【本日の通読箇所】
申命記11章13-25節/哀歌3章・4章/テサロニケ人への第二の手紙2章
(参照:詩篇77篇・詩篇88篇)
もし、あなたが持っているものを全部失ったとしたら。
家も、土地も、仕事も、居場所も。積み上げてきたものが、一夜で崩れたとしたら。
そのとき、あなたの手には何が残るでしょうか。
今日読む哀歌は、まさにその状態から書かれた書物です。エルサレムは陥落しました。神殿は焼かれました。城壁は崩れ、人々は飢え、生き残った者は連れ去られました。約束の地は、もう彼らのものではありません。
ところが、その廃墟の中で、一人の人がこう書きます。
「主はわたしの受くべき分である」
土地を失った人が、「わたしには、まだ受け取るべき分がある」と言うのです。
これは強がりでしょうか。それとも、失ってはじめて見えたものがあったのでしょうか。
そして今日は、その哀歌と一緒に、二つの箇所を読みます。一つは、まだ土地を手に入れていない民に「足の裏で踏む所は皆あなたがたのものとなる」と語られた申命記。もう一つは、迫害の中で「主の日はもう来た」というデマに揺れていた教会へ、パウロが書き送った手紙です。
土地を約束された民。土地を失った民。そして、地上に居場所を持たない教会。
この三つが、同じ一つのことを語っています。
※本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。
【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。

第一部|申命記11章13-25節
この言葉は、今朝もイスラエルで唱えられている
今日読んだ箇所を、私たちは「モーセの説教の一部」として通り過ぎてしまいがちです。けれども、この十三節から二十一節までの九節は、ユダヤ人にとって特別な位置を占めています。
ユダヤ人が朝と夕、毎日唱える祈りがあります。「シェマ」と呼ばれる祈りです。「シェマ」とは「聞け」という意味のヘブライ語で、申命記6章4節の冒頭の一語から取られました。
このシェマの祈りは、三つの段落で構成されています。
第一段落が申命記6章4-9節。第二段落が、まさに今日の申命記11章13-21節。第三段落が民数記15章37-41節です。
つまり今朝、イスラエルの家庭で、会堂で、また兵役中の若者たちの口から、今日の通読箇所と同じ言葉が唱えられていたということになります。三千年以上、途切れることなく。
【図解①|シェマの三段落と、6章/11章の違い】
第一段落と第二段落の、決定的な違い
日本語訳では気づきにくいのですが、ヘブライ語で読むと、6章と11章のあいだには明確な違いがあります。
6章5節は、こう言います。「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」。
そして今日の11章13節。「あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば」。
似ています。けれども二つの点が違う。
一つ目は、呼びかけの人称です。6章はすべて単数——「あなた」ひとりに向けて語られています。ところが11章はすべて複数——「あなたがた」に向けられている。ヘブライ語では動詞の形も所有語尾も変わるので、この違いは一目瞭然です。
二つ目は、「力をつくして」がないことです。6章には三つあった。心、精神(魂)、力。11章には二つしかない。心と精神だけです。
ここで注目したいのは、この二つの違いが同じ方向を指している、という点です。
信仰は「わたし」ひとりのところで始まります。それが6章です。そこでは全存在——財産まで含めた全部を投げ出すことが求められる。
けれども信仰は「わたし」で終わりません。共同体になる。それが11章です。そして共同体になったとき、神が問われるのは財産の総量ではなく、心と魂がどちらを向いているかなのです。
そしてもう一つ。11章では、6章になかったものが加えられています。結果です。
なぜ神は、雨だのみの土地を選ばれたのか
十四節から十七節にかけて、共同体の従順と、天候とが直結して語られます。従えば雨が降る。背けば天が閉ざされる。
これは、その直前の十節から十一節を受けています。
あなたがたが行って取る地は、あなたがたが出てきたエジプトの地のようではない。あそこでは、あなたがたは種をまき、野菜畑のように、足で水をやったが、あなたがたが渡って行って取る地は、山と谷の多い地で、天から降る雨によって潤っている。
エジプトには、ナイル川があります。毎年決まった時期に氾濫し、灌漑によって農業ができる。天を見上げなくても、足で水路を踏んで水を引けば作物は育つ。天候に左右されない、安定した豊かさです。
カナンは違います。雨が降らなければ、それで終わる。人の努力ではどうにもならない。
つまり神は、約束の地として、わざと不安定な土地を選ばれたということになります。
これは何を意味するのでしょうか。神は民に、豊かさよりも先に関係を与えようとされた、と読むことができます。エジプトの豊かさは、神を忘れても続きます。カナンの豊かさは、神を忘れた瞬間に止まる。
厳しいようですが、逆に言えば——神は、この民が自分を必要としなくなる土地を、与えたくなかったのです。
秋の雨と、春の雨
十四節に「秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって」とあります。
このうち「秋の雨」は、ヘブライ語でヨレと発音します。「投げる」「射る」という動詞と同じ語根で、天から地に向かって放たれる最初の雨、という感覚の言葉です。十月から十一月にかけて、乾ききってひび割れた大地を柔らかくする雨。この雨が来なければ、種をまくことすらできません。
「春の雨」はマルコシュと言います。「後の」「遅い」という意味の語と関係があると考えられています(語源については確定していません)。三月から四月にかけての最後の雨で、実りかけた穀物の粒を太らせる雨です。この雨が来なければ、収穫は痩せます。
つまりイスラエルの農業は、始まりと終わりの両方を、天に握られているということです。真ん中の努力だけでは、何も実りません。
ヤコブの手紙5章7節で「農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている」と書かれているのは、この二つの雨のことです。日本の読者には見えにくいのですが、当時のユダヤ人には、生活そのものの比喩でした。
ここで、ヘブライ語の面白い重なりを紹介しておきます。「秋の雨」を指すヨレという語は、「教える」という動詞と同じ語根から出ています。「教師」を意味するモレも、同じ根を持つ言葉です。
もともとの語根は「投げる・射る」。そこから「指し示す」となり、さらに「教える」へと意味が広がりました。矢が的を指すように、教師は真理を指し示す。
つまりヘブライ語を話す人にとって、雨が降ることと、教えが与えられることは、同じ形の出来事でした。天から一方的に来る。地の側では作れない。そして、それがなければ何も実らない。
後にヨエル書2章23節が「秋の雨」を語るとき、ユダヤ教の伝統はそこに「義の教師」という意味を読み取りました。死海のほとりのクムラン共同体が、自分たちの指導者を「義の教師」と呼んだのも、この読み方に由来します。
天から降る雨と、天から与えられる教え。申命記11章が語っているのは、そのどちらもです。
【図解②|イスラエルの雨と農事暦】
翻訳では見えなくなった、一人称
ここで、原文を読む人だけが気づく仕掛けを一つ紹介します。
十四節を口語訳はこう訳しています。「主はあなたがたの地に雨を……降らせ」。三人称です。モーセが、神について語っている形になっている。
ところがヘブライ語原文は、ここで一人称なのです。直訳すれば「わたしはあなたがたの地に、その時に雨を与える」。
十三節までは確かにモーセが語っていました。「わたしが命じる命令」——このモーセの声が、十四節で突然、神ご自身の声に変わる。そして十五節でもう一度「わたしは……草を与える」と続きます。
多くの翻訳は、読者の混乱を避けるためにこれを三人称に整えます。口語訳もそうしています。訳としては親切な判断です。
けれども原文が伝えたかったのは、おそらくこういうことです。律法は、モーセという人物の思想ではない。語っている途中で、語り手が入れ替わってしまうほど、この言葉は神ご自身のものだった。
ユダヤの伝承では、この箇所を「シェキナー(神の臨在)が語り出した瞬間」と読みます。
「天を閉ざされる」——これは脅しではなく、予告だった
十七節。
おそらく主はあなたがたにむかい怒りを発して、天を閉ざされるであろう。そのため雨は降らず、地は産物を出さず、あなたがたは主が賜わる良い地から、すみやかに滅びうせるであろう。
ここを、単なる警告として読み飛ばさないでいただきたいのです。
この「天を閉ざす」は、後の歴史で実際に起こります。エリヤの時代、三年半のあいだ雨も露も降りませんでした(列王記上17章)。そして黙示録11章では、二人の証人に「天を閉じる権威」が与えられます。
けれども最も大きな成就は、今日の第二部にあります。
「良い地から、すみやかに滅びうせる」——この一文が現実になった日の記録が、哀歌です。エルサレムは陥落し、神殿は焼かれ、民は連れ去られました。
つまりモーセは、それが起こる八百年前に、それを言葉にしていたということになります。哀歌を読むということは、申命記11章17節が成就した現場を歩くということなのです。
手に、目のあいだに、家の柱に
十八節から二十節は、この言葉をどう保つかという具体的な指示です。
「心と魂におさめ」——内側に。「手につけて、しるしとし、目の間に置いて覚えとし」——身体に。「これを子供たちに教え……家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も」——生活のあらゆる時間に。「家の入口の柱と、門にそれを書きしるさなければならない」——空間に。
ユダヤ人はこれを文字どおり実行しました。手と額に小さな革の箱を結びつける「テフィリン」、そして家の門柱に取り付ける小箱「メズーザー」です。中には羊皮紙が入っていて、シェマの言葉が手書きされています。
これを「形式主義だ」と切り捨てるのは簡単です。けれども考えてみたいのは、私たちは何によって神の言葉を身につけているか、ということです。
彼らは、忘れる自分を知っていた。だから身体に結びつけた。
十九節に「家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も」とあります。座る・歩く・寝る・起きる。人間の一日は、この四つの姿勢で構成されています。つまり一日のすべての姿勢に、この言葉を貼りつけよということです。
足の裏で踏む所は、皆
二十四節。
あなたがたが足の裏で踏む所は皆、あなたがたのものとなり、あなたがたの領域は荒野からレバノンに及び、また大川ユフラテから西の海に及ぶであろう。
「足の裏で踏む所」——この表現が、後にもう一度出てきます。ヨシュア記1章3節、モーセの死後、ヨシュアに神が語られた言葉です。「わたしがモーセに約束したように、あなたがたが足の裏で踏む所は、ことごとくあなたがたに与える」。
約束は、指をさして与えられたのではありませんでした。歩いた分だけ、与えられる。
地図の上では、すでに全部が彼らのものです。けれども実際に手に入るのは、足の裏が触れた場所だけ。約束の広さと、実際に受け取る広さのあいだには、歩くという行為が挟まっている。
そして——ここが今日の記事全体につながるのですが——彼らは最終的に、この土地を失います。足の裏で踏み、手に入れ、住み、そして失う。
そのとき、彼らの手には何が残ったのでしょうか。
その答えが、第二部にあります。
第二部|哀歌3章・4章
哀歌は、嘆きを書きなぐった詩集ではない
哀歌を読むと、まず感情の激しさに圧倒されます。血、涙、飢え、絶望。あまりに生々しいので、これは悲しみのままに書き流された文章だと思ってしまう。
ところが実際は、その逆です。哀歌は、聖書の中でもきわめて厳密に設計された書物です。
ヘブライ語のアルファベットは二十二文字あります。哀歌の第1章は二十二節あり、第一節が第一文字で始まり、第二節が第二文字で始まり……と、二十二文字の順に並んでいます。こうした詩を「アルファベット詩(いろは歌形式)」と呼びます。
そして各章の構造は、こうなっています。
第1章=二十二節(アルファベット順)/第2章=二十二節(アルファベット順)/第3章=六十六節(各文字を三回ずつ、二十二×三)/第4章=二十二節(アルファベット順)/第5章=二十二節(アルファベット順ではない)
気づかれたでしょうか。第3章だけが三倍の密度を持ち、五章のちょうど真ん中に置かれている。そして最後の第5章では、それまで保たれていた秩序が崩れるのです。
これは偶然ではありません。書き手は、あふれ出そうな悲しみを、あえて厳格な型の中に流し込んだ。感情に飲み込まれないために、形式を握りしめた。そして最後の章で、その型さえも手放している。
なぜアルファベット順なのか。ユダヤの伝統的な理解では、「最初の文字から最後の文字まで、言葉を尽くして嘆く」——つまり嘆きを完全に言い切るためだと説明されます。中途半端に飲み込むのではなく、全部を言葉にする。神の前で。
【図解③|哀歌の建築構造】
五つの章は、時間の順番ではない
もう一つ、読み方の鍵があります。
哀歌の五つの章は、出来事の順番に並んでいるのではありません。同じ一つの現実を、五つの異なる視点から見たものです。
第1章は、町の視点。エルサレムが未亡人として擬人化され、自ら泣きます。
第2章は、神の視点。ここは読むのがつらい章です。「主は敵のようになって」(2:5)——災いを下したのが敵ではなく主であった、という告白が続きます。
第3章は、一人の男の視点。「わたしは」で語られます。
第4章は、目撃者の視点。感情を排して、見たものが描写されます。
第5章は、共同体の祈り。「われわれ」で終わります。
つまり第3章と第4章は、前後関係ではなく、同じ日の同じ廃墟なのです。この点は後でもう一度戻ってきます。
「わたしは打ちのめされた戦士である」
3章1節。
わたしは彼の怒りのむちによって、悩みにあった人である。
この「人」という日本語の裏には、ヘブライ語のゲベルという単語があります。これは単なる「人間」ではありません。「強い」「力ある」という動詞から出た語で、壮年の男、戦士を指します。
つまりこの一節は、「わたしは弱い者だ」ではなく、「強かったはずのこのわたしが、打ちのめされた」と言っているのです。
そしてもう一つ。この人は、打った相手の名を言いません。「彼の怒りのむち」。神の名を口にできないほどの状態だということが、この一語から伝わってきます。
2節から20節まで、延々と暗さが続きます。光のない道、砕かれた骨、聞かれない祈り、待ち伏せる熊、心臓に打ち込まれた矢。
そして18節で、いったんこの人は底を打ちます。
わが栄えはうせ去り、わたしが主に望むところのものもうせ去った
望みが、消えた。ここまでが前半です。
21節の「しかし」——望みは、取りに行くものだった
しかし、わたしはこの事を心に思い起す。それゆえ、わたしは望みをいだく。(3:21)
この「思い起す」という日本語には、ヘブライ語の面白い表現が隠れています。直訳すると「わたしは、これをわたしの心へ呼び戻す」。ここで使われている動詞は「帰る」という意味の語ですが、原文では使役の形になっています。つまり「帰る」ではなく「帰らせる」。彼の心は勝手に帰ってこなかった。だから彼は、引っぱって連れ戻したのです。
これは今日の記事全体で、最も実践的な一節かもしれません。
信仰は、気分が良くなることではない。気分が最悪のときに、事実を取りに行く行為です。彼は感じられなかった。それでも思い出しにいった。
では、彼が取りに行った「この事」とは何だったのでしょうか。
中心の、そのまた中心
主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。(3:22-23)
「いつくしみ」——これはヘブライ語でヘセドです。旧約聖書で最も豊かな言葉の一つで、単なる親切ではなく、契約に基づいた、決してやめない愛を指します。約束したから、相手が裏切っても続ける愛。
そして「朝ごとに新しく」。
ここで思い出していただきたいのが、先ほどの構造です。全五章の中心が第3章。その第3章の中心が、二十二節から二十四節あたり。
つまりこの告白は、哀歌という建築物の、ど真ん中に据えられているのです。書き手はこれを、意図的に中心に置きました。
4章10節を読んでから、もう一度3章23節へ
そして、ここが今日いちばん重い部分です。
先ほど述べたとおり、第3章と第4章は時系列ではなく、同じ日の記録です。では、その同じ日に何があったのか。第4章が目撃者として記録しています。
4章4節。乳飲み子の舌が渇きで上あごに張りつき、幼子がパンを求めても与える者がいない。
4章5節。かつて美食していた者が路上に落ちぶれ、紫の衣で育てられた者が灰の上に伏している。
そして4章10節。飢餓が極限に達したとき、母親たちが自分の子を食物としたと記されています。
これが同じ書物の中にあります。同じ人が、同じ廃墟で書いている。
つまり——「主のあわれみは朝ごとに新しい」という言葉は、癒された人の感想ではありません。まだ何ひとつ解決していない人の、灰の中からの告白なのです。
この事実に気づくと、22-23節の重さが変わります。これは「つらいことがあっても前向きに」という励ましではない。目の前の現実を一ミリも否定せずに、それでもなお神のいつくしみは尽きていないと言い切る——そういう種類の信仰です。
彼は、状況が良くなったから望みを持ったのではありません。何も良くなっていない朝に、望みを取りに行った。
なぜ、この惨状は「予告済み」だったのか
もう一つ、見過ごせない点があります。
哀歌に記されている悲惨の一つ一つが、実は何百年も前に、書かれていたということです。
レビ記26章29節と申命記28章53節には、契約を破った場合に起こることとして、飢餓の中で自分の子の肉を食べるに至る、という言葉が記されています。4章9節「つるぎで殺される者は、飢えて死ぬ者よりもさいわいである」という感覚も、申命記28章の呪いのリストに対応します。
だから哀歌は、単なる悲劇の記録ではありません。「神は語られたとおりのことをなさった」という、恐ろしい種類の証言なのです。
哀歌自身が、それを認めています。
主が命じられたのでなければ、だれが命じて、その事の成ったことがあるか。災もさいわいも、いと高き者の口から出るではないか。(3:37-38)
そして第一部で読んだ申命記11章17節——「天を閉ざされる」「良い地からすみやかに滅びうせる」。あれは脅しではありませんでした。予告でした。
【図解④|予告と成就の照合】
「主はわたしの受くべき分である」
そしてここに、今日の記事の中心があります。
わが魂は言う、「主はわたしの受くべき分である、それゆえ、わたしは彼を待ち望む」と。(3:24)
「受くべき分」——ヘブライ語でヘルキー、「わたしの取り分・相続分」という意味の言葉です。
この言葉には、はっきりした出所があります。民数記18章20節。祭司アロンに、神がこう言われました。
あなたは彼らの地のうちに嗣業をもってはならない。……わたしがあなたの分け前であり、あなたの嗣業である。
イスラエルの十二部族はそれぞれ土地を相続しました。しかしレビ族だけは、土地を相続しませんでした。代わりに神ご自身が、彼らの相続分だったのです。
さて、哀歌の状況を思い出してください。彼らは今、土地を失っています。第一部で読んだ「足の裏で踏む所は皆、あなたがたのもの」という約束の地を、すべて。
そして土地を失った民が、ここでレビ人の告白を口にしているのです。
「主はわたしの受くべき分である」。
これは絶望の中の開き直りではありません。むしろ発見です。土地は失った。しかし相続分は失っていない。なぜなら、本当の相続分は土地ではなく、それを与えた方ご自身だったからです。
人間のメシアは、落とし穴に落ちた
第4章の終わり近くに、痛切な一節があります。
われわれが鼻の息とたのんだ者、主に油そそがれた者は、彼らの落し穴で捕えられた。(4:20)
「主に油そそがれた者」——ヘブライ語ではメシーアハ・アドナイ。文字どおり「主のメシア」です。
これはゼデキヤ王を指しています。エルサレム陥落の夜、彼は都を脱出しましたが、エリコの平地で捕えられ、リブラでバビロン王の前に引き出され、目の前で息子たちを殺され、そして目をつぶされて連行されました(エレミヤ39章)。
「われわれが鼻の息とたのんだ者」——つまり、この人がいれば生きていけると思っていた人。ダビデの家系の、油そそがれた王。
その人が、落とし穴で捕えられた。
ここに、旧約聖書の深い痛みがあります。人間のメシアは、必ず失敗する。ダビデもソロモンも、そしてゼデキヤも。油そそがれた者は次々に立てられ、次々に倒れました。
だからこそ、この失望の底から、本物のメシアへの渇望が生まれます。落とし穴に落ちない王。目をつぶされない王。いや——進んで目を閉じ、進んで捕えられ、それでも死に打ち勝つ王。
そして4章の最後は、驚くべき言葉で閉じられます。
シオンの娘よ、あなたの不義の罰は終った。主は重ねてあなたを捕え移されない。(4:22)
「終った」——ヘブライ語では「完了した」という語です。
まだ廃墟の中にいながら、書き手は「罰は完了した」と書きました。これもまた、目に見えるものではなく、神の性質に対する信頼から出てきた言葉です。
そして数百年後、別の場所で、もう一人の方が「完了した」と言われることになります。
その方について、第三部で読むことにしましょう。
第三部|テサロニケ人への第二の手紙 2章
パウロは、なぜこの章を書いたのか
いきなり終末論の話に入る前に、確認しておきたいことがあります。この章は、動揺している教会をなだめるために書かれたということです。
2節にその理由が書かれています。
霊により、あるいは言葉により、あるいはわたしたちから出たという手紙によって、主の日はすでにきたとふれまわる者があっても、すぐさま心を動かされたり、あわてたりしてはいけない。
「主の日はすでに来た」——そういうデマが流れていたのです。しかも「パウロが書いたことになっている手紙」まで出回っていた。おそらく偽造されたものです。
テサロニケの信徒たちは激しい迫害の中にいました(1章4節)。そこへ「主の日はもう始まっている」と聞かされる。つまり「あなたたちは取り残された」という意味になります。彼らの恐怖は、想像できます。
だからこの章の目的は、終末の時刻表を渡すことではありません。「まだ順序が残っている。あわてるな」——それがパウロの伝えたかったことです。この一点を握って読むと、後で出てくる難解な箇所の意味も見えてきます。
不法の者が現れる、三つの段階
3節から4節にかけて、順序が示されます。
第一に、背教が起こる。「背教」はギリシャ語でアポスタシア。「離れて立ち去る」という意味の語です。これは無神論者が増えることではありません。いたはずの場所から、離れていくことです。信仰の外にいた人ではなく、内にいた人が去る。
第二に、不法の者が現れる。直訳すれば「不法の人」。「不法」はアノミア、「律法(ノモス)がない」状態を指します。無法者という意味ではなく、法そのものを認めない者です。
彼にはもう一つの称号がついています。「滅びの子」。
ここで、聖書全体を通して注目すべき事実があります。この称号が使われるのは、新約聖書の中で二か所だけです。もう一か所は、ヨハネ17章12節——イエスがイスカリオテのユダについて語られた言葉です。冠詞まで含めて、まったく同じ表現が使われています。
つまりこの称号は、外部から攻めてくる敵ではなく、内側から出てくる者を指しています。ユダは十二人の一人でした。三年半、イエスと同じ食卓につき、同じ道を歩いた人物です。
聖書における最も深刻な脅威は、いつも外からではなく、内から現れます。
第三に、彼は神の宮に座す。
彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する。(2:4)
ここで、今日の第二部を思い出してください。
哀歌4章1節では、聖所の石が路上に投げ捨てられていました。神殿は破壊された。
ところが第二テサロニケでは、神殿は立っている。そこに偽者が座る。
つまり、破壊よりも占拠のほうが後に来るのです。そして考えてみれば、占拠のほうが深刻かもしれません。廃墟には誰も惑わされません。しかし立派に機能している宮に座る者は、拝まれてしまう。
「阻止しているもの」——聖書学の未解決問題
6節と7節が、この章で最も議論されてきた箇所です。
そして、あなたがたが知っているとおり、彼が自分に定められた時になってから現れるように、いま彼を阻止しているものがある。不法の秘密の力が、すでに働いているのである。ただそれは、いま阻止している者が取り除かれる時までのことである。
日本語訳でも「もの」と「者」が書き分けられています。これは訳者の工夫ではなく、原文がそうなっているからです。ギリシャ語では、6節が中性形、7節が男性形。同じ動詞(カテコー=押さえる、抑え止める)が、性を変えて二度使われています。
この「阻止しているもの/者」——ギリシャ語でカテコーンと呼ばれます——の正体について、古代から議論が続いてきました。主な説を四つ紹介します。
① ローマ帝国/国家の秩序説。最も古い説の一つで、二世紀のテルトゥリアヌスなどが支持しました。パウロがローマの市民権を持ち、ローマ法に何度も守られた経験を持つことは、この説を後押しします(ローマ13章も参照)。中性=帝国という制度、男性=皇帝という個人、と説明できます。
② 聖霊、および聖霊の内住する教会説。現代の日本の福音的な教会で最もよく教えられている理解です。中性=聖霊の働き、男性=聖霊という人格、と説明します。悪をここまで押さえ込める力は神以外にない、という点が最大の根拠です。この説に立つと、教会が携挙されるとき抑止が取り除かれる、という筋になります。
③ 御使いミカエル説。ダニエル書10章と12章で、ミカエルは民のために立つ君として描かれます。黙示録12章では竜と戦います。中性=天的な力、男性=ミカエル個人。
④ 福音宣教の働き説。福音が全世界に述べ伝えられるまで終わりは来ない(マタイ24章14節)という原理と結びつける読み方です。
正直に申し上げます。どの説も決定的ではありません。
②を支持する方に、公平に弱点も挙げておきます。患難期にも救われる人々がいます(黙示録7章の白い衣の大群衆)。しかし救いには聖霊の働きが不可欠です。したがって「聖霊が地上から完全に去る」とは考えにくい。また、パウロはテサロニケに数週間しか滞在していません。その短期間に、携挙による聖霊の撤去という複雑な教理まで教え込んでいたと考えるには、やや無理があります。
一方、①を支持する方への疑問も挙げておきます。ローマ帝国は五世紀に滅びましたが、不法の者はまだ現れていません。
【図解⑤|カテコーン四つの解釈】
パウロの目的は、正体の特定ではなかった
ここで立ち止まりたいのです。
パウロは6節でこう書いています——「あなたがたが知っているとおり」。
テサロニケの人々には通じていました。パウロが口頭で説明済みだったのです。だからパウロは、手紙の中でわざわざ正体を書いていない。
そして、その結果として、私たちにはわからなくなりました。
これは偶然の事故でしょうか。私はそうは思いません。神は、私たちが正体を特定できる状態で、この箇所を残されなかったのです。
では、この箇所を正しく使うとはどういうことか。
7節をもう一度読んでみてください。
不法の秘密の力が、すでに働いているのである。ただそれは、いま阻止している者が取り除かれる時までのことである。
これは、実は慰めの言葉です。
悪は、すでに働いている。パウロの時代から働いていた。今も働いている。世界のニュースを見れば、それは疑いようがありません。
けれども——まだ出られないのです。何かが押さえている。蓋がされている。悪には、自分で決められないことがある。
そして「彼が自分に定められた時になってから現れるように」(6節)。悪ですら、神が定めた時刻表の上でしか動けない。
これがパウロの言いたかったことです。「主の日はもう来た」とうろたえている人たちに、彼はこう言っている——順序がある。時がある。あなたがたを驚かせるようには、事は進まない。
「口の息をもって殺し」
8節。不法の者の最期です。
この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう。
これほど劇的な敵が、これほどあっけなく終わります。武器も戦闘も描かれません。息を吐かれるだけです。
これはイザヤ11章4節を下敷きにしています。「その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す」。
「来臨」はパルーシア、「輝き」はエピファネイアというギリシャ語です。エピファネイアは「現れ出ること、顕現」という意味で、暗い部屋に光が入る瞬間のような語感を持ちます。
つまり——闇を消すのに、闘う必要はありません。光が来れば、それで終わるのです。
11節が示す、恐ろしい順序
そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り(2:11)
ここは読んでいて怖くなる箇所です。神が惑わしを送られる。
けれども、10節を先に読まなければなりません。
彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。
順序が書かれています。先に、人が真理への愛を拒んだ。その結果として、拒み続けたものが取り去られる。
ここで注目したいのは、「真理を知らなかった」とは書かれていないことです。「真理に対する愛」を受け入れなかった、とあります。知識の問題ではなく、心が何を愛するかの問題なのです。
これは聖書に繰り返し現れるパターンです。パロは自分の心を頑なにし、その後で神が彼の心を頑なにされました。列王記上22章では、偽りの霊がアハブのもとへ送られます。すでに真理を聞きたくないと決めていた王のもとへ。
そして——第一部の申命記11章16節を思い出してください。
あなたがたは心が迷い、離れ去って、他の神々に仕え、それを拝むことのないよう、慎まなければならない。
モーセは千数百年前に、まったく同じことを警告していました。すべては「心がどこを向くか」から始まる、と。
手紙は、呪いでは終わらない
この章の後半(13節以降)が、なぜか語られることの少ない部分です。しかしパウロは、脅しで章を閉じませんでした。
しかし、主に愛されている兄弟たちよ。わたしたちはいつもあなたがたのことを、神に感謝せずにはおられない。(2:13)
「しかし」。ここで空気が変わります。不法の者の話は終わり、あなたがたの話が始まります。
そして14節。
そのために、わたしたちの福音によりあなたがたを召して、わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせて下さるからである。
「あずからせて」——この語は「獲得・所有に至らせる」という意味を持ちます。つまり、キリストの栄光が取り分として与えられるということです。
ここで、第二部の哀歌3章24節を思い出してください。「主はわたしの受くべき分である」。
土地を失った民が、神ご自身を分け前として発見しました。そして今、パウロは書きます。あなたがたの取り分は、キリストの栄光であると。
15節では「言伝え」を守れと命じられます。ギリシャ語でパラドシス、「手渡されたもの」という意味です。人間の慣習ではなく、使徒から手渡された福音そのものを指しています。
そして章の結びが、この手紙で最も美しい部分だと思います。
どうか、わたしたちの主イエス・キリストご自身と、わたしたちを愛し、恵みをもって永遠の慰めと確かな望みとを賜わるわたしたちの父なる神とが、あなたがたの心を励まし、あなたがたを強めて(2:16-17)
不法の者について長々と語った後、パウロが祈ったのは「警戒しなさい」ではありませんでした。「慰めと望みが与えられますように」でした。
「永遠の慰め」——一時的な気休めではない慰め。
哀歌の書き手は、灰の中で望みを取りに行きました。テサロニケの信徒たちは、迫害とデマの中で恐れていました。
そして両方に、同じ答えが与えられています。望みは、状況から生まれるのではない。神ご自身から与えられるのです。
第四部|三つの箇所を貫くもの
「受くべき分」が、三段階で繰り上がっていく
今日の三箇所を並べたとき、最初に浮かび上がってくるのは「分け前」という主題です。
第一段階——土地。
あなたがたが足の裏で踏む所は皆、あなたがたのものとなり、あなたがたの領域は荒野からレバノンに及び、また大川ユフラテから西の海に及ぶであろう。(申命記11:24)
これは壮大な約束です。荒野からレバノンまで、ユーフラテスから地中海まで。彼らの相続分は、目に見え、足で踏め、境界線を引くことのできるものでした。
第二段階——神ご自身。
わが魂は言う、「主はわたしの受くべき分である、それゆえ、わたしは彼を待ち望む」と。(哀歌3:24)
そして彼らは、この土地を失いました。城壁は崩れ、神殿は焼かれ、民は連れ去られた。足の裏で踏んだ場所は、すべて他人のものになりました。
その廃墟で、彼らは口を開きます。「主はわたしの受くべき分である」。
これはやせ我慢ではありません。発見です。土地は失った。しかし相続分は失っていない。なぜなら本当の相続分は、土地ではなく、それを与えた方ご自身だったからです。
第三段階——キリストの栄光。
そのために、わたしたちの福音によりあなたがたを召して、わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせて下さるからである。(第二テサロニケ2:14)
そして新約に至って、パウロが書きます。あなたがたの取り分は、キリストの栄光であると。
土地 → 神ご自身 → キリストの栄光。
失ったように見えて、実は繰り上がっている。
土地は奪われうるものでした。しかし神ご自身は奪えません。そして最終的に与えられるのは、朽ちることのない栄光です。
【図解⑥|分け前の三段階】
天が閉じる、閉じたまま、そして裂ける
第二の糸は「天」です。
今日の三箇所は、天の状態によって並べ替えることができます。
天が閉じる。
おそらく主はあなたがたにむかい怒りを発して、天を閉ざされるであろう。(申命記11:17)
天が閉じたまま。
また雲をもってご自分をおおい、祈を通じないようにし(哀歌3:44)
哀歌のこの一節は、祈っている人にしか書けない言葉です。祈っていない人は、天が閉じていることに気づきません。彼は叫び続けたからこそ、届いていないことを知りました。
天が裂ける。
この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう。(第二テサロニケ2:8)
そして最後に、閉じていた天が破られます。しかも武力によってではなく、光の到来によって。
閉ざされた天の下で祈った人たちは、その祈りが無駄だったのでしょうか。哀歌3章55節から57節が答えています。
主よ、わたしは深い穴からみ名を呼びました。あなたはわが声を聞かれました……わたしがあなたに呼ばわったとき、あなたは近寄って、「恐れるな」と言われました。
44節では「祈が通じない」と言い、55節では「あなたは聞かれました」と言う。矛盾ではありません。そう感じることと、実際に届いていることは、別だということです。
すべての分岐点は「心」だった
第三の糸——そしておそらく、今日いちばん実際的な糸です。
三つの箇所は、まったく異なる時代・状況・文体で書かれています。それでも、危機の分岐点として指し示しているものは同じでした。心がどこを向くかです。
心は、放っておくと迷う。
あなたがたは心が迷い、離れ去って、他の神々に仕え、それを拝むことのないよう、慎まなければならない。(申命記11:16)
この「迷い」という語は、「そそのかされる、誘い出される」という意味を持ちます。心は自分で歩き出す。しかも、悪い方向へ。だからモーセは「慎まなければならない」と言いました。放置してはならない、と。
だから、意志で引き戻す。
しかし、わたしはこの事を心に思い起す。それゆえ、わたしは望みをいだく。(哀歌3:21)
先に見たとおり、この「思い起す」は「わたしの心へ呼び戻す」という使役の表現でした。彼の心は絶望のほうへ流れていた。彼はそれを、意志の力で引き戻したのです。
では、どうやって引き戻すのか。
ここで、同じ動作を実演している詩篇があります。詩篇77篇です。
この詩の前半は、哀歌3章とほとんど同じ場所から始まります。
わたしは悩みの日に主をたずね求め、夜はわが手を伸べてたゆむことなく、わが魂は慰められるのを拒む。(詩篇77:2)
慰めを求めていません。拒んでいます。ここで使われている「拒む」という語は、ヨセフが死んだと聞かされたヤコブが「慰められるのを拒んだ」(創世記37章35節)ときと同じ動詞です。ただし、両者には微妙な差があります。ヤコブは「自分を慰めること」を拒みました。詩人は「慰められること」そのものを拒んでいます。誰かが慰めに来ても、受け取る器がない——そういう状態です。
そして9節で、彼は問いの底に到達します。
神は恵みを施すことを忘れ、怒りをもってそのあわれみを閉じられたであろうか
ところが、その直後に転換が起こります。
わたしは主のみわざを思い起す。わたしは、いにしえからのあなたのくすしきみわざを思いいだす。わたしは、あなたのすべてのみわざを思い、あなたの力あるみわざを深く思う。(詩篇77:11-12)
二節のあいだに、「思う」という動詞が四回畳みかけられています。これは自然に思い出しているのではありません。思い出すという作業を、自分に課しているのです。
そして彼が具体的に何を思い起こしたかは、16節以降に書かれています。大水がおののき、雲が水を注ぎ、雷がとどろく——紅海です。
あなたの大路は海の中にあり、あなたの道は大水の中にあり、あなたの足跡はたずねえなかった。(詩篇77:19)
ここに、深い慰めがあります。
神は確かにそこを歩かれました。しかし足跡は残っていません。海が閉じたからです。
つまり——神の道は、通り過ぎた後には見えない。渡っている最中には、なおさら見えない。渡り終えて、ずっと後になって振り返り、「あそこを主が通してくださったのだ」とわかる。
だからこそ「思い起す」ことが必要なのです。今、道は見えません。けれどもあのとき見えなかった道を、神は確かに通された。その記憶だけが、次の暗闇を渡らせます。
そして詩篇77篇は、こう終わります。
あなたは、その民をモーセとアロンの手によって羊の群れのように導かれた。(詩篇77:20)
状況が好転したとは、一言も書かれていません。「導かれた」という過去形で、詩は閉じられるのです。哀歌3章とまったく同じ構造です。
ただし、ここで一つ加えておかなければならないことがあります。
聖書は、「思い起す」ことのできた人の詩だけを残したのではありません。
詩篇88篇は、エズラびとヘマンによる詩です。この詩篇には、他の嘆きの詩篇にある折り返しがありません。77篇には11節の転換がありました。哀歌3章には21節の「しかし」がありました。けれども88篇には、それがない。
そして、こう終わります。
あなたは愛する者と友とをわたしから遠ざけ、わたしの知り人を暗やみにおかれました。(詩篇88:18)
「暗やみ」という語で、詩が閉じられる。聖書全体でも、これほど救いのない結び方をする章はほとんどありません。
けれども神は、この詩を正典から外されませんでした。折り返せなかった夜も、聖書の中に残されたのです。
もし今、「思い起そうとしても、何も出てこない」という方がおられるなら、覚えていてください。その夜の言葉も、すでに神の書物の中にあります。あなたは、聖書の外にいるのではありません。
エレミヤ自身も、そうでした。エレミヤ書20章13節で「主に向かって歌え。主をほめたたえよ」と賛美へ転じた直後の14節で、「わたしの生れた日はのろわれよ」と、もう一度崩れ落ちています。
きれいに折り返せた日と、折り返せなかった日。その両方を抱えた同じ人が、哀歌3章で「主のあわれみは朝ごとに新しい」と書いたのです。
最後に問われるのは、心が何を愛するか。
彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。(第二テサロニケ2:10)
パウロは「真理を知らなかった」とは書きませんでした。「真理に対する愛」を受け入れなかった、と書いています。
知識の問題ではありません。心が何に向かっているか、何を愛しているかの問題です。
千数百年を隔てて、モーセとパウロは同じことを言っています。心を放置するな。
【図解⑦|心をめぐる三つの箇所】
バビロン捕囚は、終末の縮小模型である
もう一つ、今日の三箇所を並べて初めて見えることがあります。
哀歌に描かれた出来事と、第二テサロニケに預言された出来事は、同じ形をしているのです。
神の宮が汚される。民が散らされる。偽りが力を持つ。しかし残りの者が守られ、最後に神が介入される。
聖書の預言には、この構造が繰り返し現れます。近い成就と、遠い成就が、同じ言葉の中に畳み込まれているのです。
イザヤ7章のインマヌエル預言は、アハズ王の時代に一度成就し、そして処女降誕においてもう一度成就しました。詩篇22篇はダビデ自身の苦難を歌いながら、十字架の細部を描いています。ダニエル11章の「荒らす憎むべきもの」は、紀元前167年にアンティオコス・エピファネスという王が神殿に異教の祭壇を築いた事件で一度成就し、そしてイエスはマタイ24章で、それがなお将来に起こると語られました。
第二テサロニケ2章4節「自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する」——パウロは、ダニエル書とイエスの言葉を下敷きにして書いています。
つまりバビロン捕囚は、終末の縮小模型なのです。
このことは、哀歌の読み方を変えます。哀歌は、二千五百年前に終わった過去の記録ではありません。同じ形のことが、規模を変えて、もう一度起こる。だから哀歌は、予告編でもあるのです。
そしてもう一つ。哀歌を読むということは、その先に何が来たかを知りながら読むということでもあります。捕囚は七十年で終わりました。民は帰りました。神殿は再建されました。そして、その神殿の庭を、ナザレのイエスが歩かれました。
哀歌4章22節は、廃墟のただ中で書かれています。
シオンの娘よ、あなたの不義の罰は終った。
「終った」——ヘブライ語では「完了した」という語です。
まだ何も終わっていない朝に、書き手はそう書きました。そして数百年後、エルサレムの城壁の外で、一人の方が同じ意味の言葉を語られます。
「完了した」(ヨハネ19:30)。
今日、天が閉じているように感じている人へ
最後に、適用を記しておきたいと思います。
今日の三つの箇所には、共通する一つの状況があります。まだ解決していないという状況です。
申命記の民は、まだ約束の地に入っていません。ヨルダン川の東岸にいます。
哀歌の書き手は、廃墟の中にいます。捕囚は終わっていません。
テサロニケの信徒たちは、迫害の中にいます。主の日はまだ来ていません。
そして三箇所すべてが、解決の前に、望みを語っているのです。
哀歌の書き手は、飢餓と死のただ中で「主のあわれみは朝ごとに新しい」と書きました。詩篇77篇の詩人は、眠れない夜のまま「神は導かれた」と書きました。パウロは、迫害されている教会に「永遠の慰めと確かな望み」を祈りました。
彼らは、状況が良くなったから望みを持ったのではありません。
望みを、取りに行ったのです。
もし今、この記事を読んでおられる方の中に、天が閉ざされているように感じている方がいるなら、覚えていただきたいことがあります。
心は、放っておけば絶望のほうへ流れます。それは弱さではなく、人間の心の性質です。
だから哀歌の人は、心を引き戻しました。詩篇77篇の人は、神の御業を四回も数え直しました。方法は決まっています。抽象的に前向きになるのではなく、神が実際になさったことを、具体的に一つずつ数えることです。
そして、今日はそれができないという方は、詩篇88篇の場所にいてかまいません。あの詩篇も、朝を待っています。
紅海が割れたこと。あの祈りが聞かれたこと。あの時、あそこを通してもらったこと。
海が閉じた後、足跡は残りません。けれども、渡ったという事実は残ります。
そして最も大きな御業は、すでに起きました。閉ざされていた天は、一度裂けたのです。ベツレヘムで。そしてゴルゴタで。
主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。(哀歌3:22-23)
明日の朝も、そのあわれみは新しいままそこにあります。それは私たちの状態によって減りも増えもしません。
私たちがすることは、それを取りに行くことだけです。
本日の語彙表
【ヘブライ語】
| 原語 | カタカナ発音 | 意味 |
| שְׁמַע | シェマ | 聞け |
| יוֹרֶה | ヨレ | 秋の雨・初めの雨(「教える」と同語根) |
| מוֹרֶה | モレ | 教師(ヨレと同語根) |
| מַלְקוֹשׁ | マルコシュ | 春の雨・後の雨 |
| וְנָתַתִּי | ヴェナタッティ | わたしは与える(一人称) |
| יִפְתֶּה | イフテー | 迷う・そそのかされる |
| טֹטָפֹת | トータフォート | 額の覚え(テフィリンの語源) |
| מְזוּזֹת | メズーゾート | 門柱(メズーザーの語源) |
| גֶּבֶר | ゲベル | 力ある男・戦士 |
| חֶסֶד | ヘセド | 契約に基づく、やめない愛 |
| רַחֲמִים | ラハミーム | あわれみ(「胎」と同語根) |
| אֱמוּנָה | エムーナー | 真実・誠実(アーメンと同語根) |
| חֶלְקִי | ヘルキー | わたしの受くべき分(民数記18:20と同語) |
| אָשִׁיב | アシーヴ | わたしは呼び戻す(使役形) |
| לַעֲנָה | ラアナー | にがよもぎ |
| מָשִׁיחַ | メシーアハ | 油そそがれた者 |
| תַּם | タム | 完了した |
| אֶזְכּוֹר | エズコール | わたしは思い起す |
| מֵאֵן | マーエン | 拒む |
| חֹשֶׁךְ | ホーシェク | 暗やみ |
【ギリシャ語】
| 原語 | カタカナ発音 | 意味 |
| παρουσία | パルーシア | 来臨(到着と滞在の両方) |
| ἀποστασία | アポスタシア | 背教(いた場所から離れる) |
| ἀνομία | アノミア | 不法(律法がない) |
| υἱὸς τῆς ἀπωλείας | ヒュイオス・テース・アポーレイアス | 滅びの子(ヨハネ17:12と同一表現) |
| ναός | ナオス | 神の宮(本殿・至聖所) |
| τὸ κατέχον | ト・カテコン | 阻止しているもの(中性) |
| ὁ κατέχων | ホ・カテコーン | 阻止している者(男性) |
| μυστήριον | ミュステーリオン | 秘密(啓示によって明かされる) |
| ἐπιφάνεια | エピファネイア | 輝き・顕現 |
| ἀγάπη τῆς ἀληθείας | アガペー・テース・アレーセイアス | 真理に対する愛 |
| πλάνη | プラネー | 惑わし・さまよい |
| περιποίησις | ペリポイエーシス | 獲得・所有(取り分として得る) |
| παράδοσις | パラドシス | 手渡されたもの・言伝え |
| παράκλησις | パラクレーシス | 慰め・励まし(傍らに呼ぶ) |
※本記事の聖書引用は口語訳聖書(日本聖書協会、1955年)によります。

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