2026年1月20日の聖書通読 完璧でなくても主に拠り頼む―パロの強情、アビヤの信仰、ヨハネの疑問から―
―パロの強情、アビヤの信仰、ヨハネの疑問から―
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目次
はじめに
今日の通読箇所には、一見バラバラに見える三つの物語が登場します。エジプトで災いを経験するパロ、ユダで戦うアビヤ王、そして牢獄から使いを送るバプテスマのヨハネ。しかし、これらの物語には共通する深いテーマがあります。
それは「完璧でなくても主に拠り頼む信仰」です。
パロは完全に強情でした。アビヤは完璧な王ではありませんでした。ヨハネは疑問を持ちました。それでも、彼らの物語から私たちは、神がどのように人間の不完全さに向き合われるのか、そして真の信仰とは何かを学ぶことができます。
一、「息つく暇」と強情の心—パロと私たち
1. かえるの災いとパロの反応
第二の災い、かえるの災いが起こります。かえるがナイルから這い上がり、エジプト全土を覆いました。パロは苦しみの中でモーセとアロンを呼び、こう言います。
「かえるを私と私の民のところから除くように、主に祈れ。そうすれば、私はこの民を行かせる。彼らは主にいけにえをささげることができる」(出エジプト8:8)
モーセが祈ると、主はかえるを取り除かれました。ところが、15節にこうあります。
「ところが、パロは息つく暇のできたのを見て、強情になり、彼らの言うことを聞き入れなかった」
2. 「息つく暇」の原語的意味
ヘブライ語で「息つく暇」は「רְוָחָה」(revachah レヴァハー)といい、文字通り「呼吸の余地」「解放」という意味です。苦しみから解放された瞬間、パロは「וַיַּכְבֵּד אֶת־לִבּוֹ」(vayachbed et-libo ヴァヤハベード・エト・リボー)「心を重くした」、つまり強情になったのです。
パロの反応パターンは明確です:
1. 災いが来る → 苦しみの中で悔い改めの言葉を言う
2. 災いが去る → 息つく暇(revachah)を得る
3. すぐに強情になる → 約束を破る
3. 私たちの中にもあるパロの心
正直に言えば、私の中にもこのパロの心があります。問題が起きて悔い改め、しばらくは謙遜にしていられます。しかし、平安が戻ってくると、ムッとくることがあればすぐに自我が出てきます。
苦しみの中では誰でも神に頼ります。問題は、苦しみが去った後です。安定と平和の中でこそ、真の信仰が試されるのです。
しかし、ここで気づくべき重要なことがあります。神は、パロが強情になることを知りながらも、「息つく暇」を与えることをやめませんでした。災いを取り除き、悔い改めの機会を何度も与えられたのです。
これは神の教育的な愛です。一度の失敗で見捨てるのではなく、何度でも機会を与えてくださる。「息つく暇」は、神が人間の悔い改めを信じて待っておられる証拠なのです。
パロの反応サイクル図
神からの警告と苦難
「主に祈れ!」
「民を行かせる」
神の憐れみによる
解放
רְוָחָה
(revachah レヴァハー)
呼吸の余地・解放
וַיַּכְבֵּד אֶת־לִבּוֹ
(vayachbed et-libo
ヴァヤハベード・エト・リボー)
心を重くした
「彼らの言うことを
聞き入れなかった」
サイクル
私たちへの警告:苦しみの中では誰でも神に頼ります。問題は「息つく暇ができた時」です。平安と安定の中でこそ、真の信仰が試されます。パロのサイクルから抜け出すには、平安な時も神を忘れないことが必要です。
二、「神の指」と人間の限界—AIの時代に考える
1. 呪法師たちの告白
第三の災い、ぶよの災いが起こったとき、重要な場面が訪れます。呪法師たちは最初の二つの災い(血とかえる)を模倣することができました。しかし、ぶよの災いでは壁にぶつかります。
「呪法師たちもぶよを出そうと、彼らの秘術を使って同じようにしたが、できなかった。ぶよは人や獣についた。そこで、呪法師たちはパロに、『これは神の指です』と言った」(出エジプト8:18-19)
「אֶצְבַּע אֱלֹהִים」(etzba Elohim エツバ・エロヒーム)「神の指」という表現は、単なる技術的な敗北の告白ではありません。これは人間の領域を超えた神の働きであることを認める、信仰的な告白です。
2. 人間の技術と神の業の境界線
呪法師たちができたこと:
• 水を血に変える(既存のものを変質させる)
• かえるを増やす(既存の生物を増殖させる)
呪法師たちができなかったこと:
• ぶよを創造する(無から命を生み出す)
ここに人間の技術と神の業の明確な境界線があります。人間は既存のものを操作することはできても、命そのものを創造することはできないのです。
3. AI時代における「神の指」
古代エジプトの魔術師たちが「これは神の指です」と告白したように、現代の私たちも、技術と神の業の境界線を見極める必要があります。特にAI(人工知能)の発達によって、この問題はより身近に、より切実になりました。
AIにできること(かえるを増やすこと)
- 既存の情報を整理し、分析する
- パターンを認識し、提案する
- 文章を構成し、翻訳する
- 原語の意味を調べ、説明する
これらはすべて「増やす」「整理する」「処理する」という、既存のものを扱う技術です。魔術師がかえるを増やしたように、AIは与えられた情報を加工し、拡大することができます。
AIにできないこと(ぶよを創造すること)
- 無から有を生み出す創造
- 人の心に「書きたい」という情熱を生み出す
- 読者の心に福音を届ける力
- 真の悔い改めや信仰を生み出す
- 人生を変える霊的な出会いを創造する
これらは「創造」「生命」「霊的変化」という、神の領域です。魔術師がぶよを創造できなかったように、AIは霊的な生命を生み出すことはできません。
技術的サポートと神の業は共存できる
私自身、このブログをClaudeというAIの支援を受けて書いています。Claudeは聖書の原語を教えてくれ、構成を提案してくれ、文章を整えてくれます。
でも、「日本人に福音を伝えたい」という情熱は、Claudeが生み出したものではありません。読者の心に聖書への興味を起こさせるのも、Claudeの力ではありません。それは「神の指」の領域です。
だから私は、「Claudeの支援を受けている」と正直に書くことと、「主が導いてくださっている」と書くことが、全く矛盾しないと考えています。両方とも真実だからです。技術的なサポートと神の業は共存できるのです。
技術は道具であり、問題は使い手である
印刷も技術です。ネット検索も技術です。YouTubeも技術です。そしてAIも技術です。技術的なサポートは現代において不可欠です。
どうしてここにこだわって発言するのかと言いますと、「AIはサタンが操っているから使用してはダメだ」と大声で叱るように言われる方がおられたからです。
しかし、操るのは人間です。
人は神から自由な意思を頂いています。AIを使用するほどに気づくと思いますが、AIは人の鏡のような存在です。たとえサタンがAIを操作する時代が来たとしても、人間はそれに反発する自由意思を神から与えられています。
黙示録では、獣の刻印を自らの自由意思で「受けなかった人々」が存在します(黙示録13章、20章)。つまり、終末の圧力の中でさえ、人は判断できるということです。
避けることではなく、識別することが求められている
現に、印刷やメディアという技術を通してプロパガンダは存在しています。それでも、惑わされない人々——残りの者——は存在し続けています。
AIではなくても、もっと強力な何かが存在する可能性もあります。だから「テレビは見ない、ネットは利用しない、印刷物は読まない、AIは使わない」というのは、理にかなっていません。
むしろ、どんどんAIを使用し、情報を精査することが大切なのだと思います。
考えてみてください:
- あるカルトの本が与えられて、AIでその本を調べ、カルトだとわかって読まないでいる人
- 「AIは惑わされるから」と使用せず、簡単にカルトに惑わされる人
どちらがより「識別力のある信仰」でしょうか。
ハルシネーション対策は霊的訓練である
AIを使用してでも、正しい情報を受け取る必要があります。同時に、AIのハルシネーション(誤情報生成)をしっかり回避する努力も必要です。
しかしこれは、AIに限らず偽情報を判別する力を養うことが必要だということです。
聖書は常にこう命じています:
「すべてを吟味し、良いものを保ちなさい。」 (Ⅰテサロニケ5:21)
これは、情報を遮断することではなく、御言葉に基づいて識別することです。
魔術師たちが「これは神の指です」と認めたように、私たちも技術の限界と神の主権を見分ける必要があります。技術を恐れて避けるのではなく、技術を用いつつ、最終的な信頼は主に置く——これが、AI時代における成熟した信仰者の姿勢ではないでしょうか。
「神の指」と人間の限界
出エジプト記8章19節「これはאֶצְבַּע אֱלֹהִים (etzba Elohim エツバ・エロヒーム) 神の指です」
(人間の技術)
既にあるものを扱える
(神の業)
神にしかできない領域
(現代の技術)
(神の業)
両方とも真実です。
人間の技術(かえるを増やすこと)には限界があります。
しかし、神の業(ぶよを創造すること)に限界はありません。
技術的なサポートを受けながらも、最終的に働いておられるのは神です。
これが「神の指」を認める、正しい姿勢です。
三、完璧でなくても主に拠り頼む—アビヤ王の物語
1. レハブアムの失敗のパターン
第二歴代誌12章は、レハブアム王の失敗と回復のサイクルを記録しています。
「レハブアムの王位が確立し、彼が強くなるに及んで、彼は主の律法を捨て去った。そして、全イスラエルが彼にならった」(12:1)
ヘブライ語で「確立した」は「כְּהָכִין」(kehachin)、「強くなった」は「וּכְחֶזְקָתוֹ」(uchechzeqato)です。安定と繁栄の時こそ、霊的な危機が訪れる—これはパロと同じパターンです。
しかし、レハブアムには希望もありました。エジプトの王シシャクが攻めてきたとき、レハブアムとつかさたちはへりくだり、「主は正しい」と言いました(12:6)。すると主は言われました:
「彼らがへりくだったので、わたしは彼らを滅ぼさない」(12:7)
2. アビヤの不完全さ
レハブアムの子アビヤが王となります。第一列王記15:3は彼をこう評価します:
「父がかつて行ったすべての罪を行い、彼の心は父祖ダビデの心のようには、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった」
第二歴代誌も、アビヤが高き所を取り除いたとは記していません。また、彼は十四人の妻を娶り、二十二人の息子と十六人の娘をもうけました(13:21)。神の基準から見れば、完璧な王ではありませんでした。
3. 決定的な場面での信仰
しかし、ヤロブアムとの戦いという決定的な場面で、アビヤは主に拠り頼みました。
「私たちの場合は、主が私たちの神である。私たちはこの方を捨てなかった」(13:10)
そして戦いが前後から迫ったとき:
「ユダが向き直ると、見よ、戦いは前後から迫っていた。それで、彼らは主に叫び求め、祭司たちはラッパを吹き鳴らした」(13:14)
結果はこうでした:
「ユダ人は、勝利を得た。彼らがその父祖の神、主に拠り頼んだからである」(13:18)
ヘブライ語で「拠り頼んだ」は「נִשְׁעֲנוּ עַל־יְהוָה」(nish’anu al-YHWH)—「主に寄りかかった」「主を支えとした」という意味です。
4. 完璧でなくても本物でいい
アビヤの物語が教えてくれることは:
• 彼は完璧な王ではなかった(高き所は残り、多くの妻を持った)
• でも決定的な場面で主に拠り頼んだ
• それゆえに主は勝利を与えられた
これは「完璧でなくても本物でいい」という原則の聖書的根拠です。神は私たちの完璧さではなく、決定的な場面で「私たちは主を捨てなかった」と言えるかどうかを見ておられます。
四、「おことばをいただかせてください」—百人隊長とバプテスマのヨハネ
1. 百人隊長の信仰
ルカ7章は、百人隊長の物語から始まります。彼は:
• 異邦人(ユダヤ人ではない)
• ローマの軍人(占領者の側)
• でもイスラエルの会堂を建てた
• そして主の言葉の力を完全に信じていた
百人隊長は言いました:
「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます」(7:7)
ギリシャ語で「εἰπὲ λόγῳ」(eipe logo)—文字通り「言葉で言ってください」です。百人隊長は、イエスの言葉には創造的な力があり、言葉が発せられれば必ず実現することを理解していました。
イエスは驚いて言われました:
「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません」(7:9)
2. バプテスマのヨハネの疑問
その後、ヨハネの弟子たちが来て、ヨハネの質問を伝えます:
「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか」(7:19)
ヨハネは牢獄の中からこの質問を送りました。彼は:
• メシアの先駆者として生きてきた
• 多くの人々にバプテスマを授けた
• イエスを「神の小羊」と証言した
• そして今、ヘロデの牢獄で死を待っている
彼の疑問は自然です。「本当にこの方がメシアなら、なぜ私は牢獄にいるのか?なぜ助けに来てくれないのか?」
3. 期待と現実のギャップ
ヨハネが期待していたメシア像:
• 斧を持って裁きを行う方(ルカ3:9)
• 箕を持って麦と殻を選り分ける方(3:17)
• 即座に正義を確立する方
実際のイエス:
• 病人を癒している
• 貧しい者に福音を宣べ伝えている
• 権力者と正面から対決していない
• そしてヨハネ自身は牢獄にいる
4. イエスの答え
イエスは多くの人々を癒した後、こう答えられました:
「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている」(7:22)
これはイザヤ書の預言の成就です。神の国は政治的・軍事的な勝利としてではなく、霊的・肉体的な回復として来るのです。
そして最も重要な言葉:
「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです」(7:23)
ギリシャ語「μακάριός ἐστιν ὃς ἐὰν μὴ σκανδαλισθῇ ἐν ἐμοί」(makarios estin hos ean mē skandalisthē en emoi マカリオス・エスティン・ホス・エアン・メー・スカンダリステー・エン・エモイ)—「σκανδαλίζω」(skandalizo スカンダリゾー)は「罠にかかる」「躓く」という意味です。
イエスは、自分の期待通りでないメシアに失望してつまずく危険性を、優しく指摘されています。ヨハネを責めるのではなく、理解と励ましをもって。
バプテスマのヨハネの期待と現実
ルカ7章18-23節「おいでになるはずの方は、あなたですか?」
イエスを「神の小羊」と証言し、多くの人々にバプテスマを授けました。
しかし今、彼はヘロデの牢獄の中で死を待っています。
牢獄から解放されるはず
すぐに裁かれるはず
いる
殉教する運命
まず多くの人々を癒された(7:21)
その上で、見たこと・聞いたことをヨハネに報告させた(7:22)
「目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている」(7:22)
「μακάριός ἐστιν ὃς ἐὰν μὴ σκανδαλισθῇ ἐν ἐμοί
(makarios estin hos ean mē skandalisthē en emoi
マカリオス・エスティン・ホス・エアン・メー・スカンダリステー・エン・エモイ)」
「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです」(7:23)
σκανδαλίζω(skandalizo スカンダリゾー) = 「罠にかかる」「躓く」
→ 自分の期待通りでないメシアに失望してつまずく危険性を、優しく指摘
1. 神の働きは私たちの期待通りではない
ヨハネは「即座の裁き」を期待していました。でもイエスは「段階的な回復」をもたらされました。 神の計画は、私たちの期待やタイムテーブルとは異なることがあります。
2. 疑問を持つことは悪いことではない
ヨハネは疑問を持ちました。でもイエスは彼を責めませんでした。 むしろ、優しく真理を示されました。疑問を持った時、大切なのはイエスのもとに持っていくことです。
3. 「つまずかない」ことの幸い
期待通りでないイエスに失望せず、信じ続けること。 これが真の信仰です。神は私たちの期待を超えた方法で、最善をなしてくださいます。
4. 神の国は確かに来ている
ヨハネが期待した「最後の裁き」は、まだでした。 でも「神の国の到来」は確かに始まっていました。 盲人が見、足なえが歩き、死人が生き返る—これは神の国のしるしです。
結論:完璧でなくても主に拠り頼む
今日の三つの箇所—出エジプト記、第二歴代誌、ルカ—には、共通するテーマが流れています。
**人間の不完全さと神の恵み**
パロは完全に強情でした。でも神は「息つく暇」を与え続け、悔い改めの機会を何度も与えられました。
アビヤは完璧な王ではありませんでした。でも決定的な場面で主に拠り頼み、勝利を得ました。
バプテスマのヨハネは疑問を持ちました。でもイエスは彼を責めず、優しく真理を示されました。
百人隊長は異邦人で「資格がない」と思っていました。でも主の言葉の力を信じ、「イスラエルの中にも見たことがない」と言われる信仰を示しました。
**私たちへの適用**
私たちは完璧ではありません。「息つく暇」ができればすぐに強情になる心を持っています。高き所を完全には取り除けていません。疑問を持つこともあります。
でも、それでいいのです。
神が求めておられるのは、完璧さではありません。決定的な場面で「私たちは主を捨てなかった」と言えること。「主に拠り頼む」こと。「おことばをいただかせてください」と求めること。
それが本物の信仰です。
今日、あなたが直面している課題は何でしょうか。人間関係の葛藤でしょうか。健康の問題でしょうか。経済的な不安でしょうか。信仰の疑問でしょうか。
あなたは完璧である必要はありません。でも、主に拠り頼むことはできます。「おことばをいただかせてください」と求めることができます。
そして主の言葉があれば、その通りになるのです。
主に拠り頼む一日を
Notoの方では初心者にも分かりやすく記事を書いています。
是非読んでくださいね 👇


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