聖書とは? 聖書の内容は?について、分厚い聖書のエセンスを
短く端的にまとめますと、
「神の子であるイエス・キリストが頭(王)となる家(王国)を創造する」
歴史ということが出来ます。
これは名言集である聖書の一番初めに出てくる創世記1章一節「初めに」のヘブライ語の文字「ベレシート(בראשׁית)」に示されています。
ヘブライ語は、聖書の原典の言語だね
そして聖書では世の初めからイエス・キリストが存在されていて、救いの計画を暗示しています。これも「初めに」というヘブライ語の中に示されています。
イエス・キリストは世の初め、聖書の一番初めの言葉から存在していたということだね。
これは預言者によって言われたことが、成就するためである、
イエス様「わたしは口を開いて譬を語り、
世の初めから隠されていることを語り出そう」。
ヘブライ語は計り知れない神のみ心を表す為の神がデザインされた言語です。
一文字の中でも多くの意味を含み、文字をつなげると不思議に芸術的な一貫性があります。
それでは、創世記1章1節のヘブライ語の文字に隠されいる奥義を順を追って説明します
目次
①聖書とは?内容は短いヘブライ語で創世記1章1節に啓示されている。
はじめに神は天と地とを創造された。
(創世記1:1)
この「はじめに」ヘブライ語発音で「ベレシート」という言葉をヘブライ語の原典をそのまま日本語に直訳すると①と②の啓示にたどり着きます。
(もっと啓示されておられる方はお問い合わせホームから是非教えてください)
①
「息子が頭となる家を創造する」 息子とはイエス・キリストです。
②
「家、家庭のかしら。最も重要な、一人のチーフ。従順な、力ある、優しい。全能の神、焼き尽くされ、破壊され。仕事を成し遂げた、手。十字架、しるし、契約、二つのものを一つにし、捺印した。」
リーダー(王)なるイエス様は、神のみ心に従順に、十字架の死にまでも従い、救いの御業を成し遂げられました。二つのものを一つのものにとは、信じる者がイエス様の十字架の赦しの故に神と和解できたということです。
「初めに神が」の「はじめに」の「ベレシート」だけでも、このように多くの深い意味を持ちます。
人類の歴史とは英語でhistory それは、文字通り彼の物語です。イエス・キリストの物語です。
聖書全体は救いの歴史、救い主イエス・キリストの物語です。
ヘブライ語の文字は、一つの文字で多くを含みます。その一つ一つを取り上げると神の伝えている聖書に一貫性があります。ハッと気が付くことがあります。日夜、聖書学者たちは原典であるヘブライ語から聖書研究を続けてくださっていることを感謝します。
②聖書とは?内容は短いヘブライ語で「はじめに」から分かります
はじめに神は天と地とを創造された。
(創世記1:1)
聖書で一番初めの言葉「はじめに」というヘブライ語は ベレシートと発音します。
①「ベレシート(בראשׁית)」 ヘブライ語は右から読みます
ב ר א שׁ י ת
( トー シ レ べ )
בית バイト 家
בר バル 子、息子(ここでは、イエス・キリスト示します)
ראשׁ ローシュ 頭
ברא バーラー 創造する
これを読むと「息子が頭となる家を創造する」話となります。
②もう一つの情報は、はじめに「ベレシート(בראשׁית)」
「ベレシート(בראשׁית)」は、右からベート、レーシュ、アレフ、シン、ユッド、タヴの順に書くが、ヘブライ語アルファベットには一語一語意味がある。ベレシートを構成するそれぞれの語の意味は次の通りである。
「ベート(ב)」:テント、家、体、家族、中に、真っ最中/ど真ん中。 「レーシュ(ר)」:頭、一人の人、最も高い、最も重要な、チーフ。 「アレフ(א)」:雄牛、優しい、力、飼いならされた/従順な、リーダー、アドナイ、教える。 「シン(שׁ)」:歯、象牙、山頂/とがった、貪り食う、焼き尽くす、破壊する、何か尖ったもの、エルシャダイ(全能の神)。 「ユッド(י)」:手、働き、為した事、終えた仕事。 「タヴ(ת)」:マーク、しるし、xまたは十字、所有権、封を閉じる、契約/捺印、2つを一つにする、最後。 これらをつなげると、次のようになる。
「家、家庭のかしら。最も重要な、一人のチーフ。従順な、力ある、優しい。全能の神、焼き尽くされ、破壊され。仕事を成し遂げた、手。十字架、しるし、契約、二つのものを一つにし、捺印した。」これはまさにイエス・キリストのご性質と十字架による贖い、そして新契約を正確に表しているではないか!
なんと、聖書の最初の最初から、既にキリストの十字架による贖いの契約が、既に表わされていたのだ。
横浜天声教会のホームぺージからの引用です
世の初めからイエス様の十字架が表されていたことを知り、この記事を読んだ時、感謝しました。
初めにのベレシート、六つの文字だけでも実に多くの意味があることが分かります。
いずれにしても、イエス・キリストを表しているという点においては統一性があります。
聖書とは、イエス・キリストを証言している書です。
③聖書とは、内容は信頼できます。
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聖書の記者は40名いて、しかも 様々な場所、時代に書かれ、アラム語、ヘブライ語、ギリシャ語という三つの異なる言語で書かれたにもかかわらず、聖書は創世記から黙示録にいたるまで一貫しています
①聖書全体が救いの歴史であること、
②聖書の各書簡がイエス・キリストを証していること、
③聖書の約束(預言)が実現していること、
この三つが始終一貫していて、聖書全体に統一性があります。
聖書の内容は、聖書中の偉人を美化せず、ダビデ王や大使徒ペテロの失敗さえ包み隠さず彼らも私達と同じように罪人で神の義により頼み信頼したことがありのまま書かれています。
考古学の発見も聖書と一致しています。
これは原典において、聖書は全て霊感によって書かれているものであることを示しています。
3:16聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。 3:17それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。
(第二テモテ3:16-17)
人間の知恵知識でここまでの統一性を持たせることは不可能です。
霊感というと、霊感商法とか、マイナスなイメージになってしまうのですが、
神の霊である、聖霊様によって、原典である聖書は書かれた書物ということです。
その原典の趣旨を伝えようと日々努力して伝えているのが翻訳された聖書です。
ですから、翻訳された聖書には神の言葉としての権威があります。
そして、多くの意味を含んでいるヘブライ語の文字そして、当時の文化や歴史、すべてを
日夜、学者たちが研究しています。
それによって新しい発見が新改訳となって反映されています。それが延々と続きます。
神様は、人類が聖書の原典を研究することによって、新しく発見し成長していくことを喜んでおられます。
「そこから真理を見つけなさい。やってみなさい、探しなさい」と願い
そして発見した時には「よく頑張ったね、成長したね」と喜ばれるのです。
事を隠すのは神の誉であり、
事を窮めるのは王の誉である。
(箴言25:2)
この聖書の言葉には、「名言集である聖書の中にある宝を見つけなさい」と願う神のみ心が語られています。
かくれんぼをする父と子のようで、隠れた父が子に見つけられ、喜んでいる様子が見て取れます。
新日本聖書協会の理念に、
聖書研究の進展や日本語の変化に伴う必要な改訂を行う。
という謙遜な立場を翻訳の理念の中に目にしたことは、一見、当たり前のことの様ですが、正しく発見したことに変更していくことが異端と呼ばれる時代もあったことから、このことは当たり前のことではなく、恵まれた時代に生かれていることを私は改めて感謝しました。
原典は神の手において書かれていることは聖書中に主イエスが旧約聖書を神の言葉として認め発言している箇所があることで分かります。
よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
(マタイ5:18)
新約聖書もパウロ達の書簡が回覧され、信者たちが正典として認識しています。
わたしは主によって命じる。この手紙を、みんなの兄弟に読み聞かせなさい。
(第一テサロニケ5:27)
けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
(ヨハネ16:13)
④聖書とは、内容は全体が芸術的です。
また聖書の内容は交錯配列法キアスムスになっていて、創世記と、黙示録が対になっています。
① ② ③ ④ ⑤ ⑥ ⑦
七つあると①と⑦ ②と⑥ ③と⑤ が対になて真ん中の④がクライマックスとなり
一番大切なところ、ここが盛り上がるのがラテン語文学に人気があるそうです。
それは、聖書のギリシヤ語、ヘブル語の聖書が長文で複雑なキアスムス構造で出来ているので
その影響かも知れないと想像します。
私はネットの礼拝で、はじめに「ベレシート(בראשׁית)」の奥義を知り感動しました。
それ以来、知り合いや家族にも熱くこのことを伝えるのですが、
私と同じように感動する人はあまりいませんでした。
やはり私はニッチな人間なのでしょうか。要するに・・俗に言う変わり者です。
普段から人とは少し違っているとは自覚していましたけれど。 (*_*;
それにしても、礼拝でも先生が熱く感動して語られていたように、聖書のはじめからキリストがおられることに喜びを感じる方やヘブル語の成り立ちを知る事で信仰が奮い立つ方が、先生方や私の他にもきっとおられるに違いない、また、この聖書の真実性、芸術性からも聖書に興味を持つ方がおられるかもしれないし残しておきたいと考え今回ここで分かち合うことにました。
聖書とは一言で「素晴らしい書物です。」(#^^#)
イエス・キリストがこの私の罪の代価を身代わりに支払うために、十字架にかかり死なれ、葬られ、三日目に死人の内よりよみがえり、生きたまま天に登られた。このイエスを信じる者は、罪が許され、神との和解が成立し、命への道が開かれ、永遠の命が与えられます。
イエス・キリストのことが聖書の初め、世の初めから啓示されているのが聖書です。
そして聖書は、息子(イエス・キリスト)が頭(王)となる家(国)を創造される物語です。
私が王ではありません、私の自我が王座に君臨する国家ではなく、
私の自慢が、欲求が、プライドが、自己中心が君臨する国家ではなく、
日々悔い改めに導かれ、私は小さくなり、キリストが王となる書物です。
それが正しい聖書の読み方です。
そのように日々聖書を読んでいけますように。
自分の足りなさ、至らなさを見て落胆するのではなく、
自分の至らなさ、罪や失敗に気が付いた時こそ感謝しましょう。
主の十字架を見上げるチャンスだからです。
祈り
目をそらさずに主に近くなるチャンスと受け止めることが出来るよう守り導いてください。
主よ、感謝します。
主が諦めずに私を聖め続けてくださるので、
主よ、私は諦めません。自分を見るのではなく、主を見上げ、主の十字架の約束を信じます。
主よ、私は神の義により頼みます。聖霊様とともに歩んでまいります。
ノア 「あきらめません」
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