聖書箇所 出エジプト記16章22節から36節 エズラ記8章9章 ルカ13章18節から35節
はじめに
荒野を旅する民、捕囚から帰還した民、ローマ支配下のユダヤ人—約1000年の時間を隔てた三つの時代に生きる人々が、共通して問い続けた問いがあります。「流浪する私たちは、どこに帰属するのか?」
神は、安息日という「時間」を与え、神殿という「場所」を与えられました。しかし、それらは本当の答えだったのでしょうか?エズラは神殿を「しばらく」と呼び、その一時性を認識していました。
では、究極的な答えは何だったのか?
「いつ」でも「どこ」でもなく、「だれ」—生ける方ご自身が、私たちの確かな居場所となる。この驚くべき真理が、今日の三つの箇所を貫いています。
そして、「のがれた者」(シェエーリート)と「エリート」という二つの言葉の対比が、聖書の神学の核心を照らし出します…
・※この記事は、要点だけを抜き出して理解できる内容ではありません。モーセ五書・旧約・新約の連続した文脈の中でのみ読まれることを意図しています。
【読み方のご案内】 第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。 時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。
目次
第一部:トーラー(出エジプト記16:22-36)— 安息という「固定された場所」
安息日教育の段階的プロセス
出エジプト記16章22節から36節は、イスラエルの民が初めて「安息日」を経験する場面を記録しています。ここで注目したいのは、神がどれほど丁寧に、段階的に安息日を教えておられるかという点です。
まず6日目、人々は通常の二倍のパン、一人当たり二オメルを集めます(22節)。会衆の上に立つ者たちが驚いてモーセのところに来たとき、モーセは神の言葉を伝えます:「あすは全き休みの日、主の聖なる安息である」(23節)。
神の教育方法には三つの段階があります:
第一段階:積極的な準備(22-23節) 6日目に二倍のマナを与えることで、物理的に7日目の備えをさせます。
第二段階:超自然的な確証(24節) 通常は一日で腐るはずのマナが、安息日のために取っておいたものは「臭くもならず、うじもわかなかった」。これは明確な神の介入のしるしです。
第三段階:消極的な証明(26-27節) 7日目には野にマナがありません。それでも「民の中のある者は七日目に集めに出た」(27節)。そして何も見つけられませんでした。
人間の頑なさと神の忍耐
27節のこの記述は、ある意味で滑稽でもあり、また深刻でもあります。神はこれほど明確に、視覚的に、体験的に教えておられるのに、それでも人々は「確かめに行く」のです。
28節の主の言葉には、疲れた教師のため息が聞こえるようです:「あなたがたは、いつまでわたしの命令とおしえを守ろうとしないのか」
ヘブライ語で「いつまで」は「עַד־אָנָה」(アド・アーナー)。これは単なる疑問ではなく、繰り返される不従順への嘆きを含んでいます。
しかし、注目すべきは30節です:「それで、民は七日目に休んだ」
最終的に、彼らは学んだのです。完璧なタイミングではありませんでした。完璧な理解でもなかったかもしれません。しかし、神の忍耐強い教育は、ついに実を結びました。
安息の神学的意味
29節で神は言われます:「主があなたがたに安息を与えられたことに、心せよ」
ここで「与えられた」は完了形です。安息は人間が獲得するものではなく、神が贈与するものです。そして「心せよ」と訳されたヘブライ語「רְאוּ」(レウー)は「見よ」という命令形。つまり、安息を認識し、受け取ることが命じられているのです。
安息日には、人々は「それぞれ自分の場所にとどまれ」(29節)と命じられます。これは単に「外出禁止」という規則ではありません。ヘブライ語「תַּחְתָּיו」(タフターヴ)は「自分の下に」「自分の場所に」という意味で、各人が神から与えられた居場所に落ち着くことを表しています。
安息日とは、神という確かな場所に自分を固定する時間なのです。
マナの壺—失敗の記念碑
32節から34節には、興味深い命令が記されています。マナを一オメル、壺に入れて保存し、「あなたがたの子孫のために」残せと。
「彼らが見ることができるために」(32節)—何を見るのでしょうか?
表面的には「神が荒野で私たちを養ってくださった奇跡」です。しかし、より深く読むなら、このマナの壺は不従順の歴史も含めた神の真実の証拠です。
人々は何度もつぶやき、疑い、不従順でした(27節もその一例)。それでも神は、毎朝マナを降らせ続けました。
マナの壺は、単なる「栄光の記念品」ではありません。それは「あなたがたは何度も疑い、何度も失敗したが、それでも私は養い続けた」という神の忍耐の証拠なのです。
一オメルと一エパ—十分の一の原型
36節は一見、単なる計量の注釈のように見えます:「一オメルは一エパの十分の一である」
しかし、この記述が何度も繰り返される(16節、18節、32-33節、36節)ことには意味を発見します。
一オメルは一人一日分の糧です。そしてそれが一エパの十分の一であるという事実。
後にイスラエルでは、収穫の十分の一を神に捧げる制度が確立されます。ここに、その神学的原型が見えます。神が日ごとに与えてくださる糧の「基準単位」が、十分の一という捧げ物の単位と結びついているのです。
つまり、私たちが神に捧げるすべてのものは、もともと神から受け取ったものという原理が、マナの計量システムの中に既に埋め込まれているのです。
確かな場所への招き
出エジプト記16章が教えているのは、安息日という制度以上のものです。それは、荒野という不確実な場所を旅する民に、神が「確かな居場所」を与えようとされているという福音です。
その居場所は物理的な場所ではありません。それは:
- 神の供給への信頼(毎日のマナ)
- 神の命令への従順(安息日の遵守)
- 神の真実の記憶(保存されたマナ)
これらすべてが、イスラエルの民を神という「確かな場所」に固定するための手段だったのです。
そして、この「確かな場所」の神学は、エズラ記の「一つの釘」、ルカ福音書の「めんどりの翼」へと、救済史を貫いて流れていきます。
第二部:旧約(エズラ記8-9章)— 「一つの釘」が与える希望
バビロンからエルサレムへ—危険な旅路
エズラ記8章は、第二次帰還の記録です。エズラはバビロンからエルサレムまで、約1,500キロメートルの旅を率いることになります。
15節で、エズラはアハワに流れる川のほとりに人々を集め、三日間宿営します。そこで彼は重大な問題を発見します:「レビ人をひとりも見つけることができなかった」
神殿再建という使命を帯びた帰還なのに、神殿で仕えるべきレビ人がいない。これは深刻な事態です。エズラは使者を送り、レビ人たちを説得して連れてきます(16-20節)。
そして21節、エズラは断食を布告します。
信仰による選択—王の護衛か神の守りか
22節のエズラの告白は、信仰者にとって深い挑戦を含んでいます:
「私は道中の敵から私たちを助ける部隊と騎兵たちを王に求めるのを恥じたからである」
ヘブライ語で「恥じた」は「בּוֹשׁ」(ボーシュ)。これは単なる社会的な恥ではなく、信仰の一貫性における恥です。
なぜエズラは恥じたのでしょうか?理由は明確です:「私たちは、かつて王に、『私たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、その力と怒りとは、神を捨てるすべての者の上に下る』と言っていたからである」(22節)
エズラは既に、ペルシャ王アルタシャスタに対して、神の真実を証ししていました。今、王の軍隊を求めることは、自分の言葉と信仰の矛盾を露呈することになります。
これは実に厳しい選択です。道中には確実に危険があります(31節参照)。貴重な金銀を運んでいます(25-27節)。人間的には、護衛を求めることは賢明な判断でしょう。
しかしエズラは、証しの一貫性を選びます。
断食と祈り—神に委ねる決断
23節:「だから、私たちはこのことのために断食して、私たちの神に願い求めた。すると神は私たちの願いを聞き入れてくださった」
断食は単なる宗教儀式ではありません。それは完全な依存の表現です。食べ物という基本的な必要すら断って、ただ神に頼る。
エズラが神に求めたのは「道中の無事」(21節)でした。そしてヘブライ語では「דֶּרֶךְ יְשָׁרָה」(デレフ・イェシャラー)—「まっすぐな道」「平坦な道」という表現です。
物理的な安全だけでなく、神の導きの中を歩むことを求めているのです。
31節の証言は感動的です:「私たちの神の御手が私たちの上にあって、その道中、敵の手、待ち伏せする者の手から、私たちを救い出してくださった」
神は、ご自分に信頼する者を決して恥じさせません。
聖なる責任—銀と金の管理
24-30節には、エズラが祭司たちに貴重な奉納物を託す場面が記されています。
その量は膨大です:
- 銀650タラント(約22トン)
- 銀の器類100タラント相当(約3.4トン)
- 金100タラント(約3.4トン)
- 金の鉢20個(1,000ダリク相当)
- 青銅の器類2個
28節でエズラは言います:「あなたがたは主の聖なるものである。この器類も聖なるものとされている」
ここに重要な神学があります。聖別されているのは物だけではなく、人もです。祭司たちは「主の聖なるもの」として、聖なる器類を運ぶ責任を負っています。
29節の「寝ずの番をして守りなさい」という命令。ヘブライ語「שִׁקְדוּ וְשִׁמְרוּ」(シクドゥ・ヴェシムルー)は「目を覚まして守れ」という意味です。
これは物理的な警備以上のものです。霊的な警戒心を求めているのです。
「一つの釘」—存在の根拠
そして9章。エズラはエルサレムに到着して間もなく、衝撃的な知らせを受けます。
民が、祭司が、レビ人が、異教徒と縁を結んでいる(1-2節)。
エズラの反応は激しいものでした:
- 着物と上着を裂く
- 髪の毛とひげを引き抜く
- 色を失ってすわる
- 夕方まで動けない(3-4節)
これは演技ではありません。本物の霊的ショックです。
そして5節から、エズラは祈り始めます。この祈りは、聖書の中でも最も深い悔い改めの祈りの一つです。
8節:「しかし、今、しばらくの間、私たちの神、主のあわれみによって、私たちに、のがれた者を残しておき、私たちのためにご自分の聖なる所の中に一つの釘を与えてくださいました」
「一つの釘」—ヘブライ語「יָתֵד」(ヤーテード)。
これは物理的な釘や杭のことですが、ここでは比喩として使われています。テントを砂漠の風から守るために地面に打ち込む杭のイメージです。
文脈から見ると、この「一つの釘」には三つの側面があります:
物理的側面: エルサレム神殿という固定された場所 霊的側面: 神の臨在との再接続 社会的側面: 離散したイスラエルを繋ぎとめる中心点
バビロン捕囚は、イスラエルにとって根こぎの経験でした。土地から引き抜かれ、神殿を失い、アイデンティティの基盤を失いました。
エズラが「一つの釘」と呼ぶのは、神が再び彼らを確かな場所に固定してくださったという認識です。
釘の預言的意味
イザヤ22章23-25節にも、同じ比喩が使われています:「わたしは彼を、確かな所に打ち込まれた釘とし、彼は父の家の栄誉の座となる」
ここで「確かな所」は「מָקוֹם נֶאֱמָן」(マコーム・ネエマン)—「信頼できる場所」「堅固な場所」です。
そして、この釘のイメージは、最終的には十字架の釘へと繋がっていきます。
ヨハネ19章18節:「彼らはそこでイエスを十字架につけた」
十字架の釘こそが、すべての時代の信仰者を神という確かな場所に固定する究極の「釘」となったのです。
恥と悔い改め
9章6節:「私の神よ。私は恥を受け、私の神であるあなたに向かって顔を上げるのも恥ずかしく思います」
ここで「恥ずかしい」と訳されているヘブライ語「בּוֹשׁ」(ボーシュ)—8章22節でエズラが「恥じた」と同じ言葉です。
しかし文脈は正反対です。
8章では、エズラは人間の護衛を求めることを恥じました。それは信仰の証しに反するからです。
9章では、エズラは神の前で恥じています。それは民の罪のゆえです。
ここに、聖書的な恥の正しい理解があります。私たちは人間を恐れて恥じるのではなく、神との関係において恥じるべきなのです。
共同体の一部として
エズラは民の罪を自分の罪として受け止めています。「私たちの咎」「私たちの罪過」と何度も繰り返します(6, 7, 10, 13, 15節)。
エズラ自身は異教徒と縁を結んでいません。しかし彼は、共同体の一部であることの意味を深く理解しています。
これは指導者としての責任感ですが、同時に、コリント第一12章26節が後に教える真理の実践でもあります:「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ」
のがれた者として
9章13-15節のエズラの祈りには、深い神学的洞察があります。
「私たちの悪い行いと、大きな罪過のために、これらすべてのことが私たちの上に起こって後、──事実、私たちの神、あなたは、私たちの咎の受けるべき刑罰よりも軽く罰し、このようにのがれた者を私たちに残してくださいました」(13節)
エズラは認識しています:私たちが今ここにいること自体が、恵みです。
バビロン捕囚から帰還できたこと、神殿を再建できたこと、「一つの釘」を与えられたこと—これらすべては、神の憐れみの結果であって、人間の功績ではありません。
15節:「イスラエルの神、主。あなたは正しい方です。まことに、今日あるように、私たちは、のがれた者として残されています」
「のがれた者」(שְׁאֵרִית – シェエーリート)—これは「残りの民」という神学的に重要な概念です。
イザヤ、エレミヤ、ミカなど多くの預言者が「残りの民」について語ります。それは、神の裁きの後も、神が保存してくださる忠実な者たちです。
エズラは、自分たちがその「残りの民」であることを認識しています。そして同時に、その特権に伴う責任も理解しています。
確かな場所への固定
エズラ記8-9章が教えているのは、私たちの存在の根拠は、ただ神の憐れみにあるという真理です。
神は、流浪の民に「一つの釘」を与え、彼らを確かな場所に固定してくださいました。
その場所は、物理的にはエルサレムと神殿でした。 しかし霊的には、神ご自身との関係でした。
そして、その「一つの釘」は、キリストにおいて完全に実現します。十字架の釘によって、すべての時代の信仰者が、神という確かな場所に固定されるのです。
第三部:新約(ルカ13:18-35)— めんどりの翼という避難所
神の国のたとえ—小さな始まりと全体への浸透
ルカ13章は、二つの短いたとえから始まります。からし種のたとえ(18-19節)とパン種のたとえ(20-21節)です。
「それは、からし種のようなものです。それを取って庭に蒔いたところ、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました」(19節)
からし種は、当時のユダヤでは「最も小さい種」の代表でした。それが「木になる」—これは誇張ではなく、からし種は実際に3メートルほどの低木に成長します。
注目したいのは「空の鳥が枝に巣を作りました」という表現です。これは旧約聖書の預言的イメージを想起させます。
エゼキエル17章23節:「それは枝を出し、実を結び、見事な杉の木となる。あらゆる種類の鳥がその下に住み、その枝の陰に住む」
ダニエル4章12節:「その葉は美しく、その実は豊かで、すべての者がそれによって養われた。野の獣はその下に陰を見いだし、空の鳥はその枝に住み」
つまりイエスは、神の国が諸国民の避難所となることを示唆しておられるのです。
21節のパン種のたとえも同様です。「女がパン種を取って、三サトンの粉に混ぜたところ、全体がふくれました」
三サトンは約22リットル。これは一家族が食べるパンの量をはるかに超えています。創世記18章6節で、アブラハムがサラに命じて三セアのパンを焼かせたのも、大勢の客をもてなすためでした。
神の国は、小さく始まりますが、最終的には全体に浸透し、多くの人々を養うのです。
狭い門—入ることへの努力
23節で、ある人が質問します:「主よ。救われる者は少ないのですか」
これは当時のユダヤ教内での議論のテーマでした。イエスの答えは、質問を別の次元に転換します:
「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから」(24節)
「努力して」—ギリシャ語「ἀγωνίζομαι」(アゴニゾマイ)は、英語のagony(苦悶)の語源です。競技で戦う、格闘する、という意味を持ちます。
しかし、ここで重要なのは、何のための努力かということです。
イエスは「救いを獲得するために努力せよ」とは言っておられません。救いは恵みによるものであり、人間の努力で獲得できるものではありません。
では、何の努力でしょうか?
それは狭い門を通るための努力です。
なぜ門は狭いのか
門が狭い理由は、神が意地悪だからではありません。
門が狭いのは、私たちが手放さなければならないものが多いからです。
両手に荷物を抱えたまま、狭い門は通れません。私たちは手放さなければなりません:
- 自分の義
- 民族的・宗教的優越感
- 過去の功績
- この世の安全保障
- プライドと自己依存
マタイ7章13-14節の並行箇所では、イエスはこう言われます:「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」
「見いだす者はまれ」—それは、多くの人が別のものを求めているからです。広い門、快適な道、自分の荷物を持ったまま通れる入口を。
近さは保証ではない
25-27節は、驚くべき警告です。
「家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう」(25節)
「すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました』」(26節)
ここで主張されているのは物理的な近接性です。イエスと一緒に食事をした、イエスの教えを聞いた。
しかし主人の答えは冷徹です:「私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい」(27節)
「知らない」—ギリシャ語「οὐκ οἶδα」(ウーク・オイダ)は、単なる情報不足ではありません。これは関係の不在を意味します。
マタイ7章23節の並行箇所では、さらに強い表現が使われています:「わたしはあなたがたを全く知らない」(οὐδέποτε ἔγνων ὑμᾶς)。
イエスとの外的な接触があっても、内的な関係がなければ、救いはありません。
神の国の食卓—逆転の福音
28-29節には、痛烈な逆転が描かれています。
「神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちが入っているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです」(28節)
「あなたがた」—これはイエスに近かった人々、自分たちこそアブラハムの子孫だと誇っていた人々です。
そして29節:「人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます」
これはイザヤ書の預言の成就です(イザヤ49:12、59:19)。異邦人が神の国に入る。
30節の結論:「いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです」
神の評価は、人間の評価と正反対です。
ヘロデという「狐」—政治的脅威への応答
31節で、パリサイ人たちが警告します:「ここから出てほかの所へ行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうと思っています」
これは本当に親切な警告だったのか、それともイエスをガリラヤから追い出すための策略だったのか、議論があります。
しかしイエスの応答は明確です:
「行って、あの狐にこう言いなさい。『よく見なさい。わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人をいやし、三日目に全うされます』」(32節)
「あの狐」—これは侮辱ではなく、正確な評価です。ギリシャ語「ἀλώπηξ」(アローペクス)は、狡猾さと無力さの両方を含意します。ヘロデは狡猾ですが、神の計画を変更する力はありません。
「三日目に全うされます」—ギリシャ語「τελειοῦμαι」(テレイウマイ)。完成する、目的を達成する、という意味です。
イエスは死を「終わり」ではなく「完成」として見ておられます。
預言者の運命—エルサレムという殺戮の場
33節:「だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです」
これは皮肉を込めた表現です。エルサレムは「平和の都」(エルサレムの語源)という名を持ちながら、預言者たちを殺してきた都でした。
- ゼカリヤ(歴代誌第二24:20-21)—神殿の庭で石打ちにされました
- ウリヤ(エレミヤ26:20-23)—エホヤキム王に殺されました
- イザヤ—伝承によればマナセ王の時代に殺されました
イエスもその系譜に連なります。そして、それは偶然ではなく必然です。
めんどりと雛—拒絶された愛
34節は、福音書の中で最も感動的な箇所の一つです:
「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった」
「ああ、エルサレム、エルサレム」—名前の二度の呼びかけは、深い感情を表します。創世記22:11「アブラハム、アブラハム」、出エジプト3:4「モーセ、モーセ」、使徒9:4「サウロ、サウロ」と同じパターンです。
「めんどりがひなを翼の下にかばうように」—これは旧約聖書に繰り返し現れるイメージです。
詩篇17:8「私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください」 詩篇91:4「主は…その翼であなたをおおわれる」 ルツ2:12「その翼の下に避け所を求めてきたイスラエルの神、主」
めんどりは、危険が迫ると自分の体で雛を覆います。捕食者が来ても、翼を広げて雛を守ります。時には自分が殺されても。
実際、野火が通った後、焼け焦げためんどりの下から、無傷の雛が出てくることがあるそうです。
「幾たび集めようとしたことか」—ギリシャ語「ποσάκις」(ポサキス)は「何度も何度も」という意味です。一度や二度ではありません。
イエスは繰り返し、繰り返し、エルサレムを集めようとされました。
しかし、「あなたがたはそれを好まなかった」—ギリシャ語「οὐκ ἠθελήσατε」(ウーク・エーテレーサテ)。拒絶は、彼ら側の意志的な選択でした。
翼の下への招き—今も有効な避難所
この「めんどりと雛」のイメージは、単なる過去の歴史ではありません。
それは今も、私たちへの招きです。
エズラが求めた「一つの釘」—確かな場所への固定。 イエスが提供する「めんどりの翼」—安全な避難所。
これらは同じ現実を、異なる比喩で表しています。
神は、不安定な世界を生きる私たちに、確かな居場所を提供しておられます。それは物理的な場所ではなく、神ご自身との関係です。
しかし、その翼の下に入るためには、私たちの意志的な選択が必要です。
出エジプト記の民は、安息日を受け入れるという選択をしました(最初は失敗しましたが、最終的に)。
エズラは、王の護衛ではなく神の守りに頼るという選択をしました。
私たちも、狭い門を通る努力—手放すべきものを手放し、めんどりの翼の下に身を低くして入る—という選択をすることができます。
荒れ果てた家—拒絶の結果
35節:「見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される」
「あなたがたの家」—これは神殿を指しています。かつては「わたしの家」と呼ばれた神殿が(イザヤ56:7)、今は「あなたがたの家」となっています。
「荒れ果てた」—ギリシャ語「ἔρημος」(エレーモス)は、荒野、荒廃、空虚を意味します。
これはエレミヤ22:5の預言の反響です:「この家は荒れ果てる」
そして、この預言は文字通り成就します。紀元70年、ローマ軍によってエルサレム神殿は破壊されます。
再会の希望
しかし、イエスの言葉は絶望で終わりません:
「わたしはあなたがたに言います。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたの言うときが来るまでは、あなたがたは決してわたしを見ることができません」(35節)
「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」—これは詩篇118:26の引用です。メシア到来を歓迎する言葉。
イエスは、エルサレムがいつか、真にメシアとして自分を受け入れる日が来ることを示唆しておられます。
パウロもローマ11:26でこの希望を語ります:「こうして、イスラエルはみな救われる」
めんどりの翼は、今も広げられています。今も、招いています。
そして、いつか、すべてのイスラエルが、その翼の下に入る日が来るのです。
死への恐れか、父との分離への恐れか
ルカ13章を読みながら心に響くのは、イエスが示された優先順位です。
ヘロデの殺害の脅威(31節)に対して、イエスは恐れを示されません。むしろ、ご自分の使命を完遂することに集中しておられます(32-33節)。
イエスが本当に恐れられたのは、死そのものではなく、父なる神から離れることでした。
それはゲツセマネの園で明確になります(ルカ22:42):「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください」
そして十字架上で(マタイ27:46):「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」
イエスにとって、最大の苦しみは肉体的な痛みではなく、父との断絶でした。
それは、私たちの罪を負うために、必要な犠牲でした。
イエスが「めんどりの翼」となって私たちを覆うために、ご自分は翼の外に出なければならなかったのです。
父の翼から離れて、私たちを父の翼の下に入れるために。
第四部:全体の一貫性 — 神が用意された居場所の神学
三つの異なる時代、一つの問い
今日読んだ三つの箇所は、約1000年の時間幅があります。
出エジプト記16章(紀元前1440年頃)—荒野を旅する民 エズラ記8-9章(紀元前458年頃)—バビロンから帰還する民 ルカ13章(紀元30年頃)—ローマ支配下のユダヤ
しかし、これら三つの時代に生きる人々が直面していた根本的な問いは同じでした:
「流浪する私たちは、どこに帰属するのか?」
荒野の民には定住地がありませんでした。捕囚帰還者は70年間も故郷を失っていました。イエス時代のユダヤ人は、自分たちの土地にいながら異国の支配下にありました。
彼らは皆、居場所を失った民でした。そして、三つの箇所が示すのは、神の答えです:「あなたがたの居場所は、場所ではなく、わたしである」
段階的啓示としての三つの比喩
三つの比喩が示す神学的発展に注目しましょう。
第一段階:制度としての居場所(安息日)
出エジプト記では、神は「時間」という制度の中に居場所を創造されます。安息日という律法。これは素晴らしい恵みでしたが、まだ外的な制度でした。
第二段階:場所としての居場所(神殿の釘)
エズラ記では、神は「空間」の中に居場所を提供されます。エルサレム神殿という「一つの釘」。しかし、エズラ自身がこれを「しばらく」(מְעַט רֶגַע – メアト・レガ、9:8)と呼んでいます。物理的な神殿は一時的な解決策に過ぎないことを、彼は認識していました。
実際、神殿は紀元70年に破壊されます。物理的な釘は、最終的には抜け落ちるのです。
第三段階:生ける方としての居場所(キリスト)
ルカ福音書で、イエスは「めんどりの翼」という比喩を用いられます。しかし、これはもはや制度でも場所でもありません。それは生ける方—イエスご自身です。
ヨハネ2章19-21節で、イエスは「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう」と言われました。ヨハネは説明します:「イエスはご自分のからだである神殿のことを言われたのである」
エズラが「しばらく」と呼んだものは、キリストにおいて**「永遠」**になりました。
居場所は、もはや「いつ」(安息日)でも「どこ」(神殿)でもなく、「だれ」(キリスト)—生ける方ご自身になったのです。
三つの「努力」の対比
三つの箇所には、異なる種類の「努力」が描かれています。
出エジプト記:不信仰の努力 「それなのに、民の中のある者は七日目に集めに出た」(16:27)—神の供給を信じず、自分で確保しようとする努力。
エズラ記:信仰の努力 「私たちはこのことのために断食して、私たちの神に願い求めた」(8:23)—エズラは王の護衛を求めず、神に頼りました。正しい方向への努力—神に依存する努力です。
ルカ福音書:入ることへの努力 「努力して狭い門から入りなさい」(13:24)—ギリシャ語「ἀγωνίζομαι」(アゴニゾマイ)は格闘する、戦うという意味。しかし、何のための努力でしょうか?それは手放すための努力です。狭い門を通るには、両手に抱えているものを降ろさなければなりません。
この三つの努力の対比が示すのは:真の努力とは、自分の力に頼る努力ではなく、神に頼るために自分を手放す努力である
「のがれた者」の神学が結ぶ三つの時代
「のがれた者」(שְׁאֵרִית – シェエーリート、残りの民)という概念は、三つの箇所を神学的に結びつけます。
語根は「שָׁאַר」(シャアル)で「残る、生き残る」という意味です。音は似ていますが、フランス語由来の「エリート(elite、ラテン語eligere = 選び出す)」とは全く別の言葉です。
そして、この二つの言葉の対比こそが、聖書の神学を照らし出します:
シェエーリート(残りの民):神の憐れみによって「残された」者—自分の功績ではなく、恵みによる。謙遜と感謝が伴う。
エリート:優れているから「選ばれた」者—能力や地位による。しばしばプライドを伴う。
エズラが「のがれた者」と呼ぶとき、それは誇りではなく恥と感謝を伴っています(9:6-8)。「私たちが今ここにいるのは、私たちが優秀だからではなく、神が憐れんでくださったから」という認識です。
申命記7章7-8節:「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない…しかし、主があなたがたを愛されたから」
コリント第一1章27-29節:「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです…これは、神の御前でだれをも誇らせないためです」
聖書的な「残りの民」は、世の「エリート」とは真逆の概念です。
人間の応答パターン—段階的な拒絶
三つの箇所には、もう一つの共通パターンがあります:段階的な拒絶のプロセスです。
疑い(出エジプト16:27)→ 妥協(エズラ9:2)→ 拒絶(ルカ13:34)
この段階的悪化は、罪の性質を示しています。小さな不信仰は、放置されると、最終的には公然たる拒絶へと成長するのです。
しかし、神の側の問題は一度もないのです。マナは毎朝降り、神殿は再建され、めんどりの翼は広げられました。問題は常に、人間の意志的な選択にありました。
ルカ13章34節:「それなのに、あなたがたはそれを好まなかった」(ギリシャ語 οὐκ ἠθελήσατε – ウーク・エーテレーサテ)—意志的な拒絶。
継続する供給と学びの恵み
しかし、希望もあります。
出エジプト記16章30節:「それで、民は七日目に休んだ」—最初は失敗しましたが、最終的に彼らは学んだのです。
マナは40年間降り続けました(16:35)。神の供給は、毎日新しいものでした。同様に、イエスは主の祈りでこう教えられました:「日ごとの糧を毎日お与えください」(ルカ11:3)
私たちの信仰生活も、毎日新しく神に依存することの繰り返しです。神の忍耐は、私たちの学びのペースを待ってくれます。
結論:影から本体へ
コロサイ2章16-17節:「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです」
安息日は影でした。本体はキリストです。神殿は影でした。本体はキリストです。
そして今、私たちは影ではなく本体を持っています。マタイ11章28節:「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」
「わたしのところ」—これが私たちの居場所です。場所ではなく、時間ではなく、制度ではなく、生ける方—イエス・キリストご自身が、私たちの確かな居場所なのです。


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