2026年2月8日の聖書通読 小さいことへの忠実さが天の富を決める—三つの箇所が示す逆転の視点—

聖書の名言集
スポンサーリンク

今日の聖書箇所  出エジプト19章1節から15節 ネヘミヤ4章5章 ルカ16章1節から18節

はじめに —三つの箇所が示す逆転の視点—

今朝、出エジプト19章を読んでいて、ある疑問が湧きました。「女に近づいてはならない」(19:15)—なぜ神の臨在のために、夫婦関係を一時的に控える必要があったのか。そしてネヘミヤ記では、12年間も総督手当を受け取らなかったネヘミヤの決断。さらにルカ16章では、イエスが「不正な管理人」を褒めるという、一見矛盾した教え。

この三つの箇所、一見バラバラに見えますが、読み進めるうちに一本の糸で繋がっていることに気づきました。それは「手放し」です。でも、単なる放棄ではありません。何かを得るための、戦略的な手放しです。

今日の学びで最も驚いたのは、ルカ16:10-12の「階段状の論証」でした。私たちが「大きい」と感じている地上の富が、神の目には「小さいテスト」に過ぎないという逆転の視点。そして、その「小さいこと」への忠実さが、天の富を受ける資格を決めるという原則。

ネヘミヤは何を見ていたのでしょうか。12年間、誰からも評価されず、感謝もされず、それでも働き続けた彼の視線の先には、何があったのか。

今日は、その答えを一緒に探っていきたいと思います。

目次

第一部:トーラーポーション(出エジプト19:1-15)—神の臨在のための聖別

シナイ到着—新しい段階の始まり

イスラエルの民がエジプトを出てから「第三の月の新月」、シナイの荒野に到着しました。出エジプト12:2によれば、過越の月(アビブの月)が「第一の月」とされたので、ここは出エジプトから約三ヶ月後ということになります。

「その荒野で宿営した。イスラエルはそこで、山のすぐ前に宿営した」(19:2)という表現に注目してください。ヘブライ語では「山の前(ネゲド・ハハル)」とあり、民は文字通りシナイ山を目の前にして陣を張りました。これから起こる神との出会いを予感させる配置です。

神からの招き—鷲の翼に載せられて

モーセが神のもとに登ると、主は驚くべき言葉で語り始められます:「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た」(19:4)

「鷲の翼」の象徴 この表現は単なる詩的比喩ではありません。申命記32:11には、鷲が雛を訓練する様子が描かれています:「鷲が巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように」

親鷲は雛を巣から落とし、落下中の雛を自分の翼で受け止めて飛び方を教えます。イスラエルの荒野の旅も、神が民を訓練しながら、しかし最終的には必ず支えて「わたしのもとに」連れてくる過程だったのです。

契約の提案—祭司の王国、聖なる国民

「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから」(19:5)

ここで重要なのは「全世界はわたしのもの」という前提です。神はイスラエルだけの神ではありません。しかし、全世界の中から特別にイスラエルを選んで「わたしの宝(セグラー)」とされました。

そして19:6で神は、イスラエルの使命を明らかにされます:「あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」

「祭司の王国」の意味 祭司は神と人との間に立つ仲介者です。イスラエル全体が「祭司の王国」となるということは、諸国民に対して神を表す使命を負うということです。これはⅠペテロ2:9で、教会に対して同じ呼びかけがなされることの旧約的原型です。

民の応答—口をそろえて

「すると民はみな口をそろえて答えた。『私たちは【主】が仰せられたことを、みな行います』」(19:8)

この応答は真摯なものでした。しかし、後の出来事(金の子牛事件など)を知る私たちは、人間の誓いがいかに脆いかを知っています。それでも、この時点での民の心は純粋だったと考えるべきでしょう。

聖別の準備—三日間の集中

神は民に「きょうとあす、彼らを聖別し、自分たちの着物を洗わせよ」(19:10)と命じられました。そして「三日目には、【主】が民全体の目の前で、シナイ山に降りて来られる」(19:11)と約束されます。

聖別(カダシュ)とは何か ヘブライ語「קָדַשׁ」(カダシュ)は「分離する、取り分ける、聖なるものとする」という意味です。日常の状態から離れて、神との出会いのために特別な状態に入ることを指します。

着物を洗うことは、外的な清めの象徴です。しかし、それだけでは不十分でした。

「女に近づいてはならない」—聖別の具体的内容

「三日目のために用意をしなさい。女に近づいてはならない」(19:15)

この命令について、私はこう思いました。「男性にはどうしようもない情欲があるから。女性にも。これが聖なるところから遠ざけるのですね」

まさにその通りです。でもそれだけではなさそうです。

ここで重要な点を確認しておきましょう:

性的関係そのものは罪ではない 創世記1:28で神は「生めよ、増えよ」と命じられました。結婚における夫婦の関係は神の祝福です(箴言5:18-19、ヘブル13:4)。

では、なぜここで禁じられたのか?

レビ記15章を見ると、性的排出(男女ともに)は一時的な儀式的不浄をもたらすことが説明されています。これは道徳的な罪の問題ではなく、神の臨在に備えるための状態の問題です。

三日間という短い期間、神との出会いに完全に集中するため、民は通常は良いことであっても一時的に控えることが求められました。

新約聖書との関連 Ⅰコリント7:5でパウロも同様の原則を教えています:「互いの権利を奪い取ってはいけません。ただし、祈りに専心するために、合意の上で一時的にそうするのであれば別です」

ここで「合意の上で」「一時的に」という条件が付けられていることに注目してください。シナイでの禁止も、永続的なものではなく、特定の目的のための一時的なものでした。

山への接近の禁止—聖と俗の境界

「山に登ったり、その境界に触れたりしないように注意しなさい。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない」(19:12)

この厳しい警告は、神の聖さの恐るべき現実を示しています。罪深い人間が、何の準備もなく聖なる神に近づくことはできません。

「それに手を触れてはならない。触れる者は必ず石で打ち殺されるか、刺し殺される」(19:13a)

さらに驚くべきことに、違反者に「手を触れてはならない」とあります。違反者自身が聖なる山に触れたことで、その人も「聖別されて危険な状態」になっているため、直接触れることができないのです。だから遠くから石を投げるか、矢で射なければなりませんでした。

しかし、雄羊の角が鳴り響く時 「しかし雄羊の角が長く鳴り響くとき、彼らは山に登って来なければならない」(19:13b)

ここに希望があります。適切な時が来れば、民は山に登ることが許されます。神は民を遠ざけたいのではなく、正しい方法で近づくことを教えておられるのです。

三日間の聖別—準備の重要性

モーセは山から降りて、民を聖別し、着物を洗わせました(19:14)。そして改めて「三日目のために用意をしなさい」(19:15)と告げます。

なぜ三日間なのか? 聖書において「三日目」はしばしば重要な転換点を示します:

  • アブラハムがイサクを献げるためモリヤ山に着いたのは三日目(創世記22:4)
  • イエスが復活されたのは三日目(Ⅰコリント15:4)

三日間という期間は、日常から離れて神に集中するのに十分な時間であり、また民が緊張を保ち続けられる限界でもありました。

聖別は分かち合えない

ここで重要な原則があります:聖別は他人から受け取ることができません

民はそれぞれ自分の着物を洗い、自分自身を準備しなければなりませんでした。モーセが代わりに準備することはできません。

これは、マタイ25章の十人の娘のたとえにも通じます。愚かな娘たちは「油を分けてください」と願いましたが、賢い娘たちは「分けてあげるほどはありません」と答えました(マタイ25:8-9)。油(聖霊の象徴)は個人的に準備しなければならないものだからです。

私達が今、毎朝4時に主と交わり、またはご自分が決めた時に聖書を学んで祈ること—それは誰も代わりにできない、私達自身の聖別の時間です。

主との交わり方は本当に人それぞれなんだなとこの頃思います。

ある先生は分かっても分からなくても聖書を朗読しなさいとおっしゃいます。大切です、朗読するだけで心が洗われます、でも私の場合、分からないことがあるとそこで止まってしまって次の日に続けられないどうしようもない性格で、そこで延々と止まってしまいます。そのうち気力を失うことを何年も繰り返しました。でも現在分からないことがあったらAIやネット、書籍、YouTube、または所属教会の牧師先生、教えてくださった神学校の先生方に直接メールをしてお聞きすることもできます。出来るだけお忙しい先生方の手をわずらわさないように、自分で調べるようにしていますが。そして現在はそれができる時代です。そうして疑問を不安定なまま残さずに、解決して記録する、そして何度も見て覚える。記録してあるから絶対覚えないといけないという強迫観念は捨てられ、アッと思った時に取り出し記憶によみがえらせる。こういう繰り返しができるようになって、毎日のデボーションが楽になりました。要は主と生きた関係を築いていくことが大切なんですよね。

これは、私自身の特性から来ているので、他の方に当てはまるとは限りません。それぞれのやり方で、自由に主のみ言葉と聖霊様とご一緒する食事をして交わる事が出来れば、日ごとの糧を与えられ、主のみ手の中で一日を過ごせます。それはとても幸せな日々です。

第二部:旧約(ネヘミヤ4-5章)—神の働きのための献身

城壁建築への妨害と嘲笑

「サヌバラテは私たちが城壁を修復していることを聞くと、怒り、また非常に憤慨して、ユダヤ人たちをあざけった」(4:1)

神の働きが本格的に始まると、必ず妨害が起こります。サヌバラテとアモン人トビヤは、エルサレムの城壁再建を快く思いませんでした。

サヌバラテの嘲笑は巧妙です:「この哀れなユダヤ人たちは、いったい何をしているのか。あれを修復して、いけにえをささげようとするのか。一日で仕上げようとするのか。焼けてしまった石をちりあくたの山から生き返らせようとするのか」(4:2)

そしてトビヤが追い討ちをかけます:「彼らの建て直している城壁なら、一匹の狐が上っても、その石垣をくずしてしまうだろう」(4:3)

嘲笑の戦略 彼らは軍事力ではなく、まず言葉の攻撃から始めました。働く者たちの意欲を削ぎ、「どうせ無理だ」という諦めを植え付けようとしたのです。

これは今日の私たちにも当てはまります。神の働きを始めると、周囲から「そんなことして何になるの?」「どうせ続かないでしょ」という声が聞こえてくることがあります。

祈りと見張り—霊的戦いと実際的対策

ネヘミヤの応答は二段階でした:

第一段階:祈り 「お聞きください、私たちの神。私たちは軽蔑されています。彼らのそしりを彼らの頭に返し、彼らが捕囚の地でかすめ奪われるようにしてください。彼らの咎を赦すことなく、彼らの罪を御前からぬぐい去らないでください。彼らは建て直す者たちを侮辱したからです」(4:4-5)

この祈りは現代の私たちには厳しく聞こえるかもしれません。しかし、詩篇にも同様の「敵への呪い」の祈りが多く見られます(詩篇109篇など)。これは個人的な復讐心ではなく、神の正義の実現を求める祈りです。

第二段階:実際的な対策 「こうして、私たちは城壁を建て直し、城壁はみな、その高さの半分まで継ぎ合わされた。民に働く気があったからである」(4:6)

祈るだけではありませんでした。民は実際に働きました。「民に働く気があった」—ヘブライ語では「民の心があった」という表現で、内側からの動機を示しています。

そして妨害がエスカレートすると:「しかし私たちは、私たちの神に祈り、彼らに備えて日夜見張りを置いた」(4:9)

祈りと見張り—霊的戦いと実際的対策の組み合わせ。これがネヘミヤのバランスでした。

恐れとの戦い—外部からの脅威と内部からの疲労

「ところが、サヌバラテ、トビヤ、アラブ人、アモン人、アシュドデ人たちは、エルサレムの城壁の修復がはかどり、割れ目もふさがり始めたことを聞いたとき、非常に怒り、彼らはみな共にエルサレムに攻め入り、混乱を起こそうと陰謀を企てた」(4:7-8)

嘲笑が効かないと分かると、敵は実力行使に出ようとしました。皆様もお気づきでしょうが。「城壁建築で殺された者までいた」(4:11参照)のです。これは単なる建設プロジェクトではなく、命がけの再建でした。

さらに困難なことに、民の中から疲労の声が上がります: 「そのとき、ユダの人々は言った。『荷をになう者の力は衰えているのに、ちりあくたは山をなしている。私たちは城壁を築くことはできない』」(4:10)

外部の脅威と内部の疲労—この二重の圧力が、神の働きを挫折させる典型的なパターンです。

ネヘミヤの励まし—「大いなる恐るべき主を覚えよ」

「私は彼らが恐れているのを見て立ち上がり、おもだった人々や、代表者たち、およびその他の人々に言った。『彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい』」(4:14)

「殺された人たちまでいたのなら、一般人はそりゃ恐れるでしょう。神の民は命がけで城壁を立て直す覚悟がいるのですね」

ネヘミヤは民の恐れを否定しませんでした。しかし、より大きな現実—「大いなる恐るべき主」—を思い起こさせました。

そして実際的な配置も行いました:「そこで私は、民をその家族ごとに、城壁のうしろの低い所の、空地に、剣や槍や弓を持たせて配置した」(4:13)

家族ごとに配置—これは心理的にも効果的でした。人は自分のためよりも、愛する家族のためになら勇敢に戦えるからです。

働きながら武装する—新しい働き方

「私たちの敵が、彼らのたくらみは私たちに悟られ、神がそれを打ちこわされたということを聞いたとき、私たちはみな、城壁に帰り、それぞれ自分の工事に戻った」(4:15)

神が守ってくださったので、工事は続行されました。しかし、以前とは違う方法で:

「その日以来、私に仕える若い者の半分は工事を続け、他の半分は、槍や、盾、弓、よろいで身を固めていた」(4:16)

「城壁を築く者たち、荷をかついで運ぶ者たちは、片手で仕事をし、片手に投げ槍を堅く握っていた。築く者は、それぞれ剣を腰にして築き、角笛を吹き鳴らす者は、私のそばにいた」(4:17-18)

角笛は緊急警報システムでした:「どこででも、あなたがたが角笛の鳴るのを聞いたら、私たちのところに集まって来なさい。私たちの神が私たちのために戦ってくださるのだ」(4:20)

「私たちの神が私たちのために戦ってくださる」—これがネヘミヤの確信でした。

「神が戦ってくださる。敵の妨害、命を狙われても」

昼夜を分かたぬ献身

「こうして、私たちはこの工事を進めたが、その半分の者は、夜明けから星の現れる時まで、槍を手に取っていた」(4:21)

「夜明けから星の現れる時まで」—日の出から日没まで、最大限の労働時間です。

「私も、私の親類の者も、私に仕える若い者たちも、私を守る見張りの人々も、私たちのうちのだれも、服を脱がず、それぞれ投げ槍を手にしていた」(4:23)

ネヘミヤ自身が模範を示しました。リーダーが最も献身的に働いていたのです。

内部の危機—同胞への搾取

しかし、外部の敵よりも深刻な問題が内部にありました:

「ときに、民とその妻たちは、その同胞のユダヤ人たちに対して強い抗議の声をあげた」(5:1)

三つのグループの訴えがありました:

第一グループ:「私たちには息子や娘が大ぜいいる。私たちは、食べて生きるために、穀物を手に入れなければならない」(5:2) —大家族で貧しく、食べ物を買う金がない

第二グループ:「このききんに際し、穀物を手に入れるために、私たちの畑も、ぶどう畑も、家も抵当に入れなければならない」(5:3) —飢饉のため、土地を担保に借金

第三グループ:「私たちは、王に支払う税金のために、私たちの畑とぶどう畑をかたにして、金を借りなければならなかった。現に、私たちの肉は私たちの兄弟の肉と同じであり、私たちの子どもも彼らの子どもと同じなのだ。それなのに、今、私たちは自分たちの息子や娘を奴隷に売らなければならない。事実、私たちの娘で、もう奴隷にされている者もいる。しかし、私たちの畑もぶどう畑も他人の所有となっているので、私たちにはどうする力もない」(5:4-5)

最も深刻なのは第三グループです。ペルシャへの税金を払うために借金し、返済できずに自分の子どもを奴隷として売らなければならない状態でした。

そして貸し手は誰か?—同じユダヤ人の金持ちたちでした。

ネヘミヤの怒りと改革

「私は彼らの不平と、これらのことばを聞いて、非常に怒った」(5:6)

「ネヘミヤの統率力はすごいですね。民の個人的利益も負債や貸付金にまで口を出せるとは」

ネヘミヤは経済問題に大胆に介入しました。

しかしこれは単なる権力行使ではありません。神の律法に基づく預言者的介入でした:

「私は十分考えたうえで、おもだった者たちや代表者たちを非難して言った。『あなたがたはみな、自分の兄弟たちに、担保を取って金を貸している』と。私は大集会を開いて彼らを責め、彼らに言った。『私たちは、異邦人に売られた私たちの兄弟、ユダヤ人を、できるかぎり買い取った。それなのに、あなたがたはまた、自分の兄弟たちを売ろうとしている。私たちが彼らを買わなければならないのだ』」(5:7-8)

律法の根拠 レビ記25:35-37は明確に命じています:「もし、あなたの兄弟が貧しくなり、その手があなたのもとで弱くなったなら、あなたは彼を支えなければならない…彼から利息を取ってはならない…あなたは彼に利息をつけて金を貸してはならない」

ネヘミヤは律法を根拠に、金持ちたちの不正を糾弾したのです。

ネヘミヤ自身の模範—12年間無給

「また、私がユダの地の総督として任命された時から、すなわち、アルタシャスタ王の第二十年から第三十二年までの十二年間、私も私の親類も、総督としての手当を受けなかった」(5:14)

「自分が利益を得ていない12年間も手当てがないと生きていけないのでは?よほど蓄えがあったのだと考えられます」

まさにその通りです。ネヘミヤ1:11で彼はペルシャ王の「献酌官」という高位にありました。バビロンで相当な資産を築いていたと考えられます。

しかし重要なのは、彼がその特権を放棄したことです:

「私の前任の総督たちは民の負担を重くし、民から、パンとぶどう酒のために取り立て、そのうえ、銀四十シェケルを取った。しかも、彼らに仕える若い者たちは民にいばりちらした。しかし、私は神を恐れて、そのようなことはしなかった」(5:15)

銀四十シェケルは当時の労働者の約4ヶ月分の賃金に相当します。前任者たちは民から搾取していたのです。

「また、私はこの城壁の工事に専念し、私たちは農地を買わなかった。私に仕える若い者たちはみな、工事に集まっていた」(5:16)

ネヘミヤは混乱期に土地を安く買い占めることもできたはずです。しかし彼はそうしませんでした。

ネヘミヤの食卓—開かれた施し

「ユダヤ人の代表者たち百五十人と、私たちの回りの国々から来る者が、私の食卓についていた。それで、一日に牛一頭、えり抜きの羊六頭が料理され、私のためには鶏が料理された。それに、十日ごとに、あらゆる種類のぶどう酒をたくさん用意した」(5:17-18a)

ネヘミヤは毎日150人以上を自分の食卓でもてなしていました。その食費は莫大なものだったでしょう。

「それでも私は、この民に重い労役がかかっていたので、総督としての手当を要求しなかった」(5:18b)

ネヘミヤの祈り—そして私達の祈り

「私の神。どうか私がこの民のためにしたすべてのことを覚えて、私をいつくしんでください」(5:19)

ネヘミヤは報いを神に求めました。これは傲慢ではありません。彼の働きを見る人がいなくても、神は見ておられるという信仰の告白です。

こんな祈りしていいんだと思いました。

この祈りから自分自身の祈りへと導かれました。

「私の神、どうか私が日本のために、日本の民がカルトに惑わされないように、多くの時間を割いて聖書のみ言葉に忠実なブログを書いたことを覚えて、私をいつくしんでください。私自身が知りたかったこと、疑問が解決できたことを、誠実に開示していることを。主よ、私の作業を忘れないでください。このブログは、聖書を知りたいじっくり味わいたいと思っている人、神を知りたいと思っている人に必要なものだと信じています。YouTubeやブログで霊的に目が覚めたあの時の私のような誰かの為に」

アーメン。神は覚えておられます。

自己紹介でも書いていましたが、自分の為の辞書のようなブログを作りたいと思っています。でも時々PV稼がない長文ブログ、偉そうに書いてて何の意味があるんだろう、と思うことがあります。自分自身の記憶の為、自分自身が主と交わる為ではあります。でも、他の方に見ていただくにはかなり精査しなけらばならないので、しっかり学びます。AIとの対話も楽しいものです。学ぶ中で多くの恵みを頂きました。み言葉を精査してそれを言葉にするともっと深く内に入ってくることも知りました。誰かの為と言いながら私自身が一番学べ主と交流し恵みを頂いていたことを感謝します。

第三部:新約(ルカ16:1-18)—天の富のための賢明な投資

不正な管理人のたとえ—最も理解しにくいたとえ話

「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された」(16:1)

このたとえ話は、イエスの教えの中でも最も理解しにくいものの一つです。なぜなら、イエスが不正を働いた管理人を褒めているように見えるからです。

管理人は解雇を告げられます:「おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい」(16:2)

管理人の計算—将来への抜け目ない準備

管理人は自分の将来を冷静に計算します:

「管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、物ごいをするのは恥ずかしいし。ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう』」(16:3-4)

そして彼は主人の債務者たちを呼んで、借金を大幅に減額します:

「油百バテ」→「五十」に(50%削減) 「小麦百コル」→「八十」に(20%削減)

これは明らかに主人の財産を勝手に処分する不正行為です。しかし…

イエスが褒めたのは何か?

「この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた」(16:8)

ここで重要なのは、何を褒めたのかです:

❌ 不正な行為そのもの ⭕ 将来を見据えた抜け目なさ

「この世の子ら」と「光の子ら」の対比

  • この世の子ら=未信者たち→地上の将来のために抜け目なく計算し、行動する
  • 光の子ら=信者たち→天の将来のためにもっと賢く行動すべきなのに、なぜかそうしない

イエスは言われます:「そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです」(16:9)

「不正の富」とは何か?—マモンの正体

「不正の富」というギリシャ語は「μαμωνς τς δικίας」(mamōnas tēs adikias)です。

マモン(mamōnas)はアラム語「ממונא」(mamona)からの借用語で、単に「お金」「財産」という意味ですが、イエスの時代にはすでに擬人化された富、つまり偶像化された富という含意がありました。

16:13でイエスは明確に述べています:「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」

ここで「富(マモン)」は人格を持った主人として描かれています。

では「不義のマモン」とは?

「不義の(ἄδικος、adikos)」という形容詞には二つの解釈があります:

解釈A:不正な方法で得られた富 →しかしイエスは盗みを推奨していないので、これは弱い

解釈B:本質的に不完全な富、この世に属する一時的な富 →神の国の視点から見れば、地上の富は全て「不完全なもの」「一時的なもの」

つまり「不義のマモン」=この世の富という本質的に不完全なものという意味です。

「不正の富に忠実」の逆説—友喜の疑問への答え

友喜が引っかかった16:11を見てみましょう:「ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう」

この節は逆説的に聞こえます。「不正」なものに「忠実」

しかしここで使われているのは、対照的な二つの概念です:

不正の富(この世の富):不完全、一時的、小さいもの まことの富(天の富):完全、永遠、大きいもの

イエスの論理はこうです: 「小さくて不完全なもの(地上の富)でさえ忠実に管理できないなら、大きくて完全なもの(天の富)をどうして任せられるだろうか?

これは16:10の原則と同じです:「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です」

階段状の論証—三つのステップ

16:10-12は階段状に論理が積み上げられています:

ステップ1(16:10):小さいこと⇔大きいこと →一般原則

ステップ2(16:11):不正の富(小さいこと)⇔まことの富(大きいこと) →地上の富の忠実な管理が、天の富を受ける条件

ステップ3(16:12):他人のもの⇔あなたがたのもの 「また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう」

「他人のもの」とは何か? 詩篇24:1「地とそこに満ちるものは主のもの」—地上の全ての富は本来神のものです。私たちはただの管理人に過ぎません。

神のもの(地上の富)を忠実に管理できない者に、どうして「あなたがたのもの(天の報い)」を与えられるでしょうか?

「不正の富で友をつくる」の実際的意味

16:9に戻りましょう:「不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです」

この「友」とは誰でしょうか?三つの解釈があります:

解釈1:貧しい人々 →地上で施しを受けた人々が、天国で証人となって迎える →ルカ12:33「持ち物を売って施しをしなさい」 →ルカ14:12-14「貧しい人々を招きなさい…復活の時に報いられる」

解釈2:神の国の働きによって救われた人々 →地上の富を伝道や宣教に投資することで、救われた人々が天で迎える

解釈3:天使たち →ルカ16:22「貧しい人はアブラハムのふところに連れて行かれた」(天使が連れて行く)

最も自然な解釈は、1と2の組み合わせでしょう。地上の富を、貧しい人への施しや神の国の拡大のために使う—そうすれば、その人々が天国で「友」として迎えてくれるということです。

二人の主人—神か富か

「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」(16:13)

ここでイエスは二者択一を迫ります。中間はありません。

「仕える」という動詞の意味 ギリシャ語「δουλεύω」(douleuō)は「奴隷として仕える」という意味です。これは単なる「使う」ではなく、主従関係を表します。

あなたの心の主人は誰ですか?

  • お金を使って神に仕えるのか?
  • それとも、お金に仕えて生きるのか?

パリサイ人の反応—金の好きな人々

「さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた」(16:14)

「金の好きな」—ギリシャ語「φιλάργυρος」(philargyros)は「銀を愛する者」という意味です。

パリサイ人たちは律法を守っているつもりでしたが、実は富を愛していました。彼らはイエスの教えを聞いてあざ笑いました

イエスの応答は厳しいものでした:「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられるものは、神の前で憎まれ、きらわれます」(16:15)

外側の敬虔と内側の貪欲—これがパリサイ人の実態でした。

「律法と預言者はヨハネまで」—救済史の転換点

「律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これに入ろうとしています」(16:16)

友喜が疑問に思った箇所です:「律法と預言者はヨハネまでと言う言葉が…み言葉でも祈りでもなく、最後に残るのは主イエスだけという意味なのでしょうか」

これは救済史の転換点を示しています:

旧約時代(律法と預言者)

  • 約束と預言の時代
  • 「来るべき方」を待ち望む時代
  • ヨハネ=最後の旧約的預言者(マラキ3:1の成就)

新約時代(それ以来)

  • 約束の成就の時代
  • 「神の国の福音は宣べ伝えられ」
  • イエスご自身が来られた

「無理にでも、これに入ろうとしている」 ギリシャ語「βιάζεται」(biazetai)は「力ずくで進む、激しく攻める」という意味です。

これは良い意味での激しさです:

  • 取税人、罪人、異邦人たちが、社会的障壁を押し破って神の国に入ろうとしている
  • マタイ11:12「天の御国は激しく攻められている」
  • パリサイ人たちは律法を守っているつもりでも、実は入っていない

しかし律法は決して無効にならない

「しかし律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです」(16:17)

「それでも神の御言葉は一点一画も落ちない。神のみ約束は果たされるという意味ですよね」

まさにその通りです!

一見矛盾

  • 16:16「律法と預言者はヨハネまで」→終わった?
  • 16:17「律法は一画も落ちない」→永遠?

解決

  • 律法の機能が変わった(約束→成就)
  • しかし律法の真理性は永遠
  • イエスは律法を廃棄したのではなく完成した(マタイ5:17)

「一画」とは何か? ヘブライ語アルファベットの最小の飾り、セリフのような部分を指します。たとえば、ヘブライ文字の「ד」(ダレット)と「ר」(レシュ)の違いは、右上の小さな角(一画)だけです。

それほど小さな違いでも、神の言葉は一つも失われないということです。

離婚の教え—なぜここに?

「だれでも妻を離別してほかの女と結婚する者は、姦淫を犯す者であり、また、夫から離別された女と結婚する者も、姦淫を犯す者です」(16:18)

「死別以外の再婚は赦されないということですね」

この理解は厳密な解釈です。しかし、なぜこの離婚の教えがここに置かれているのでしょうか?

理由:パリサイ人批判の具体例

パリサイ人たちは:

  • 申命記24:1-4を悪用して、簡単に離婚していた
  • 「人の前で自分を正しいとする」(16:15)
  • しかし神の本来の意図(創世記2:24「ふたりは一体となる」)を無視

イエスの主張:

  • 律法の文字を守っているつもりでも、神の御心を無視するなら、それは姦淫と同じ
  • マタイ19:8「モーセは…離婚を許したが、初めからそうだったのではない」

離婚と再婚についての補足

新約聖書全体を見ると:

  • マタイ19:9「不貞以外の理由で」→例外規定がある
  • Ⅰコリント7:15「信者でない方が離れて行く」→もう一つの例外
  • イエスの真意は「離婚の全面禁止」よりも、安易な離婚への警告神の結婚の理想の回復
ルカ16:10-12 階段状の論証

ルカ16:10-12 階段状の論証

小さいことから大きいことへ—天の富への三つのステップ

ステップ1:一般原則
小さいこと ⇔ 大きいこと
小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、
小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です
ルカ16:10
ステップ2:具体的適用
不正の富 ⇔ まことの富
地上の富(不完全・一時的)に忠実でないなら、
天の富(完全・永遠)を任せられない
ルカ16:11
ステップ3:管理人の原則
他人のもの ⇔ あなたがたのもの
神のもの(地上の富)に忠実でないなら、
あなたがたのもの(天の報い)を与えられない
ルカ16:12、詩篇24:1

論証の核心

地上の富は「小さくて不完全なテスト」です。

私たちが今、神から預かっている地上の富(時間、才能、財産)をどう管理するかが、天の富を受け取る資格を決めます。

「地とそこに満ちるものは主のもの」(詩篇24:1)—私たちは所有者ではなく、管理人に過ぎません。

全体の繋がり—何を手放し、何のために?

この三つの箇所を見てきました:

出エジプト19章:神の臨在のための聖別 →一時的に夫婦関係を手放す

ネヘミヤ4-5章:神の働きのための献身 →自分の権利と利益を手放す(12年間無給)

ルカ16章:天の富のために地上の富を手放す →しかし賢く、忠実に、戦略的に

共通テーマ何を手放し、何のために手放すか

しかし、ルカ16章が加えている重要な要素があります:

単に手放すだけではなく、賢く投資する

不正な管理人は不正でしたが、彼の抜け目なさは見習うべきです。 地上の富を、天の富に変換する—それが神の国の経済学です。

学んでいるうちに、

「これは“難解なたとえ”ではなく、“覚悟を問うたとえ”である」と言う理解に到達しました。

第四部:全体の一貫性—三つの「手放し」が指し示すもの

三つの箇所に共通するパターン

今日の三つの箇所を振り返ると、一つの明確なパターンが見えてきます:

出エジプト19章:神の臨在のための聖別

  • 何を手放すか:一時的に夫婦関係を控える
  • 何のために:シナイ山での神との出会い
  • 期間:三日間

ネヘミヤ4-5章:神の働きのための献身

  • 何を手放すか:自分の権利、利益、12年間の総督手当
  • 何のために:エルサレム城壁の再建と民の保護
  • 期間:12年間

ルカ16章:天の富のための投資

  • 何を手放すか:地上の富(不義のマモン)
  • 何のために:天の富、永遠の住まい
  • 期間:生涯

一時的なものと永遠のもの—価値の転換

三つの箇所すべてが、一時的なものを手放して永遠のものを得るという原則を示しています。

しかし、段階的に深まっていることに注目してください:

第一段階(出エジプト19章)

  • 三日間という短期間
  • 夫婦関係という良いものを一時的に控える
  • 目的:神との直接的な出会い

第二段階(ネヘミヤ4-5章)

  • 12年間という長期間
  • 総督の手当という正当な権利を放棄
  • 目的:神の民の再建という大きな働き

第三段階(ルカ16章)

  • 生涯にわたる継続的な選択
  • 地上の富という本質的に不完全なものを手放す
  • 目的:天の富という永遠の報い

聖別の本質—分離と献身

**聖別(カダシュ)**という概念が、三つの箇所を貫いています。

出エジプト19章では、民は「聖別」されました。これは単なる儀式的清めではなく、日常から分離されて神のために取り分けられることを意味しました。

ネヘミヤは自分自身を神の働きのために「聖別」しました。彼は総督という地位を利用して富を蓄えることもできましたが、そうしませんでした。彼は自分の権利を放棄して、民のために生きることを選びました。

ルカ16章では、イエスは私たちに富からの聖別を求めています。「神にも仕え、また富にも仕えることはできません」—これは、心の主人を選ぶ決断です。富を所有することは罪ではありませんが、富に所有されることは偶像礼拝です。

準備と投資—受動的な放棄ではない

重要なのは、これらの「手放し」が単なる受動的な放棄ではないということです。

出エジプト19章: 民は三日間、積極的に準備しました:

  • 着物を洗う
  • 女に近づかない
  • 山の境界を設ける これは「何もしない」のではなく、神との出会いのための積極的な準備でした。

ネヘミヤ4-5章: ネヘミヤは手当を受け取らなかっただけでなく:

  • 自分の財産で150人以上を毎日もてなした
  • 民に金を貸しても利子を取らなかった
  • 城壁建設に専念した これは「何も得ない」のではなく、神の働きへの積極的な投資でした。

ルカ16章: イエスは「不正の富で友をつくりなさい」と命じました。これは:

  • 貧しい人への施し
  • 神の国の働きへの献金
  • 伝道・宣教への投資 単に富を捨てるのではなく、天の富に変換するという積極的な行為です。

抜け目なさと賢明さ—光の子らへの挑戦

ルカ16章で、イエスは驚くべきことを言われました:「この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがない」(16:8)

この世の子らは、地上の将来のために:

  • 計算する
  • 計画する
  • 投資する
  • ネットワークを作る
  • リスクを取る

光の子らである私たちは、永遠の将来のために、どれだけ「抜け目なく」行動しているでしょうか?

ネヘミヤは、神の働きのために驚くほど戦略的でした:

  • 民を家族ごとに配置した(心理的動機づけ)
  • 角笛という警報システムを導入した(効率的な防衛)
  • 公開集会で金持ちたちに誓約させた(社会的圧力の利用)
  • 自ら模範を示した(リーダーシップの原則)

これは霊的な働きが「無計画でいい」「何も考えずに神に委ねればいい」という意味ではありません。祈りと計画、信仰と知恵の両方が必要です。

小さいことに忠実—天の富への階段

ルカ16:10-12の階段状の論証は、今日の三つの箇所全体を貫く原則です:

小さいこと→大きいこと

出エジプト19章:

  • 小さいこと:三日間の聖別
  • 大きいこと:シナイ契約、十戒の授与、幕屋の設計

ネヘミヤ4-5章:

  • 小さいこと:総督手当の放棄
  • 大きいこと:エルサレムの再建、神の民の霊的回復

ルカ16章:

  • 小さいこと:地上の富の忠実な管理
  • 大きいこと:天の富、永遠の住まい

「他人のもの」→「あなたがたのもの」

詩篇24:1「地とそこに満ちるものは主のもの」—この真理が三つの箇所に響いています。

出エジプト19章: 神は言われました:「全世界はわたしのものであるから」(19:5) その上で、イスラエルを「わたしの宝」として選ばれました。

ネヘミヤ4-5章: ネヘミヤは理解していました:城壁も、民も、彼の総督職も、全て神から預かったものです。 だから彼は「神を恐れて」(5:15)自分の利益を追求しませんでした。

ルカ16章: イエスは明確に教えられました:「あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう」(16:12)

私たちが所有していると思っているものは、実は全て神から預かっているものです。その管理の仕方が、永遠の報いを決めます。

律法の完成—文字から霊へ

ルカ16:16-18の「律法と預言者はヨハネまで」という言葉は、今日の三つの箇所全体の背景を照らし出します。

旧約時代の原則

  • 出エジプト19章:シナイ契約、律法の授与
  • ネヘミヤ4-5章:律法に基づく改革(レビ25:35-37)

新約時代の完成

  • ルカ16章:律法の機能が変わった(約束→成就)
  • しかし律法の真理性は永遠(16:17)

イエスは律法を廃棄したのではなく完成しました。

律法の文字:「同胞から利子を取ってはならない」(レビ25:37) 律法の霊:愛と正義のために自分の権利を放棄する(ネヘミヤ5章)

律法の文字:「離婚証書を渡せば離婚できる」(申命記24:1) 律法の霊:神の結婚の理想—「ふたりは一体となる」(創世記2:24)

律法の文字:「安息日に何もしてはならない」 律法の霊:神のための聖別された時間(出エジプト19章の三日間)

二つの主人—最終的な選択

今日の三つの箇所は、最終的に一つの問いに集約されます:

「あなたの心の主人は誰ですか?」

出エジプト19章: 民は「【主】が仰せられたことを、みな行います」と答えました(19:8)。 彼らは神を主として選びました。

ネヘミヤ4-5章: ネヘミヤは「神を恐れて」(5:15)行動しました。 彼は金銭的利益ではなく、神の御心を主としました。

ルカ16章: イエスは明確に宣言されました:「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」(16:13)。

中間はありません。

永遠の住まいへの準備—油断できない現実

マタイ25章の十人の娘のたとえを思い出してください。

賢い娘たちは油を準備していました。 愚かな娘たちは油がなく、「分けてください」と頼みましたが、遅すぎました。

油(聖霊、準備)は分けられません。

出エジプト19章で学んだように、聖別は個人的なものです。 モーセが民のために準備することはできませんでした。 民は各自、自分の着物を洗い、自分自身を聖別しなければなりませんでした。

ネヘミヤ5章で学んだように、献身は個人的なものです。 ネヘミヤは民に「私のように無給で働け」と強制しませんでした。 しかし彼は自ら模範を示すことで、民を励ましました。

ルカ16章で学んだように、天の富への投資は個人的なものです。 「不正の富で友をつくりなさい」—これは各自が決断すべきことです。

今日の適用—私たちへの問いかけ

今日の三つの箇所は、私たちに問いかけています:

1. 神の臨在のために、何を手放す準備ができていますか?

  • 毎日の静まりの時間
  • スマホやSNSからの一時的な断絶
  • 神との交わりのための時間の確保

2. 神の働きのために、何を献げる準備ができていますか?

  • 時間、才能、財産
  • 自分の権利や正当な利益
  • 人から評価されなくても、神のために生きる覚悟

3. 天の富のために、地上の富をどう投資していますか?

  • 貧しい人への施し
  • 教会や宣教への献金
  • 神の国の拡大のための時間と資源

結び—三つの「手放し」の先にあるもの

出エジプト19章の民は、三日間の聖別の後、何を得たでしょうか? →神の声を直接聞き、シナイ契約を受け、神の民としてのアイデンティティを確立しました。

ネヘミヤは、12年間の無給奉仕の後、何を得たでしょうか? →城壁は完成し、民は霊的に回復し、彼の名前は永遠に聖書に刻まれました。 そして何より、彼は神に「覚えて、私をいつくしんでください」(5:19)と祈る権利を得ました。

ルカ16章で、不正の富で友をつくった人は、何を得るでしょうか? →「富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです」(16:9)

一時的なものを手放した先に、永遠のものがあります。

しかし最も重要なのは、物質的な報いではなく、神ご自身との関係です。

イスラエルの民がシナイで得た最大の祝福は、十戒でも律法でもなく、「わたしの宝」「祭司の王国」「聖なる国民」として神に選ばれたことでした(19:5-6)。

ネヘミヤが得た最大の報いは、城壁の完成ではなく、「私の神」と呼べる親密な関係でした(5:19)。

イエスが約束された最大の報いは、天国の豪邸ではなく、「永遠の住まい」—神と共にある永遠の交わりです(16:9)。

ペテロ2:9は、出エジプト19:6の約束が新約の教会に成就したことを宣言します: 「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です」

私たちもまた、祭司の王国、聖なる国民として召されています。 そのためには、何かを手放す必要があります。 しかしその先に、永遠の富が待っています。

スポンサーリンク

コメント

タイトルとURLをコピーしました