聖書通読2026.4.14 レビ記10章・詩篇86-87篇・使徒5章 聖なるものに近づくとき——アロンの沈黙、シオンの登録、使徒たちの喜び——

レビ記
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——アロンの沈黙、シオンの登録、使徒たちの喜び——

2026年4月14日 レビ記10章12-20節・詩篇86篇・87篇・使徒5章

【はじめに】

律法の言葉は厳格なのに、なぜモーセはアロンの答えを聞いて黙ったのか。異邦人がシオンで生まれた者として登録されるとはどういう意味か。使徒たちはなぜ、むち打たれた後に喜ぶことができたのか。

※本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。

【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。


第一部:レビ記10章12〜20節——律法の厳格さと神の人情

祭司が「食べる」という行為の神学的意味

レビ記10章は、ナダブとアビフの死という衝撃的な出来事の直後から始まる。アロンとその残された息子たち——エルアザルとイタマル——は、ただちに祭司としての職務に戻ることを求められた。

ここで注目したいのは、モーセが穀物のささげ物と罪のためのいけにえについて、二つの異なる指示を与えている点だ。

**穀物のささげ物(10:12-15)**については、祭司の取り分として「聖なる所で食べなさい」と命じられる。この「聖なる所」は会見の天幕の周辺を指し、最も聖なるものは幕屋の中でのみ食べることができた。

**脂肪(חֵלֶב / ヘレブ)**については、「脂肪はすべて主のもの」(レビ7:23)という原則がある。レビ記10:15の構造はこうだ。脂肪・胸・ももは同じいけにえの構成要素として一体で主の前に持って来られる。胸は「揺り動かし(テヌファー)」、ももは「奉納(トゥルマー)」として捧げられ、脂肪はその後祭壇で焼かれる。

【ヘブライ語表:חֵלֶב/ヘレブ/脂肪(内臓脂肪・腎臓の脂肪・肝臓の小葉)、תְּנוּפָה/テヌファー/揺り動かし(胸の捧げ方)、תְּרוּמָה/トゥルマー/奉納(ももの捧げ方)】

この分配には深い神学的秩序がある。

【分配表:脂肪(最良の部分)/神への全献身/主のもの・焼却、胸(心・愛の象徴)/共同体への愛/祭司の共同体へ、もも(力・歩みの象徴)/奉仕の力/奉仕者へ】

※ここに図解④「いけにえの分配構造」を挿入

これは矛盾ではなく秩序だ。最良のものは神へ、次に共同体へ、そして奉仕者へという流れは、今日の礼拝と奉仕の構造にも通じる。


「食べる」ことは「担う」こと——ナーサーの神学

モーセが罪のためのいけにえのやぎをめぐって怒った場面(10:16-18)は、一見厳しすぎる叱責に見える。しかしここには重要な祭儀的論理がある。

レビ記6:30の原則:血が聖所の中に持ち込まれた場合は食べてはならない(焼却)。逆に血が外で処理された場合は、祭司が聖なる場所で食べなければならない。

【規定表:血が聖所に持ち込まれた場合/食べてはならない・焼却、血が聖所に持ち込まれなかった場合/祭司が聖所で食べなければならない】

※ここに図解②「血の扱いと祭司の規定」を挿入

今回の場合、血は聖所に持ち込まれていない。したがって祭司が食べることが律法上の要請だった。

ここで鍵となるのが、モーセの言葉だ。「それは会衆の咎を除き、主の前で彼らのために贖いをするために、あなたがたに賜ったのだ」(10:17)。

この「咎を除き」と訳されているヘブライ語が נָשָׂא(ナーサー) だ。

【ヘブライ語表:נָשָׂא/ナーサー/担う・負う・取り去る/レビ10:17「咎を除き」・イザヤ53:4「悲しみを担い」・イザヤ53:12「罪を負った」】

「咎を除く」という訳語は一見すると消去のイメージだが、原語は身体的に引き受ける・重荷を背負うという動作を意味する。咎が消えるのではなく、誰かが引き受けるのだ。

祭司が食べることは単なる食事ではない。会衆の罪を「担う(ナーサー)」という代理的行為だ。食べることで贖罪のプロセスが完結する。食べなければ、罪は誰にも担われないまま宙に浮く——だからモーセは怒った。

そしてイザヤ53章の「苦しみの僕」が「罪を負った(ナーサー)」と言われるとき、まさにこのレビ記の祭司の役割がキリストにおいて成就している。祭司が肉を食べることで会衆の罪を担ったように、キリストは十字架において全人類の罪を担われた。

※ここに図解①「ナーサーの成就ライン」を挿入


アロンの沈黙と神の人情

しかしアロンは答えた。「こういうことが私の身にふりかかったのです。もし今日私が罪のためのいけにえを食べていたら、主のみこころにかなったのでしょうか」(10:19)。

肉親を失った当日。律法の文字通りには食べるべきだった。しかしアロンは正直に問い返した。するとモーセは「それでよいとした」。

この場面に、律法の厳格さの中に宿る神の人情が見える。神は律法の文字より、人の魂の状態を見ておられる。悲しみの中にある者に、無理な聖潔を強いない。正直に限界を告白した者には、理解が返ってくる。

これはキリストにおいて完全に成就する。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」(ヘブル4:15)

アロンが食べられなかったその重さを、キリストは知っておられる。律法の要求と人間の限界の間に立ち、両方を知り尽くした大祭司として。

נָשָׂא(ナーサー)の成就ライン

レビ記 10:17
נָשָׂא ナーサー「担う・負う」
祭司がいけにえの肉を食べることで、会衆の罪を「担う」
「それは会衆の咎を除き(ナーサー)、主の前で彼らのために贖いをするために与えられた」
イザヤ書 53:4
נָשָׂא ナーサー「担う・負う」
苦しみの僕が、私たちの病と悲しみを「担う」
「まことに、彼は私たちの病を担い(ナーサー)、私たちの悲しみを負った」
イザヤ書 53:12
נָשָׂא ナーサー「担う・負う」
多くの人の罪を「担い」、とりなしをする
「彼は多くの人の罪を担い(ナーサー)、そむいた者たちのためにとりなしをする」
成就
十字架の成就
キリストが完全に担われた
レビ記の祭司が肉を食べることで会衆の罪を担ったように、キリストは十字架において全人類の罪を完全に担われた。律法の型が、救い主において成就した。

血の扱いと祭司の規定

レビ記6:30 / レビ記10:16-18 の祭儀的論理
前提
罪のためのいけにえがささげられた
血は聖所の中に持ち込まれたか?
はい(持ち込まれた)
❌ 食べてはならない
レビ記6:30
血は神の前に直接持ち込まれた。肉は火で完全に焼却する。
血が神に直接帰属したため、祭司が担う必要がない。
いいえ(持ち込まれなかった)
✅ 祭司が聖所で食べなければならない
レビ記10:17-18
血は外で処理された。肉は祭司が聖なる場所で食べる。
食べることで祭司が会衆の罪を「担う(ナーサー)」。贖罪が完結する。
レビ記10章でモーセが怒った理由
今回の罪のためのいけにえの血は、聖所に持ち込まれていなかった。 したがって祭司が食べることが律法の要請だった。 しかしエルアザルとイタマルは食べなかった——贖罪のプロセスが未完了になる。 だからモーセは怒った。

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第二部:詩篇86篇・87篇——シオンで生まれた者として

詩篇86篇——ダビデの祈りの構造

詩篇86篇は、150篇の詩篇の中で「ダビデの祈り」という標題を持つ唯一の詩篇だ。内容を見ると、これは個人的な嘆きの祈りでありながら、驚くほど普遍的な神学を含んでいる。

【構造表:第一連/1-7節/嘆願——「私は悩み、貧しい」、第二連/8-10節/賛美——「あなたに並ぶ者はない」、第三連/11-13節/献身——「あなたの道を教えてください」、第四連/14-17節/再び嘆願——「高ぶる者が私を攻める」】

注目したいのは11節だ。

「主よ。あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。」

「私の心を一つにしてください」——ヘブライ語では יַחֵד לְבָבִי(ヤヘッド・レヴァヴィ) だ。

【ヘブライ語表:יַחֵד/ヤヘッド/一つにする・統一する、לֵבָב/レヴァヴ/心・内なる人】

「心を一つにする」とは、分裂した心、二つの方向を向いた心を、神への畏れという一点に統合することを求める祈りだ。ヤコブ書1:8の「二心の人」(δίψυχος / ディプシュコス)と対照をなす。ダビデは自分の心が常に一方向を向いていないことを知っていた。だからこそ、神に「一つにしてください」と祈った。

これは今日の信仰者にとっても切実な祈りではないだろうか。礼拝しながら別のことを考える。祈りながら心が散らばる。ダビデのこの祈りは、信仰の誠実さを求める普遍的な告白だ。


詩篇86:15——神の本質の宣言

14節で「高ぶる者どもが私に逆らって立ち」と敵の脅威を語った直後、15節でダビデは鋭く転換する。

「しかし主よ。あなたは、あわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられます。」

この言葉は出エジプト記34:6のモーセへの神の自己啓示と完全に一致する。

【ヘブライ語表:רַחוּם/ラフーム/あわれみ深い、חַנּוּן/ハンヌーン/情け深い・恵み深い、חֶסֶד/ヘセド/契約の愛・誠実な愛、אֱמֶת/エメト/まこと・真実・誠実】

ダビデは敵に囲まれた状況の中で、神の本質に立ち返る。状況がどれほど厳しくても、神のご性質は変わらない——この確信が詩篇86篇全体を支えている。


詩篇87篇——シオンで生まれた者として

詩篇87篇はコラの子たちの賛歌だ。わずか7節の短い詩篇だが、その神学的射程は驚くほど広い。

まずコラの子たちという背景を確認したい。コラは民数記16章でモーセに反乱を起こし、地に飲み込まれた。しかし民数記26:11に「コラの子たちは死ななかった」とある。地の裂け目の縁に立ちながら生き残った者の子孫が、この詩篇を歌っている。

排除されて当然だった者たちが、シオンの賛美者となった。 この背景を知ると、87篇の言葉は全く異なる重みを持つ。


異邦人の登録——87:4-6の神学

87篇の核心は4節から6節だ。

「わたしはラハブとバビロンをわたしを知っている者の数に入れよう。見よ。ペリシテとツロ、それにクシュもともに。これらをもここで生まれた者として。」

ラハブはエジプトの詩的名称、バビロンはイスラエルの宿敵、ペリシテとツロは周辺の異邦民族、クシュはアフリカの遠方の民——これらはイスラエルの敵・異邦人の代表格だ。それが「シオンで生まれた者」として主の民籍に記される。

【ヘブライ語表:יֻלַּד/ユッラド/生まれた(受動形)、יִסָּפֵר/イッサーペル/登録される・数に入れられる】

「登録される(イッサーペル)」は国籍登録・戸籍記載のニュアンスを持つ。主が国々の民を登録されるとき、「この民はここで生まれた」と記される——これは天の戸籍への記載だ。

シオンに飢え渇く者は、どこから来ても「ここで生まれた」と記される——この恵みは新約のヨハネ3章の「新生」と響き合い、黙示録21:27の「子羊のいのちの書」へとつながる。


87:7——「私の泉はことごとく、あなたにある」

詩篇87篇の最後の言葉は、賛美と踊りの中で歌われる。

「踊りながら歌う者は、『私の泉はことごとく、あなたにある』と言おう。」

「泉」——すべての命の源、喜びの源、霊的滋養の源が、シオン、すなわち神の臨在の場にある、という告白だ。

コラの子たちが、地の裂け目の縁から生き残り、その子孫がこう歌う。「私たちの泉のすべては、あなたにある」。これは神学的命題ではなく、生き延びた者の証言だ。


第三部:使徒5章——聖霊を欺く者と、御名のために喜ぶ者

アナニヤとサッピラ——何が裁かれたのか

使徒4章の終わりには、バルナバが畑を売って使徒たちの足もとに置いた場面がある。その直後に登場するアナニヤとサッピラの事件は、意図的な対比として配置されている。

ペテロの言葉が核心を突いている。

「それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」(5:4)

ここで重要なのは、全額を捧げなかったこと自体は罪ではないという点だ。ペテロは「なぜ全部捧げなかったのか」とは言っていない。問題は**「全部捧げた」という偽りの申告**だ。

裁かれたのは聖霊への欺きだった。

【ギリシャ語表:ψεύδομαι/プセウドマイ/欺く・偽る、πειράζω/ペイラゾー/試みる・試す、πνεῦμα/プネウマ/霊・聖霊】

5:9でペテロはサッピラに「主の御霊を試みた(ペイラゾー)」と言う。これは荒野でイスラエルが神を試みたのと同じ言葉だ(詩篇95:9、ヘブル3:9)。聖霊は人格を持つ神であり、欺くことも試みることもできない——この事件は初代教会にそのことを鮮烈に示した。


「尊敬していたのに加わらなかった」——5:13の緊張

アナニヤ・サッピラの死の後、5:13にこう記される。

「ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。」

これは奇妙な緊張関係だ。尊敬しているのに、加わらない。この状態には複合的な要因がある。アナニヤ・サッピラの死への恐れ——この共同体に入ることへの畏怖。祭司・サドカイ派からの迫害を恐れた外縁的な立場。そして信じてはいるが、代償を払う覚悟がまだ整っていない状態。

しかし14節はこう続く。「そればかりか、主を信じる者は男も女もますます増えていった」。外縁にいた者たちが、次第に踏み込んできた様子が見える。

この緊張は現代にも存在する。「イエスは尊い方だと思う、でも洗礼は……」という人たちの姿がここに重なる。


全員が癒された——5:16の意味

「エルサレムの付近の町々から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。」

ギリシャ語原文では θεραπεύοντο(エセラペウオント) という未完了形が使われている。

【ギリシャ語表:ἐθεραπεύοντο/エセラペウオント/癒され続けた(未完了・受動)、σημεῖον/セーメイオン/しるし・奇跡、τέρας/テラス/不思議なわざ】

未完了形は「一度癒された」ではなく「次々と癒され続けた」という継続の意味を持つ。これは使徒行伝1:1の「イエスが行い始め、教え始めたこと」という記述と響き合う。使徒たちの働きは、イエスの働きの継続だった。


ガマリエルの知恵——5:34-39

殺意を持つ議会の中で、ガマリエルが立ち上がる。

「もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。」(5:38-39)

ガマリエルはパリサイ人であり、律法学者として「すべての人に尊敬されている」人物だった。彼の論理は単純だが深い。歴史の審判に委ねるという姿勢だ。歴史を知る者は、焦らない。神から出たものは必ず残り、人から出たものは必ず自滅する——この原則への信頼が、彼を暴力から引き留めた。

ガマリエルの弟子の中にパウロ(サウロ)がいたことは使徒22:3に記されている。しかしパウロは当初この師の知恵を受け継がず、教会を迫害した。後に回心したパウロが、まさに「神から出たもの」であることを身をもって証明することになる。


「はずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら」——5:41

「使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。」

むち打たれた後に喜ぶ——これは人間的論理を超えている。

【ギリシャ語表:ἀτιμάζω/アティマゾー/恥をかかせる・侮辱する、χαίρω/カイロー/喜ぶ、ὄνομα/オノマ/名・御名】

「御名のために」——この一点が、喜びの根拠だ。自分のためではなく、キリストの御名のゆえに受けた苦しみは、キリストとの同一視を意味する。

ペテロはかつて、大祭司の庭でイエスを三度否んだ。その同じペテロが今、むち打たれて喜んでいる。これは人格の変容だ。聖霊が働くとき、恥を恐れた人間が、御名のために恥を喜ぶ者へと変えられる。

そして42節——「毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた」。迫害は彼らを止めなかった。むしろ、宣教の炎を燃やし続けた。

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第四部:三つの箇所を貫く神学的テーマ——「担われる者たちの系譜」

今日の三箇所が語ること

レビ記10章・詩篇86-87篇・使徒5章。一見バラバラに見えるこの三箇所を読み通すとき、一つの太い糸が見えてくる。

聖なるものに近づく者は、誰かに担われている。

レビ記では、祭司が会衆の罪を「担う(ナーサー)」ことで贖罪が完結した。詩篇87篇では、異邦人でさえ「シオンで生まれた者」として神に登録された。使徒5章では、むち打たれた者たちが「御名のために」喜んで立ち上がった。

三箇所すべてに、自分の資格や力によってではなく、神の側からの行為によって立たされる者たちの姿がある。


レビ記から詩篇へ——担う者から担われる者へ

レビ記10章では、祭司が会衆の罪を担う(ナーサー)構造が示された。食べることで罪を引き受け、贖罪のプロセスを完結させる。

しかしアロンは食べられなかった。肉親の死の当日、律法の要求と人間の限界の間で、アロンは正直に告白した。するとモーセは「それでよいとした」。

ここに逆転がある。担うべき者が、担われたのだ。律法の要求を満たせなかった者が、神の憐れみによって赦された。

詩篇86篇のダビデも同じ構造の中にいる。「私は悩み、そして貧しい」(86:1)——これは担う力を持たない者の告白だ。しかしダビデは「あなたはあわれみ深く、情け深い神」(86:15)という神の本質に立ち返る。担えない者が、担う神を仰ぐ。


詩篇87篇——資格なき者の登録

詩篇87篇は、この逆転をさらに大きなスケールで描く。

ラハブ(エジプト)、バビロン、ペリシテ、ツロ、クシュ——これらはイスラエルの敵であり、契約の外にいる者たちだ。シオンに生まれる資格など、どこにもない。

しかし神は言われる。「これらをもここで生まれた者として」。

コラの子たちがこの詩篇を歌う意味は深い。コラの反乱によって、彼らの家系は本来ならば根絶やしにされるべきだった。それが生き残り、レビ人の賛美者として神殿礼拝を担うようになった。

排除されて当然だった者が、賛美者として立てられた。 これは恵みの論理だ。シオンへの登録は、血統でも功績でも信仰の深さでもなく、神の側からの一方的な選びによる。

「私の泉はことごとく、あなたにある」(87:7)——この言葉は神学的命題ではなく、担われた者の証言だ。

※ここに図解③「シオンの登録——担われた者たちの系譜」を挿入


使徒5章——御名のために担われる

使徒5章では、この「担われる」という構造が最も鮮明に現れる。

アナニヤとサッピラは自分の力と評判で聖霊の前に立とうとした。欺くことで「担う者」の位置に自分を置こうとした。その結果は死だった。

対照的に使徒たちは、むち打たれた後に喜んだ。「御名のためにはずかしめられるに値する者とされた」——これは受動形だ。自分で価値を主張したのではなく、御名によって価値を与えられた

ガマリエルの言葉も同じ構造を持つ。「神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできない」——教会の存続は人間の力ではなく、神の側からの守りによる。

全員が癒されたのも、使徒たちの能力によるのではない。復活のキリストが聖霊を通して働き続けておられる——担われた者たちが、担う方の力を流す器となっていた。


イザヤ53章への収束

今日の三箇所は、イザヤ53章という一点に収束する。

「まことに、彼は私たちの病を担い(ナーサー)、私たちの悲しみを負った。」(イザヤ53:4) 「彼は多くの人の罪を担い(ナーサー)、そむいた者たちのためにとりなしをする。」(イザヤ53:12)

レビ記の祭司が担った(ナーサー)ものを、キリストが完全に担われた。詩篇87篇で異邦人が「シオンで生まれた者」として登録されたその根拠は、担ってくださる方の存在にある。使徒たちが御名のために喜べたのは、その御名が十字架と復活によって証明されたからだ。

担われた者たちの系譜は、アロンからダビデへ、コラの子たちから使徒たちへ、そして今日この箇所を読む者たちへとつながっている。


適用——今日の問いかけ

レビ記から: 律法の要求と自分の限界の間で正直に立っているか。アロンのように、無理をせず、正直に神の前に告白できるか。

詩篇86篇から: 「私の心を一つにしてください」——礼拝の中で心が散らばるとき、この祈りを祈っているか。

詩篇87篇から: 自分が「シオンで生まれた者」として登録されていることを、恵みとして受け取っているか。資格ではなく、神の選びによって立っていることを知っているか。

使徒5章から: 御名のために何かを失うとき、それを喜べるか。使徒たちの喜びは、聖霊の働きによる人格の変容から来ていた。

シオンの登録——担われた者たちの系譜

詩篇87篇 / レビ記10章 / 使徒5章
アロン(レビ記10章)
大祭司 / 肉親を失った当日
律法の要求通りに食べることができなかった。担うべき者が、限界を正直に告白した。
→ 神はモーセを通して「それでよいとした」
コラの子孫(詩篇87篇)
コラの反乱(民数記16章)の生き残りの子孫
本来ならば根絶やしにされるべき家系。地の裂け目の縁に立ちながら生き残った者たちの子孫。
→ レビ人の賛美者としてシオンの礼拝を担う者とされた
異邦人たち(詩篇87:4-6)
ラハブ(エジプト)・バビロン・ペリシテ・ツロ・クシュ
イスラエルの敵・契約の外にいる者たち。シオンに生まれる資格など、どこにもない。
→「これらをもここで生まれた者として」天の戸籍に登録される
使徒たち(使徒5章)
むち打たれた後の使徒たち
迫害を受け、むち打たれた。しかし自分の力で立ったのではない。御名によって立てられた。
→「御名のためにはずかしめられるに値する者とされた」ことを喜んだ
すべての根拠——イザヤ53章のキリスト
イザヤ53:4,12 / ヘブル4:15
担えない者を、担ってくださる方がおられる。 祭司が担った(ナーサー)罪を、キリストが完全に担われた。 資格なき者が「シオンで生まれた」と登録されるのは、 担ってくださる方の十字架が根拠だ。
「踊りながら歌う者は、『私の泉はことごとく、あなたにある』と言おう。」
(詩篇87:7)

いけにえの分配構造

レビ記10:12-15 / 神→共同体→奉仕者への秩序
いけにえがささげられる
和解のいけにえ・罪のためのいけにえ
↓ 切り分けられる
חֵלֶב
ヘレブ
脂肪
🔥 神へ——祭壇で焼却
象徴:最良のもの・完全な献身
内臓脂肪・腎臓の脂肪・肝臓の小葉。人が食べてはならない最も聖なる部分。煙として主に帰する。
חָזֶה
ハーゼー
🤲 祭司の共同体へ——揺り動かし(テヌファー)
象徴:心・愛・共同体への献身
主の前で揺り動かされた後、祭司とその家族の取り分となる。聖なる場所で食べる。
שׁוֹק
ショーク
もも
🦵 奉仕者へ——奉納(トゥルマー)
象徴:力・歩み・奉仕の継続
奉納として主に捧げられた後、祭司とその家族の取り分となる。清い場所で食べることができる。
この分配が示す神学的秩序
最良のもの(脂肪)は完全に神へ。心の象徴(胸)は共同体の愛へ。力の象徴(もも)は奉仕の歩みへ。 これは矛盾ではなく、神→共同体→奉仕者という礼拝の秩序だ。 今日の礼拝においても、最良のものをまず神に捧げ、次に共同体へ、そして奉仕へという流れは変わらない。
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感謝の祈り

主イエスよ。

あなたの十字架の血潮の力のゆえに、私たちはアロンのように、正直に神の御前に立ち、語ることが許されています。律法の要求を満たせない者が、担ってくださる大祭司の前に、ありのままで立てる。これがどれほどの恵みであるかを、今日のレビ記は教えてくれました。

そして、あなたの十字架のゆえに、私たちはシオンで生まれた者として、天の戸籍に登録されています。ラハブも、バビロンも、コラの子孫も——資格のない者たちが「ここで生まれた」と記されたように、私たちもその同じ恵みの中に立っています。

「私の泉はことごとく、あなたにある。」

担われた者として、御名のために今日も歩みます。

アーメン。


「使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。」(使徒5:41)

担われた者は、担ってくださる方の御名のために生きる。今日の三箇所が語るのは、その一点だ。

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