2026年1月24日 出エジプト記10:1-11、第二歴代誌20-21章、ルカ8:40-56
―「主が戦われる」三つの物語―
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【はじめに】
今日の三つの通読箇所には、驚くべき共通点があります。
出エジプト記では、主がパロと戦われます。イスラエルは見ているだけです。 歴代誌では、主が敵の大軍と戦われます。ユダは賛美するだけです。 ルカの福音書では、イエス様が死と戦われます。私たちは信じるだけです。
今日の箇所を貫くテーマは、「主が戦われる戦い」です。
私たちがどう戦うかではなく、主がどう戦われるか。 私たちの力ではなく、主の力。 私たちの方法ではなく、主の方法。
そして驚くべきことに、主が戦われる時、賛美が最強の武器となるのです。
目次
【1】出エジプト記10章 – 「語り継ぐために見る」世代間の記憶
■ パロを強情にした神の目的(10:1-2)
出エジプト10:1-2 「主はモーセに仰せられた。『パロのところに行け。わたしは彼とその家臣たちを強情にした。それは、わたしがわたしのこれらのしるしを彼らの中に、行うためであり、わたしがエジプトに対して力を働かせたあのことを、また、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためであり、わたしが主であることを、あなたがたが知るためである。』」
ここで神様が言われる目的は三つです:
- しるしを行うため
- 次世代に語り継ぐため
- 主を知るため
特に注目すべきは、2番目の「あなたが息子や孫に語って聞かせるため」という言葉です。
神様は単に「今」イスラエルを救うだけでなく、「語り継がれる物語」を創造されているのです。
■ 効率性より記憶可能性
もし神様が効率を優先されるなら、一撃でパロを倒すこともできました。一瞬で海を分けて、すぐに閉じれば良かったのです。荒野を40日で通過させることもできたでしょう。
しかし神様は、劇的で記憶に残る方法を選ばれました。
なぜでしょうか?
それは、子どもが「なぜ?」と尋ねる余地を残すためです。過越の祭りの中心は、子どもの質問です:「この儀式はどういう意味ですか?」(出エジプト12:26)
神様は、私たちが受動的に覚えるのではなく、能動的に尋ね、語り、伝えることを望んでおられるのです。
私たちも同じです。聖書を読んで疑問を持ち、調べ、そして次の世代に語り継ぐ。その過程そのものが、「記憶可能な物語」を創っているのです。
【2】歴代誌第二20章 – 「賛美が先、勝利が後」の逆説
■ ヨシャパテの祈り – 完全な無力さの告白
歴代誌第二20:12 「私たちの神よ。あなたは彼らをさばいてくださらないのですか。私たちに立ち向かって来たこのおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。」
これは驚くべき祈りです。
ユダの王ヨシャパテは、正直に認めています: 「私たちには力がありません」 「どうすればよいかわかりません」
しかし、そこで終わらず: 「ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです」
これは無力な諦めではありません。最強の戦略なのです。
■ 賛美が勝利の原因になる
そして翌朝、ヨシャパテは驚くべき決断をします。
歴代誌第二20:21-22 「彼は民と相談して、聖なる飾り物を着けて主に向かって賛美する者たちを任命し、軍隊の前に立って進ませ、こう言って歌わせた。『主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。』彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアンモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。」
注目してください。順序が逆なのです:
- 賛美する者たちを任命(20:21)
- 「主に感謝せよ」と歌い始める(20:22a)
- そのとき、主が伏兵を設けられた(20:22b)
賛美が勝利の結果ではなく、勝利の原因になっているのです。
普通は: まず勝利 → それから感謝 → 最後に賛美
でもヨシャパテは: まだ一人の敵も倒れていない → 目の前には「おびただしい大軍」 → でも「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで」と歌う
これは盲目的な楽観主義ではありません。「どうすればよいかわかりません」と祈った人が、翌朝「主に感謝せよ」と歌っているのです。
これが「見えないものを見る信仰」(ヘブル11:1)の実践です。
■ 賛美する者が最前線に立つ異常さ
そして20:21の光景を想像してください:
「賛美する者たちを…軍隊の前に立って進ませ」
これは軍事的には異常です。普通なら、賛美する者は後方で安全に賛美するはずです。
でも主の戦いでは、賛美が最前線の武器になるのです。
■ 主が戦われる戦いの特徴
そして20:22-23で起きたことは:
「主は伏兵を設けて…襲わせたので、彼らは打ち負かされた。アンモン人とモアブ人は、セイル山の住民に立ち向かい、彼らを聖絶して滅ぼし尽くした。セイル山の住民を滅ぼし尽くすと、彼らは互いに滅ぼし合った。」
同士討ちです。ヘブライ語では「אִישׁ בְּרֵעֵהוּ」(ish be-re’ehu)「各人が隣人を滅ぼした」となっています。
これはエゼキエル38:21の「ゴグ・マゴグの戦い」と同じパターンです。主の臨在があると、敵は混乱し、同士討ちを始めるのです。
そして注目すべきは、20:27:
「ユダとエルサレムのすべての人々は、ヨシャパテを先頭にして、喜んでエルサレムに帰って来た。主が彼らの敵のことで喜ばせてくださったからである。」
主が戦われる戦いでは、誰一人負傷したり戦死したりしません。全員が喜んで帰還するのです。
■ 高き所の問題 – 不徹底な改革
しかし、ヨシャパテには弱点もありました。
歴代誌第二20:33 「ただし、高き所は取り除かれなかった。民はまだ、先祖の神に心を定めていなかった。」
ヨシャパテは個人的には主に忠実でしたが、改革には不徹底でした。「高き所」(バーモト)は、表面的には主を礼拝しているように見えても、カナンの宗教的要素が混入していた場所です。
そして彼は、北イスラエルの悪王アハブやアハズヤと同盟を結ぶという妥協もしました。
周りとの平和を保つことと、主への忠誠を貫くことは、時に相反します。イエス様も言われました:「わたしが来たのは地に平和をもたらすためではなく、剣をもたらすために来たのです」(マタイ10:34)
真の改革には、孤立を恐れない勇気が必要です。ヨシャパテは良い王でしたが、ヒゼキヤやヨシヤのような徹底した改革者ではありませんでした。
【3】歴代誌第二21章 – ヨラムの悲惨な最期
ヨシャパテの息子ヨラムは、父とは正反対の道を歩みました。
歴代誌第二21:19-20 「二年の終わりに、病気のために、彼のはらわたが出て来て、彼はひどい病気で死んだ。彼の民は、彼の父たちのために香をたいたようには、彼のためには香をたかなかった。彼は三十二歳で王となり、エルサレムで八年間、王であった。彼は人々に愛されることなく世を去った。人々は彼をダビデの町に葬ったが、王たちの墓には納めなかった。」
「王たちの墓には納めなかった」―これは単に場所の問題ではなく、正統な王としての承認の拒否です。
さらに厳しいのは:「彼は人々に愛されることなく世を去った」
ヘブライ語の「חֶמְדָּה」(chemdah)は「慕われる、望まれる」という意味です。誰も彼の死を惜しまなかったのです。
対照的に、良い王たちには「民は彼のために香をたいた」と記されます(16:14参照)。
【4】ルカ8章 – 「12」という数字でつながる二つの物語
ルカ8章には、二つの奇跡が交差して記録されています。
■ 二つの「12」
ルカ8:42-48 「イエスが出かけて行かれると、群衆がみもとに押し迫って来た。ここに、十二年の間、長血をわずらった女がいた。…彼女は群衆の中に紛れ込み、イエスのうしろから近寄って、その衣のふさに触った。すると、たちどころに血の流れが止まった。」
そして:
ルカ8:42 「イエスは、ヤイロという人のところに行かれた。…この人に十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていた。」
気づきましたか?
・ヤイロの娘:12歳 ・長血の女:12年間苦しんだ
この一致は偶然でしょうか?いいえ、聖書における「12」という数字には深い意味があります。
■ 失われた12年と回復された12年
12年という期間が意味すること:
【長血の女にとって】 ・12年間、「汚れた者」として社会から隔離 ・12年間、会堂に入れない ・12年間、家族に触れられない ・12年間、「死んでいるような」人生
【ヤイロの娘にとって】 ・12年間、父の喜び ・12年間、成長してきた ・でも今、死の淵に ・あと1年でバット・ミツバ(成人)という瀬戸際
イエス様は両方を回復されました: ・一人には失われた12年間の人生を ・もう一人には死から取り戻された12年間の命を
■ 「娘よ」という呼びかけ
そして、イエス様は長血の女を何と呼ばれたでしょうか?
ルカ8:48 「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」
会堂管理者の「肉の娘」も、社会から見捨てられた女性も、どちらもイエス様にとっては同じく愛される「娘」なのです。
この二つの「12」の物語が交差することで、イエス様の愛の完全性が示されています。
■ 隠された力と公の働き
もう一つ、興味深い対比があります:
【長血の女】 ・こっそり触れた ・でも公に告白させられた(8:47)
【ヤイロの娘】 ・公に頼んだ(8:41) ・でも密かに癒された(8:51、54-56)
イエス様は、隠れて生きてきた女性を公の場に引き出し、公の立場にいた会堂管理者を密室に連れて行かれました。
なぜでしょうか?
長血の女は、もう隠れて生きる必要がありません。堂々と共同体の一員として生きられるのです。
ヤイロは、地位や立場ではなく、一人の父親として、イエス様と向き合う必要がありました。
イエス様は、それぞれが必要とする癒しの形を与えられるのです。
■ 「誰にも話さないように」の意味
ルカ8:56 「両親は驚いた。しかし、イエスは、この出来事をだれにも話さないように命じられた。」
これは「メシア的秘密」と呼ばれるテーマです。イエス様が沈黙を命じられた理由:
- 政治的メシア運動を避けるため(群衆が「ローマから解放する王」として担ぎ上げるのを防ぐ)
- 十字架の前に時が満ちていない(復活後に初めて、死者の復活の意味が理解できる)
- 信仰の質を守るため(しるしを見て騒ぐのではなく、真の信仰に導く)
しかし、隠しきれないのも事実です。マルコ7:36では「イエスが口止めすればするほど、ますます言い広めた」とあります。
これは信仰の順序を示しているのかもしれません: ・まず個人的に主と出会う ・その後、適切なタイミングで証しする ・しかし証しは主の栄光のため、自分の誇りのためではない
【5】三つの箇所をつなぐ「見ることの神学」
今日の三つの箇所には、深い神学的つながりがあります。それは「見ることの神学」です。
■ 出エジプト:「語るために見る」
神様は「あなたが息子や孫に語って聞かせるため」にしるしを行われました。
私たちは、神の御業を見るだけでなく、それを語り継ぐために見るのです。
■ 歴代誌:「見えないものを見る信仰」
ヨシャパテは、まだ勝利が見えない時に賛美しました。
これは「見えないものを見る信仰」(ヘブル11:1)の実践です。
■ ルカ:「一人一人を見る主」
イエス様は、群衆の中の一人の女性に気づかれました(8:46「わたしから力が出て行くのを感じた」)。
そして「ひとりひとりに手を置いて、いやされた」(4:40)とあります。
イエス様は、私たちを「大勢の中の一人」ではなく、「一人一人」として見ておられるのです。
■ 共通するテーマ:「主が戦われる」
そして三つの箇所すべてに共通するのは、「主が戦われる」というテーマです:
・出エジプト:主がパロと戦われる → イスラエルは見るだけ ・歴代誌:主が敵と戦われる → ユダは賛美するだけ ・ルカ:イエスが死と戦われる → 私たちは信じるだけ
【6】適用 – 私たちへの問いかけ
今日の箇所から、私たちが学ぶべきことは何でしょうか?
■ モーセの召命から:家庭での実践が先
モーセは、自分の息子に割礼を施していなかったために、命を脅かされました(出エジプト4章)。
人を導く前に、まず自分の家庭で神の言葉を実践しているか。人に語る前に、まず自分の生活で契約に忠実であるかを問われます。
■ ヨシャパテから:「どうすればよいかわかりません」
ヨシャパテの祈りは、私たちの祈りでもあります:
「私たちとしては、どうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。」
これは無力な諦めではなく、最強の戦略です。
そして、賛美が武器になります。まだ勝利が見えない時に、「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで」と歌う。これが霊的戦いの最前線です。
■ 高き所の問題から:徹底した改革
ヨシャパテは良い王でしたが、「高き所」を取り除きませんでした。
私たちの人生にも「高き所」があるかもしれません。表面的には主を礼拝しているように見えても、実は世の価値観や自分の都合が混入している領域。
真の改革には、周りとの平和を犠牲にする覚悟が必要な時もあります。
■ 長血の女とヤイロから:信じ続ける
長血の女は12年間待ちました。ヤイロは娘が死んだ後も「恐れないで、ただ信じなさい」(8:50)と励まされました。
どちらも癒されました。
何を待つか、誰を待つかで、結果が全く違います。
【結論】賛美が武器となる霊的戦い
今日学んだことをまとめましょう。
神様は、語り継がれる物語を創造されます。効率性より記憶可能性を選ばれます。それは、私たちが能動的に尋ね、語り、伝えることを望んでおられるからです。
主が戦われる戦いでは、賛美が最前線の武器になります。まだ勝利が見えない時に、「主に感謝せよ」と歌う。これが「見えないものを見る信仰」です。
そして、イエス様は一人一人を見ておられます。12年間苦しんだ女性も、12歳の少女も、どちらも「娘」として愛されています。
私たちが毎朝聖書を読み、祈り、賛美し、そして語り継ぐこと。それは見えないところで、誰も見ていないところで、「主に感謝せよ」と歌いながら戦場に向かう行為です。
結果はまだ見えないかもしれません。
でも、主は確実に「伏兵を設けておられる」のです。
その勝利を、いつか見る日が来ます。
「私たちとしては、どうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。」(歴代誌第二20:12)
この祈りこそ、最強の戦略なのです。
* * *
【図解のご案内】
今日の通読箇所をより深く理解するために、3つのインタラクティブ図解を作成しました:
- ヨシャパテの戦いの地図 – エルサレムからテコア、エン・ゲディ、エドムの荒野、ベラカの谷まで、戦いの地理的展開と「賛美が武器となった」物語のタイムライン
- 十の災いの進行図 – 3-3-3-1のパターン、段階的エスカレーション、各災いが対峙したエジプトの神々、そして「記憶の神学」
- ヤイロの娘と長血の女の対比図 – 「12」という数字でつながる二つの物語、公と私の逆転、そして「娘」という呼びかけの深い意味
すべてクリックすると詳細情報が表示されるインタラクティブ図解です。ぜひご覧ください。
* * *
📍 ヨシャパテの戦い – 地理的展開図
出発地点
20:20
敵の集結地
20:16
戦場 20:16
感謝の場所
⏱️ 出来事の流れ
モアブ人、アモン人、セイル山の人々が死海西岸のエン・ゲディに集結(20:2)
恐れて主に求め、ユダ全国に断食を布告。神殿の前で祈る(20:3-12)
「この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦い」(20:15)
翌朝早く出発。賛美する者たちが武装した者の前に(20:20-21)
エルエルの荒野の前の谷で遭遇する予定(20:16)
「主に感謝せよ」と歌い始めた時、主が伏兵を設けられた(20:22)
アモン・モアブ vs セイル山の人々、その後互いに滅ぼし合う(20:23)
3日間分捕りをし、4日目にベラカ(祝福)の谷で主を賛美(20:25-26)
十弦の琴、立琴、ラッパを携えて主の宮へ(20:27-28)
賛美する者たちが「武装した者の前に」配置されたことは、人間的には異常です。しかしこれは「主の戦い」の本質を示しています。武器ではなく賛美が、最前線の武器となったのです。
⚡ 出エジプト – 十の災いの進行図
① しるしを行うため(神の力の啓示)
② 次世代に語り継ぐため(記憶の創造)
③ 主を知るため(関係的知識)
📊 災いの段階的エスカレーション
📋 十の災いの詳細
🔴 第一グループ(1-3):警告と不快
内容:ナイル川とすべての水が血に変わる。魚は死に、水は飲めなくなる
期間:7日間(7:25)
内容:蛙がエジプト全土を覆い、家、寝室、かまどまで侵入
特徴:パロが期限を指定できた(「いつ祈ればよいか」8:9)
内容:地のちりがぶよとなり、人と獣を襲う
転機:呪法師たちが「これは神の指です」と告白(8:19)
🟢 第二グループ(4-6):分離と破壊
内容:大群の虫がエジプトを襲う
重要:初めてゴシェンの地が守られる(区別が始まる)8:22-23
内容:エジプトの家畜はすべて死ぬが、イスラエルの家畜は一頭も死なず
経済的打撃:農業・運搬・軍事力の基盤を破壊
内容:かまどのすすが膿の出る腫物となり、人と獣を襲う
転機:呪法師たちがモーセの前に立てなくなる(9:11)
🔵 第三グループ(7-9):創造秩序への攻撃
内容:火を伴う雹が降り、畑のすべてのものを打つ
警告:初めて避難の機会が与えられた(9:19)
パロの反応:「私は罪を犯した」初めての告白(9:27)
内容:雹を免れたすべての植物を食い尽くす
家臣の反応:「エジプトが滅びるのが、まだおわかりにならないのですか」(10:7)
パロの妥協:「壮年の男だけ行け」(10:11)
内容:3日間、さわれるような暗闇。イスラエルの住む所には光があった
象徴的意味:創造の最初の「光あれ」の逆転
パロの妥協:「群れと牛を残せ」(10:24)
🟣 最終災い(10):決定的審判
内容:人から家畜まで、すべての初子が打たれる
過越:小羊の血が塗られた家は過ぎ越された
神学的意味:出エジプト4:22-23の成就「イスラエルはわたしの子、わたしの初子」
🔍 災いのパターンと神学的意義
3-3-3-1のパターン
第一:警告の段階(不快さ)第二:分離の段階(ゴシェン保護開始)
第三:創造秩序への攻撃
最終:決定的審判
パロの心の硬化
1-5災:パロが自分で心を頑なに6災以降:主がパロの心を頑なに
「機会の終わり」を示す
モーセへの警告パターン
1, 4, 7災:朝、パロに会いに行く2, 5, 8災:パロの前で警告
3, 6, 9災:警告なしに実行
📖 神学的テーマ
🎯 エジプトの神々への審判
各災いは特定のエジプトの神々への直接的な挑戦です。ナイル川、動物、天体、最終的にはパロ自身(神の化身とされた)まで、すべてが無力であることが証明されました。
「わたしはエジプトのすべての神々にさばきを下す」(出エジプト12:12)
📚 記憶の神学
災いの目的は単なる解放ではなく、「語り継がれる物語」の創造でした。過越の祭りで、子どもが「この儀式はどういう意味ですか?」と尋ねる余地を神様は残されました。
「息子や孫に語って聞かせるため」(10:2)
🛡️ 分離の神学
第4災から、ゴシェンの地が守られ始めます。これは神の民と世との区別(קָדַשׁ – kadash「聖別」)を視覚化しています。
「わたしの民とあなたの民との間に区別を設ける」(8:23)
⚖️ 段階的エスカレーション
神は一撃でパロを倒すこともできましたが、10回の機会を与えられました。これは神の忍耐と公正さを示しています。しかし、機会が尽きれば審判が来ます。
「主は忍耐強く、怒るに遅い」(民数14:18)
十の災いは、神が偶像や権力構造に対して完全な主権を持っておられることを示しています。また、神は私たちに「機会」を与えられますが、その機会には限りがあることも示しています。最も重要なのは、これらの出来事が「次世代に語り継ぐため」に記録されたということです。私たちも、神の救いの御業を次世代に語り継ぐ責任があります。
💝 ヤイロの娘と長血の女 – 対比と交差の奇跡
「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」(ルカ8:50)
この二つの物語をつなぐ数字
12
ヤイロの娘:12歳 | 長血の女:12年間の苦しみ
👥 二人の対比
共同体の中心的存在
「家に来てください」(8:41)
(タリタ・クム – マルコ5:41)
(でも隠しきれない)
交差する物語
会堂に入れない
「死んでいるような」人生
「触れれば」(8:44)
公に告白させる
(もう隠れて生きなくてよい)
⏱️ 物語の交差 – タイムライン
会堂管理者が足元にひれ伏す
「娘が死にかけています」(8:41-42)
群衆に紛れて後ろから
着物のふさに触る(8:44)
「たちどころに出血が止まった」
でも隠れようとする(8:44)
イエス様に引き出される
「すべての民の前で」話す(8:47)
「お嬢さんはなくなりました」
希望が絶たれる瞬間(8:49)
「恐れないで、ただ信じなさい」
女性の癒しを見た直後(8:50)
「子どもよ、起きなさい」
霊が戻り、起き上がる(8:54-55)
🔄 逆転のパターン
👧 娘の逆転
公の依頼 → 密かな癒し
社会的地位あり → 父として向き合う必要
沈黙を命じられる → でも隠しきれない
会堂管理者という地位ではなく、一人の父親としてイエス様と向き合う必要があった
👩 女性の逆転
密かな接触 → 公の告白
社会的隔離 → 共同体への復帰
隠れて生きていた → 堂々と証しする
もう隠れて生きる必要がない。共同体の一員として堂々と生きられる
🔗 二つの物語の交差点
「娘」という言葉:
- ヤイロの肉体の娘(θυγάτηρ – thygater)
- イエス様が長血の女を呼ぶ:「娘よ」(θυγάτηρ – thygater)8:48
- どちらも同じく愛されている「娘」なのです
💡 深い意味:
会堂管理者の娘は肉体の父を持つ「娘」。
長血の女は社会から見捨てられたが、今やイエスから「娘」と呼ばれる。
一人は12年間、父の喜びだった。
もう一人は12年間、誰からも「娘」と呼ばれなかった。
イエス様は両方を回復された。
📖 神学的テーマ
⏰ 12という数字の意味
12歳:成人の一歩手前
バット・ミツバ(戒めの娘)まであと1年
可能性の絶頂で死にかけた
12年間:結婚・出産・共同体参加
本来なら生きるべきだった人生
失われた時の回復
💪 信仰の多様性
ヤイロの信仰:
公に頼む勇気(地位を捨てる)
死の知らせ後も「ただ信じる」
女性の信仰:
「触れれば」という確信
12年の絶望を超える希望
イエス様はどちらの信仰にも応答される
🎭 公と私の逆転
隠されていた女性を公に引き出し、
公の立場の管理者を密室に連れて行く
これはそれぞれが必要とする癒しの形を示しています。
女性:もう隠れなくてよい
ヤイロ:地位でなく父として
⚡ 触れる力
女性の接触:
「わたしから力が出て行くのを感じた」(8:46)
信仰が癒しを「引き出した」
イエス様の接触:
「娘の手を取って」(8:54)
死体に触れる=汚れを恐れない
どちらも「触れる」ことで命が流れる
🎯 なぜこの二つの物語が交差するのか?
💡 神の計画の美しさ
1. 一つの癒しが次の信仰を強める
女性の癒しを見たヤイロは、娘の死の知らせを聞いても希望を持てた。
「12年間の苦しみを一瞬で癒せる方なら、死んだ娘も…」
2. 遅延にも意味がある
もし女性の癒しがなければ、娘はまだ「死にかけている」状態で癒されたかもしれない。
でも遅延によって、死からの復活という、より大きな奇跡が起きた。
3. 失われた時間の回復
女性は12年間失ったものを回復された。
娘は12年間生きてきた人生を死から取り戻された。
どちらも「12」という数字で結ばれている。
4. 誰一人として見過ごされない
会堂管理者の娘のために急いでいる途中でも、
イエス様は群衆の中の一人の女性を見過ごさない。
それぞれに完全な注目と愛を注がれる。
この言葉は、12年間「汚れた者」として生きてきた女性に対して語られました。
イエス様は彼女を「娘」と呼び、「安心して(平安のうちに)行きなさい」と言われました。
彼女はもう隠れて生きる必要はありません。
堂々と、神の娘として生きることができるのです。
🙏 現代への適用
あなたは今、どちらの立場にいますか?
- ヤイロのように:愛する人のために必死に祈っているけれど、「遅すぎる」と思える瞬間を経験していますか?
- 長血の女のように:長い間苦しみの中にいて、「こっそり触れれば」と最後の希望を持って近づこうとしていますか?
どちらの立場でも、イエス様は応答してくださいます。
そして時には、あなたの癒しが誰か他の人の信仰を強めるために用いられることもあります。
神様の計画では、すべてが交差し、すべてが意味を持っているのです。
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そして今日読んだ、ヤイロの12歳の娘と12年間苦しんだ長血の女の物語も、この壮大な「12」の神学の一部なのです。
インタラクティブな円形図解付きで、創世記から黙示録までの「12」のつながりが一目で分かります。
ぜひ合わせてお読みください!
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