言においても、福音においても、神が求めておられるのは、人が神を本当に知ることです。
七回くり返される「知るようになる」
エゼキエル書6章と7章だけで、あの定型句は七回現れます。6章7節、10節、13節、14節、7章4節、9節、27節。エゼキエル書全体では七十回以上。
ここで立ち止まってみてください。
エゼキエル6章と7章は、聖書の中でも最も暗い箇所のひとつです。剣、飢え、疫病。砕かれる祭壇。偶像の前に投げ出される死体。街に捨てられる銀。沈黙する祭司と長老と預言者。
その一節一節の結論が、すべて同じ言葉で締められているのです。
「これによって、あなたがたはわたしが主であることを知るようになる」(6:7ほか)
つまり——破壊は目的ではありません。目的は、知られることです。
これは恐ろしくもあり、同時に希望でもあります。神は、どんな手段を使ってでも知られようとされる。それほどまでに、知られることを望んでおられる。
では、どこで知るのか
ここが、今日の三箇所を並べたときに見えてくるものです。
神は、喜びの食卓を第一の道として用意されました。
申命記14章に戻ってください。十分の一を持って行き、神の前で食べる。遠ければ金に換え、着いた先で牛、羊、ぶどう酒、濃い酒——「すべてあなたの欲する物」に換えてよい。そして「主の前でそれを食べ、家族と共に楽しまなければならない」(14:26)。
その目的が、23節に書かれていました。主を恐れることを学ぶため。
牛肉と酒と笑い声のある食卓で、神を畏れることを学ぶ。神は、そういう道を最初に置かれたのです。
そして、その道を拒み続けた民は、廃墟で知ることになりました。
エゼキエル7章19節。銀は街に捨てられ、金はごみになる。なぜなら「彼らの飢えを満足させることができない」から。
申命記14章では、金は食卓に変えるための手段でした。ぶどう酒に、牛に、家族の喜びに換えるための道具だった。
エゼキエル7章では、その金が路上に転がっています。食卓に変えられなかった金は、ただの金属です。
同じ金属が、一方では喜びの祝宴になり、一方ではごみになる。違いは、誰の前で使われたか。
【図解F】食卓の三段階(律法の食卓/裁きの飢え/恵みの食卓)
そして、道はもう一度開かれた
テモテへの第一の手紙2章4節。
「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」(2:4)
エゼキエルにおいて、神を知る対象はイスラエルでした。今、それが「すべての人」になっている。
しかも、その知り方が変わりました。廃墟を通してではなく、仲保者を通してです。
「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられた」(2:5-6)
つまり——砕かれたのは、もはや民ではありません。
ここで、エゼキエル6章9節に戻りたいのです。あの、翻訳の分かれる一句に。
「わたしは砕かれた」とも読めるあの言葉。裏切られた神が、ご自分の心について語った可能性のあるあの一句。
もしそう読めるなら、その言葉は十字架で完成します。
神は民を砕くことによってではなく、ご自分が砕かれることによって、知られる道を開かれた。エゼキエル6章で「砕かれた」神の心は、ゴルゴタで、目に見える形になった。
知られるために、神は自分を差し出された。
食べることが、三箇所を貫いている
もうひとつ、今日は「食べる」が全部を貫いています。
申命記14章——食べてよいもの、食べてはならないもの。何を食べるかが、あなたが誰であるかを示す。律法の食卓。
エゼキエル7章——飢え。食べられない。金銀も飢えを満たせない。裁きの飢え。
テモテへの第一の手紙4章——神の造られたものはみな良いものであり、感謝して受けるなら何ひとつ捨てるべきものはない。恵みの食卓。
食べてはならない → 食べられない → 何ひとつ捨てるべきものはない。
しかし、三つとも本当の主題は食物ではありません。誰の前で食べているかです。
申命記の食卓は「主の前」でした(14:26)。エゼキエルの飢えは、主の前を離れた末に来ました。テモテの食卓を清めるのは「神の言と祈」です(4:5)。
食物が変わったのではなく、食卓の中心におられる方が明らかになった。
柱は、どこに立っているか
もうひとつ、静かな線が引かれています。
申命記14章——十分の一を持って行くのは「主がその名を置くために選ばれる場所」(14:23)。一つの場所、一つの祭壇。
エゼキエル6章——丘という丘に祭壇があり、そのすべてが砕かれる。祭壇が増えた結果、すべてを失った。
テモテへの第一の手紙3章15節——神の家とは生ける神の教会であり、それが真理の柱、真理の基礎である。建物ではなく、人の集まりが柱になった。
一つの場所 → 拡散して崩壊 → キリストにあって、集まる人々が柱。
エペソの人々が見上げていた127本の大理石の柱は、今は遺跡です。しかし「真理の柱」と呼ばれた人たちの集まりは、二千年後の今日、この文章が読まれている場所にまで続いています。
【図解E】三箇所を貫く「知る」の糸(ラーマド/ヤーダ/エピグノーシス)
そして、あなたはどこにいるか
今日の三箇所を並べて見えてきたことを、ひとつにまとめます。
神は知られたいと願っておられる。そのために、二つの道があります。
ひとつは、喜びの中で学ぶ道。恵みを受け取り、味わい、感謝しながら、与え主を見上げる道です。これが神の第一の選択でした。神は、ごちそうを先に置かれたのです。
もうひとつは、失ってから知る道。すべてが崩れ、金がごみになり、頼っていたものが何ひとつ助けにならなかったとき、人はようやく気づきます。
どちらの道でも、神は知られます。しかし、神が望んでおられるのは、明らかに前者です。
だから今日、申命記14章はこう告げているのです。
あなたは、神の子供である。(14:1)
命令の前に、身分がある。食べるものの規定の前に、あなたが誰であるかが告げられている。
そして今日、テモテへの手紙はこう告げています。
神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。(2:4)
結び
エゼキエル6章の山々は、36章でもう一度呼ばれます。同じ山々が、今度は緑をつけ、実を結び、民を迎えます。
神は、砕いた場所に戻ってこられる方です。
もし今、廃墟のような場所にいるなら、その廃墟にも神は語られます。あなたがたはわたしが主であることを知るようになる、と。
そしてもし今、食卓に着いているなら——そこがまさに、主を恐れることを学ぶ場所です。
今日のパンを、感謝して受け取ってください。それは神の造られたものであり、良いものであり、何ひとつ捨てるべきものはありません。
そして、その食卓に誰かを招いてください。申命記14章27節から29節が、そう命じています。レビびとを、寄留の他国人を、孤児を、寡婦を。
喜びは、分けられたときに完成します。
語彙表
ヘブライ語
| 原語 | カタカナ発音 | 意味 |
| בָּנִים | バーニーム | 子ら(בֵּן ベーンの複数形)。申14:1 |
| סְגֻלָּה | セグッラー | 特別に取り分けられた価値ある所有、宝。申14:2/歴代志上29:3、伝道の書2:8 |
| עַם קָדוֹשׁ | アム・カードーシュ | 聖なる民。アム=民、カードーシュ=聖なる。申14:2 |
| גָּדַד | ガーダド | 切り込む、身を傷つける(語根)。申14:1/列王紀上18:28 |
| תִתְגֹּדְדוּ | ティトゴーデドゥ | 上記のヒトパエル未完了・2人称複数。申14:1の本文形 |
| וַיִּתְגֹּדְדוּ | ヴァイットゴーデドゥ | 同じくヒトパエル・3人称複数。列王紀上18:28の本文形 |
| קָרְחָה | コルハー | はげ、剃り上げた部分。申14:1 |
| תּוֹעֵבָה | トーエヴァー | 忌むべきもの。申14:3 |
| גֵּרָה | ゲーラー | 反芻すること、反芻物。申14:6 |
| פַּרְסָה | パルサー | ひずめ。申14:6 |
| מַעֲשֵׂר | マアセル | 十分の一。申14:22 |
| שֵׁכָר | シェーカール | 強い酒、酔わせる飲み物。申14:26 |
| לָמַד | ラーマド | 学ぶ、習う。申14:23。後代のתַּלְמוּד(タルムード)も同じ語根 |
| יָרֵא | ヤーレー | 恐れる、畏れる。申14:23 |
| בָּמָה | バーマー(複バモート) | 高き所。エゼ6:3 |
| הָרֵי יִשְׂרָאֵל | ハーレイ・イスラエール | イスラエルの山々。ハール=山。エゼ6:2/36:1 |
| גִּלּוּל(複 גִּלּוּלִים) | ギッルール/ギッルーリーム | 偶像(侮蔑語)。旧約で約48回、うち約40回がエゼキエル書 |
| זָכַר | ザーハル | 思い出す。エゼ6:9 |
| שָׁבַר | シャーバル | 砕く、壊す(辞書形) |
| נִשְׁבַּרְתִּי | ニシュバールティー | 上記のニファル完了・1人称単数。「わたしは砕かれた」。エゼ6:9の本文形 |
| יָדַע | ヤーダ | 知る。エゼ6:7ほか。認識の定式(今日の箇所に7回、エゼ書全体で70回以上) |
| קֵץ | ケーツ | 終り、終端。エゼ7:2,6/アモス8:2 |
| קַיִץ | カイツ | 夏の果物。アモス8:2。ケーツとは別語だが音が近く、言葉遊びを成す |
| צוּץ | ツーツ | 芽を出す、花咲く(語根) |
| צָץ | ツァーツ | 上記のカル完了・3人称男性単数。エゼ7:10の本文形 |
| וַיָּצֵץ | ヴァヤーツェーツ | 同じ語根のヒフィル形。民数記17:8の本文形 |
| שְׁמַע | シェマー | 聞け。申6:4の冒頭語であり、この告白そのものの呼称 |
ギリシャ語
| 原語 | カタカナ発音 | 意味 |
| ἐπίγνωσις | エピグノーシス | 認識、(正確な)知識。Ⅰテモ2:4 |
| εἷς | ヘイス | 一つ、唯一。Ⅰテモ2:5(神と仲保者の両方に) |
| μέσος | メソス | 真ん中 |
| μεσίτης | メシテース | 仲保者、二者の間に立つ者。Ⅰテモ2:5 |
| λύτρον | リュトロン | 解放金、身代金。マルコ10:45 |
| ἀντίλυτρον | アンティリュトロン | 代価としての贖い。アンティ(〜の代わりに)+リュトロン。Ⅰテモ2:6 |
| τεκνογονία | テクノゴニア | 出産、子を産むこと |
| τῆς τεκνογονίας | テース・テクノゴニアース | 定冠詞付きの属格。Ⅰテモ2:15の本文形 |
| ἐπίσκοπος | エピスコポス | 監督、監督する者。Ⅰテモ3:1 |
| διάκονος | ディアコノス | 執事、仕える者。Ⅰテモ3:8 |
| στῦλος | ステュロス | 柱。Ⅰテモ3:15 |
| ἑδραίωμα | ヘドライオーマ | 支え、土台、基礎。Ⅰテモ3:15 |
| μυστήριον | ミュステーリオン | 奥義。Ⅰテモ3:16 |
| εὐσέβεια | エウセベイア | 信心、敬虔。Ⅰテモ3:16(属格)、4:7(対格)、4:8(主格) |
| καυστηριάζω | カウステーリアゾー | 焼き印を押す、焼灼する。Ⅰテモ4:2 |
| εὐχαριστία | エウカリスティア | 感謝。Ⅰテモ4:3-4 |
| ἁγιάζω | ハギアゾー | きよめる。Ⅰテモ4:5 |
| ἔντευξις | エンテウクシス | 祈り、願い、とりなし。Ⅰテモ2:1、4:5 |
| γυμνάζω | グムナゾー | 訓練する。Ⅰテモ4:7(本文形 γύμναζε ギュムナゼ) |
| γυμνασία | グムナシア | 訓練。Ⅰテモ4:8(σωματικὴ γυμνασία からだの訓練) |
| ἀνάγνωσις | アナグノーシス | 朗読、公同朗読。Ⅰテモ4:13 |
| χάρισμα | カリスマ | 恵みの賜物。Ⅰテモ4:14 |
| ἐπίθεσις | エピテシス | 置くこと(辞書形) |
| ἐπιθέσεως τῶν χειρῶν | エピテセオース・トーン・ケイローン | 手を置くこと=按手。Ⅰテモ4:14の本文形。χείρ(ケイル)=手 |
| λαὸς περιούσιος | ラオス・ペリウーシオス | 特別な民。出19:5(七十人訳)→テトス2:14 |
| εἰς περιποίησιν | エイス・ペリポイエーシン | 所有とされるものとして。マラキ3:17(七十人訳)→Ⅰペテロ2:9 |

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