目次
サブタイトル:「神と共に創造する」と「自分が神になる」の違い
※聖書通読中の疑問をClaudeに尋ねながら学んだ内容をシェアします。
きっかけ:創世記5章の不思議な表現
聖書を読んでいて、こんな箇所に出会いました。
創世記5:3(新改訳2017)
アダムは百三十年生きて、彼の似姿として、彼のかたちに男の子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。
「彼の似姿として…彼のかたちに」──まるで創造者のような書き方ですよね。
これは創世記1:26-27の表現と似ています:
神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。」…神は人をご自分のかたちとして創造された。
神が人を「ご自分のかたち」に造られ、そして今度は人が「彼のかたち」に子を生む。この意味は何でしょうか?
シャバット礼拝での気づき
昨日のシャバット礼拝で、牧師がこう言われました:
「人は創造主ではないが、主と共に創造者になっていく」
この言葉が、創世記5:3の理解につながりました。
神のかたちの継承
創世記5:3が教えていること:
- 罪が入った後も、神のかたちは完全には失われていない
- 人間には次世代に神のかたちを伝える役割がある
- 生殖を通して神のかたちが継承される
ただし、1:26の「神のかたち」と5:3の「彼(アダム)のかたち」は区別されています。人は神のかたちを持ちながらも、同時に罪の影響下にある人間の性質も子に伝えていくのです。
日々の選択:光の子として創造するのか、闇の子として創造するのか
そこで私は気づきました。
私たちも主の愛を受けて、日々「創造者」として生きているのではないか。
つまり:
- 光の子どもとしての創造をするのか
- 闇の子どもとしてのネガティブな創造をするのか
- それは自分の言動や心の持ち方にかかっているのではないか
聖書が教える「共創造」
エペソ2:10
私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。
エペソ5:8-10
あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。
言葉による創造
神は言葉で創造されました(「光よあれ」創世記1:3)。私たちも神のかたちとして、言葉で「創造」しています:
ポジティブな創造(光の子どもとして):
- 励ましの言葉 → 人を建て上げる
- 感謝の言葉 → 喜びを生み出す
- 真実の言葉 → 信頼を築く
- 祝福の言葉 → 希望を与える
ネガティブな創造(闇の子どもとして):
- 批判の言葉 → 人を傷つける
- 不平不満 → 雰囲気を壊す
- 嘘や誇張 → 関係を破壊する
- 呪いの言葉 → 絶望を広げる
箴言18:21
死と生は舌に支配される。舌を愛する者はその実を食べる。
心の持ち方による創造
箴言4:23
何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。
私たちの心の状態が、「創造」の質を決めます:
光を創造する心:
- 感謝の心 → 周りに祝福をもたらす環境を創造
- 赦しの心 → 和解と回復を創造
- 信仰の心 → 可能性と希望を創造
- 愛の心 → 人々の成長を促す場を創造
闇を創造する心:
- 恐れの心 → 不安と停滞を創造
- 憎しみの心 → 争いと分裂を創造
- 不信仰の心 → 限界と諦めを創造
危険な境界線:「自分が神になる」誘惑
ここで重要な質問が浮かびました:
「自分が神と同じ立場に立って創造する」というところまで発展してしまうと、カルトになるのではないか?
はい、まさにその通りです。
エデンの園での最初の誘惑
創世記3:5(サタンの言葉)
あなたがたは神のようになり、善悪を知る者となるからです。
「神のようになる」──これが人類最初の誘惑でした。
イザヤ14:13-14(サタンの堕落)
おまえは心の中で言った。「私は天に上り、神の星々のはるか上に私の王座を上げ…いと高き方のようになろう。」
健全な理解と危険な逸脱の決定的な違い
聖書的理解(健全) | カルト的逸脱(危険) |
---|---|
神と共に創造する | 神として創造する |
神の器・協力者 | 神と同等の存在 |
神の力によって | 自分の力・悟りによって |
謙遜と依存 | 高慢と自己神格化 |
神の主権を認める | 人間の主権を主張 |
神の栄光のため | 自分の栄光のため |
ヨハネ15:5(イエスの言葉)
わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
具体的なカルト的教え:繁栄の神学・告白の祈り・新使徒運動
これらの運動は互いに関連していて、「人間の言葉や意志に創造的な力がある」という共通の誤った前提から出ています。
1. 繁栄の神学(Prosperity Gospel)
主な教え:
- 信仰があれば必ず富と健康が与えられる
- 貧困や病気は信仰不足の証拠
- 献金すれば何倍にもなって返ってくる
問題点:
聖書は苦難の中にも神の目的があることを教えています。
2コリント12:9-10(パウロの棘)
「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。」…キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。
ヨブ、パウロ、そしてイエスご自身が苦しまれました。繁栄が常に信仰の証拠だとしたら、彼らは信仰不足だったのでしょうか?
2. 信仰告白運動(Word of Faith Movement)
主な教え:
- 「肯定的告白」で現実を創造できる
- 「信仰の言葉」には創造する力がある
- 否定的な言葉は悪い現実を創造する
- 病気を認めると病気になる(だから「病気だ」と言ってはいけない)
問題点:
真理との違い:
聖書的には:
- 神が言葉で創造される(創世記1章)
- 私たちの祈りは神の主権の下にある(「御心がなりますように」マタイ6:10)
- 言葉には力があるが、神の意志と一致する時のみ
極端な「告白の神学」では:
- 人間の言葉そのものに創造する力がある
- 正しく「告白」すれば必ず実現する
- 神は私たちの信仰に「縛られる」
これは神の主権を否定し、人間を神の位置に置く教えです。
3. 新使徒運動(New Apostolic Reformation, NAR)
主な教え:
- 現代にも使徒と預言者がいる
- これらの使徒には特別な権威がある
- 「七つの山」(政治、経済、教育、メディアなど)を支配して神の国を建てる
- 現代の預言者による新しい啓示が聖書に加えられる
問題点:
使徒の再定義:
- 聖書的には使徒はキリストを直接見た人(1コリント9:1)
- 彼らは聖書の土台を築いた(エペソ2:20)
- その役割は完了している
権威の問題:
- 「使徒」が聖書と同等または以上の権威を主張
- 個人的な「啓示」が聖書より優先される場合がある
ヨハネ18:36(イエスの言葉)
わたしの国はこの世のものではありません。
これらの共通の根
すべてに共通するのは:
- 人間中心主義 ── 神の主権 < 人間の信仰・言葉・行動
- 今、ここでの完全な実現を期待 ── 苦難の神学的意味を軽視
- 聖書以外の権威 ── 個人的啓示、「使徒」の教え、経験主義
- 神を操作できるという思想 ── 正しい告白、献金、信仰をすれば神は応答「しなければならない」
見分け方のチェックリスト
危険信号(カルト的傾向)
- 「あなたの言葉が現実を創造する」という過度な強調
- 苦難や貧困を常に信仰不足のせいにする
- 献金すれば必ず何倍にもなると約束する
- 指導者を批判できない雰囲気
- 「特別な啓示」を受けた使徒・預言者の存在
- 聖書よりも「預言」や「啓示」を重視
- 病気を否定しなければ癒されないと教える
- 「あなたも神になれる」「神性がある」という教え
健全な教会の特徴
- 神の主権を強調する
- 苦難の中にも神の目的があることを教える
- 献金は自発的で、見返りを保証しない
- 指導者も聖書の下にある
- 聖書が最終的な権威
- 病気の現実を認めつつ、神の癒しを祈る
- 謙遜と依存を教える
- 失敗しても神の愛は変わらないことを教える
正直な告白:私自身の中にもある誘惑
ここまで書いてきて、私は正直に告白しなければなりません。
カルトは外にあるだけでなく、私自身の中にもあります。
- 主を王としないで、私自身を王とする思い
- 神の方法ではなく、自分のやり方で繁栄を追い求めること
- 神の栄光ではなく、自分の成功を追い求めること
- 神を高めるのではなく、自分を持ち上げること
怖いですが、私にもあります。
イザヤ53:6
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。
「自分勝手な道」──これが罪の本質です。
エレミヤ17:9
心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。
パウロも同じ戦いを経験した
ローマ7:18-19, 24-25
私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。善を行いたいという願いは、いつも私にあるのに、それを実行できないからです。私が行いたいと願う善を行わずに、望まない悪を行っています。
私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。
パウロでさえこの戦いを経験しました。そして彼は:
- 自分の弱さを認め
- キリストに感謝した
心を見張る──恐れの中ではなく、恵みの中で
箴言4:23
何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。
自分の心を見張っていきたい。でも、恐れの中ではなく。
健全な恐れと不健全な恐れ
健全な恐れ(畏れ):
- 神を敬う畏怖の念
- 罪の重大さを認識する
- 謙遜でいることの必要性を知る
- → 神に近づく動機になる
箴言9:10
【主】を恐れることは知恵の初め
不健全な恐れ:
- 神から遠ざかる恐怖
- 完璧でなければ愛されないという不安
- 失敗を隠そうとする
- → 神から離れる動機になる
日々の実践:心を見張る
1. 朝の祈り──王座を明け渡す
毎朝、意識的に:
- 「主よ、今日もあなたが王です」
- 「私の計画ではなく、あなたの御心が」
- 「私の栄光ではなく、あなたの栄光が」
2. 動機のチェック
何かをする前に自問する:
- これは誰の栄光のため?
- これは誰の方法?
- これは誰の成功?
3. 失敗した時こそ恵みの機会
自分を王座に置いてしまったと気づいた時:
- 自分を責めすぎない(それも自己中心)
- すぐに告白する
- 恵みを受け取る
- 方向転換する(悔い改め)
詩篇51:17(ダビデの祈り)
神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません。
霊と真による礼拝──二つの翼が必要
ここまで「心を見張る」ことの大切さを見てきました。では、どうやって正しく見張ることができるのでしょうか?
ヨハネ4:23-24(イエスの言葉)
まことの礼拝者たちが、霊と真によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、霊と真によって礼拝しなければなりません。
なぜ「霊と真」の両方が必要なのか?
鳥が飛ぶには両翼が必要なように、健全な信仰には**霊(聖霊)と真(真理・御言葉)**の両方が不可欠です。
霊だけでは危険:
- どの霊かわからない
- 主観的な体験や感情に流される
- 「神が語った」という個人的な啓示だけに頼る
- 聖書から離れた異端に陥りやすい
真(御言葉)だけでは不十分:
- 知識だけで心が冷たくなる
- 律法主義・形式主義に陥る
- 頭で理解しても、生きた関係がない
- パリサイ人のような信仰
聖霊様だけでいいのではない──霊を吟味する必要
1ヨハネ4:1
愛する者たち、霊だからといってみな信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。
ここに重要な真理があります:
- すべての「霊的体験」が聖霊からのものとは限らない
- サタンも光の天使に変装する(2コリント11:14)
- 私たちの肉の欲も「霊的」に感じることがある
- だから吟味が必要
では、どうやって吟味するのか?──真理の御言葉で
イザヤ8:20
教えと証しに尋ねよ。もし、彼らがこのことばのとおりに語らないなら、そこには光がない。
使徒17:11(ベレヤの人々)
ここのユダヤ人は、テサロニケの者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。
吟味の基準は聖書の御言葉です。
霊と真の相互関係
真理の御霊が御言葉を照らす:
ヨハネ16:13
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。
ヨハネ14:26
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
聖霊様は:
- 御言葉を理解させてくださる
- 御言葉を思い起こさせてくださる
- 御言葉を適用させてくださる
御言葉が聖霊の働きを確認する:
聖書は:
- 聖霊の働きの基準となる
- 偽りの霊を見分ける物差しとなる
- 真の預言と偽預言を区別する
実践的な適用:カルトから守られるために
健全な信仰(霊と真の両方):
- 「神が語られた」と感じたら、それを聖書で確認する
- 聖書を読む時、聖霊の照らしを求める
- 預言や啓示を御言葉で吟味する
- 体験と教理のバランスを保つ
危険な傾向:
霊だけ(御言葉を軽視):
- 「神が私に直接語った」が聖書より優先される
- 感情や体験が基準になる
- 新しい「啓示」が聖書に加えられる
- → 新使徒運動などの異端
御言葉だけ(聖霊を軽視):
- 知的理解だけで満足する
- 個人的な神との関係がない
- 形式的・律法的になる
- → パリサイ主義
イエスこそ「真理」そのもの
ヨハネ14:6
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」
ヨハネ1:1, 14
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。…ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
「真理の御言葉」とは、究極的には主イエスご自身です。
- 聖霊様はイエスを証しする(ヨハネ15:26)
- 聖書はイエスについて証しする(ヨハネ5:39)
- 聖霊様と聖書の御言葉は、常にイエスを指し示す
まとめ:両翼で飛ぶ
カルトから守られ、健全な信仰を保つために:
- 聖霊様の導きを求める(霊)
- 個人的な神との関係
- 御言葉への照らし
- 日々の導き
- 聖書の御言葉で吟味する(真)
- すべての霊的体験を検証
- 教えの正しさを確認
- 客観的な基準
- 両方を常に一緒に
- 聖霊様は御言葉を通して語る
- 御言葉は聖霊様によって生きる
- どちらか一方では不十分
2テモテ3:16-17
聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。
鳥が両翼で飛ぶように、私たちは聖霊様の導きと御言葉の真理の両方によって、健全に成長していくのです。
励ましの真理
1. この戦いがあること自体が、聖霊の働きの証拠
聖霊がいなければ、自分の罪に気づきません。あなたが気づいているのは、神が働いておられる証拠です。
2. 完璧を目指すが、完璧でなくても愛されている
成長の過程を神は喜ばれます。失敗しても神の愛は変わりません。
3. 神の恵みは十分
2コリント12:9
わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。
あなたの弱さの中に、神の力が現れます。自分の無力さを知ることが、神の力を体験する入口です。
4. 神が完成させてくださる
ピリピ1:6
あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。
これは生涯続く戦いです。でも、神が完成させてくださいます。
まとめ:健全な「共創造」の理解
私たちは何者か?
- 神のかたちに造られた被造物
- 神の協力者(1コリント3:9)
- 土の器(2コリント4:7)
- 光の子ども(エペソ5:8)
私たちの役割は?
- 神と共に創造する(神として創造するのではない)
- 神の愛を受けて、それを周りに流す
- 言葉と行動で、光か闇かを「創造」する
- 常に神の主権の下で、謙遜に依存する
カルトから守られるために
1ヨハネ4:1
愛する者たち、霊だからといってみな信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。
- 聖書を最終的な権威とする
- 神の主権を常に認める
- 自分の心を見張る
- 謙遜でいる
- 苦難の意味を理解する
- 恵みの中で成長する
最後に:本物のリバイバルとは
真のリバイバルは、派手な奇跡や繁栄の約束からではなく、こんな心から始まります:
- 砕かれた心
- 謙遜な霊
- 神を王とする決意
- 自分の罪を認める正直さ
- 恵みに頼る姿勢
2歴代誌7:14
わたしの名で呼ばれているわたしの民が、へりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪の道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす。
神のかたちに造られた私たち。
神と共に創造する者として、今日も歩んでいきましょう。
自分を王座に置くのではなく、主を王として。
恐れの中ではなく、恵みの確信の中で。
あなたは一人ではありません。主が共におられます。
この記事が、健全な信仰を求める皆さんの助けになれば幸いです。質問や感想があれば、ぜひコメントで教えてください。
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