主のあわれみは深いから

通読

創世記33章・第二サムエル24章・列王記上1章・マルコ2:1-17

2025年12月8日 聖書通読ブログ

今日の通読は、ヤコブとエサウの再会、ダビデの人口調査と神殿建設地の選定、ソロモンの即位、そしてイエスの罪の赦しの権威という、旧約と新約が響き合う豊かな内容でした。

創世記33章:ヤコブとエサウの再会

スコテ(סֻכּוֹת)の意味

スコテは「家を建てる」ではなく、

「仮小屋」「仮庵」(スッカー sukkah の複数形)という意味です。

33:17を見ると、ヤコブが「家畜のためには小屋を作った」とあります。この「小屋」がヘブライ語で סֻכֹּת(スッコート)。家畜のための仮小屋を作ったから、その地名がスコテになりました。

これは後の「仮庵の祭り」(スッコート)と同じ語源です。

エル・エロヘ・イスラエル(אֵל אֱלֹהֵי יִשְׂרָאֵל)

ヤコブが築いた祭壇の名前を分解すると:

  • エル(אֵל / エール) = 神(単数形、力強い神)
  • エロヘ(אֱלֹהֵי / エロヘイ) = ~の神(エロヒームの連語形)
  • イスラエル(יִשְׂרָאֵל = イスラエル

つまり 「イスラエルの神なる神」 あるいは 「神はイスラエルの神」 という意味です。

ヤコブがペヌエルで神と格闘して「イスラエル」という新しい名前を受けた後、初めて建てた祭壇にこの名をつけました。これは彼の信仰告白——「この神こそが、イスラエル(=私)の神である」という宣言です。

エサウの赦しと「たくさん持っている」

33:4でエサウは「走って来て、いだき、首に抱きついて口づけし、ふたりは泣いた」とあります。20年以上前に長子の権利も祝福も奪われた兄が、弟を赦して抱きしめた。

興味深いのは、二人の「持っている」という言葉の違いです:

  • エサウ(33:9):יֶשׁ־לִי רָב(イェシュ・リー・ラーブ)=「多くを持っている」
  • ヤコブ(33:11):יֶשׁ־לִי־כֹל(イェシュ・リー・コール)=「すべてを持っている」

エサウは物質的に満たされ、ヤコブは神との出会いを経て霊的な「すべて」を持っている感覚がありました。エサウは聖書で「俗悪な者」と呼ばれることもありますが、この瞬間の彼には赦しの美しさがあります。

第二サムエル24章:ダビデの人口調査と神殿の場所

「主の手に陥ることにしましょう」(24:14)

ダビデの選択は深い信仰告白です:「主の手に陥ることにしましょう。主のあわれみは深いからです。人の手には陥りたくありません。」

ダビデは自分が罪を犯したことを知り、裁きが来ることも知っていました。でも、その裁きを誰から受けるかを選ぶとき、彼は神を選びました。「人の手」は予測不能で容赦がないが、「主の手」にはあわれみがある——これが彼の信仰でした。

アラウナの打ち場——神殿の場所

このエブス人アラウナの打ち場は、後にソロモンが神殿を建てる場所になります(第二歴代誌3:1)。

ダビデの罪と悔い改め、そして「ただでは捧げない」という献身——その場所がイスラエルの礼拝の中心地になりました。神は人間の失敗さえも用いて、ご自身の計画を進められます。

「ただでは捧げない」(24:24)

「費用もかけずに、私の神、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。」

アラウナは「全部差し上げます」と言いましたが、ダビデは断りました。礼拝は「自分にとって価値あるもの」を捧げること。タダでもらったものを神に渡すのは、本当の意味で「捧げる」ことにならない——これが礼拝の本質です。

列王記上1章:ソロモンの即位

ギホンの泉(גִּיחוֹן)

ソロモンが王として油注がれた場所は「ギホン」でした(1:33-45)。

  • エルサレム唯一の天然水源
  • ダビデの町(オフェルの丘)の東側、キデロンの谷に位置
  • 後にヒゼキヤがトンネルを掘ってシロアムの池に水を引いた

「ギホン」という名前は「湧き出る」という意味の動詞 גּוּחַ(グーアハ)から来ており、間欠的に水が湧き出る泉でした。

ケレテ人とペレテ人(כְּרֵתִי וּפְלֵתִי)

ソロモンの即位に同行したケレテ人とペレテ人は、ダビデの私兵・親衛隊でした。

  • ケレテ人:おそらくクレタ島出身の傭兵。ペリシテ人と関連があるとも言われる
  • ペレテ人:起源は不明確。「走る者」「伝令」の意味、またはペリシテ人の別称という説も

イスラエル12部族ではなく、おそらく異邦人の傭兵部隊でした。王位継承の危機において、部族の政治的利害に左右されない忠実な外国人部隊が重要な役割を果たしました。

祭壇の角(קַרְנוֹת הַמִּזְבֵּחַ)

アドニヤが祭壇の角をつかんだのは(1:50)、聖所への逃れ・庇護を求める行為でした。

祭壇の角は、罪のためのいけにえの血を塗る場所でした(レビ記4:7, 18, 25, 30)。古代イスラエルでは、祭壇の角をつかむことで命乞いができました。

ただし、故意の殺人者には庇護は与えられませんでした(出エジプト21:14)。アドニヤは反逆の罪を犯しましたが、まだ血を流していなかったので、ソロモンは条件付きで赦しました。

マルコ2:1-17:罪の赦しと新しい革袋

「やさしい」の意味(2:9)

「やさしい」は「優しい」ではなく 「易しい」(簡単) の意味です。ギリシャ語は εὐκοπώτερον(エウコポーテロン)=「より容易な」。

イエスの論理:

  • 「罪が赦された」と言うのは、目に見えないから言うだけなら簡単(検証できない)
  • 「起きて歩け」と言うのは、結果が目に見えるから難しい(嘘ならバレる)

イエスは、より難しい方(目に見える癒し)を行うことで、より見えにくい方(罪の赦し)の権威も本物であることを証明されました。

新しい布と新しい革袋(2:21-22)

イエスはここで「旧約聖書が悪い」と言っているのではありません:

  • 古い布・古い革袋 = パリサイ人的な律法主義のシステム、形式化した宗教的枠組み
  • 新しい布・新しいぶどう酒 = イエスがもたらす神の国の福音、聖霊による新しいいのち

旧約聖書そのものは「古くて捨てるべきもの」ではなく、イエスはそれを成就しに来ました(マタイ5:17)。問題は、旧約を形式化・律法主義化したシステムでした。

「安息日は人間のために」(2:27-28)

「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。」

安息日(そして礼拝)は人を祝福するための神の賜物であって、人が犠牲を払って守るべき義務・重荷ではありません。イエスは「わたしと一緒にいることを楽しみなさい」と招いておられます。

今日の通読からの霊的洞察

エサウの抱擁——放蕩息子の父の原型

エサウが「走って来て、いだき、首に抱きついて口づけした」という描写は、ルカ15章の放蕩息子の父親とそっくりです。父も「走り寄って」息子を抱きしめました。エサウの赦しには、神の赦しの美しさが映し出されています。

神殿の場所——罪と贖いの交差点

ダビデの罪がなければ、アラウナの打ち場で祭壇は築かれなかったかもしれません。神は人間の失敗さえも用いて、ご自身の計画を進められます。これは罪を正当化するのではなく、神の贖いの深さを示しています。

花婿と共にいる喜び

イエスは弟子たちを「花婿につき添う友だち」と呼びました。花婿がいる間は断食(悲しみの表現)は場違い。律法主義的な宗教は「これをしなければ」と重荷を負わせますが、イエスは「わたしと一緒にいることを楽しみなさい」と招いています。礼拝も断食も奉仕も——花婿と共にいる喜びから溢れ出るものであるべきです。

「犠牲」と「お楽しみ」

ダビデの「ただでは捧げない」という言葉は、強制された犠牲ではなく、自発的に価値あるものを捧げたいという心です。同じ「犠牲」でも、心の姿勢で全く違うものになります。喜びの中から自発的に捧げる犠牲は、まさにダビデがアラウナに言った礼拝の本質です。

参考資料:ダビデの妻と息子たち

今日の通読に関連して、ダビデの妻たちと息子たちの運命をまとめた図表を作成しました。列王記上1章でアドニヤではなくソロモンが王になった背景を理解するのに役立ちます。

図表はブログ記事に埋め込まれています:

  • ダビデ王の妻たち(正妻8人と側室)
  • ダビデの息子たちの運命(ヘブロン時代・エルサレム時代)

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「主の手に陥ることにしましょう。主のあわれみは深いからです。」

— 第二サムエル24:14 —

この箇所の通読用参考図解はこちらから

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