聖書通読2026.8.1 申命記7章12〜26節・エレミヤ42〜43章・Ⅰテサロニケ1章 三つの「帰る」――出た民、戻った民、立ち帰った民――

エレミヤ書
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三つの「帰る」――出た民、戻った民、立ち帰った民――

エジプトを出た民に「恐れるな」と語られた神。その同じ命令が、なぜバビロンを恐れた民には届かなかったのか。エジプトの偶像を焼いたのは、イスラエルではなく、なぜ異教の王だったのか。そして、エレミヤが生涯かけて叫び続けても実を結ばなかった「帰れ」という言葉は、なぜ数百年後の異邦の町で実を結んだのか。三つの箇所を貫く「帰る」という一つの動詞をたどりたい。

※本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。

【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。

【第一部】トーラー――申命記7章12〜26節

恐れるな、と七度

申命記7章の後半は、一つの命令が形を変えながら繰り返される。「恐れてはならない」。18節、21節。そして17節では、民自身の心の声として先にその恐れが引用されている。

「これらの国民はわたしよりも多いから、どうしてこれを追い払うことができようか」

数の論理で言えば、民の恐れは正当だった。カナンの地には、イスラエルよりも大きく強い国々がいる。恐れること自体は、非合理ではない。

だが神の答えは、恐れの根拠を否定することから始まらない。恐れの対象を、覚えるべき記憶へとすり替えることから始まる。

「あなたの神、主がパロと、すべてのエジプトびととにされたことを、よく覚えなさい」(18節)

恐怖に対する処方箋は「大丈夫、彼らは弱い」という気休めではない。「あなたは既に、もっと大きなものが崩れるのを見た」という記憶の再生だった。恐れを消すのではなく、恐れよりも大きな記憶で上書きする。これは現代の私たちの不安にもそのまま当てはまる構造ではないだろうか。

少しずつ、という配慮

22節に、見過ごしやすいが極めて重要な一節がある。

「あなたの神、主はこれらの国民を徐々にあなたの前から追い払われるであろう」

徐々に――ここで注目したいのは、この言葉の理由まで神が丁寧に説明している点である。

「そうでなければ、野の獣が増してあなたを害するであろう」

一気に敵を滅ぼし尽くせば、土地は空白になる。空白になった土地は、管理者を失い、獣の領域になる。征服する力と、統治する力は、同じ速さでは育たない。神はイスラエルにその二つが追いつくまでの時間を、あらかじめ計算に入れておられる。

これは弱さへの妥協ではない。むしろ、性急な勝利がもたらす別の危険を見抜いた上での、深い配慮である。信仰の歩みにおいても、すべてが一瞬で解決することを願う心はあるが、神が備えられる歩幅には、いつも理由がある。

原語のニュアンスをここで少しだけ紹介したい。この「徐々に」に当たる言葉は、日本語訳では一語だが、原文では同じ語が重ねて使われている。「少しずつ、少しずつ」というふうに、二度繰り返す形になっている。急かされない歩みそのものが、言葉のリズムとして表現されているのは興味深い。

【図解】「恐れるな」構造図(17〜24節の対句構成)/候補地点

申命記7章17〜24節
「恐れるな」の構造
民の心の声(17節)
「これらの国民はわたしよりも多いから、
どうしてこれを追い払うことができようか」
三つの禁止命令
彼らを見て「あわれんではならない」(16節)
彼らの神々に「仕えてはならない」(16節)
彼らを「恐れてはならない」(18・21節)
共通の根:対象を過大評価し、
神への信頼より状況の評価を優先させる心
神の答え(18・21節)
恐れを消すのではなく、
「あなたは既に、もっと大きなものが崩れるのを見た」
という記憶で上書きする。
恐れの矛先を、敵国から
「あなたのうちにおられる大いなる神」へ変える。
聖書の名言集|tehiri-mu.com

恐れるべきでないものと、恐れるべきもの

16節から24節までを読むと、この箇所が一つの対句構造を持っていることに気づく。

・「彼らを見てあわれんではならない」(16節)

・「彼らの神々に仕えてはならない」(16節)

・「彼らを恐れてはならない」(18節、21節)

三つの禁止は、実は一つの根に繋がっている。あわれみも、服従も、恐れも、すべて対象を過大評価するところから始まるという点である。あわれみは相手を弱く見て生まれるようでいて、実は自分の判断を相手の状況より優先させる行為でもある。恐れは相手を強く見すぎることから生まれる。どちらも、神への信頼よりも、目に見える状況の評価を優先させてしまう心の動きだと言える。

21節はこの構造の要となる一節である。

「あなたの神、主である大いなる恐るべき神があなたのうちにおられるからである」

恐れという感情そのものを否定するのではなく、恐れの矛先を変える。恐れるべき対象は敵国ではなく、共にいてくださる神ご自身である、と。これは恐れを消すための言葉ではなく、恐れを正しい場所に置き直すための言葉なのかもしれない。

偶像を焼くこと、家に持ち込まないこと

25節から26節にかけて、命令はより具体的になる。

「あなたは彼らの神々の彫像を火に焼かなければならない。それに着せた銀または金をむさぼってはならない」

戦利品として偶像の金銀を持ち帰ることへの、明確な禁止である。理由はこう続く。

「これはあなたの神が忌みきらわれるものだからである」

そして26節、「忌むべきものを家に持ちこんで」はならないという命令が続く。これは単なる物理的な偶像の禁止に留まらない。滅ぼしたはずの敵の価値観や生活様式が、戦利品という形で静かに家の中に入り込んでくることへの警告として読むこともできる。

征服した相手を打ち破ることと、その相手の価値観に染まらないことは、まったく別の戦いである。前者は一度の勝利で終わるが、後者は日々の選択の中で続いていく。

【第二部】旧約――エレミヤ記42〜43章

十日待てた人々が、十秒待てなかった話

エルサレムが陥落し、神殿が焼かれた後――生き残った人々の指導者たちが、預言者エレミヤのもとに来る。彼らの言葉は、一見すると信仰深く見える。

「もし、あなたの神、主があなたをつかわしてお告げになるすべての言葉を、われわれが行わないときは、どうか主がわれわれに対してまことの真実な証人となられるように。……われわれは良くても悪くても、われわれがあなたをつかわそうとするわれわれの神、主の声に従います」(42:5-6)

これほど強い誓いは、聖書の中でもそう多くない。「良くても悪くても」という言葉には、あらかじめ結果を選ばない覚悟が込められている。

エレミヤは10日間、祈って答えを待つ(42:7)。この沈黙の長さは、決して不親切さの表れではない。むしろ民に、自分たちの誓いをもう一度心の中で確かめる時間として与えられたのではないだろうか。

そして答えが来る。「この地にとどまりなさい。バビロンの王を恐れてはならない」(42:10-11)。

これは、今日の第一部で見た申命記7章とほぼ同じ構造の命令である。「恐れてはならない」――ただし対象が、カナンの国々からバビロンの王へと変わっている。

ところが民の反応は一変する。

「あなたは偽りを言っている」(43:2)

十日待てた人々が、十秒、答えを受け入れることができなかった。ここで注目したいのは、彼らが求めていたのが本当に「神の答え」だったのか、それとも「自分の望む答えへの承認」だったのか、という問いである。祈りの姿勢として、これは自分自身にも突きつけられる問いだと思う。

誰が、どちら側なのか――人物整理

この箇所は登場人物が多く、混乱しやすい。ここで一度、立場ごとに整理しておきたい。

【図解】人物相関図(ヨハナン陣営/ゲダリヤ家系/預言者側)候補地点

エレミヤ記42〜43章
誰が、どちら側なのか
神の言葉に従おうとした側
エレミヤ(預言者)
10日間祈り、人気のない答えでも隠さず告げる(42:4-7)
バルク(書記)
エレミヤの側近というだけで
根拠なく「そそのかした」と疑われる(43:3)
神の言葉を退けた側
ヨハナン(軍勢の長)
暗殺計画を警告し、捕虜を奪還した実績ある人物。
「良くても悪くても従う」と誓いながら(42:6)、
答えを聞いた瞬間に拒否し、預言者ごとエジプトへ(43:6-7)
アザリヤ
真っ先に「あなたは偽りを言っている」と言い放つ(43:2)
三代にわたり神の言葉の側に立った家系(暗殺され不在)
祖父 シャパン——律法の書を王の前で読んだ書記官
父  アヒカム——エレミヤを殺されかけたところから守った
本人 ゲダリヤ——バビロン任命の総督、暗殺される(41章)
神の主権の下で用いられる異邦人
ネブカデレザル(バビロン王)
偶像を拝む征服者でありながら、
神から「わたしのしもべ」と呼ばれる(43:10)
聖書の名言集|tehiri-mu.com

神の言葉に従おうとした側

エレミヤは、この場面全体を通して一貫している。人気のない答えでも、隠さずそのまま告げる(42:4)。バルクはエレミヤの書記であり、43章では「バルクがあなたをそそのかしている」と根拠のない疑いをかけられる(43:3)。神の言葉を語る者のそばにいる人物が、槍玉に挙げられるという構図は、聖書の中で繰り返し見られるパターンである。

神の言葉を退けた側

ヨハナンは軍勢の長として、それまでの行動だけを見れば有能で誠実な人物に映る。暗殺計画を事前に警告し、犯人を追撃し、捕虜を取り戻してもいる(41章)。だが「良くても悪くても従います」と誓っておきながら、答えが気に入らないと分かった瞬間、預言者ごとエジプトへ連れて行ってしまう(43:6-7)。過去の実績や誠実そうな言葉が、従順そのものを保証するわけではない、という重い事実がここにある。

アザリヤは、43章で真っ先に「偽りだ」と言い放つ人物である。

神の主権の下で用いられる異邦人

ネブカデレザル――バビロンの王でありながら、43章10節では驚くべき呼び方をされている。「わたしのしもべ」。偶像を拝む征服者に、アブラハムやモーセに使われてきたのと同じ称号が与えられる。神の主権は、信じる者・信じない者という境界の外側にも及ぶという事実を、この一語が静かに語っている。

エジプトへ「帰る」ことの重さ

43章8節から13節、エレミヤはタパネス(エジプト北東部の国境の町)で、ある象徴的な行動を命じられる。パロの宮殿の入口の敷石の下に、大きな石を隠すのである。それはやがてこの場所に、バビロン王ネブカデレザルの王座が据えられることを示す、無言の預言だった(43:10)。

逃げ込んだ場所が、追いつかれる場所になる。

そして13節には、もう一つ見過ごせない一節がある。

「彼はエジプトの神々の宮に火をつけてこれを焼き」

今日の第一部、申命記7章25節を思い出してほしい。「彼らの神々の彫像を火に焼かなければならない」――それは、本来イスラエル自身が果たすべき務めだった。ところが彼らはそれを果たさず、代わりに異教の王が、エジプトの神々を焼くことになる。

ここで重要な区別がある。神はイスラエルに向かって「エジプトの神々を焼け」とは一言も命じていない。神が語ったのは「わたしはネブカデレザルを送る」という主権の宣言である。イスラエルの民はこの場面、裁きを実行する側ではなく、その裁きが降りかかる土地に、自分の意志で足を踏み入れてしまった側として登場している。もしイスラエルが自分の手でエジプトの神々を焼いていたら、それは異邦の地における武力行為として、後の世代にまで語り継がれる非難の種になっていたかもしれない。だが神は、その裁きをご自分の主権の中に留め、歴史という別の経路――バビロンという第三者の手――を通して果たされた。

正しいことであっても、それを誰が、どの立場で行うかによって、証しにも躓きにもなる。神の命令は、命じられた者が果たさなければ消えてなくなるわけではない。しかしそれを人が自分の手で、自分の判断で奪い取ろうとするとき、そこに歪みが生じる。ここに、聖書全体を貫く一つの法則が透けて見える。

【第三部】新約――Ⅰテサロニケ人への手紙1章

パウロが数週間で見た実

パウロがテサロニケに滞在したのは、使徒の働きによれば決して長い期間ではなかった。それでも、この手紙の冒頭には、驚くほど確かな信頼の言葉が並ぶ。

「わたしたちは……あなたがたの信仰の働きと、愛の労苦と、わたしたちの主イエス・キリストに対する望みの忍耐とを……絶えず思い起している」(1:3)

信仰・愛・望み。この三つ組は、パウロの手紙の中で繰り返し現れる組み合わせだが、ここでは単なる美しい言葉として並んでいるのではない。それぞれに「働き」「労苦」「忍耐」という、行動を伴う言葉が添えられている点に注目したい。信仰は働きとして、愛は労苦として、望みは忍耐として、目に見える形をとるという理解が、ここには示されている。

力によらず、言葉だけによらず

5節には、この教会の始まりの様子が記されている。

「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたとき、それは言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによったからである」

「言葉だけによらず」という表現は、言葉を軽んじる意味ではない。むしろ、言葉が語られたときに、それが単なる情報の伝達にとどまらず、聞く者の内側に確信を生み出す何かを伴っていたということを語っている。

6節には、さらに興味深い一節が続く。

「あなたがたは、多くの患難の中で、聖霊による喜びをもって御言を受けいれ」

患難の中での喜び、という組み合わせは、一見すると矛盾しているようにも読める。だが聖書全体を通して見ると、この二つが並んで語られる場面は決して珍しくない。外側の状況と、内側の喜びが、必ずしも連動しないことがあるという事実は、信仰者にとって一つの慰めになりうる。

「立ち帰る」という一語

そして9節、今日の三箇所を結びつける、最も重要な一節がここにある。

「あなたがたが、どんなにして偶像を捨てて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになり」

「立ち帰る」――この日本語訳の言葉を、まずそのまま受け取ってほしい。捨てて、向きを変えて、帰る。この一語には、単に「信じ始めた」という以上の、方向転換の重みが込められている。

ここでカタカナ発音を紹介したい。この語はギリシャ語で「エピストレフォー」という。「向きを変える」「戻る」という意味を持つ動詞である。

そして、この語には興味深い背景がある。旧約聖書がギリシャ語に翻訳された際(七十人訳と呼ばれる古い翻訳)、この「エピストレフォー」は、ヘブライ語のある一語の訳語として繰り返し使われてきた。その語こそ――「シューヴ」、「帰れ」である。

エレミヤ書全体を思い出してほしい。エレミヤという預言者の生涯は、この「シューヴ、帰れ」という一語の叫びに要約できると言っても過言ではない。同胞に向かって、何度も何度も「帰れ」と呼びかけ続けた預言者だった。だが今日の第二部で見た通り、彼の同胞は帰らず、むしろエジプトへと逆方向に進んでいった。

そのエレミヤが、生涯をかけて叫び続けても実を結ばなかったその同じ言葉が、彼が一度も見ることのなかった数百年後の、遠い異邦の町で、静かに実を結んでいる。テサロニケの人々は、偶像を「捨てて」、神に「立ち帰った」。

預言者が地上で見ることのできなかった実りが、時代と民族の境界を越えて、思いがけない場所で結ばれる。これは、蒔かれた言葉の行方について、深く考えさせられる事実ではないだろうか。

待ち望むという姿勢

10節では、テサロニケの人々の信仰が、未来へと開かれていることが記される。

「死人の中からよみがえった神の御子、すなわち、わたしたちをきたるべき怒りから救い出して下さるイエスが、天から下ってこられるのを待つようになった」

「待つ」という一語で、この章は締めくくられる。偶像を捨て、神に立ち帰り、そして今度は、まだ見ぬ完成を待ち望む――この一連の流れは、信仰の歩みそのものの縮図のようにも見える。

【三箇所を貫く神の一貫性】三つの「帰る」

今日の三箇所は、方向のまったく異なる「帰る」を描いている。

申命記7章では、まだエジプトを出たばかりの民に、神が繰り返し語る。「恐れてはならない」「彼らの神々の彫像を火に焼かなければならない」。これは、これから約束の地に入っていく民への、前を向いた委任だった。自分の手で、偶像と決別しなさい、と。

だがエレミヤ42〜43章では、その約束の地を出て、逆方向に進む民の姿が描かれる。バビロンを恐れ、預言者の言葉を退け、自分たちの意志で、かつて先祖が導き出されたエジプトへと戻っていく。申命記が「出よ」と語った方向を、彼らは自分の判断で巻き戻してしまった。

そして、ここに今日見えてきた大切な鍵がある。申命記で「あなたが行いなさい」と委ねられていた「偶像を焼く」という行為は、エレミヤの時代の民自身の手では、ついに果たされなかった。代わりにそれを果たしたのは、彼らが逃げ込んだ先の国を治める、異教の王ネブカデレザルだった。

イスラエルの民が自分の手でエジプトの神々を焼いていたら、それは異邦の地における武力的な破壊行為となり、後の世代にまで語り継がれる非難の種になっていたかもしれない。だが神は、その裁きをご自分の主権の中に留め、歴史という別の経路――バビロンという第三者の手――を通して果たされた。正しいことであっても、それを誰が、どの立場で行うかによって、証しにも躓きにもなる。この一点に、今日の学びの重みが集約されている。

Ⅰテサロニケ1章は、この二つの「帰る」に対する、第三の答えのように読める。テサロニケの人々もまた、偶像を持つ民だった。しかし彼らに起こったことは、外側からの武力的な破壊ではなく、内側からの方向転換だった。

「あなたがたが、どんなにして偶像を捨てて神に立ち帰り」(9節)

ギリシャ語エピストレフォー、ヘブライ語シューヴ――エレミヤが生涯をかけて同胞に呼びかけ続けながら、ついに聞かれることのなかったその言葉が、彼が一度も見ることのなかった遠い異邦の町で、静かに実を結んでいる。

三つの箇所を並べると、一つの原則が浮かび上がってくる。偶像との決別は、いつの時代も神の御心である。しかしその決別を、誰が、どのように成し遂げるかは、時代によって形を変える。かつては征服という形で委ねられたこともあった。だが人がその裁きの座を自分のものとして奪おうとするとき、それは容易に歪んでしまう。エレミヤの時代の民がまさにそうだった。自分の判断で行動し、自分の判断で神の言葉を退け、その結果、裁きを免れるはずの場所で裁きに追いつかれた。

新約に生きる私たちに委ねられているのは、剣ではなく、証しである。偶像を焼く手ではなく、偶像を捨てさせる言葉である。テサロニケの人々が変えられたのは、パウロが武力を持ち込んだからではなく、「言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによって」(1:5)福音が届けられたからだった。

裁きは、主のものである。私たちに委ねられているのは、その日を待ち望みながら、目の前の一人に、まことの神への「立ち帰り」を指し示すことなのだと思う。

【図解】三方向の「帰る」概念図 候補地点(申命記→エジプトを出る/エレミヤ→エジプトへ戻る/テサロニケ→偶像から立ち帰る)

申命記7章・エレミヤ42〜43章・Ⅰテサロニケ1章
三つの「帰る」
申命記7章
エジプト → 約束の地
「出よ」という前向きの委任。
自分の手で偶像と決別しなさい、と語られる。
エレミヤ42〜43章
約束の地 → エジプト(逆行)
民は自らの意志で後戻りする。
委ねられた「偶像を焼く」務めは、
民の手ではなくバビロンの王によって果たされる。
Ⅰテサロニケ1章
偶像 → 生けるまことの神
外側からの破壊ではなく、内側からの方向転換。
エレミヤが叫び続けて実らなかった「帰れ」が、
数百年後、異邦の地で実を結ぶ。
一つの原則
偶像との決別は、いつの時代も神の御心。
しかしそれを誰が、どう成し遂げるかは、
時代によって形を変える。
新約に委ねられているのは、剣ではなく証しである。
聖書の名言集|tehiri-mu.com

語彙表

ヘブライ語

原語カタカナ発音意味
מְעַט מְעַט(メアト メアト)メアト メアト少しずつ、少しずつ(申命記7:22)
שׁוּב(シューヴ)シューヴ帰る、立ち帰る(エレミヤ書全体のキーワード)
זֵדִים(ゼーディーム)ゼーディーム高慢な者、自分の判断を神より上に置く者(エレミヤ43:2)

ギリシャ語

原語カタカナ発音意味
ἐπιστρέφω(エピストレフォー)エピストレフォー向きを変える、立ち帰る(Ⅰテサロニケ1:9)

※原語の表記・発音はClaude(AI)の支援を得てまとめています。発音はおおよそのカタカナ表記です。

本記事の聖書本文は、日本聖書協会発行の口語訳聖書(1954・1955年発行)を使用しています。著作権の保護期間(財産権)は満了していますが、本文の改変は行っておりません。※聖書語句訂正一覧に該当する語句は使用しておりません。

🌱 聖書を初めて読む方へ
同じ通読箇所を、聖書の専門用語を知らない方のために再構成したnote記事もあります。原語の表は省きましたが、聖書解説の深さは変わりません
聖書を初めて読みたい方、ご家族やご友人に紹介したい方は、ぜひこちらからどうぞ。
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