王が神の言葉を焼いた。翌年、その言葉は増えて戻ってきた。焼かれたはずのものが、なぜ減らずに増えたのか。そして、私たちを責め立てるもう一つの文書は、誰の手によって消されたのか。
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| 【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。 |

第一部 トーラー ― 申命記5章「十のことば」
日本語で「十戒」と呼ばれるものを、ヘブライ語聖書はそう呼ばない。申命記4章13節、10章4節が使う表現はアセレット・ハッデヴァリーム、直訳すれば「十のことば」である。「命令」でも「戒律」でもなく、「ことば」。ギリシャ語訳がこれを「デカ・ロゴイ(十のことば)」と訳し、そこから英語のDecalogue(デカローグ)という語が生まれた。
呼び名がすべてを決めるわけではない。しかし「戒め」と「ことば」では、心に落ちる響きがまるで違う。規則の一覧表ではなく、語りかけられた言葉として最初に置かれている。ここが出発点になる。
数え方は一つではない
意外に思われるかもしれないが、「どこからどこまでが第一の言葉か」は、伝統によって異なる。
ユダヤ教は、第一の言葉を「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」(5:6)と数える。カトリックやルーテル派は偶像の禁止を第一に含め、最後の「欲しがってはならない」を二つに分ける。改革派や東方正教は、「ほかの神々」を第一、「偶像」を第二とする。
注目したいのは、ユダヤ教の数え方である。第一に置かれているのは、命令ではなく宣言だ。「してはならない」ではなく「わたしが連れ出した」。神が誰であり、何をしてくださったか。その事実を受け取ることが、十のことばの第一の言葉とされている。
順序が語っている。恵みが先で、命令が後である。この順序が入れ替わった瞬間に、律法は律法主義に変わる。
「私たちひとりひとりと」という不思議な一節
主が、この契約を結ばれたのは、私たちの先祖たちとではなく、きょう、ここに生きている私たちひとりひとりと、結ばれたのである(5:3)
歴史的には奇妙な文である。ホレブで契約を結んだ世代は、荒野で死に絶えた。モーセの前に立っているのは、その子や孫の世代だ。実際に山のふもとにいた者は、ヨシュアとカレブしかいない。
ところがヘブライ語の原文は、ここで異様なほど言葉を積み重ねる。「私たちと・私たち・これらの者・ここに・きょう・私たちみな・生きている者」。畳みかけるような、ほとんど過剰な強調である。
これがユダヤ教の契約の同時代性という考え方の源になった。過越の祭りで読まれるハガダーにはこうある――「すべての世代において、人は自分自身がエジプトから出てきたかのように見なさなければならない」。過去の話として読むのではない。自分の話として読む。
しかも申命記29章14〜15節では、範囲がさらに広がる。契約は「きょう、ここにいない者とも」結ばれている、と。まだ生まれていない者も、契約の当事者だと言うのである。
聖書を通読するという営みが成り立つのは、この一節があるからだ。私たちは他人の宗教史を眺めているのではない。きょう契約が結ばれている当事者として、これを読んでいる。
出エジプト記20章との五つの違い
同じ十のことばが、聖書に二度記されている。しかし二つは同一ではない。違いは細部にあり、その細部が申命記という書物の性格を語っている。
① 安息日の動詞が変わる
出エジプト記20章8節は「覚えよ」と命じる。ヘブライ語でザーホール。申命記5章12節は「守れ」と命じる。シャーモールである。
この違いは古代から議論されてきた。ラビ的伝統が出した答えは詩的だ――「シャーモールとザーホールは、一つの語りにおいて語られた」(タルムード・シェヴオット20b)。人間の口は同時に二つの語を発音できない。しかし神はそれをなさった、という理解である。
この一句は今も生きている。16世紀のガリラヤの町ツファットで作られた『レハー・ドーディー(愛する者よ、来たれ)』という歌の冒頭が、まさにこの言葉から始まる。金曜の日没、安息日を迎えるとき、世界中の会堂と家庭でこの歌が歌われる。安息日が始まるたびに、この二重性が確認されているのである。
二つの動詞は、それぞれ違う場所を指している。覚えよは内側の記憶に、守れは外側の行為に向かう。記憶だけでは安息日にならず、行為だけでも安息日にならない。二つが一語として発せられたという発想は、そのまま信仰生活の縮図である。
② 安息日の根拠が創造から救出へ
出エジプト記は、安息日の理由を天地創造に置く。神が六日で造り、七日目に休まれたからだ、と。
ところが申命記5章15節は、まったく別の理由を挙げる。
あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして……主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ……安息日を守るよう、あなたに命じられたのである
創造の記念だった安息日が、ここでは解放の記念として語り直されている。これは矛盾ではない。同じ日が、二つの根拠を持っているということだ。世界がどう始まったかと、自分がどう救われたか。その両方に安息日は根を下ろしている。
③ 奴隷の休息が明記される
続く一句は、出エジプト記には存在しない。
そうすれば、あなたの男奴隷も、女奴隷も、あなたと同じように休むことができる(5:14)
「あなたと同じように」。ここに申命記の視線がある。あなたは奴隷だった。だから、あなたの家にいる奴隷を休ませよ。記憶が倫理に変わる構造である。
安息日は個人の敬虔の問題ではなく、共同体の中でいちばん弱い者に届くかどうかで測られる制度になっている。牛やろばまで名指しされているのは偶然ではない。
④ 父母を敬うことに祝福が加わる
それは、あなたの齢が長くなるため、また……しあわせになるためである(5:16)
出エジプト記にあるのは「齢が長くなるため」までで、「しあわせになるため」は申命記にしかない。
興味深いのは、パウロがエペソ人への手紙6章2〜3節で「これは約束を伴う最初の戒めです」と引用するとき、選んでいるのが申命記版だということだ。新約の使徒が旧約を引くとき、どの版を選んだかにも意味がある。
⑤ 欲しがることの動詞が分かれ、「畑」が加わる
出エジプト記20章17節は、「隣人の家」から始めて、すべて同じ動詞を使う。申命記5章21節は違う。まず「隣人の妻」を先頭に置き、妻に対してはハーマド(欲しがる)、家や畑に対してはヒトアッヴァー(渇望する)と、動詞を使い分けている。
さらに申命記には「畑」が加わっている。これから土地を相続しようとしている世代への言葉だからである。目の前に約束の地が広がっている。その地に入る直前の民に向かって、「隣人の畑を欲しがるな」と言われている。
もう一つ、日本語訳では見えない特徴がある。ヘブライ語本文では、申命記5章17節から21節までの各命令の頭に、接続詞「そして」が付いている。出エジプト記には付いていない。
十のことばが一本の鎖として提示されているということだ。ヤコブの手紙2章10節「律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、そのすべてを犯した者となる」という理解は、ここに文法上の根拠を持っている。
顔と顔で、しかし仲介者を通して
5章4節と5節は、一読すると矛盾している。
主はあの山で、火の中からあなたがたに顔と顔とを合わせて語られた(5:4)
そのとき、私は主とあなたがたとの間に立ち、主のことばをあなたがたに告げた(5:5)
顔と顔なのか、モーセを通してなのか。
ラビ的伝統(タルムード・マッコート24a)の答えは、こうである。最初の二つの言葉だけは、民が神の口から直接聞いた。その後、民が恐れて願い出たため、残りはモーセを通して語られた、と。
この読みが正しいかどうかは別として、示唆するところは深い。十のことばの中で直接聞かねばならなかったのは、「わたしはあなたの神である」と「ほかの神々があってはならない」の二つだった。神が誰であるかという一点だけは、誰かの受け売りでは足りない。自分の耳で聞くほかない。
民自身の言葉が、それを裏づけている。「私たちは聞いて、行います」(5:27)。彼らは確かに聞いた。聞いた上で、これ以上は直接聞けないと訴えた。神の臨在は、恵みであると同時に、耐えがたいほどの重さでもある。
やまなかった声
これらのことばを、主はあの山で、火と雲と暗やみの中から、あなたがたの全集会に、大きな声で告げられた。このほかのことは言われなかった(5:22)
ここは記憶しておいてほしい。ヘブライ語はヴェロー・ヤーサフ。「加えなかった」という意味である。
十のことばは完全だった。だから神は何も加えなかった。この語根ヤーサフは、今日の第二部で、思いがけない形でもう一度現れる。
なお、この語は「やめなかった」とも訳しうる。アラム語訳のタルグム・オンケロスは後者を取り、「やむことのない大いなる声」と訳した。シナイで語られた声は途切れていない、今も鳴り続けている――ユダヤ教はこの解釈を大切にしてきた。文法的には決着のつかない箇所だが、この読み方には惹かれるものがある。
神の嘆息
そして5章29節。ここが第一部の頂点である。
どうか、彼らの心がこのようであって、いつまでも、わたしを恐れ、わたしのすべての命令を守るように
「どうか」と訳されたヘブライ語はミー・イッテーン、直訳すると「誰が与えてくれるだろうか」。ヘブライ語で最も切実な願望を表す慣用句である。
これは人間の祈りではない。神が発した嘆息である。全能の神が「誰か、彼らにこの心を与えてはくれないか」と言っておられる。
神は民の言葉を「みな、もっともである」と認めた(5:28)。彼らは正しいことを言った。「私たちは聞いて、行います」と。しかし神はご存じだった。言葉は正しくても、心が伴わないことを。
問題は情報ではなく、心である。十のことばを知らないから守れないのではない。知っていても守れない何かが、内側にある。
この嘆きに答えを出すのも、また神ご自身である。同じ申命記の30章6節――「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、精神を尽くして、あなたの神、主を愛するようにされる」。そしてエレミヤ書31章33節――「わたしの律法を彼らのうちに置き、彼らの心にこれを書きしるす」。
申命記5章29節で神が嘆かれた問題は、新しい契約においてのみ解決する。心を作り変える手術が必要だという診断は、律法を与えたその場で、すでに下されていた。
そして今日、第二部で私たちが見るのは、その診断が正しかったことの実例である。神の言葉を耳で聞きながら、恐れることのなかった一人の王の姿を。
▶【図解挿:① 出エジプト記20章と申命記5章の対照】
+ しあわせになるため
「畑」が加わる(相続直前の世代へ)
第二部 旧約 ― エレミヤ書36章・37章
エレミヤ書を読んでいて、多くの人がここでつまずく。登場人物が多すぎるのである。しかも同じ名前の別人がいる。父の名で呼ばれる人がいる。そして何より、誰が味方で誰が敵なのかが、名前を追うだけでは見えてこない。
たとえば36章には「ゼデキヤ」という名の高官が出てくるが、これは後に王となるゼデキヤとは別人である。37章で祈りを願いに来る使者エフカルは、その一章後には預言者を殺せと要求する側に回る。かつて預言者を処刑場へ引き渡した人物が、この章では神の言葉を守ろうとしている。
名前を追うだけでは、この地形は見えない。そこで本題に入る前に、今日の二章に出てくる人々を一枚の図にまとめておきたい。この地図さえ手元にあれば、あとは物語として読める。
▶【図解:② エレミヤ書36章・37章 登場人物早見図】
立った人
難しい人
敵対した人
難しい人
一つの家系が四代にわたって
図を見て、気づかれただろうか。シャファンという名前が繰り返し現れる。
シャファンは、ヨシヤ王の時代に神殿から発見された律法の書を、王の前で読み上げた書記である(第二列王記22章)。その一族が、エレミヤの生涯を通じて彼を守り続けている。
・息子アヒカム ―― エレミヤを死刑から救った(26:24)
・息子ゲマルヤ ―― 巻き物朗読の場を提供し、焼却に反対した(36章)
・息子エルアサ ―― 捕囚の民への手紙を運んだ(29:3)
・孫ゲダルヤ(アヒカムの子)―― 後の総督。エレミヤを保護した(39:14)
ここで注目したいのは、信仰の継承が「家」という単位で起こっているという事実である。一人の書記が律法の書を読み上げた。その息子たち、孫たちが、律法を語る預言者のそばに立ち続けた。名は残らなくても、その家に生まれた者が、要所要所で正しい側に立っている。
▶【図解:③ シャファン家四代の系図】
アシュケロンについての注意
これから歴史的背景に触れるが、その前に一つ断っておきたいことがある。
これから出てくるアシュケロンという町の名を検索すると、おそらく1153年の戦い――十字軍がエジプトのファーティマ朝からこの町を奪った戦い――が上位に出てくる。しかし今日の話は、その約1760年前の出来事である。
アシュケロンは地中海沿岸の要衝で、三千年以上にわたって繰り返し戦場になり続けた。同じ地名で、まったく違う世紀の話が併存している。古代史を調べるときに最も起こりやすい混乱の一つなので、先に線を引いておきたい。
エホヤキム第四年という年
36章1節は「ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの第四年」と始まる。紀元前605年である。
この年、世界の勢力図が塗り替わった。ユーフラテス川沿いのカルケミシュで、バビロンのネブカドネザルがエジプト軍を撃破したのである。数百年続いたエジプトの覇権が終わり、バビロンの時代が始まった。ユダは、その二つの帝国の間に挟まれた小国だった。
そして巻き物が朗読されたのは「第五年、第九の月」(36:9)。紀元前604年のキスレウ月、日本の暦でいえば11月から12月にかけての、冬の入り口である。
この時期について、聖書の外に記録が残っている。バビロニア年代誌と呼ばれる粘土板文書群の一つ、大英博物館所蔵のBM 21946という板である。ネブカドネザルの即位から第11年までを年ごとに記録した公文書で、その第1年の項に、キスレウの月にバビロン王がアシュケロンへ進軍し、町を占領し、王を捕らえ、廃墟の山とした、という趣旨の記述がある。
考古学もこれを裏づけている。アシュケロン遺跡の発掘では、紀元前604年に相当する明確な破壊層が確認された。焼けた建物、崩落した壁、押しつぶされたままの土器類。町が一日で終わった痕跡である。
さらに、エジプトのサッカラで見つかったアドン・パピルスというアラム語の手紙がある。ペリシテのある王がファラオに宛てた緊急の要請文で、バビロンの軍が北から迫っているので助けてほしい、という内容だ。差出人はアシュケロンの王ではないかと考えられている。助けは来なかった。
ここで一つ、慎重に区別しておきたい。36章9節の断食が、アシュケロン陥落を受けて布告されたものかどうかは、聖書本文に書かれていない。これは学者が提唱した有力な仮説であって、確定した事実ではない。
ただし、同じ年の同じ月であるという一致は、偶然にしては強い。北から来た軍隊が隣国を消滅させたという報せが、エルサレムに届いていた可能性は高い。国中が恐怖していた冬に、断食が布告された。悔い改めのための条件は、あまりにも整っていた。
そしてもう一つ。同じ第四年に語られたエレミヤ書25章17〜20節で、主の憤りの杯を飲む国々が列挙される。その一覧の中に「ペリシテ人の地の王たち、アシュケロン……」が入っている。
エレミヤがアシュケロンの滅びを語った翌年、アシュケロンは実際に滅びた。その報せが届いていたはずの月に、王はその預言者の巻き物を暖炉で焼いた。
衣を裂いた父、巻き物を裂いた子
ここで、この章の構造そのものに目を向けたい。36章は、ある出来事の意図的な反復として書かれている。
第二列王記22章。ヨシヤ王の第18年、神殿の修復中に律法の書が発見された。書記シャファンがそれを王の前で読み上げた。読み終えたとき、王は衣を裂いた。ヘブライ語でカーラという動詞である。
そして36章。書が読み上げられる。読み手はエフディ、聞き手はエホヤキム王。王は書記の小刀で巻き物を裂き、火に投げ入れた。使われている動詞は、同じカーラである。
ヨシヤは自分の衣を裂いた。その息子エホヤキムは、神の言葉を裂いた。
そして36章24節が、容赦なく書く。
王も、彼のすべての家来たちも、これらのすべてのことばを聞きながら、恐れようともせず、衣を裂こうともしなかった
ヨシヤの記事を知っている読者にだけ刺さる一文である。同じ神殿、同じ書、同じ動詞。父と子の間で、たった一世代でこうなった。
第一部で見た神の嘆きを思い出したい。「どうか、彼らの心がこのようであって」。心の問題が解決されないまま、律法だけが受け継がれるとどうなるか。ここに、その答えがある。
▶【図解:④ ヨシヤとエホヤキム——同じ動詞、正反対の行為】
日本語訳では見えない細部
この章には、原語で読むと表情の変わる語がいくつかある。
巻き物はメギラー。「転がす・巻く」という動詞から生まれた名詞で、ユダヤ教で「五つのメギロット」(雅歌・ルツ記・哀歌・伝道者の書・エステル記)と呼ばれる、あの語である。
「三、四段を読むごとに」(36:23)の「段」は、ヘブライ語でデラトート。この語の本来の意味は「扉」である。巻き物では、折り目で区切られた一枚一枚の書写欄をこの語で呼んだ。辞書は「扉」「一葉」「欄」と並べて訳す。
この文脈に置くと戦慄する。エフディが悔い改めの扉を三つ四つ開くたびに、王はそれを切り取って火に投げ込んだ。開かれる扉を、片端から閉じていった夜である。
「墨」(36:18)はデヨー。旧約聖書全体で、この一箇所にしか出てこない語だ。バルクは高官たちの質問に、こう答えている。「エレミヤがこれらすべてのことばを私に口述し、私が墨でこの巻き物に書きしるしました」。
神の言葉は、雷でも幻でもなく、一人の人間が机に向かい、インクをつけて書くという地味な作業を通して世に出た。旧約でただ一度の「墨」が、その瞬間を記録している。
「書記の小刀」(36:23)はタアル・ハッソフェール。タアルは剃刀も意味する語で、本来これは書き損じを削り取り、巻き物を整えるための道具だった。書物を生かすための刃物が、書物を殺す刃物になった。
「暖炉」(36:22)はアーハ。旧約聖書全体で、この章の二節(22節・23節)にしか現れない語である。実際には据え付けの暖炉ではなく、炭を入れて持ち運ぶ火鉢を指す。九の月の寒い日、暖を取るための火が、神の言葉を焼く火になった。
読み続けた人
この章で、最も落ち着かない気持ちにさせられる人物がいる。エフディである。
聖書は彼を悪人として描いていない。彼はただ、王に命じられて巻き物を取りに行き、王とすべての首長たちの前でそれを読んだ。三、四段を読むごとに、隣で王が小刀でそれを切り、火に投げ入れる。それでも彼は読み続けた。
声に出して読んでいる本人は、何を思っていたのだろうか。
自分の口から出た言葉が、次の瞬間には切り取られて燃えている。読み終えたところから順に、灰になっていく。彼はこの夜、誰よりも近くで神の言葉を聞いた人であり、同時にその破壊の現場に立ち会い続けた人である。
止めることもできず、逃げることもせず、命じられた通りに最後まで読んだ。三、四段ごとに切られながら、それでも次の段を読んだ。「ついに、暖炉の火で巻き物全部を焼き尽くした」(36:23)とあるのは、彼が最後まで読み切ったということでもある。
聖書は彼の内心を一言も書かない。しかし、ある奇妙な丁寧さがある。彼の名は「クシの子シェレムヤの子ネタヌヤの子エフディ」と、四代前まで記されている(36:14)。この章に登場する他の高官たちは、たいてい父の名までしか記されていない。名もない使い走りの役人にしては、異例の扱いである。
その理由を聖書は説明しない。ただ、こう言うことはできる。あの夜、あの部屋にいた一人ひとりを、神は名前で覚えておられた。声を上げて止めた三人も、黙って見ていた者も、命じられるまま読み続けた一人も。
歴史の大きな出来事の中で、自分が何をしているのか分からないまま、その場に立っている人がいる。エフディはその代表である。彼が善人だったのか、無関心だったのか、内心では震えていたのか、聖書は語らない。
しかし名前は残った。四代分の系図とともに。
エルナタンという複雑な人
図で「判断の難しい人」に分類した人物について、触れておきたい。
エルナタン(アクボルの子)は、36章25節で、巻き物を焼かないよう王に願った三人のうちの一人である。神の言葉を守ろうとした側だ。
しかし同じ人物が、26章20〜23節に登場する。エレミヤと同じ内容を預言した預言者ウリヤが、身の危険を感じてエジプトへ逃げた。王は追手を送る。その追手を率いてウリヤを連行してきたのが、エルナタン(アクボルの子)である。連れ戻されたウリヤは、王に剣で打ち殺され、しかばねは共同墓地に捨てられた。
かつて預言者殺害の実行者だった人物が、今度は預言の言葉を守ろうとしている。
さらに背景がある。第二列王記24章8節によれば、次の王エホヤキンの母ネフシュタは「エルサレムのエルナタンの娘」である。同一人物であれば、彼はエホヤキムの義父ということになる。王に最も物を言える立場の人間が、必死で止めた。それでも王は聞かなかった。
人は変わりうる。しかし、変わった人の声も、聞かない王には届かない。この二つが同時に記されているところに、聖書の誠実さがある。
37章 ― なぜ高官たちは敵に変わったのか
36章と37章を並べて読むと、奇妙なことに気づく。高官たちの態度が正反対なのである。
36章の高官たちは、巻き物のことばを聞いて「みな互いに恐れ」(36:16)、バルクに「行って、あなたも、エレミヤも身を隠しなさい」と逃がした。
ところが37章15節では、「首長たちはエレミヤに向かって激しく怒り、彼を打ちたたき、書記ヨナタンの家にある牢屋に入れた」。同じ「首長たち」という呼称の人々が、預言者を殴りつけて地下牢に放り込んでいる。
理由は歴史にある。紀元前597年の第一次バビロン捕囚である。エホヤキンが降伏し、王とその一族、そしてエルサレムの有能な官僚層・技術者層が、根こそぎバビロンへ連行された(第二列王記24:14)。
ヨシヤの改革を担った世代が、国内から消えたのだ。シャファンの息子たちも、この時期を境に姿を消す。残ったのは、経験の浅い、そして強硬な主戦論に傾いた官僚たちだった。
エレミヤの孤独は、年を追うごとに深くなっていく。かつて自分をかばってくれた人々は、もう国内にいない。
37章のゼデキヤ王も、印象的な人物である。彼はエレミヤに祈りを願い(37:3)、密かに呼び寄せて「主から、みことばがあったか」と尋ねる(37:17)。神の言葉を求めてはいるのだ。しかし従わない。そして首長たちを恐れて、預言者を守りきれない。
ただし彼には、エホヤキムにはなかったものが一つある。エレミヤの願いを聞き入れた(37:20〜21)。地下牢から監視の庭へ移し、町からパンが絶えるまで毎日一個のパンを与えさせた。従順ではないが、非情でもない。この中途半端さが、かえって人間らしい。
なお37章12節で、エレミヤが「割り当ての地を決めるため」ベニヤミンの地へ向かうのは、32章で彼が買った故郷アナトテの畑と地続きの話である。あの畑をめぐる用事の途中で、彼は逮捕された。
焼けば、増える
そして36章32節。この章の結論であり、今日の記事全体の核心でもある。
エレミヤは、もう一つの巻き物を取り、それをネリヤの子、書記バルクに与えた。彼はエレミヤの口述により、ユダの王エホヤキムが火で焼いたあの書物のことばを残らず書きしるした。さらにこれと同じような多くのことばもそれに書き加えた
この「書き加えた」というヘブライ語はノーサフ。語根はヤーサフである。
第一部で見た申命記5章22節を思い出したい。「主はこのほかのことは言われなかった」――ロー・ヤーサフ。「加えなかった」。
同じ語根が、正反対の文脈で使われている。
シナイで語られた契約の言葉に、神は何も加えなかった。それは完全だったからである。しかし、人がその言葉を焼いたとき、その言葉は加えられて戻ってきた。
焼いても減らない。焼けば増える。エホヤキムは、判決文を焼けば判決が消えると考えた。しかし彼が手にしていたのは、ただの文書ではなかった。
第三部 新約 ― コロサイ人への手紙2章
コロサイの町は、パウロが直接訪ねたことのない教会だった。2章1節に「直接私の顔を見たことのない人たち」とある通りである。それでも彼は「どんなに苦闘しているか、知ってほしい」と書き送る。会ったことのない人々のために、獄中から言葉を尽くしている。
この教会には、ある種の教えが入り込んでいた。手紙の内容から逆算すると、それは複合的なものだったらしい。哲学的な議論(2:8)、割礼の要求(2:11)、食物と祭りをめぐる批評(2:16)、御使い礼拝と幻の体験(2:18)、そして「すがるな、味わうな、さわるな」という禁欲的な規則(2:21)。
共通しているのは、キリストだけでは足りないという前提である。キリストに加えて、何かが要る。知識が、体験が、規則の遵守が。パウロが2章全体で打ち砕いているのは、この「プラスアルファ」の構造である。
手書きの借用書
この章の中心に、驚くべき比喩がある。
いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました(2:14)
「債務証書」と訳されたギリシャ語はケイログラフォン。「手」を意味するケイルと、「書く」を意味するグラフォーの合成語で、直訳すれば「手書きのもの」である。
当時これは特定の文書を指す言葉だった。借用書である。金を借りた者が自分の手で署名し、債権者が保管する。返済が済むまで、その紙は債権者の手元にあり続ける。
パウロはこの日常的な言葉を選んだ。私たちを責め立てているのは、抽象的な罪悪感ではない。署名入りの、具体的な負債の記録である。
そして「無効にされた」と訳された語が、この節の核心にある。ギリシャ語はエクサレイフォー。「拭い消す・ぬぐい去る」を意味する語である。
これはインク専用の術語ではない。涙をぬぐうことにも、名前を名簿から抹消することにも、罪を消し去ることにも使われる、幅広い動詞である。新約聖書の中でも、使徒の働き3章19節「あなたがたの罪がぬぐい去られるためです」、ヨハネの黙示録3章5節「その名をいのちの書から消し去りはしない」に、同じ語が現れる。
ただし、この語が指す動作は具体的である。表面に付いたものを、ぬぐって取り去ること。古代のインクは煤と膠を水で溶いて作られ、パピルスの表面に載っているだけだった。だから乾いた後でも、湿らせた海綿で拭えば消すことができる。古代の書記の道具箱には、筆記具と並んで海綿が入っていた。
借用書を無効にする方法として、当時いちばん現実的だったのが、これである。署名を拭い取れば、証書は証書でなくなる。
ここで第二部を思い出したい。エホヤキムは、書記の小刀で巻き物を切り、暖炉で焼いた。彼は神の言葉を消そうとした。そして失敗した。焼かれた言葉は、増えて戻ってきた。
一方、神は文書を消された。ただし消されたのは、神の言葉ではない。私たちの罪状を記した証書のほうである。そしてこちらは、完全に消えた。
人間は、神の言葉を燃やそうとして失敗した。神は、人間の罪状を消して成功された。その二つが、まったく逆であることに注意したい。
十字架に釘づけにされた文書
「十字架に釘づけにされました」という表現も、当時の読者には具体的な光景を喚起した。
ローマの処刑では、十字架の上部に板を掲げる慣習があった。ティトゥルスと呼ばれる罪状書きである。何の罪でこの男が処刑されるのかを、通行人に知らせるための掲示だった。イエスの十字架にも「ユダヤ人の王」と書かれた札が掲げられている(ヨハネ19:19)。
パウロはこの光景を反転させる。十字架に釘づけにされたのは、キリストの罪状ではなかった。私たちの罪状だった。
そして罪状書きは、刑の執行が終われば効力を失う。判決は執行された。証書は決済された。もう誰も、その紙を持ち出すことはできない。
▶【図解:⑤ 焼かれた巻き物と、消された証書】
燃やすべきものを、人は燃やせなかった。
凱旋の行列
続く15節も、ローマ世界の光景である。
神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました(2:15)
「武装を解除して」はアペクデュオマイ、「脱がせる・剥ぎ取る」。捕虜から武具を剥ぎ取る動作である。
「凱旋の行列に加えられました」はトリアンベウオー。ローマの将軍が大勝利を収めたとき、都で行われた凱旋式を指す語だ。将軍は戦車に乗り、その後ろに鎖につながれた捕虜と戦利品が続く。沿道の市民が見物する中を、敗者が引き回される。
パウロは、十字架をこの凱旋式として描いている。敗北に見えた出来事が、実は勝利の行進だったという反転である。処刑された者が凱旋の将軍であり、勝ち誇っていた勢力のほうが引き回される捕虜だった。
人の手によらない割礼
もう一つ、今日の通読と深く結びつく表現がある。
キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました(2:11)
ギリシャ語はアケイロポイエートス、「手で造られたものでない」という意味の形容詞である。人間の側で施す儀礼ではない、と言っている。
これは新しい概念ではない。第一部で読んだ申命記の中に、すでにある。
あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、精神を尽くして、あなたの神、主を愛するようにされる(申命記30:6)
心に割礼を施すのは、人ではなく神である。申命記はそう言っていた。
そして第一部で見た神の嘆き――「どうか、彼らの心がこのようであって」(5:29)。あの嘆息に対する答えが、ここにある。神が嘆かれた問題を、神ご自身が解決された。人の手によらない手術によって。
影と本体 ― ここは丁寧に読みたい
2章16節から17節は、しばしば誤読される箇所である。
こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです
この二節から「祭りも安息日も、もう意味がない」という結論を引き出す読み方がある。しかし本文を落ち着いて見ると、パウロが禁じているのはそこではない。
禁じられているのは「批評させること」である。ギリシャ語の動詞クリノーは「裁く・判定を下す」。パウロが問題にしているのは、食物や祭りをめぐって他人の霊性を採点する態度であって、遵守そのものではない。
文脈がそれを裏づけている。この段落の前後にあるのは、御使い礼拝(2:18)、幻の体験を誇ること(2:18)、「すがるな、味わうな、さわるな」という禁欲規則(2:21)である。共通するのは、それらを実践している者が、実践していない者を見下しているという構造だ。「本当に霊的な者なら、これを守るはずだ」という圧力である。
パウロが打ち砕いているのは、その圧力である。
もう一点、「影」という語の理解も大切にしたい。ギリシャ語スキアは、たしかに実体そのものではない。しかし影は、実体と無関係なものでもない。影は実体の形をしている。
木の影は木の形をしており、人の影は人の形をしている。影を見れば、そこに何が立っているかが分かる。だから旧約の祭りと安息日は、無意味な仮の制度だったのではない。キリストの形をした影だったのである。
「本体」と訳された語はソーマ、「からだ」を意味する。影に対して「実体」ではなく「からだ」という語が選ばれている。パウロは抽象的な原理を語っているのではなく、受肉されたお方を指している。
過越はいけにえの小羊を、初穂は復活を、七週の祭りは聖霊降臨を、それぞれ指し示していた。影が本体の形をしていたからこそ、本体が来たときに「これだったのか」と分かる。影が無価値だったのではなく、影には最初から本体の輪郭が刻まれていた。
この読み方をすると、2章16節の意味も落ち着く。パウロは祭りを軽んじているのではない。祭りが指し示していた方がすでに来られたのだから、祭りを基準にして人を裁くなと言っているのである。基準は行事ではなく、方である。
幼稚な教えという言葉
2章8節と20節に出てくる「この世の幼稚な教え」も、原語を見ると輪郭がはっきりする。
ギリシャ語はストイケイア。原義は「列を構成するもの」。そこから、列に並ぶ文字――アルファベット、つまりいろは・ABCを指すようになり、さらに世界を構成する基本要素や、初歩的な教えという意味へ広がっていった。
パウロがこの語で言っているのは、初歩の段階に戻るなということだろう。文字を覚える段階の教材に、大人になってからしがみつくな、と。
そして2章9節が、その理由を告げる。「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています」。プレーローマ(満ち満ちたもの)が、ソーマティコース(身体をもって)宿っている。
満ちているものに、足すべきものはない。10節が続ける。「そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです」。
キリストが満ちておられ、その方にあって私たちも満ちている。この二重の充満の前では、あらゆる「プラスアルファ」の教えが、初歩の教材に見えてくる。
第四部 全体の一貫性 ― 焼いても減らない言葉
今日読んだ三つの箇所には、共通するものが一つある。書かれた文書である。
申命記5章には、神が二枚の石の板に書かれた契約の言葉がある。エレミヤ書36章には、バルクが墨で書き、王が焼いた巻き物がある。コロサイ人への手紙2章には、私たちを責め立てる債務証書がある。
三つとも「書かれたもの」だ。しかし、それぞれの運命はまったく違う。
三つの文書
第一の文書 ― 神が書かれたもの
申命記5章22節は、こう記す。「主はそれを二枚の石の板に書いて、私に授けられた」。書き手は神である。素材は石。人の手で消せるものではない。
そして「このほかのことは言われなかった」――ロー・ヤーサフ。何も加えられなかった。完全だったからである。
第二の文書 ― 人が書き、人が焼いたもの
エレミヤ書36章の巻き物は、パピルスに墨で書かれていた。書き手はバルクという一人の書記である。素材は脆く、インクは煤と膠でできている。切ることも、燃やすこともできた。
そして実際に、王はそれを焼いた。小刀で三、四段ずつ切り取りながら、暖炉の火に投げ入れた。文書は物理的に消滅した。
しかし36章32節は、こう続ける。同じ言葉が書き直され、「さらにこれと同じような多くのことばもそれに書き加えた」――ノーサフ。
加えられた。申命記の「加えなかった」と、同じ語根である。
シナイの契約には、神は何も加えなかった。それは完全だったから。しかし人がその言葉を焼いたとき、言葉は加えられて戻ってきた。
焼いても減らない。焼けば増える。エホヤキムは、判決文を燃やせば判決が消えると考えた。しかし彼が扱っていたのは、ただの紙ではなかった。
第三の文書 ― 神が消されたもの
コロサイ人への手紙2章14節の債務証書は、私たちの側に署名がある。返済されるまで、債権者の手元に残り続ける文書である。
これを神は「拭い消し」、十字架に釘づけにされた。エクサレイフォー――表面に付いたものを、ぬぐって取り去る動詞である。
ここに、今日の記事の中心にある逆転がある。
人間は、神の言葉を燃やそうとして失敗した。神は、人間の罪状を消して成功された。
エホヤキムが燃やすべきだったのは、自分の罪状書きだった。しかし彼にはそれができない。自分の負債を自分で帳消しにできる者はいない。彼が燃やせたのは、自分を救うために書かれた言葉のほうだけだった。
燃やしてはならないものを人は燃やし、燃やすべきものを人は燃やせない。その二重の不能を、十字架が引き受けた。
三つの心
もう一本、別の糸が今日の三箇所を貫いている。心である。
問題の提示 ― 申命記5章29節
どうか、彼らの心がこのようであって、いつまでも、わたしを恐れ……
ミー・イッテーン。「誰が与えてくれるだろうか」。神の嘆息である。
民は「私たちは聞いて、行います」と言った。神は「彼らの言ったことは、みな、もっともである」と認められた。言葉は正しかった。しかし神はご存じだった。言葉が正しくても、心が伴わないことを。
律法が与えられたその場で、律法だけでは足りないという診断が下されている。
問題の実証 ― エレミヤ書36章24節
王も、彼のすべての家来たちも、これらのすべてのことばを聞きながら、恐れようともせず、衣を裂こうともしなかった
診断が正しかったことの、実例である。
彼らは聞いた。聞かなかったのではない。エフディが最後まで読み上げたのだから、内容はすべて耳に入っている。それでも心は動かなかった。
情報は届いた。心には届かなかった。申命記5章29節で神が恐れておられた事態が、そのまま起こっている。
父ヨシヤは同じ書を聞いて衣を裂いた。同じ言葉が、同じ王家の、次の世代には届かなかった。血筋は継承できても、心は継承できない。
問題の解決 ― コロサイ人への手紙2章11節
キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました
心の割礼。アケイロポイエートス――人の手で造られたものではない。
申命記30章6節が予告していた手術である。「主は、あなたの心と、あなたの子孫の心に割礼を施し」。エレミヤ書31章33節が約束していた契約である。「わたしの律法を彼らのうちに置き、彼らの心にこれを書きしるす」。
そして、ここでもまた「書く」という言葉が現れる。
石の板に書かれた。巻き物に書かれた。そして最後に、心に書かれる。
焼くことも、切ることもできない場所に、神は書くことにされた。これが新しい契約である。エホヤキムの暖炉が届かない場所に、言葉が置かれる。
▶【図解:⑥ 三つの文書 ― 書かれ、焼かれ、消されたもの】
そして最後に、心に書かれる。
「きょう」という言葉
最後に、一つの副詞について。
申命記5章は「きょう」で始まる。「聞きなさい。イスラエルよ。きょう、私があなたがたの耳に語るおきてと定めとを」(5:1)。そして「主が、この契約を結ばれたのは……きょう、ここに生きている私たちひとりひとりと」(5:3)。
エレミヤ書36章は、「きょう」を逃した王で終わる。
エホヤキムには、条件が整っていた。断食が布告された日だった(36:9)。国全体が主の前にへりくだるべき日として、公式に設定された一日である。北から来た軍隊が隣国を消滅させたという報せが、届いていた可能性も高い。国中が恐怖していた冬だった。
進言する者もいた。三人の高官が焼却をやめるよう願った。そのうちの一人はおそらく彼の義父である。読み上げる声も、最後まで途切れなかった。
それでも王は、暖炉の前に座り続けた。
「きょう」を持たない人はいない。持っていることに気づかない人がいるだけである。
申命記5章3節が語っていたのは、まさにこのことだった。契約は先祖と結ばれたのではない。きょう、ここに生きている者と結ばれている。過去の宗教史を読んでいるのではない。今日、語りかけられている当事者として読んでいる。
バルクは机に向かい、墨をつけて書いた。地味な作業である。神の言葉は、雷でも幻でもなく、一人の人間が座って書くという営みを通して残された。その巻き物は焼かれ、そして書き直された。書き直されたものが、二千六百年後の今日、私たちの手元にある。
エホヤキムの小刀は、何一つ削り取れなかった。
原語のまとめ
【ヘブライ語】
| 原語 | 発音 | 意味 |
| עֲשֶׂרֶת הַדְּבָרִים | アセレット・ハッデヴァリーム | 十のことば。「十戒」の聖書本文での呼称 |
| זָכוֹר | ザーホール | 覚えよ(出エジプト20:8の安息日の動詞) |
| שָׁמוֹר | シャーモール | 守れ(申命記5:12の安息日の動詞) |
| חָמַד | ハーマド | 欲しがる。申命記では「隣人の妻」に用いる |
| הִתְאַוָּה | ヒトアッヴァー | 渇望する。申命記では家・畑などに用いる |
| פָּנִים בְּפָנִים | パーニーム・ベファーニーム | 顔と顔を合わせて |
| יָסָף | ヤーサフ | 加える・増す。申5:22は否定形で「加えなかった」 |
| מִי־יִתֵּן | ミー・イッテーン | 直訳「誰が与えるだろうか」。切実な願望を表す慣用句 |
| קָרַע | カーラ | 裂く。衣を裂く/巻き物を裂く、双方に使われる |
| מְגִלָּה | メギラー | 巻き物。ガーラル(巻く)に由来 |
| דְּלָתוֹת | デラトート | 扉。転じて巻き物の書写欄(一葉ごとの区切り) |
| דְּיוֹ | デヨー | 墨・インク。旧約でエレミヤ36:18の一箇所のみ |
| תַּעַר הַסֹּפֵר | タアル・ハッソフェール | 書記の小刀。本来は巻き物を整えるための刃物 |
| אָח | アーハ | 火鉢。旧約でエレミヤ36:22・23の二箇所のみ |
| עָצוּר | アーツール | 閉じ込められた・留め置かれた(拘束の内容は諸説) |
| נוֹסַף | ノーサフ | 加えられた。ヤーサフの受動形 |
【ギリシャ語】
| 原語 | 発音 | 意味 |
| χειρόγραφον | ケイログラフォン | 手書きのもの。当時は借用書を指した |
| ἐξαλείφω | エクサレイフォー | 拭い消す・ぬぐい去る |
| ἀπεκδύομαι | アペクデュオマイ | 脱がせる・剥ぎ取る |
| θριαμβεύω | トリアンベウオー | 凱旋の行列に加える |
| ἀχειροποίητος | アケイロポイエートス | 人の手によらない |
| σκιά | スキア | 影 |
| σῶμα | ソーマ | からだ・本体 |
| κρίνω | クリノー | 裁く・判定する |
| στοιχεῖα | ストイケイア | 列を構成するもの。転じて初歩・基本要素 |
| πλήρωμα | プレーローマ | 満ち満ちたもの・充満 |
| σωματικῶς | ソーマティコース | 身体をもって・身体的に |

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