「ヨセフの銀20枚、騙された預言者、そして12年の奇跡―創世記37章・列王記第一12-13章・マルコ5章」
はじめに
今日の通読箇所は、創世記37章18-36節、列王記第一12-13章、マルコ5章25-43節です。
一見バラバラに見えるこれらの箇所ですが、読み進めていくうちに、ある共通のテーマが浮かび上がってきました。それは「神の主権と人間の選択」、そして「真実と偽りを見分けること」です。
特に列王記第一13章に登場する「騙された神の人」の話は、現代を生きる私たちにとって、非常に重要な警告を含んでいます。
まず今日の箇所のポイントを見ていき、最後にこの警告について深く考えてみましょう。
目次
1. ヨセフが売られた「銀20枚」の意味
創世記37章28節で、ヨセフは兄たちによって銀20枚でイシュマエル人に売られました。
この「銀20枚」という金額には意味があります。
レビ記27章5節によると、5歳から20歳までの男子の評価額は銀20シェケルと定められていました。ヨセフは当時17歳(創世記37:2)でしたから、まさにこの評価額に該当します。
一方、主イエスがユダによって売られた金額は銀30枚でした(マタイ26:15)。これは出エジプト記21章32節に記された成人奴隷の賠償金と同じ額です。
つまり、神の御子が「奴隷の正規の値段」で売り渡されたのです。これは究極の謙卑を示しています。
また、この金額はゼカリヤ11章12-13節で預言されていました。
「彼らは私の賃金として銀三十を量った。主は私に仰せられた。『彼らがわたしを値積もりした尊い価を、陶器師に投げ与えよ。』」
聖書は、何百年も前からキリストの受難の細部まで預言していたのです。
2. イシュマエル人とミデヤン人は同じ?
創世記37章を読むと、ヨセフを買ったのは「イシュマエル人」(25, 27, 28節)とも「ミデヤン人」(28, 36節)とも書かれています。これは矛盾でしょうか?
実は、この二つの民族は密接な関係にありました。
イシュマエルはアブラハムとハガルの子、ミデヤンはアブラハムとケトラの子です(創世記25:2)。つまり両者は異母兄弟の子孫であり、同じ地域で交易に従事していました。
士師記8章22-24節でも、ミデヤン人が「イシュマエル人」と呼ばれています。当時、これらの商人たちは互いに婚姻関係を結び、混ざり合っていたため、両方の名で呼ばれていたと考えられます。
聖書の「矛盾」に見える箇所も、歴史的背景を知ると、むしろその正確さが際立ってきます。
3. ヤロブアムはなぜ金の子牛を作ったのか
列王記第一12章で、王国は北イスラエルと南ユダに分裂しました。
北王国の王となったヤロブアムは、民がエルサレム神殿に礼拝に行くことを恐れ、金の子牛を二つ造りました(12:28)。
「もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。」
なぜヤロブアムは、このような明らかな偶像崇拝に走ったのでしょうか。
第一に、エジプトの影響があります。
ヤロブアムはソロモンから逃れてエジプトに滞在していました(11:40)。エジプトでは牛が神聖視され、アピス神やハトホル女神として崇拝されていました。金の子牛は、まさにエジプト宗教の影響です。
第二に、政治的計算が信仰に優先しました。
12章26-27節を見ると、ヤロブアムの動機は純粋に政治的です。「民がエルサレムに行けば、心がレハブアムに戻る」という恐れから偶像を作りました。
第三に、律法教育の欠如が考えられます。
申命記17章18-20節によれば、王は律法の写しを持ち、生涯それを読むべきでした。しかしヤロブアムにはこの習慣がなかったようです。ソロモン時代の霊的堕落の中で育ち、神の言葉に親しむ機会がなかったのかもしれません。
4. マルコ5章―「12」という数字の一致
マルコ5章には、二つの癒しの奇跡が記されています。
- 長血の女:12年間苦しんでいた(5:25)
- ヤイロの娘:12歳だった(5:42)
この「12年」と「12歳」の一致は偶然でしょうか。
12はイスラエルにとって完全数です。12部族、12使徒、12の門(黙示録21章)。
この12年間、女が苦しみの中にいる間、少女は成長していました。そして同じ日に、両者に救いが来ました。神の時が満ちた時、救いは来るのです。
また、イエスが「このことをだれにも知らせないように」と命じられた理由について考えてみましょう(5:43)。
これは「メシアの秘密」と呼ばれるマルコ福音書の重要なテーマです。イエスは、正しい時が来るまでご自分の正体を明らかにすることを避けられました。
奇跡だけが広まると、人々は政治的解放者としてのメシアを期待してしまいます。イエスは十字架への道を歩むために来られたのであり、その使命を全うするまで、反対者たちに捕らえられることを避ける必要がありました。
5. 騙された神の人―私たちへの警告
さて、今日の箇所で最も心に残ったのは、列王記第一13章の「神の人」の話です。
この話は、現代を生きる私たちに、非常に重要な警告を与えています。
何が起こったのか
神の人がユダからベテルに遣わされ、ヤロブアムの偶像礼拝を糾弾しました。彼は神から明確な命令を受けていました。
「パンを食べてはならない。水も飲んではならない。また、もと来た道を通って帰ってはならない。」(13:9)
彼は王の招待さえ断り、忠実にこの命令を守ろうとしました。
ところが、ベテルに住む「年寄りの預言者」が彼を追いかけてきて、こう言いました。
「私もあなたと同じく預言者です。御使いが主の命令を受けて、私に『その人をあなたの家に連れ帰り、パンを食べさせ、水を飲ませよ』と言って命じました。」(13:18)
聖書は明確に記しています。「こうしてその人をだました。」
神の人はこの言葉を信じ、預言者の家でパンを食べ、水を飲みました。その結果、彼は獅子に殺されてしまいました。
なぜ騙された側が罰せられたのか
これは非常に厳しい話です。騙した側ではなく、騙された側が命を落としたのです。
一見不公平に思えます。しかし、ここに重要な原則があります。
神の人は「神から直接聞いた言葉」を持っていました。たとえ同じ預言者を名乗る者が「御使いが主の命令で言った」と主張しても、神ご自身から直接受けた命令を、第三者の言葉で覆してはならなかったのです。
神は矛盾した命令を出されません。
現代の私たちへの適用
この話を読んで、私は現代のキリスト教界で起きていることを思わずにはいられませんでした。
私たちには「神から直接聞いた言葉」があります。それは聖書です。
どんなに権威ある教師が、どんなに説得力のある言葉で語っても、聖書に書いてあることを覆す権限は誰にもありません。
しかし現実には、聖書の教えとは異なる教えが、「新しい啓示」「より深い真理」として広まっています。そして熱心なクリスチャンほど、それらに惹かれやすいのです。
6. 聖書と異なる教えを見分ける
以下に、現代のキリスト教界で見られる問題のある教えと、聖書の教えを比較します。
これは特定の教会や団体を攻撃するためではなく、聖書に立ち返るための指針です。
【問題点1】地獄での贖い完成説
問題のある教え:
「イエスは十字架で死んだ後、地獄に行き、そこで悪魔と戦って勝利し、贖いを完成させた」
聖書の教え:
イエスは十字架上で「完了した」(テテレスタイ)と宣言されました(ヨハネ19:30)。この言葉は「完全に成し遂げられた」という意味です。
「キリストは、聖所にただ一度だけ入り、永遠の贖いを成し遂げられました。」(ヘブル9:12)
「キリストは罪のために一度だけ苦しまれました。」(第一ペテロ3:18)
贖いは十字架で完了しました。それに何かを付け加える必要はありません。
【問題点2】人間の神格化
問題のある教え:
「クリスチャンは『小さな神』である」「私たちは神と同じ立場で宣言し、命令できる」
聖書の教え:
人間は神に似せて造られましたが(創世記1:27)、神そのものではありません。
「わたしより前に神が造られたことはなく、わたしより後にもない。」(イザヤ43:10)
「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。」(申命記6:4)
私たちは神の子どもとされましたが、それは養子縁組によるものであり(エペソ1:5)、本質的に神になったわけではありません。
私たちはイエスの名によって、イエスを通して祈ります。神と「同じ立場」ではありません。
【問題点3】キリストの神性の一時的喪失
問題のある教え:
「イエスは十字架で罪となったので、もはや神の子ではなくなった」「イエスは霊的に死んだ」
聖書の教え:
イエスは私たちの罪を負われましたが、神性は不変です。
「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(ヘブル13:8)
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。」(第二コリント5:21)
「罪とされた」とは、私たちの罪の刑罰を負われたという意味であり、イエスご自身が罪深い存在になったわけではありません。
【問題点4】継続的悔い改めの否定
問題のある教え:
「クリスチャンは義人であり、もはや罪人ではない。だから悔い改める必要はない」
聖書の教え:
確かに私たちはキリストにあって義と認められています(ローマ5:1)。しかし同時に、罪を犯す可能性がなくなったわけではありません。
「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第一ヨハネ1:8-9)
主の祈りでも、イエスは「私たちの負いめをお赦しください」と祈るよう教えられました(マタイ6:12)。これは継続的な祈りです。
7. なぜ熱心な人ほど騙されやすいのか
これらの教えに惹かれる人の多くは、不真面目なクリスチャンではありません。むしろ熱心に神を求めている人たちです。
なぜでしょうか。
第一に、「もっと深い真理」への渇望があります。
聖書を学び、信仰生活を送る中で、「もっと何かあるはずだ」と感じることがあります。そこに「より深い啓示」を約束する教えが現れると、惹かれてしまうのです。
第二に、権威ある教師への信頼があります。
列王記の神の人も、「私もあなたと同じく預言者です」という言葉を信じました。権威ある立場の人が言うと、疑いにくいものです。
第三に、体験の力があります。
これらの教えを実践する中で、何らかの霊的体験をすることがあります。しかし、体験は真理の基準にはなりません。聖書だけが基準です。
8. 20%の毒―なぜ見分けが難しいのか
ここで正直に言わなければなりません。
問題のある教えは、全部が間違っているわけではありません。むしろ80%は正しく、聖書的に聞こえます。だからこそ危険なのです。
もし100%間違っていたら、誰も騙されません。しかし大部分が真理であるからこそ、残りの20%の毒が見えにくくなります。
エバの失敗から学ぶ
創世記3章で、エバは蛇に騙されました。
神は「善悪の知識の木からは取って食べてはならない」と命じられました(創世記2:17)。しかしエバは蛇に対して「それに触れてもいけない」と付け加えて答えています(創世記3:3)。
エバは神の言葉を正確に覚えていなかったのです。そのわずかな曖昧さが、蛇につけ込む隙を与えました。
私たちも同じ危険にある
正直に認めましょう。私たちも聖書のすべてを完全に覚え、理解しているわけではありません。
だからこそ、油断は禁物です。
列王記の神の人は、一度の判断ミスで命を落としました。これは脅しではありません。霊的な命がかかっているという現実です。
偽りの教えに従い続けることで、神との関係が歪み、信仰が変質していく。それは「死」に等しいことです。
だからこそ必要な姿勢
では、私たちはどうすればよいのでしょうか。
第一に、サムエルの姿勢を持つことです。
「お話しください。しもべは聞いております。」(第一サムエル3:10)
神の言葉を聞きたいという渇望、教えられたいという謙遜。この姿勢がなければ、真理を見分けることはできません。
第二に、神が様々な方法で教えてくださることを信じることです。
神は聖書を通して直接語られます。しかしそれだけでなく、書籍を通して、信頼できる教師を通して、思いがけない出会いを通して、気づきを与えてくださいます。
第三に、それらをすべて聖書に照らし合わせることです。
どこから得た情報であっても、最終的には聖書と照らし合わせる。そして祈りをもって主に伺う。
この慎重さは、決して「疑い深い」ことではありません。命を守るための知恵です。
9. 情報源ではなく、内容を聖書で吟味する
ベレヤの人々は、パウロの言葉さえも聖書と照らし合わせました。
「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」(使徒17:11)
パウロは使徒です。イエスに直接召された人です。それでもベレヤの人々は「はたしてそのとおりかどうか」と聖書を調べました。
これが健全な姿勢です。
逆に言えば、どんな情報源からの言葉であっても、聖書と一致しているなら受け入れるべきです。
- 有名な牧師が語ったから正しい、とは限らない
- 無名の信徒が語ったから間違い、とは限らない
- 本に書いてあるから正しい、とは限らない
- 思いがけない場所からの情報だから間違い、とは限らない
問われるべきは「誰が言ったか」ではなく「聖書と一致しているか」です。
時に、思いがけない場所から真理への気づきが与えられることがあります。神はロバの口さえ用いられました(民数記22章)。神がどのような手段を通して語られるかを、私たちが制限することはできません。
大切なのは、どこから得た情報であっても、必ず聖書に立ち返って確認することです。
ある教えを「これは受け入れられない」と退ける前に、まずその内容を聖書と照らし合わせてみてください。そして、自分が信じている教えも、同じように聖書と照らし合わせてみてください。
聖書と一致しているのは、どちらでしょうか。
10. どう対応すべきか
ベレヤの人々に学ぶ
すでに触れましたが、ベレヤの人々の姿勢は私たちの模範です。
どんなに有名な教師でも、どんなに感動的なメッセージでも、聖書と照らし合わせる習慣を持ちましょう。
愛をもって真理を語る
「愛をもって真理を語り、あらゆる点で成長し、かしらなるキリストに達することができるためです。」(エペソ4:15)
間違った教えを信じている人を裁くのではなく、愛をもって真理を伝えることが大切です。
彼らの多くは、神を愛し、真剣に信仰生活を送ろうとしている人たちです。敵ではなく、共に真理を求める仲間です。
聖書に立ち返る
最終的に、私たちが立ち返るべきは聖書そのものです。
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(第二テモテ3:16)
新しい啓示や、特別な教えは必要ありません。聖書には、救いと信仰生活に必要なすべてが記されています。
おわりに
今日の通読を通して、神の主権と人間の選択について考えさせられました。
- ヨセフの兄弟たちは悪意をもって行動しましたが、神はそれをエジプト行きという救いの計画に用いられました
- レハブアムは傲慢な選択をしましたが、それさえ神の預言の成就でした(12:15)
- 神の人は自分の選択で神の言葉から離れ、その結果を負いました
- 長血の女とヤイロは信仰をもって選択し、救いを受けました
神は人間の自由意志を尊重しながらも、ご自分の計画を必ず成就されます。
そして神は、私たちが真理にとどまることを願っておられます。
「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:32)
もし今、聖書とは異なる教えの中にいるなら、あるいは何か違和感を感じているなら、どうか聖書に立ち返ってください。
神の言葉は確かです。そこに立ち返る時、私たちは真の自由を見出すのです。
「お話しください。しもべは聞いております。」
この祈りをもって、共に聖書に向かいましょう。

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