今日の問い:神はなぜ同じ警告を繰り返されるのか? 聖所の境界線とは何か? 死後の悔い改めは可能なのか?
※この記事は、要点だけを抜き出して理解できる内容ではありません。モーセ五書・旧約・新約の連続した文脈の中でのみ読まれることを意図しています。
【読み方のご案内】
第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。
時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。
【通読箇所】
- 出エジプト記19:16-25
- ネヘミヤ記6-7章
- ルカ16:19-31
目次
第一部:トーラー—シナイ山の境界線と神の聖さ
繰り返される警告の意味
出エジプト19章は、シナイ山での神の顕現という、イスラエル史上最も重要な出来事を記録しています。ここで注目したいのは、神がモーセに「民が押し破って来ないように」と繰り返し警告されている点です。
19:12-13で既に境界線を設けるよう命じられていました。モーセはそれに従い、山の周りに境を設けました(19:23)。にもかかわらず、19:21で主は再び「民を戒めよ。主を見ようと、彼らが押し破って来て、多くの者が滅びるといけない」と命じられます。
さらに19:24では「祭司たちと民とは、主のところに登ろうとして押し破ってはならない」と三度目の警告が来ます。
なぜ三度も繰り返すのか
ヘブライ語で19:21の「戒めよ」は הָעֵד(ha’ed) という強い命令形です。これは「厳重に警告せよ」「証言として告げよ」という意味を持ちます。単なる確認ではありません。
神は人間の心をご存じです。「見てはならない」と言われると、かえって見たくなる。「触れてはならない」と言われると、触れたくなる。これはエデンの園以来、人間に刻まれた性質です。
境界線は命を守るもの
19:18を見てください:
「シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた」
この光景は、神の聖さの恐るべき現実を示しています。
ヘブライ語で「聖」は קָדוֹשׁ(kadosh、カドーシュ) です。これは「分離された」「全く異なる」という意味です。神の聖さは、単に道徳的に完全というだけでなく、存在そのものが人間とは次元が違うことを意味します。
堕落した人間が裸のままこの聖なる神に近づけば、滅びます。これは神の意地悪ではなく、私たちの実存的な現実なのです。
境界線は、神が民を遠ざけるためではなく、民が生きるために設けられました。
しかしモーセは登った
ここに希望があります。
19:20「主がシナイ山の頂に降りて来られ、主がモーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った」
モーセは境界線を越えることができました。神と直接対話することができました(19:19)。
なぜでしょうか?
モーセが特別に義人だったからではありません。モーセ自身、エジプト人を殺した罪人でした(出エジプト2:12)。しかし神が彼を仲保者として選び、召されたのです。
ここに、後の大祭司制度の原型があります。そして究極的には、神と人との間の完全な仲保者イエス・キリストを指し示しています。
ヘブル人への手紙9:15はこう言います:
「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです」
シナイ山の境界線は、人間の限界と仲保者の必要性を教えています。
「角笛の音」の象徴
19:16, 19に「角笛(שׁוֹפָר、ショーファール)の音」が登場します。この音は「いよいよ高くなった」と記されています。
角笛は後にイスラエルで:
- ヨベルの年の宣言(レビ25:9)
- 戦いの合図(ヨシュア6:4)
- 王の即位(1列王1:34)
- そして終わりの日の集合(マタイ24:31)
に使われます。
シナイでの角笛は、神の民の誕生を告げる音でした。ここから律法が与えられ、契約が結ばれ、イスラエルは神の特別な民となります。
祭司たちへの警告
19:22「主に近づく祭司たちもまた、その身をきよめなければならない。主が彼らに怒りを発しないために」
この時点で、まだアロンは正式に大祭司に任命されていません。レビ記8-9章での聖別の儀式は、この後です。ここでの「祭司たち」は、おそらく各家族の長子たちを指すと考えられます(出エジプト13:2参照)。
重要なのは、祭司であっても「身をきよめ」なければ神に近づけないという点です。役職や立場が自動的に聖さを与えるのではありません。
これは後のネヘミヤ記の箇所とつながります。総督であっても、指導者であっても、聖所に入る資格がなければ入れない—これが神の秩序です。本文開始)
第二部:旧約—ネヘミヤの識別力と聖所の境界線
執拗な妨害の背後にあるもの
ネヘミヤ記6章は、エルサレムの城壁再建という神の御業に対する、サタン的な妨害の記録です。サヌバラテとトビヤは、ネヘミヤを神の使命から引き離そうと、あらゆる手段を用いました。
四度の誘い—会見という名の罠
6:2「オノの平地にある村の一つで会見しよう」
一見、友好的な提案に見えます。しかしネヘミヤは即座に見抜きました:
6:2「彼らは私に害を加えようとたくらんでいた」
ヘブライ語で「たくらんでいた」は חָשַׁב(chashav) で、「計画する」「企てる」という意味です。これは知恵をもって計算された悪意です。
オノはエルサレムから北西約40キロメートル。ネヘミヤがそこに行けば:
- 工事現場を離れる(監督者不在)
- 敵の領域に入る(暗殺の危険)
- 交渉という名目で時間を浪費する
しかし彼らは四度も同じ誘いを繰り返しました(6:4)。しつこさは、彼らの焦りを物語っています。
ネヘミヤの一貫した応答
6:3「私は大工事をしているから、下って行けない」
ここに、ネヘミヤの霊的明晰さがあります。彼は:
- 自分の召命を知っていた
- 優先順位が明確だった
- 感情に流されなかった
「大工事(מְלָאכָה גְדוֹלָה、melakhah gedolah)」—これは単なる建築作業ではなく、神から委ねられた聖なる使命でした。
五度目の策略—公開の脅迫
6:5-7で、サヌバラテは戦術を変えます。今度は「開封した手紙」—つまり誰でも読める公開状を送りつけました。
内容は:
- 「反逆をたくらんでいる」という噂の流布
- 「王になろうとしている」という政治的告発
- 「預言者を立てている」という宗教的批判
これは巧妙な脅迫です。ペルシャ王に報告すれば、ネヘミヤは処刑される可能性がありました。
しかしネヘミヤの応答は毅然としています:
6:8「あなたが言っているようなことはされていない。あなたはそのことを自分でかってに考え出したのだ」
そして彼は真の問題を見抜きました:
6:9「事実、これらのことはみな、『あの者たちが気力を失って工事をやめ、中止するだろう』と考えて、私たちをおどすためであった」
敵の目的は常に一つ—神の御業を止めることです。
最も危険な誘惑—偽預言者シェマヤ
そして6:10-13に、最も巧妙な罠が登場します。
6:10「私がメヘタブエルの子デラヤの子シェマヤの家に行ったところ、彼は引きこもっており、そして言った。『私たちは、神の宮、本堂の中で会い、本堂の戸を閉じておこう。彼らがあなたを殺しにやって来るからだ。きっと夜分にあなたを殺しにやって来る』」
シェマヤの策略の三重の巧妙さ
- 表面的には敬虔:「神殿に逃げ込もう」→神に頼る行為に見える
- 実際には誘惑:聖所に入れば律法違反→神の怒りを招く
- 心理的プレッシャー:「命が危ない」→恐怖で判断を鈍らせる
「本堂(הֵיכָל、heikhal)」は、ここでは聖所を指します。一般のイスラエル人が入れる場所は外庭までです。祭司だけが聖所に入り、大祭司だけが年に一度至聖所に入ることができました。
民数記18:7にはこうあります:
「あなたとあなたの子らは、祭壇と垂れ幕の内側のすべてのことについて、祭司職を果たし、奉仕しなければならない。わたしは祭司の職をあなたがたへの賜物として与える。ほかの者で近づく者は殺されなければならない」
ネヘミヤの拒否—二つの理由
6:11「そこで、私は言った。『私のような者が逃げてよいものか。私のような者で、だれが本堂に入って生きながらえようか。私は入って行かない』」
ネヘミヤの応答には二つの拒否理由があります:
第一:指導者としての責任 「私のような者が逃げてよいものか」
彼は総督でした。民の模範となるべき立場でした。もし指導者が恐れて逃げれば、民全体の士気が崩壊します。
第二:律法への従順 「私のような者で、だれが本堂に入って生きながらえようか」
ここに、ネヘミヤの深い律法理解があります。彼はユダ族であり、レビ族ではなく、祭司ではありません。聖所に入る資格がないのです。
「入って生きながらえる(וָחָי、vachai)」という表現は、「入れば死ぬ」という確信を含んでいます。
歴史的教訓—ウジヤ王の悲劇
実は、ネヘミヤが生まれるずっと前に、同じような事件がありました。
歴代誌下26:16-21、ユダの王ウジヤは:
- 強大になって高ぶり
- 祭司でないのに聖所で香をたこうとした
- 祭司アザリヤと80人の祭司が止めたのに聞かず
- その場でツァラアト(重い皮膚病)に打たれた
- 死ぬまで隔離され、別の家に住んだ
王であっても、聖所の境界線を越えれば裁かれる—これがイスラエルの歴史でした。
ネヘミヤはこの教訓を知っていたはずです。「命を守るため」と言われて聖所に入れば、かえって命を失う。シェマヤの提案は、敬虔を装った死の罠だったのです。
真の識別力の源
6:12「私にはわかっている。今、彼を遣わしたのは、神ではない。彼がこの預言を私に伝えたのは、トビヤとサヌバラテが彼を買収したからである」
ネヘミヤはどうやって見抜いたのでしょうか?
彼には超自然的な啓示があったわけではありません。ウリムとトンミムもありません。しかし彼には:
- 神の御言葉の知識(モーセの律法)
- 明確な召命の自覚(城壁再建という使命)
- 祈りによる霊的感性(1:4, 2:4, 4:4-5, 4:9)
がありました。
神の御言葉に反する「預言」は、どんなに敬虔に見えても偽物です。
これこそ、今日のルカ16章の「モーセと預言者に聞け」というメッセージとつながります。
城壁の完成と系図の記録
6:15「こうして、城壁は五十二日かかって、エルルの月の二十五日に完成した」
52日—わずか2ヶ月足らずです。これは人間的には不可能な速さでした。
6:16「私たちの敵がみな、これを聞いたとき、私たちの回りの諸国民はみな恐れ、大いに面目を失った。この工事が、私たちの神によってなされたことを知ったからである」
「この工事が、私たちの神によってなされた」—これが証しです。
第7章—系図の重要性
城壁が完成すると、ネヘミヤは系図を記録し始めます(7:5-73)。これは単なる事務作業ではありません。
7:64-65に重要な記述があります:
「これらの人々は、自分たちの系図書きを捜してみたが、見つからなかったので、彼らは祭司職を果たす資格がない者とされた。それで、総督は、ウリムとトンミムを使える祭司が起こるまでは最も聖なるものを食べてはならない、と命じた」
ウリムとトンミムとは
ウリムとトンミム(אוּרִים וְתֻמִּים、Urim ve-Tumim) は:
- ウリム(אוּרִים)=「光」または「啓示」(動詞אוֹר「光を放つ」から)
- トゥミム(תֻמִּים)=「完全さ」「真理」(תָּם「完全な」から)
大祭司の胸当てに入れられた神託の道具で、神の意志を問うために使われました(出エジプト28:30、レビ8:8)。
しかし、この時代にはもはや使える祭司がいませんでした。バビロン捕囚という神の裁きを経て、かつてのソロモン時代の栄光は戻っていなかったのです。
不確実性の中での忠実さ
総督(おそらくゼルバベル)が言っているのは:
「系図が不明な祭司たちは、将来もしウリムとトンミムが回復されて神に直接確認できるようになるまで、聖なるものを食べてはならない」
これは保留措置です。神の明確な判断が得られるまで、疑わしい場合は慎重に行動する—この姿勢は、ネヘミヤの識別力と同じ精神です。
すべてが明確で、すべての答えが与えられている状態は、実は信仰を必要としません。ネヘミヤたちは、ウリムとトンミムがなくても、既に与えられているモーセの律法に従って判断しました。
アサフ族の残存—礼拝者の系譜
7:44「歌うたいは、アサフ族、百四十八名」
ここに、希望があります。
アサフ(אָסָף) は:
- ダビデ時代の三大楽長の一人(1歴代誌25:1-2)
- 詩篇50篇、73-83篇の作者
- 預言的賛美の系譜を持つ礼拝者
捕囚という国家的破局を経ても、礼拝の系譜が保たれていることは、神が礼拝をどれほど重視されるかを示しています。
148名—決して多くはありません。しかし神は、少数でも忠実な礼拝者を覚えておられます。
ヨハネ4:23-24:
「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」
時代や状況が変わっても、真の礼拝者の系譜は続いていきます。
第三部:新約—金持ちとラザロ、そして「モーセと預言者」
紫の衣と門前の貧者
ルカ16:19-31は、イエスが語られた譬え話の中でも最も衝撃的なものの一つです。ここには固有名詞「ラザロ」が登場します。イエスの譬え話で登場人物に名前が付けられているのは、この箇所だけです。
生前の対照
16:19-21の対照は鮮明です:
金持ち:
- 紫の衣と細布(βύσσος、byssos)を着る
- 毎日ぜいたくに(λαμπρῶς、lamprōs=華やかに、豪華に)遊び暮らす
ラザロ:
- 全身おでき
- 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたい
- 犬がおできをなめる(当時、犬は不浄な動物とされた)
ここで重要なのは、イエスは金持ちであること自体を罪としていない点です。アブラハムも裕福でした(創世記13:2)。問題は別のところにあります。
「門前」という距離
16:20「その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて」
ギリシャ語で「門前(πυλών、pylōn)」は、大きな門、邸宅の入り口を意味します。
ラザロは毎日そこにいたのです。金持ちは毎日、家を出入りするたびに、ラザロを見ていたはずです。あるいは、見ないようにしていたのかもしれません。
これが金持ちの罪でした。目の前にいる隣人を見なかったことです。
死後の逆転
16:22「さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた」
ラザロについては「御使いたちによって」運ばれたと記されていますが、金持ちについては「葬られた」とだけあります。おそらく盛大な葬儀が行われたでしょう。しかし、その魂がどこに行ったかは、次の節で明らかになります。
16:23「その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた」
「ハデス(ᾅδης、hadēs)」は、ヘブライ語の「シェオール(שְׁאוֹל)」に対応するギリシャ語で、死者の世界を指します。ここでは明確に苦しみの場所として描かれています。
「指先を水に浸して」—遅すぎた憐れみ
16:24「彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません』」
皮肉なことに、金持ちは今、ラザロに助けを求めています。生前は見向きもしなかった相手に。しかも「指先を水に浸して」というわずかな助けを。
生前、ラザロは「食卓から落ちる物で腹を満たしたい」と願っていました(16:21)。金持ちにとっては何でもないわずかなパンくずでした。それさえ与えられなかった。
今、金持ちが求めているのは、指先に浸した一滴の水です。しかしそれも与えられません。
アブラハムの応答—因果応報ではなく
16:25「アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです』」
これは単純な因果応報を教えているのではありません。「金持ちだったから地獄に行き、貧しかったから天国に行った」という話ではありません。
ギリシャ語で「良い物(τὰ ἀγαθά、ta agatha)」は、単に物質的豊かさだけでなく、人生の祝福全般を指します。金持ちは生前、あらゆる良いものを享受しました。
しかし彼は、その祝福を隣人と分かち合わなかったのです。
越えられない淵
16:26「そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです」
「大きな淵(χάσμα μέγα、chasma mega)」—これは出エジプト19章のシナイ山の境界線、ネヘミヤ記の聖所の境界線と同じ原理です。
死後には、もはや境界線を越えることができません。
生前は、悔い改めの機会がありました。方向転換することができました。しかし死後、その機会は永遠に失われます。
兄弟たちへの憐れみ?
16:27-28「彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください』」
一見、金持ちは悔い改めているように見えます。兄弟たちのことを心配しています。
しかし、よく見てください。彼は自分が生前に何を間違えたのか、本質的には理解していません。
彼は「モーセと預言者」に何が書いてあったか、今も理解していないのです。
「モーセと預言者」で十分
16:29「しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです』」
ここが核心です。
モーセと預言者(Μωϋσέα καὶ τοὺς προφήτας、Mōusea kai tous prophētas) は、旧約聖書全体を指す表現です。
金持ちの兄弟たちには、既に十分な啓示が与えられていました。
モーセの律法には何と書いてあったでしょうか?
申命記15:7-8:
「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、どの町囲みのうちででも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったなら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また、手を閉じてはならない。必ずあなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなさい」
レビ記19:18:
「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である」
預言者たちは何と言っていたでしょうか?
イザヤ58:6-7:
「わたしの好む断食とはこれではないか。悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見てこれに着せ、あなたの肉親を顧みないことがないようにすることではないか」
金持ちとその兄弟たちには、既に明確な指示が与えられていたのです。問題は情報不足ではなく、従わなかったことでした。
「死人の中から生き返っても」
16:30-31「彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません』。アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない』」
金持ちは言います:「もっと劇的なしるしがあれば、信じるはずだ」
しかしアブラハムの答えは冷徹です:「御言葉に従わない者は、奇跡を見ても信じない」
ギリシャ語で:
- 「悔い改める(μετανοήσουσιν、metanoēsousin)」=心を変える、方向転換する
- 「聞き入れる(πεισθήσονται、peisthēsontai)」=説得される、従う
問題は証拠の不足ではなく、心の頑なさなのです。
イエスの復活を預言する言葉
この16:31は、実はイエスご自身の復活を預言している言葉でもあります。
イエスは実際に死人の中から生き返られました。しかし多くの人は信じませんでした。祭司長たちは番兵に金を渡して、「弟子たちが盗んだと言え」と指示しました(マタイ28:11-15)。
御言葉に従わない者は、復活のキリストを見ても信じないのです。
死後の悔い改めは可能か
金持ちは苦しみの中で、ある種の「後悔」を示しています。しかしそれは真の悔い改めではありません。
なぜなら:
- 自分の罪の本質を理解していない
- 状況が変わったから態度が変わっただけ
- もし元に戻れるなら、また同じ生活をするかもしれない
ヘブル人への手紙9:27はこう言います:
「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」
**肉体が死んだ後では、本当の悔い改めはできません。**なぜなら、悔い改めは「方向転換」であり、それは時間の中で、選択の自由がある間にしかできないからです。
死後、私たちは自分の選択の結果の中に固定されます。越えられない淵が確定します。
今日という日の重み
このルカ16章の箇所が教えているのは:
今、あなたの目の前にあるものを見よ。今、与えられている御言葉に聞け。今、悔い改めよ。
「もっと劇的なしるしがあれば」 「もっと明確な導きがあれば」 「もっと時間があれば」
そのような言い訳は通用しません。
あなたには既に、モーセと預言者があります。 あなたには既に、イエス・キリストの復活の証言があります。 あなたには今日、選択の自由があります。
第四部:全体の一貫性—今、与えられている啓示にどう応答するか
三つの境界線、一つの真理
今日の三つの箇所—出エジプト19章、ネヘミヤ記6-7章、ルカ16章—は、時代も文脈も異なります。しかし、その中心を貫く一つのメッセージがあります:
神は既に十分な啓示を与えておられる。問題は、私たちが今日、それにどう応答するかである。
三つの箇所が示す共通のパターン
| 箇所 | 境界線 | 与えられた啓示 | 誘惑 | 応答 | 結果 |
| 出エジプト19章 | シナイ山の境界 | 「越えるな」という神の命令 | 「もっと近づきたい」という欲求 | 従順(境界を守る) | 生きる |
| ネヘミヤ6章 | 聖所の境界 | モーセの律法 | 「聖所に逃げ込め」という偽預言 | 拒否(律法を守る) | 使命完成 |
| ルカ16章 | 生と死の境界 | モーセと預言者 | 「もっと証拠があれば」という言い訳 | 無視(隣人を見ない) | 永遠の苦しみ |
すべてに共通するのは:
- 神は既に十分な啓示を与えておられる
- 境界線は命を守るために設けられている
- 従順は今日、求められている
- 死後、または事後では遅すぎる
「敬虔に見える誘惑」への警戒
特に注意すべきは、敬虔に見える誘惑です。
シェマヤの提案を思い出してください:「神殿に逃げ込もう。命を守るために」
これは表面的には信仰的に見えます。しかし実際には、神の律法に反する行為でした。
今日も、多くの「敬虔に見える誘惑」があります:
「神様はあなたを特別に愛しているから、普通の人には許されないことも、あなたには許される」 「規則より愛が大切。形式にこだわるのは律法主義だ」 「神様はあなたの心を見ておられる。外的な従順は重要ではない」
しかし、神の御言葉に反する「祝福」は、真の祝福ではありません。
ネヘミヤは知っていました:神の定めた境界線は、私たちを守るためにある。「命を守るため」と言われて聖所に入れば、かえって命を失うことを。
不確実性の中での信仰
もう一つ重要な点は、すべてが明確でなくても、信仰は可能であるということです。
ネヘミヤの時代、ウリムとトンミムはありませんでした。神に直接「はい/いいえ」を問う方法が失われていました。しかし彼らは、既に与えられているモーセの律法に従って判断しました。
金持ちは「もっと劇的なしるしがあれば」と言いました。しかしアブラハムは「モーセと預言者で十分だ」と答えました。
私たちも同じです。すべての疑問に答えが与えられているわけではありません。すべての状況で明確な導きがあるわけではありません。
しかし、私たちには既に十分な光があります。
詩篇119:105:
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」
ともしびは、100メートル先まで照らしません。しかし次の一歩を照らすには十分です。
アサフ族の系譜—忠実な少数
ネヘミヤ記7:44「歌うたいは、アサフ族、百四十八名」
捕囚という国家的破局を経ても、礼拝の系譜が保たれていました。148名—決して多くはありません。しかし神は、少数でも忠実な礼拝者を覚えておられます。
時代がどんなに暗くても、状況がどんなに困難でも、御言葉に従い続ける者たちの系譜は続きます。
今日という日の重み
三つの箇所すべてが、「今」の重要性を強調しています。
ヘブル人への手紙3:7-8:
「ですから、聖霊が言われるとおりです。『きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない』」
「きょう」—これが鍵です。
明日ではありません。もっと準備ができてからではありません。もっと証拠が揃ってからではありません。
今日、あなたが御言葉を開くなら、神はそこで語っておられます。今日、あなたが従順を選ぶなら、それが命をもたらします。今日、あなたが隣人を見るなら、それが永遠の実を結びます。
あなたには今日、十分な光があります。これ以上、何が必要でしょうか?
シナイ山の境界線は教えています:神の聖さを畏れ、仲保者を通して近づけ。
ネヘミヤの識別力は教えています:御言葉に従え。それが敬虔に見えても、御言葉に反するなら拒否せよ。
ラザロの警告は教えています:今日、応答せよ。明日は保証されていない。
境界線のこちら側で、まだ選択の自由がある間に、御言葉が目の前に開かれている間に—今日こそ、神の声に聞き従いませんか。

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