通読箇所:出エジプト記14章15-31節 エズラ記2章、3章 ルカ2章22-40節
はじめに
なぜ祈るのか、もう前進する時だ—み言葉を下さい。確かな神の声がある時、恐れずに杖を上げ前進できる。
祈りはいつまで続けるべきか。行動を起こすのはいつか。その境界線はどこにあるのか。
紅海を前にしたモーセは、この問いに直面した。民は恐怖に叫び、モーセは神に向かって執り成した。しかし神の答えは「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか」だった。すでに指示は与えられていた。今必要なのは、杖を上げることだった。
バビロンから帰還した民も同じ選択を迫られた。神殿の建物はまだない。周囲の敵は脅威だ。それでも彼らは「回りの国々の民を恐れていたので」むしろ祭壇を築いた。恐れの中でこそ、礼拝を選んだ。
そして貧しいヨセフとマリアは、社会的に何の保証もない中で、律法に従って幼子を神殿に連れて行った。そこで待っていたのは、人生のほとんどを待ち望みに費やした老人たちだった。
三つの時代、三つの場面、一つの真理—神の言葉が道を開く。
注意書き: ※この記事は、要点だけを抜き出して理解できる内容ではありません。モーセ五書・旧約・新約の連続した文脈の中でのみ読まれることを意図しています。
【読み方のご案内】 第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。 時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。
目次
第一部:紅海の奇跡—神の栄光が現れる時
なぜ祈るのか、もう前進する時だ
「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。」(14:15)
この神の言葉は、一見冷たく聞こえるかもしれない。モーセは民の恐怖の叫びを聞いて、神に執り成していたはずだ。後ろにはエジプト軍、前には紅海。人間的には完全な袋小路である。
しかし神は「祈りの時」と「行動の時」を区別される。神はすでにイスラエルをこの場所に導き(14:1-4)、「わたしがパロを通して栄光を現す」と告げておられた。大枠の計画は示されていた。しかし具体的にどうするか—それは、モーセが民の叫びを神に持っていった時、初めて明らかにされた。
「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。あなたの杖を上げ…」(14:15-16)
神はモーセの執り成しを退けたのではない。むしろ、その執り成しに応答して、今すべきことを明確に示された。今必要なのは、さらなる嘆願ではなく、与えられた指示への従順だった。
杖を上げる—人の従順と神の御業の協働
「あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて…」(14:16)
ここで注目したいのは、神が「わたしが海を分ける」とは言わず、「あなたが海を分けよ」と命じられた点だ。もちろん、実際に海を分けるのは神の力である(14:21「主は…強い東風で海を退かせ」)。しかし神は、モーセの従順の行為—杖を上げること—を通して御業を現された。
これは神の国の働きの原則を示している。神は全能であり、人の助けなしに何でもできる。しかし神は、人の信仰の応答を通して働くことを選ばれる。杖を上げるという行為そのものに力があるのではない。その行為が表す「神の言葉への従順」に、神は応答されるのだ。
エジプト人が知った真実—「主が彼らのために戦っておられる」
14:25の場面は劇的だ。エジプト軍の戦車の車輪が外れ、進むことができなくなった時、彼らはついに悟った。
「イスラエル人の前から逃げよう。主が彼らのために、エジプトと戦っておられるのだから。」(14:25)
この認識は遅すぎた。しかし、これは無意味な出来事ではなかった。神は14:18で言われていた—「パロとその戦車とその騎兵を通して、わたしが栄光を現すとき、エジプトはわたしが主であることを知るのだ。」
エジプト人は最期の瞬間に、イスラエルの神が真の神であることを知った。これは神の主権の現れであり、同時に後の世代への証言として記録された。私たちも今、この記録を通して「主がご自分の民のために戦われる神」であることを知るのだ。
水が壁となった—מַיִם חוֹמָה(マイム・ホーマー)
14:22と14:29で繰り返される表現に注目したい。
「水は彼らのために右と左で壁となった」
ヘブライ語では「水」(מַיִם、マイム)が「壁」(חוֹמָה、ホーマー)になったと記されている。この「ホーマー」は城壁を意味する言葉だ。通常、水は流動的で形を持たない。しかし神が介入される時、水は堅固な城壁となって民を守った。
これは物理的奇跡であると同時に、霊的真理の表現でもある。神の民を守るものは、人間の築いた城壁ではなく、神ご自身の臨在なのだ。
信仰の結実—「民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた」
14:31の結論は重要だ。
「イスラエルは主がエジプトに行われたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。」
「見た」から「信じた」へ。これは信仰の本質を示している。しかし注意すべきは、彼らが信じたのは「神がこれから良いことをしてくれるだろう」という楽観的期待ではなく、「この神は全能であり、真実な方だ」という確信だった。
「主を恐れる」と「主を信じる」が並べて記されているのも意味深い。真の信仰は、神への畏敬の念と信頼が一体となっている。神を恐れずに信じることもできないし、神を信じずに恐れることもできない。
そして興味深いことに、「主とそのしもべモーセを信じた」と記されている。神への信仰と、神が立てられた指導者への信頼は、分離できないものなのだ。
第二部:帰還と再建—泣き声と喜びの声が混じり合う時
名前が記録される意味—捕囚からの帰還者リスト
エズラ記2章は、一見すると退屈な人名と数字のリストに見える。しかしこれは、神の契約の真実さを証明する記録なのだ。
バビロン捕囚は紀元前586年に始まった。エルサレムは破壊され、神殿は焼かれ、民は異国の地に連れ去られた。人間的に見れば、イスラエルは国家として終わったはずだった。
しかし神はエレミヤを通して預言されていた—「七十年が満ちたなら、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる」(エレミヤ29:10)。
そして今、その約束が実現している。2章に記録された42,360人の名前と数字は、神が一人一人を覚えておられることの証拠だ。
アサフ族だけが残った—礼拝音楽の継承
2:41に「歌うたいは、アサフ族、百二十八名」とある。
ダビデ時代、礼拝音楽を担当する三大家系があった—アサフ、ヘマン、エドトン(歴代誌上25章)。しかし捕囚後の帰還者リストでは、「歌うたい」として明記されているのはアサフ族だけだ。
これは単なる偶然ではないだろう。アサフは「集める者」という意味の名前を持つ。散らされた民が再び集められる時、礼拝の音楽を回復したのがアサフ族だったというのは、象徴的だ。
詩篇にはアサフの詩が多く残されている(詩篇50、73-83篇)。彼らは神の正義と契約の真実さを歌い続けた家系だった。捕囚という試練を経ても、その使命を保持し続けたのだ。
系図を証明できなかった人々—恵みと秩序の緊張
2:59-63には、自分たちがイスラエル人であることを証明できなかった人々が記録されている。特に祭司の中にも、系図書きを見つけられなかった者がいた(2:62)。
総督は彼らに対して、「ウリムとトンミムを使える祭司が起こるまでは最も聖なるものを食べてはならない」と命じた(2:63)。
これは厳しい措置に見えるが、神の秩序を守ることの重要性を示している。同時に、彼らを完全に排除するのではなく、「ウリムとトンミムによる神の判断を待つ」としたところに、恵みの余地も残されている。
神の民であることは、単なる自己申告ではなく、客観的な根拠を必要とする。それは排他主義ではなく、神の聖さへの畏れの表れなのだ。
第七の月—仮庵の祭りから始まる再建
3:1「第七の月が近づくと、民はいっせいにエルサレムに集まって来た」
第七の月(ティシュリ月)は、イスラエルの宗教暦で最も重要な月だ。新年(ロシュ・ハシャナ)、贖罪の日(ヨム・キプール)、仮庵の祭り(スコット)がこの月に集中している。
特に仮庵の祭りは、出エジプトの時に荒野で天幕に住んだことを記念する祭りだ(レビ23:42-43)。帰還した民が最初に祝ったのがこの祭りだったのは、深い意味がある。
彼らは今、新しい「出エジプト」—バビロンからの解放—を経験していた。そして先祖が荒野で仮の住まいに住んだように、彼らもまだ完全には回復していない状態で、神への礼拝を再開したのだ。
礎が据えられる前に始まった礼拝
3:6「彼らは第七の月の第一日から全焼のいけにえを主にささげ始めたが、主の神殿の礎はまだ据えられていなかった。」
この順序が重要だ。彼らは神殿の建物が完成するのを待たずに、礼拝を始めた。祭壇をもとの所に設け(3:3)、全焼のいけにえをささげ始めた。
なぜか。3:3に理由が記されている—「彼らは回りの国々の民を恐れていたので」
恐れの中で、彼らは神に頼った。建物よりも先に、神との関係の回復を優先したのだ。これは真の優先順位を示している。
泣き声と喜びの声—回復の複雑さ
3:12-13の場面は、聖書の中でも最も感動的な箇所の一つだ。
「祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、最初の宮を見たことのある多くの老人たちは、彼らの目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。そのため、だれも喜びの叫び声と民の泣き声とを区別することができなかった。」
同じ出来事が、ある者には涙を、ある者には喜びをもたらした。老人たちはソロモンの神殿の栄光を知っていた。金で覆われた壁、巨大な青銅の柱、荘厳な至聖所。それに比べれば、この新しい神殿の基礎は、あまりにも貧弱に見えたのだろう。
しかし若い世代は、バビロンで生まれ育った。彼らにとって、これは初めて見る神の宮の始まりだった。過去との比較ではなく、新しい始まりへの希望が彼らを喜ばせた。
「だれも喜びの叫び声と民の泣き声とを区別することができなかった」という表現が美しい。神はどちらの感情も受け入れられた。過去の栄光への郷愁も、未来への希望も、どちらも神の前で真実なのだ。
紅海からエルサレムへ—神の変わらぬ真実
出エジプト14章で海が分かれた時、イスラエルは「主を恐れ、主を信じた」(14:31)。
エズラ記3章で神殿の礎が据えられた時、民は「主を賛美し、感謝しながら、互いに、『主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに』と歌い合った」(3:11)。
約800年の時を経て、場所も状況も変わった。しかし神の真実さは変わらない。紅海で民を救われた神は、バビロンからも民を帰還させ、再び神殿を建てさせられる。
「その恵みはとこしえまでもイスラエルに」—この告白は、世代を超えて受け継がれる信仰の核心だ。
第三部:神殿で待ち望む者たち—シメオンとアンナが見た救い
律法の要求を果たす—初子の奉献
ルカ2章は、ヨセフとマリアが幼子イエスを連れてエルサレムの神殿に上った場面から始まる。彼らが果たそうとしていたのは、律法に定められた二つの義務だった。
第一に、「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない」(2:23、出エジプト13:2)という初子奉献の律法。
第二に、出産後の母親のきよめの儀式(レビ12章)。
注目したいのは、2:24で彼らがささげたいけにえだ—「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」。
レビ記12:8にはこう記されている。「もし小羊に手が届かなければ、山鳩二羽か、家鳩のひな二羽を取らなければならない。」つまり、これは貧しい者のためのいけにえだった。
天地の創造主である神の御子が、最も貧しい家庭の子として、最も質素ないけにえと共に神殿に来られた。ここに受肉の謙遜がある。
シメオン—「私の目があなたの御救いを見た」
2:25-26でシメオンという人物が紹介される。彼について記されている特徴は:
- 正しい、敬虔な人
- イスラエルの慰められることを待ち望んでいた
- 聖霊が彼の上にとどまっておられた
- 主のキリストを見るまでは死なないと、聖霊のお告げを受けていた
このシメオンについて、伝承では非常に長生きしたと言われている。しかし聖書本文が強調しているのは、彼の長寿ではなく、彼の待ち望む姿勢だ。
「イスラエルの慰められること」(παράκλησιν τοῦ Ἰσραήλ、パラクレーシン・トゥー・イスラエル)を待ち望んでいた。この表現は、イザヤ40章以降の「慰めの預言」を背景にしている。バビロン捕囚後のイスラエルに語られた神の約束—メシアによる完全な救いと回復。
シメオンは、エズラ記の民が神殿再建を待ち望んだように、真の慰め主の到来を待ち望んでいた。そして「御霊に感じて」(2:27)、まさにその日、その時に宮に入った。
彼が幼子を抱いて語った言葉(2:29-32)は、「ヌンク・ディミティス」(Nunc Dimittis、「今去らせてください」)と呼ばれ、教会の伝統的な夕べの祈りとなっている。
「私の目があなたの御救いを見たからです」(2:30)
ギリシャ語で「御救い」は τὸ σωτήριόν(ト・ソーテーリオン)。定冠詞がついていることに注意したい。これは「ある救い」ではなく、「あの救い」—預言されていた決定的な救いを指している。
そしてその救いは「万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄」(2:31-32)だと宣言された。
出エジプト14章で紅海が分かれた時、それはイスラエルの救いだった。しかし幼子イエスは、イスラエルと異邦人の両方のための救いとして来られた。
剣があなたの心を刺し貫く—ῥομφαία(ロンファイア)
2:34-35でシメオンはマリアに預言する。
「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」
「剣」と訳されているのは、ῥομφαία(ロンファイア)というギリシャ語。これは通常の剣(μάχαιρα、マカイラ)ではなく、大剣、特に処刑や戦争で使われる両刃の大剣を指す言葉だ。
この言葉は黙示録で、キリストの口から出る剣として使われている(黙示録1:16、2:12)。ヘブル4:12も思い起こさせる—「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」
シメオンの預言は二重の意味を持っている。
第一に、マリアが十字架の場面で経験する苦しみの予告。自分の息子が処刑されるのを見る母の心は、確かに剣で刺し貫かれるような痛みだったろう。
第二に、より深い霊的意味として、神の言葉が人の心を刺し貫き、真実をあらわにする過程の象徴。「それは多くの人の心の思いが現れるためです」という続きの言葉がそれを示している。
イエスの存在そのものが、人々を二つに分ける。「倒れ」と「立ち上がり」、「受け入れ」と「拒絶」。中立はあり得ない。この分離の過程は、マリア自身の心も貫くのだ。
アンナ—八十四歳の女預言者
2:36-38にもう一人の人物が登場する—アンナという女預言者。
彼女について記されている情報:
- アセル族のパヌエルの娘
- 非常に年をとっていた(八十四歳)
- 結婚後七年で夫を失い、その後ずっとやもめ
- 宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた
アセル族の言及は興味深い。北王国イスラエルの十部族の一つであるアセル族の末裔が、ユダヤに残っていたのだ。「失われた十部族」と言われるが、神は残りの者を常に保たれる。
アンナの生涯は、ほとんどが待ち望みだった。若くして夫を失い、その後の長い年月を神殿での祈りと断食に捧げた。彼女が待ち望んでいたのは、「エルサレムの贖い」(λύτρωσιν Ἰερουσαλήμ、リュトローシン・イエルサレーム)だった。
そして今、その贖いが幼子の姿で目の前に来た。彼女は「神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った」(2:38)。
シメオンとアンナ、この二人の老人は、エズラ記3:12の「最初の宮を見たことのある老人たち」と重なる。彼らは過去の栄光を知り、現在の貧しさを経験し、しかし来るべき救いを待ち望み続けた。
そして彼らの待望は、裏切られなかった。
幼子は成長し、知恵に満ちていった
2:40で第三部は閉じられる。
「幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちていった。神の恵みがその上にあった。」
この簡潔な要約の中に、受肉の神秘がある。真の神でありながら、真の人として成長された。肉体的に強くなり、知恵において満ちていった。
しかし最後の一句が重要だ—「神の恵みがその上にあった」。
出エジプト33:12-17で、モーセは金の子牛事件の後、必死に神の恵みを求めた。民の罪のゆえに、神は「わたし自身はあなたがたのうちにあって上らない」と言われた。モーセは自分のいのちを捨てても民を執り成そうとした。
しかし幼子イエスには、執り成す必要がなかった。罪がないがゆえに、何の妨げもなく神の恵みがその上にあった。
そしてこの方こそが、やがて私たちすべてのために、真の執り成し手となられる。モーセを遥かに超える大祭司として。
第四部:見ることから信じることへ—神の救いの一貫した啓示
三つの「見る」経験
今日の三つの箇所には、共通して**「見る」ことから「認識する」ことへの段階的プロセス**が描かれている。
出エジプト14章: エジプト人は追跡の最中に「主がイスラエルのために戦っておられる」と認識した(14:25)。イスラエルは「主がエジプトに行われたこの大いなる御力を見た」(14:31)。
エズラ記3章: 老人たちは神殿の基を「見て」、かつての栄光を思い出して泣いた(3:12)。若者たちは同じものを「見て」、新しい始まりに喜んだ(3:12-13)。
ルカ2章: シメオンは「私の目があなたの御救いを見た」(2:30)と宣言した。アンナも幼子を「見て」、エルサレムの贖いを待ち望む人々に語った(2:38)。
しかし、ただ「見る」だけでは不十分だ。見たものを正しく認識し、応答すること—それが信仰なのだ。
神の言葉が先行する—啓示と従順
三つの箇所すべてで、神の言葉が人の行動に先行している。
出エジプト14章: 「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え」(14:15)。神の明確な命令があって初めて、モーセは杖を上げることができた。
エズラ記3章: 「神の人モーセの律法に書かれているとおり」(3:2)、「書かれているとおりに仮庵の祭りを祝い」(3:4)。彼らは自分たちの判断ではなく、すでに与えられていた神の言葉に従った。
ルカ2章: 「主の律法に『母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない』と書いてあるとおり」(2:23)。ヨセフとマリアも律法に従った。
神の民の歩みは、常に啓示された神の言葉への応答という形を取る。人間の発案や創意工夫ではなく、神がすでに語られた言葉に聴き従うこと—これが信仰の本質だ。
神の臨在が分ける—保護と裁き
出エジプト14:19-20の場面は象徴的だ。
「神の使いは、移って、彼らのあとを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移って、彼らのうしろに立ち、エジプトの陣営とイスラエルの陣営との間に入った。」
同じ雲の柱が、イスラエルにとっては保護となり、エジプトにとっては暗闇と混乱(14:24「主は…エジプトの陣営をかき乱された」)となった。
これはルカ2:34のシメオンの預言と響き合う。
「この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ」
同じイエスが、ある者には救いとなり、ある者にはつまずきとなる。神の臨在は中立ではない。それは人を二つに分ける。
エズラ記3:12-13の「泣き声と喜びの声」も、同じ現実を表している。同じ神殿の基礎が、ある者には失望を、ある者には希望をもたらした。しかし重要なのは、神はどちらの応答も受け入れられたということだ。喜びだけが正しい応答ではない。過去の栄光を知るゆえの涙も、神の前で真実なのだ。
貧しさの中での礼拝—本質への回帰
エズラ記3:3は重要な一節だ。
「彼らは回りの国々の民を恐れていたので、祭壇をもとの所に設けた。」
彼らは神殿の建物がなくても、礎石が据えられる前から、礼拝を始めた。恐れの中で、まず神との関係を回復することを優先した。
ルカ2:24のヨセフとマリアも、「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」という貧しい者のためのいけにえをささげた。豪華な献げ物ではなく、律法が求める最低限のものだった。
しかしそれで十分だった。なぜなら、神が求められるのは外見の豪華さではなく、心の真実さだからだ。
出エジプト14章でイスラエルが渡った紅海には、立派な橋も船もなかった。ただ神の言葉と、それに従うモーセの杖があっただけだ。しかしそれで十分だった。
世代を超える証言—「その恵みはとこしえまでも」
出エジプト14:31「イスラエルは主がエジプトに行われたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。」
この信仰告白は、次の世代に語り継がれることになった。そして約800年後、エズラ記3:11で民は歌った。
「主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに。」
同じ神が、紅海でも、バビロン捕囚からの帰還でも、そしてベツレヘムの馬小屋でも、働いておられた。
ルカ2:32でシメオンが宣言した「異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄」という言葉は、この救いの歴史の完成を指している。
出エジプトはイスラエルの救いだった。 エズラ記の帰還もイスラエルの回復だった。 しかしイエスは、イスラエルと異邦人の両方のための救いとして来られた。
前進せよ—祈りから行動へ
最後に、今日の箇所全体が私たちに語りかけるメッセージに戻りたい。
出エジプト14:15「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。」
この神の言葉は、すべての時代の神の民への問いかけでもある。
私たちは時に、祈ることで満足してしまう。祈ることは正しく、必要だ。しかし神がすでに明確な言葉を与えておられる時、私たちに必要なのはさらなる祈りではなく、従順な行動だ。
エズラ記の民は、完全な安全が保証されるまで待たなかった。「回りの国々の民を恐れていた」(3:3)状態で、それでも祭壇を築き、礼拝を始めた。
ヨセフとマリアは、貧しく、何の社会的地位もなかった。しかし律法に従って幼子を神殿に連れて行った。
不完全な状況の中での従順—これが信仰の歩みだ。
モーセが杖を上げた時、海はまだ分かれていなかった。しかし彼は神の言葉を信じて杖を上げた。そして神は、その従順を通して御業を現された。
結び—神の言葉が開く道
「祈りから前進へ—神の言葉が開く紅海の道」
紅海は、人間の力では決して渡れない障害だった。しかし神の言葉が語られ、人がそれに従順に応答した時、不可能が可能になった。
バビロン捕囚は、人間的には終わりに見えた。しかし神の約束の言葉は真実だった。七十年後、民は帰還し、神殿の基を据えた。
そして、罪と死という究極の紅海の前に、神はご自分の独り子を送られた。幼子として、貧しい家庭に、貧しいいけにえと共に。
その方こそが、真の道、真理、いのちとなられる。
今日、私たちの前にある「紅海」は何だろうか。不可能に見える状況、絶望的に思える現実。
しかし神の言葉が与えられているなら、私たちは「杖を上げる」ことができる。前進することができる。
なぜなら、道を開かれるのは私たちではなく、神ご自身だからだ。
「その恵みはとこしえまでも」—この告白を、私たちも次の世代に語り継ごう。



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