聖書通読2026.3.22 レビ記2章 詩篇31・32篇 ヨハネ11章1〜29節 素祭の生涯—神に帰し、人に帰す

聖書の名言集
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本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。

【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。

第一部 トーラー——素祭が指し示すキリストの生涯

五種類のささげ物の中で、素祭(穀物のささげ物)だけが植物性である。牛でも羊でも鳩でもなく、小麦粉と油と乳香——畑の実りから生まれたこのささげ物は、いったい何を指し示しているのだろうか。レビ記2章を丁寧に読むと、そこにキリストの地上の生涯そのものが、驚くほど精密に型として刻まれていることに気づかされる。

ミンハー——王への献上品

素祭(穀物のささげ物)のヘブライ語は מִנְחָה(ミンハー) である。この語の本来の意味は「贈り物・貢ぎ物」であり、王や上位者への献上品を指す言葉でもある。創世記4章でカインとアベルが「ささげ物(ミンハー)」を持ち寄った場面にも同じ語が使われている。つまり素祭とは、神を王として認め、その御前にひれ伏す行為そのものである。礼拝とは感情の高揚ではなく、王権の承認である——素祭はその原点を静かに語っている。

五つの構成要素が語るキリスト像

素祭の材料と規定を一つひとつ見ていくと、それぞれがキリストの人格と生涯の一側面を指し示していることがわかる。

要素ヘブライ語発音神学的意味
上質の小麦粉סֹלֶתソレット罪なき完全な人性・砕かれた柔和さ
שֶׁמֶןシェメン聖霊——混ぜる・注ぐ・塗る、三様の働き
乳香לְבֹנָהレヴォナー神の前に香ばしい祈りと礼拝の生涯
パン種なしמַצָּהマッツァー罪なき純粋さ・偽善の排除
מֶלַחメラハ腐らない契約・永遠の真実

特に注目したいのは油の三つの動詞である。「油を混ぜた」(4節)、「油を注いだ」(6節)、「油を塗った」——これらはキリストが聖霊によって生まれ、心の底まで御霊に満たされ、さらに働きのために上から聖霊を注がれたことを示す。キリストにおいて聖霊の働きは一度きりではなく、内側から外側へ、存在から使命へと重層的に流れ出ていた。

パン種と蜜——何が排除されるのか

11節の規定は鋭い。パン種(שְׂאֹר・セオール)は発酵・膨張するもので、聖書全体を通じて罪・偽善・腐敗の象徴として用いられる(Ⅰコリント5:8、マタイ16:6)。神へのささげ物にこれが混入してはならない。

蜜の禁止はさらに示唆的である。蜜は甘く、人を喜ばせる。しかしそれは「人情・肉の甘さ」——神ではなく人間的な感情や受けを狙ったものの象徴ではないか。キリストは人の歓心を買うために語らず、時に群衆の期待を裏切り、いつも父なる神に向かって語った。礼拝に「蜜」を混ぜてはならない——これは今日の礼拝者への静かな警告でもある。

契約の塩——腐らない関係

「あなたの神の契約の塩を欠かしてはならない」(13節)

この表現は聖書の中でも際立って力強い。塩は腐敗を防ぎ、永続させる。「契約の塩」とは、神との関係が変質しないという宣言である。民数記18:19では祭司への取り分が「塩の契約」と呼ばれ、歴代誌下13:5ではイスラエルへのダビデの王権が「塩の契約」として語られる。キリストはこの契約を人格として体現された方である。

ひとつかみの神学

祭司は素祭(穀物のささげ物)からひとつかみを取り出し、乳香と共に祭壇で焼く。これが「記念の部分(アズカラー・אַזְכָּרָה)」である。残りはアロンとその子ら、祭司たちの食物となる。

この構造に注目したい。ひとつかみは神に帰し、残りは人に帰す。全部が焼かれるわけでも、全部が人のものになるわけでもない。一方、燔祭(全焼のいけにえ)は文字通り全部が焼かれ、すべてが神に帰される。素祭(穀物のささげ物)はその性質が異なる。キリストの生涯はまさにこの素祭の形をしていた。朝早く人気のない場所で父と共にある時間(神に帰す部分)と、群衆の中で癒し、教え、食卓を共にする時間(人に帰す部分)——この二つが一つのささげ物として捧げられた。

素祭の生涯へ

燔祭(全焼のいけにえ)がキリストの十字架の死を型として示すなら、素祭(穀物のささげ物)はその前提となるキリストの地上の生涯全体を示している。死だけでなく、生きた三十三年間そのものが、神への完全なささげ物だった。

米田豊氏の言葉を借りれば——「われわれも主にならって素祭の生涯を送るべきである。麦粉のように砕かれ柔和けんそんな者となり、油である聖霊に満たされ、乳香のように神と人の前に香ばしい香りを常に放ち……神と人とのために聖なる全き生涯を送るべきである」。

素祭の生涯。それは神に帰す部分と人に帰す部分が、同じひとつのささげ物から流れ出ている生き方である。礼拝者として神の前にひれ伏す時間と、隣人のために砕かれていく日常とが、切り離されることなく一体となっている——そのような生涯へと、この章は私たちを招いている。

素祭の構造——神に帰し、人に帰す
素祭(穀物のささげ物)の構造
レビ記2章 מִנְחָה(ミンハー)——神に帰し、人に帰す
🌾 麦の粒

砕かれる
סֹלֶת ソレット
上質の小麦粉
+
材料を加える
שֶׁמֶן シェメン 聖霊の働き
混ぜる・注ぐ・塗る
לְבֹנָה レヴォナー 祈りと礼拝
神への香ばしい香り
שְׂאֹר セオール 罪・偽善・腐敗
混入禁止
דְּבַשׁ デヴァシュ 人情・肉の甘さ
焼くことは禁止
מֶלַח メラハ 契約の永続性
腐らない関係
加えるもの
禁じられるもの
必ず加えるもの
祭司の行為
「ひとつかみ」+乳香全部を取り出し、祭壇で焼く
אַזְכָּרָה(アズカラー)——記念の部分
🔥 神に帰す部分
אַזְכָּרָה アズカラー(記念の部分)
ひとつかみ+乳香
祭壇の火で焼く
「なだめのかおり」
礼拝・祈り・神との交わり
🫳 人に帰す部分
שְׁאֵרִית シェエリット(残り)
残りの素祭
アロンとその子らの食物
「最も聖なるもの」
奉仕・隣人・日常の使命
▶ キリスト論的対応
燔祭(全焼のいけにえ)がキリストの十字架の死を型として示すなら、 素祭(穀物のささげ物)はキリストの地上の生涯全体を示す。 朝早く父と共にある時間(神に帰す)と、群衆の中で癒し・教える時間(人に帰す)—— この二つが一つのささげ物として捧げられた。
▶ 米田豊氏の言葉
「われわれも主にならって素祭の生涯を送るべきである。麦粉のように砕かれ柔和けんそんな者となり、 油である聖霊に満たされ、乳香のように神と人の前に香ばしい香りを常に放ち…… 神と人とのために聖なる全き生涯を送るべきである。」
レビ記2章|新改訳改訂第3版 参考:米田豊『旧約聖書講解』
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第二部 詩篇——砕かれた者の告白と隠れ場

詩篇31篇と32篇は、並べて読むと一つの信仰の旅路が見えてくる。31篇は嘆きの中から神に叫ぶ声であり、32篇はその嘆きの根本にあった罪を告白し、赦しを受けた者の喜びの歌である。二つの詩篇はセットとして読まれるべきものだ。

詩篇31篇——極限の孤独の中で

31篇はダビデが極限状況にある。敵に囲まれ、隣人から避けられ、親友からさえ恐れられる(11節)。「私は死人のように、人の心から忘れられ、こわれた器のようになりました」(12節)——これは単なる比喩ではない。社会的な死、関係の断絶、存在の否定である。

ここで注目したいのは5節である。

「私の霊を御手にゆだねます。真実の神、主よ。あなたは私を贖い出してくださいました。」

この言葉はイエスが十字架上で引用した(ルカ23:46)。ダビデが極限の孤独の中で叫んだこの言葉を、キリストは死の瞬間に自らの言葉として語った。詩篇31篇はキリストの十字架の叫びを何百年も前に先取りしていたのである。

そして15節——「私の時は、御手の中にあります」。

親友から恐れられ、隣人から避けられる——これは深い痛みである。しかしダビデはその痛みの中で「私の時は御手の中にある」と告白する。状況が変わったわけではない。敵はまだそこにいる。しかし時の支配権が神の手にあるという認識が、絶望を信頼に変える。素祭(穀物のささげ物)のひとつかみが祭壇に置かれるように、自分の時間と状況を神の手に委ねる——これが31篇の核心である。

詩篇32篇——告白が開く扉

32篇は一転して喜びから始まる。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は」(1節)。しかしこの喜びに至る前に、ダビデは重い沈黙の時を経ていた。

3節から4節は告白以前の状態を描く。「私は黙っていたときには、一日中うめいて、私の骨々は疲れ果てました。御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は夏のひでりでかわききった」——罪を隠し、黙っていることの重さである。肉体的な疲弊として描かれているほど、その重荷は実在した。

しかし5節で転換が起きる。

「私は、自分の罪をあなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」

ヘブライ語で「告白する」は יָדָה(ヤダー) である。この語の基本的な意味は「手を伸ばす・投げる」——自分の罪を神の前に投げ出す、手放す、という行為である。隠すことをやめて、神の前に開く。それだけで赦しが来た。

要素ヘブライ語発音神学的意味
告白するיָדָהヤダー手を伸ばす・投げ出す・賛美する
赦す・覆うכָּסָהカサー覆い隠す・包む
幸いאַשְׁרֵיアシュレーいかに幸いな・ああ幸いなる

興味深いのは1節の「罪をおおわれた」という表現である。ヘブライ語 כָּסָה(カサー)「覆う」——人間が罪を覆い隠そうとするとき(3〜4節)、神は重くのしかかる御手を通して告白へと促される。しかし人間が罪を神の前に投げ出したとき、今度は神がその罪を覆ってくださる。覆うのは人間ではなく神である。この逆転が32篇の核心だ。

隠れ場という神学

7節「あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます」——告白の後に現れる「隠れ場」である。

罪を隠す場所を失ったとき、神ご自身が隠れ場となる。これは逆説である。自分で隠そうとしていた間は、神は重くのしかかる御手だった。しかし告白して手放したとき、神は隠れ場に変わる。素祭(穀物のささげ物)に重ねれば——砕かれた小麦粉が油と乳香と共に神の前に置かれるとき、それは「なだめのかおり」(2節)となる。砕かれることを恐れない者だけが、神の隠れ場を知る。

31篇と32篇をつなぐ糸

二つの詩篇を並べると、一つの旅路が見えてくる。

31篇:極限の孤独と苦しみの中で神に叫ぶ→「私の時は御手の中にある」

32篇:罪の告白→赦し→隠れ場の発見→喜びの歌

この旅路は素祭の構造と重なっている。砕かれ(小麦粉)、聖霊に満たされ(油)、神の前に香ばしい香りを放ち(乳香)、罪のない純粋さで(パン種なし)、腐らない契約の中に立つ(塩)——詩篇のダビデは、知らずして素祭の生涯を歩んでいた。

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第三部 ヨハネ——よみがえりはわたしです

ヨハネ11章は聖書の中で最も劇的な場面の一つである。しかしその劇的さは奇跡そのものにあるのではない。奇跡に至るまでのイエスの沈黙と遅れ——そこにこそ、この章の神学的な深みがある。

愛するがゆえに、遅れた

11:5〜6は聖書の中で最も逆説的な文章の一つである。

「イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。」

「そのようなわけで」——愛しているがゆえに、遅れた。愛の結果が二日間の沈黙である。これは人間の論理に反する。愛するなら急ぐはずだ。しかしイエスは動かなかった。

この二日間、マルタとマリヤはどれほど使いを待っただろうか。イエスが来ない。兄弟は弱っていく。そして死ぬ。イエスへの信頼が揺らぐ瞬間である。しかしイエスには見えていた——この病気は「神の栄光のためのもの」(4節)であることが。愛は時に、人間の期待する速度では動かない。

「眠っています」という言葉

11節でイエスは「わたしたちの友ラザロは眠っています」と言う。弟子たちは文字通りに受け取り、「眠っているなら助かるでしょう」と答える。イエスはそこではっきり言い直す——「ラザロは死んだのです」(14節)。

ここにヘブライ的な死生観が透けて見える。イエスにとって死は「眠り」である。これは慰めの比喩ではなく、神学的な宣言である。眠りはやがて覚める。復活の確実性を前提とした言葉だ。

ギリシャ語発音意味
眠るκοιμάομαιコイマオマイ眠る・死の眠り(復活を含意)
よみがえりἀνάστασιςアナスタシス立ち上がること・復活
いのちζωήゾーエー神的・永遠のいのち
愛するφιλέωフィレオー親しみの愛・友情の愛

注目したいのは3節と11節でイエスへの愛・イエスの愛を表す動詞である。姉妹たちが「あなたが愛しておられる者」と使いを送る時の「愛する」は φιλέω(フィレオー)——友情の愛、親しみの愛である。ラザロはイエスの「友」だった。単なる奇跡の受け手ではなく、愛の関係の中にいた人物である。

マルタの信仰告白——未来から現在へ

マルタはイエスを迎えに行く。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」(21節)——これは責めているのか、信頼しているのか。両方である。人間の信仰とはそういうものだ。疑問と信頼が混在している。

しかしマルタは続ける。「今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります」(22節)——これは驚くべき信仰である。兄弟はすでに死んで四日が経つ。それでもマルタは可能性を神に委ねている。

イエスは言う。「あなたの兄弟はよみがえります」(23節)。マルタは答える。「終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております」(24節)。マルタの信仰は正しい。終末論的なよみがえりを信じている。しかしそれは未来の出来事としての信仰である。そこへイエスは踏み込む。

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(25節)

ギリシャ語原文は ἐγώ εἰμι ἡ ἀνάστασις καὶ ἡ ζωή(エゴー・エイミ・ヘー・アナスタシス・カイ・ヘー・ゾーエー)——「わたしこそが、よみがえりであり、いのちである」。

ἐγώ εἰμι(エゴー・エイミ)「わたしはある」はヨハネ福音書に繰り返し登場するイエスの自己宣言であり、出エジプト記3:14で神がモーセに告げた御名 אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה(エヘイェ・アシェル・エヘイェ)「わたしはある、というものだ」の反響である。

マルタが「終わりの日に」と言ったとき、よみがえりは未来の出来事だった。しかしイエスは「わたしが」と言う。よみがえりは概念ではなく、人格である。教義ではなく、今ここにいる方である。未来の希望が、目の前の人物に凝縮された瞬間である。

マルタの告白

「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」(27節)

この告白はマタイ16:16のペテロの告白と並ぶ、福音書における信仰告白の頂点の一つである。兄弟を失い、涙の中にあって、マルタはここまで来た。苦しみが信仰を壊すのではなく、苦しみの中でこそ信仰は深められる——この章はそれを示している。

素祭との対応

レビ記2章の素祭(穀物のささげ物)に立ち返れば、ラザロの物語はその成就として読める。砕かれた小麦粉——四日間墓にいたラザロ、泣き崩れるマリヤとマルタ、砕かれた状況の中にこそ神の栄光が現れる場所がある。乳香——「神の栄光のためのもの」(4節)というイエスの言葉は、すべてを神への香りとして捧げる視点である。塩——「わたしはよみがえりです」という宣言は腐らない、変質しない約束である。

素祭は焼かれて「なだめのかおり」となる。ラザロの死と復活もまた、神の栄光を現すための「なだめのかおり」として捧げられた出来事だった。

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第四部 全体の一貫性——砕かれることを恐れない者に、神は栄光を現す

レビ記2章、詩篇31・32篇、ヨハネ11章——時代も文学形式も異なる三つの箇所が、今日の通読で一本の糸によって結ばれている。その糸とは「砕かれることを恐れない者に、神は栄光を現す」という原理である。

砕かれた小麦粉から始まる

素祭(穀物のささげ物)の原料は上質の小麦粉(סֹלֶת・ソレット)である。小麦粉になるためには、麦の粒は砕かれなければならない。しかも「上質の」とあるように、粗く砕かれるのではなく、細かく丁寧に挽かれた粉でなければならない。

ここに逆説がある。砕かれることによって、はじめて「ささげ物にふさわしい」ものになる。砕かれる前の麦の粒のままでは、素祭にはなれない。

「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネ12:24)

砕かれることへの招きは、レビ記から福音書まで一貫している。

詩篇——砕かれることを選んだダビデ

詩篇32篇のダビデは、罪を隠し続けた。「私は黙っていたときには、一日中うめいて、私の骨々は疲れ果てました」(3節)——隠すことは骨を疲れ果てさせる。人は自分を守ろうとして、かえって自分を壊していく。

しかし告白という行為は、自分を砕くことである。「私の咎を隠しませんでした」——これは誇りを捨て、神の前に自分を投げ出すことだ。ヘブライ語 יָדָה(ヤダー)「投げ出す・手放す」という語義が示すように、告白とは自分の手から罪を手放し、神の手に委ねることである。

砕かれることを選んだとき、何が起きたか。「あなたは私の罪のとがめを赦されました」(5節)。そして「あなたは私の隠れ場」(7節)——砕かれた者のために、神が隠れ場となった。砕かれることを恐れて自分を守り続けた間は、神は重くのしかかる御手だった。しかし砕かれることを選んだとき、神は隠れ場に変わった。

ヨハネ——四日間の闇の中で

ラザロは四日間、墓の中にいた。マルタとマリヤにとって、その四日間は砕かれる時間だった。イエスは来ない。兄弟は死んだ。希望が見えない。

しかしイエスはその砕かれた状況を見て言った。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです」(4節)。砕かれた状況そのものが、神の栄光を現す舞台として選ばれていた。

マルタは砕かれた心のまま、イエスの前に出た。「主よ。もしここにいてくださったなら」——これは不満であり、同時に信頼である。砕かれた人間の正直な叫びである。その砕かれた告白の前で、イエスは言った。

「わたしは、よみがえりです。いのちです。」

砕かれたマルタの前にこそ、この宣言は来た。完璧な神学を持つ者の前ではなく、泣きながらイエスの前に出た者の前に。

三つの箇所が示す一つの原理

箇所砕かれるもの神が現されるもの
レビ記2章上質の小麦粉なだめのかおり・契約の成就
詩篇32篇罪の告白・誇りを手放す赦し・隠れ場
ヨハネ11章四日間の死・マルタの嘆き「わたしはよみがえりです」

素祭(穀物のささげ物)には塩が加えられる。「契約の塩」——腐らない、変質しない神の約束である。砕かれることを恐れない者に神が栄光を現すという原理も、また腐らない。旧約から新約へ、モーセ五書から詩篇へ、詩篇から福音書へ——この原理は一度も変わっていない。

素祭の生涯という招き

米田豊氏は記した——「われわれも主にならって素祭の生涯を送るべきである」と。

素祭の生涯とは、砕かれることを恐れない生涯である。小麦粉のように砕かれ、油である聖霊に満たされ、乳香のように神と人の前に香ばしい香りを放つ。パン種(罪・偽善)を取り除き、塩(契約の真実)をもって自らを保つ。そしてひとつかみを神に帰し、残りを人に帰す——神への礼拝と隣人への奉仕が、同じ一つのささげ物から流れ出る生き方である。

詩篇31篇はその生涯の途上で叫ぶ言葉を教えてくれる。「私の時は、御手の中にあります」——砕かれる時間も、沈黙の時間も、神の手の中にある。ラザロの四日間もそうだった。マルタの待つ時間もそうだった。

砕かれることを恐れない者に、神は栄光を現す。

レビ記の祭壇の煙は、今日も天に向かって立ち上っている。

三箇所の一貫性——砕かれることを恐れない者に、神は栄光を現す
三箇所の一貫性マップ
レビ記2章・詩篇31〜32篇・ヨハネ11章|2026年3月22日通読
聖書を貫く原理
砕かれることを恐れない者に、神は栄光を現す
מֶלַח הַבְּרִית(契約の塩)——この原理は腐らない、変質しない
レビ記2章
モーセ五書
詩篇31・32篇
ダビデの詩
ヨハネ11章
福音書
同じ原理が、時代を越えて繰り返し現れる
🌾 トーラー レビ記2章
砕かれるもの
上質の小麦粉
(粒が砕かれて粉に)
排除されるもの
パン種(罪・偽善)
蜜(人情・肉の甘さ)
加えられるもの
油(聖霊)
乳香(祈り)
塩(契約)
神が現されるもの
なだめのかおり
契約の成就
鍵となる言葉
「素祭(穀物のささげ物)は
キリストの聖なる生涯の型」
📖 詩篇 詩篇31・32篇
砕かれるもの
罪の告白
(誇りを手放す)
排除されるもの
沈黙による隠蔽
(骨を疲れ果てさせる)
加えられるもの
יָדָה(ヤダー)
「投げ出す・手放す」
告白という行為
神が現されるもの
赦し・隠れ場
喜びの歌
鍵となる言葉
「私の時は
御手の中にあります」
✝ 福音書 ヨハネ11:1〜29
砕かれるもの
四日間の死
マルタの嘆き
排除されるもの
「終わりの日に」
(未来の概念としての復活)
加えられるもの
愛するがゆえの
二日間の沈黙
「神の栄光のため」
神が現されるもの
「わたしは
よみがえりです」
マルタの信仰告白
鍵となる言葉
ἐγώ εἰμι(エゴー・エイミ)
「わたしはある」
レビ記の結論 素祭の生涯
神に帰し
人に帰す
詩篇の結論 告白が
隠れ場を
開く
ヨハネの結論 砕かれた者に
よみがえりが
来る
🧂
契約の塩(מֶלַח הַבְּרִית・メラハ・ハブリート)
「砕かれることを恐れない者に神は栄光を現す」という原理は、塩のように腐らない。 レビ記から詩篇へ、詩篇からヨハネへ——時代が変わっても、この原理は一度も変質していない。 燔祭(全焼のいけにえ)と素祭(穀物のささげ物)、詩篇の嘆きと告白、ラザロの死と復活—— すべてが同じ一つの神の性質を指し示している。
聖書通読2026.3.22|レビ記2章・詩篇31〜32篇・ヨハネ11:1〜29|新改訳改訂第3版
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