ヨセフの兄弟たち、アハズ王、そして御心にかなう祈り
2025年12月26日の通読より(創世記43章/第二列王記15-16章/マルコ11章)
今日の通読箇所を通して、「誰に・何に信頼を置くか」という共通テーマが浮かび上がってきました。ヨセフの兄弟たちは神のあわれみに頼らざるを得ない状況に置かれ、アハズ王は主ではなく異教の王に頼り、イエス様は「神を信じなさい」と私たちを招いておられます。
創世記43章26-34節:ヨセフと兄弟たちの再会
ヨセフの涙と兄弟たちの変化
ヨセフの感情の動きが胸を打つ箇所です。弟ベニヤミンを見て「胸が熱くなり、泣きたくなって、急いで奥の部屋に入って行って、そこで泣いた」(30節)。エジプトの宰相として威厳を保たねばならない立場と、兄弟への愛情との間で葛藤するヨセフの姿が浮かびます。
興味深い文化的背景
- 43:32の「エジプト人はヘブル人とはいっしょに食事ができなかった」という記述は、当時の文化的・宗教的な境界線を示しています。エジプト人にとって羊飼いは「忌みきらうもの」(創世記46:34)でもありました。
- 43:33で兄弟たちが「年齢順に座らされて驚いた」のは、ヨセフが彼らの身元を知っていることを暗示しています。しかし兄弟たちはまだ気づかない。
- ベニヤミンへの「五倍の分け前」は、ヨセフの特別な愛情の表れであると同時に、兄たちがかつてヨセフにしたように嫉妬するかどうかを試している面もあります。
兄弟たちの内面的変化
興味深いのは、ヨセフが「五倍の分け前」をベニヤミンに与えたとき、兄たちが嫉妬しなかったことです。かつて父がヨセフを偏愛したとき、彼らは憎しみに燃えました。しかし今、彼らは「酔いごこちになった」(34節)とあるように、平和に食事を楽しんでいる。これは兄弟たちの内面的変化を示唆しています。
第二列王記15-16章:「誰に頼るか」の明暗
エフーの王朝の終焉(15:12)
15:12に「これは主がエフーに『あなたの子孫は四代までイスラエルの王座に着く』と言われた約束の成就であった」と記されています。
エフーの王朝は以下の四代でした:
- エフー(創始者)
- エホアハズ(エフーの子)
- ヨアシュ/エホアシュ(エホアハズの子)
- ヤロブアム二世(ヨアシュの子)
- ゼカリヤ(ヤロブアムの子)←四代目の王
エフーはバアル崇拝を滅ぼした功績がありましたが、ヤロブアムの金の子牛崇拝は取り除かなかったため、永続する王朝とはなりませんでした。神の言葉は必ず成就するのです。
列王記の時系列について
「ペカはエラの子ホセアに殺されましたよね?時代が行ったり来たりしている?」という疑問が生じます。これは列王記の記述方法の特徴で、同時代の出来事を異なる視点から語っているためです。
- 15:27-31:ペカの治世の概要(20年間の治世、最後にホセアに殺される)
- 15:32-38:ユダの王ヨタムの治世(ペカと同時代)
- 15:37:「そのころ、主はアラムの王レツィンとレマルヤの子ペカをユダに送って、これを攻め始めておられた」
つまり、15:30でペカの死を先に記録した後、15:37ではペカがまだ生きていた「ヨタムの時代」に時間が戻っているのです。列王記は北イスラエルと南ユダを交互に記述するため、こうした時間の前後が生じます。
アハズ王の堕落(16章)
アハズ王はユダの王の中でも最悪の部類に入ります。16:10-16の出来事を整理すると:
- アハズはアッシリヤの王ティグラテ・ピレセルに朝貢し、助けを求めた(主ではなく異教の王に頼った)
- ダマスコでアッシリヤ/アラムの祭壇を見て気に入った
- その図面を祭司ウリヤに送り、エルサレムに同じものを作らせた
- 主の青銅の祭壇を脇に追いやり、異教の祭壇をメインにした
「私はあなたのしもべであり、あなたの子です」(16:7)
本来、イスラエルの王は主のしもべであり、主の子であるべきでした。しかしアハズは異教の王にこの言葉を使っている。これは霊的な姦淫です。アッシリヤへの政治的服従を示す象徴的行為であり、主の宮を冒涜する行為でした。
歴代誌第二28章にはさらに詳しい記述があります。アハズは子どもを火の中にくぐらせ(モレク崇拝)、ベン・ヒノムの谷で忌まわしいことを行い、神殿の器具を切り刻み、主の宮の戸を閉じました。そしてその息子ヒゼキヤが、父の罪を清算する大改革を行うことになります。
マルコ11:20-33:御心にかなう祈り
「何でも祈り求めることは」の正しい理解
「ですから、あなたがたに言います。祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」(マルコ11:24)
マルコ11:24だけを切り取ると「何でも信じれば叶う」と読めてしまいますが、聖書全体の文脈で読む必要があります。「何でも」には「神のみこころにかなう」という条件が前提となっています。
「御心にかなうならば」の聖書的根拠
■ 第一ヨハネ5:14-15
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」
これがマルコ11:24の最も重要な並行箇所です。「何事でも」には「神のみこころにかなう」という条件が明示されています。
■ ヤコブ4:3
「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」
■ ヤコブ4:15
「むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』」
■ マタイ6:10(主の祈り)
「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」
祈りの模範である主の祈りそのものが「御心が行われるように」という服従の姿勢を教えています。
■ マタイ26:39(ゲツセマネの祈り)
「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
神の子であるイエス様ですら、御心への服従を祈りの中で表明されました。これが真の祈りの姿勢です。
山を動かす信仰の本質
マルコ11:22の「神を信じなさい」(ἔχετε πίστιν θεοῦ)は、原語では「神の信仰を持て」とも「神への信仰を持て」とも読めます。どちらにしても、これは自分の願望を神に実現させる「力」ではなく、神ご自身への信頼を意味しています。
山を動かす信仰とは、「自分の欲しいものを手に入れる力」ではなく、神が最善をなさることへの絶対的信頼です。だからこそ、11:25の「赦し」がすぐ後に続きます。神との関係が正しくなければ、祈りは力を持ちません。赦さない心を持ったまま「山よ動け」と叫んでも、それは魔術であって祈りではないのです。
今日の通読から学ぶこと
今日の三箇所に流れる共通テーマは「誰に・何に信頼を置くか」です。
- 創世記43章:ヤコブは「全能の神(エル・シャダイ)がその方の前であなたがたをあわれんでくださるように」と祈り、兄弟たちは人間的な策略ではなく、神のあわれみに頼らざるを得ない状況に置かれました。
- 第二列王記15-16章:北イスラエルの王たちは次々と謀反で殺され、アハズはアッシリヤに頼って主を捨てました。神の約束に立たない者は、どれほど力があっても安定しません。
- マルコ11章:イエス様は「神を信じなさい」と招いておられます。真の安全は、神への信頼と、人を赦す心にあります。
アハズは政治的な安全のためにアッシリヤに頼り、結果的に主の宮を破壊しました。しかしイエス様は「神を信じなさい」と言われます。繁栄の福音や「宣言すれば叶う」系の教えの問題は、神を「願いを叶える機械」のように扱い、神との人格的関係を無視している点にあります。
私たちも日々の選択の中で、「誰に信頼を置くか」を問われています。
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御心にかなう祈り
「何でも祈れば叶う」の正しい理解と聖書的根拠
この箇所だけを切り取ると「何でも信じれば叶う」と読めてしまいます。しかし聖書全体の文脈で読むと、「神のみこころにかなう」という条件が前提となっていることがわかります。以下にその聖書的根拠を整理します。
「何事でも」に「神のみこころにかなう」という条件が明示されています
利己的な願いは聞かれない理由が説明されています
すべての計画に「主のみこころなら」という条件を置くべきです
主の祈り自体が「御心が行われるように」という服従の姿勢を教えています
✝️ イエス様の模範:ゲツセマネの祈り(マタイ26:39)
📝 まとめ:「山を動かす信仰」の本質
⚠️ 注意すべき誤った教え
繁栄の福音や「宣言すれば叶う」系の教えは、神を「願いを叶える機械」のように扱い、神との人格的関係を無視しています。祈りは神との対話であり、一方的な要求ではありません。
しかし、まずは祈りましょう。御心にかなわない祈りなら、神様がストップされます。
どう祈ったらいいのか分からない時も、ありのままの願いを主イエスの御名によって祈り、神様に伝えましょう。
そしてその後で、「主の御心にかなうなら」とか「主の御心の通りになりますように」と付け加えます。
これはイエス様ご自身がゲツセマネで祈られた祈り方です(ルカ22:42)。

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