目次
はじめに:感じ始めた違和感
最近、自分の中で一つの違和感が大きくなっています。
「単純に、純粋に信じればいい」
「難しく考えすぎないで」
「神学なんて必要ない、ただ信じるだけ」
もちろん、これらの言葉には真理が含まれています。主イエスも「子どものように」神の国を受け入れなければならないと言われました(マルコ10:15)。
でも、同時に私の中で問いが湧き上がります:
「主をもっと深く知りたい」「聖書を深く学びたい」という願いは、純粋ではないのでしょうか?
愛している方のことをもっと知りたいと願うのは、愛の証しではないでしょうか?
イエスが加えられた一つの言葉
マタイ22:37で、主イエスはシェマー(申命記6:5)を引用されますが、一つの言葉を加えておられます:
申命記6:5(旧約)
「あなたは心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
マタイ22:37(新約)
「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。」
主イエスはここに、敢えて**「知力を尽くして」**という言葉を加えられました。
これは偶然ではないと思います。
新約時代以降、一人一人が聖書を読める時代が来ること。書籍や資料、そして現代ではインターネット、AI、様々な研究資料を通して、神について学べる時代が来ること。
そんな時代にあっても、神の言葉は生きていて力があり、知性を用いて神を愛することは美しいことだ―主イエスはそう言っておられるように思えるのです。
「しるしを求める時代」の警告
マタイ12章を読んでいて、もう一つ心に留まった箇所がありました。
「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」(マタイ12:39)
今日の教会を見るとき、この言葉が心に響きます。
私たちはどうしても**「奇跡」「しるし」「一足飛びの解決」**を求めてしまう傾向があります:
- ✨ 体験や感動が第一
- 🎤 「今日の預言」が御言葉より重視される
- 💰 繁栄や物質的祝福の強調
- 📊 教会の大きさや数字での成功
- 🏆 「バランスの取れた牧師」=「多くの賜物を持つ人」
そして気づけば、主イエスご自身の心、聖書の御言葉そのものから離れていることがあります。
ある姉妹が言いました:「あの先生は預言も癒しも教えもできて、バランスが取れている」
その時、私は違和感を覚えました。賜物がたくさんあることが「バランス」なのでしょうか?
私が思う真のバランスとは:
- 霊:聖霊様の導きに敏感に従い、祈りとりなす
- 真:み言葉を愛し、み言葉に従い、聖書の御言葉を忠実に伝える
これこそが、イエスが言われた**「霊と真をもって礼拝する」**(ヨハネ4:24)ということではないでしょうか。
現代教会への懸念―愛をもって
私が感じている違和感を、いくつか正直に書きます。これは批判ではなく、共に考えたいという願いからです:
1. 学びへの不当な制限
- 「リビングバイブルは読んではダメ」
- 「エゼキエル戦争の国々を現代に当てはめて語ってはいけない」
確かに、慎重であるべき点はあります。でも同時に、学びたいという願いそのものを否定する雰囲気があるとしたら、それは問題ではないでしょうか。
間違いを恐れすぎて何も語らない、何も学ばないよりも、謙遜に学び続ける姿勢の方が主に喜ばれるのではないでしょうか。
2. 異端教理への無警戒さ
その一方で、明らかに聖書から逸脱した教えには無警戒です:
- 「イエスは地獄で贖いを成し遂げた」 – 参考:ジョイス・マイヤー(1)
- 「私たちは小さな神(little gods)だから、神と同じ立場で命令できる」 – 参考:ジョイス・マイヤー(2)
- 繁栄の神学(必ず豊かになる、病は信仰の欠如など)
なぜ、健全な学びは制限され、異端的な教えは簡単に受け入れられてしまうのでしょうか?
それは、普段から聖書を精査していないからではないでしょうか。
3. 比較と競争の文化
- 教会の大きさ
- 集会の人数
- 奇跡やしるしの数
- 「成功している」牧師への憧れ
いつの間にか、信仰までもが他者比較の中で成り立つようになってしまう。
そして、平安が失われる。
主イエスはペテロに言われました:「あなたは、わたしに従いなさい」(ヨハネ21:22)
「水のない地」―御言葉と聖霊の欠如
マタイ12:43-45で、主イエスはこう言われます:
「汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。」
悪霊は**「水のない地」**を好みます。
この「水」とは:
- 御言葉(エペソ5:26「みことばにより、水の洗いをもって」)
- 聖霊(ヨハネ7:38-39「生ける水の川」)
つまり、御言葉と聖霊がない場所が、悪霊の好む場所なのです。
掃除してきれいにしただけでは不十分。主の臨在と御言葉で満たされる必要があるのです。
これは私自身への戒めでもあります。油断すると、私の中にも:
- 奇跡や体験を求める心
- 一足飛びの解決を望む思い
- 他者と比較する心
が生まれます。
だからこそ、日々、御言葉と聖霊に満たされる必要があるのです。
私の願い―そしてあなたの願いでは?
私が心から願っていることがあります:
- 主イエスのすばらしさをもっと知りたい
- 主イエスのされた御業を深く学びたい
- 神様の愛をもっと悟りたい
- 聖霊様の導きにもっと敏感になりたい
- 聖書の御言葉の一貫性を発見したい
- 聖書の真実さを、歴史や考古学からも確認したい
- 日々の生活に適用できる深さで御言葉を理解したい
これは純粋な願いではないでしょうか?
愛する方のことをもっと知りたいという、最も自然な願いではないでしょうか?
パウロの模範―深さと単純さの両立
使徒パウロは、誰よりも深い神学者でした。ローマ書、エペソ書の深淵な教理。
でも同時に、こう言いました:
「私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」(1コリント2:2)
深い理解と単純な信仰は矛盾しません。
むしろ、深く学べば学ぶほど、キリストの十字架の愛の深さに圧倒され、単純に「ただ主を愛したい」という思いになるのです。
エペソ1章の祈り―知ることへの渇望
パウロはエペソ教会のためにこう祈りました:
「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」(エペソ1:17-19)
「知ること」「悟ること」は、パウロの最も切実な祈りでした。
これは知的傲慢ではありません。謙遜に、聖霊の助けを求めながら、神を深く知りたいという願いです。
昨日のシャバットで教えられたこと
昨日、マルコ11:24を学びました:
「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」
だから私は祈り、信じます:
「主よ、あなたのすばらしさをもっと知らせてください。御言葉の深さを悟らせてください。聖霊の導きに敏感にさせてください。これらのことを、すでに与えられたと信じます。」
これは難しいことでも、高慢なことでもありません。
単純に、純粋に、主をもっと知りたいという願いです。
終わりに:あなたも同じ願いを持っていませんか?
もしあなたも:
- 主をもっと深く知りたい
- 聖書をもっと理解したい
- でも「単純に信じればいい」と言われて戸惑った
- 学ぶことへの罪悪感を感じたことがある
そんな思いを持っているなら、知ってください。
その願いは美しく、主に喜ばれるものです。
主イエスご自身が言われました:「知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」と。
詩篇119篇の著者のように、御言葉を慕い求めましょう。
エペソ1章のパウロの祈りを、自分の祈りとしましょう。
そして、謙遜に、聖霊の助けを求めながら、主を知る旅を続けましょう。
人間は弱いけれど、主は力があります。
普段から主により頼んで、聖書の言葉を真摯に受け取りましょう。
その時、私たちは真に「霊と真をもって礼拝する者」となるのです。
「主を知ることを追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」(ホセア6:3)
参考資料
異端教理について学ぶために
これらの記事は、現代教会に影響を与えている異端的教えを聖書的に検証しています:
※注意: これらのリンクは、特定の人物を攻撃するためではなく、聖書の真理を守り、健全な教えと異端的な教えを見分ける力を養うために紹介しています。すべてを聖書に照らして吟味しましょう(1テサロニケ5:21)。

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