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聖書通読 第324回 申命記29章16節から29節 ダニエル書11章12章 ヤコブの手紙5章「あなたの道を行きなさい」ー封じられた預言と、待つ者の忍耐ー

ダニエル書
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第一部 隠れたる事、現されたこと ―申命記29章16-29節―

旅の終わりに

四十年。エジプトを出たイスラエルの民は、それだけの年月、荒野を歩いてきました。約束の地は、もう目の前です。

申命記29章の舞台は、その入り口にあるモアブの地です。ここで神と民は、もう一度、契約*(神と民が結ぶ約束)を結び直します。旅の終わりに、モーセは大切なことを語ります。偶像を拝んではいけない、ということです。

民は旅の途中で、たくさんの偶像を見てきました。エジプトでも、通り過ぎた国々でも、木や石や銀や金で造られた「憎むべき物」を見てきたのです。だからモーセは恐れます。民の心に「毒草や、にがよもぎを生ずる根」が生えてしまうことを。

にがよもぎは、口に入れると苦く、毒にもなる草です。信仰の根っこに小さな毒が混じると、やがて全体が苦くなってしまう。そんな警告です。

心の中のつぶやき

中でもドキッとするのは、19節です。神から離れていく人が、心の中でこうつぶやく、と書かれています。「心をかたくなにして歩んでもわたしには平安がある」。

「自分は大丈夫」「自分だけは特別」。悪いことをしながらも、そう思い込んでしまう。この言葉は、そんな心の癖を見抜いています。外から見ると、落ち着いている。でも内側では、神との関係が少しずつ崩れていく。そうならないように、という呼びかけです。

モーセはさらに語ります(22-28節)。もしイスラエルがのろいを受けたら、後の時代の人々や外国の人たちも、その理由に気づくだろう。神が民をこの地から抜き取られたのは、なぜか。彼らが「その先祖の神、主がエジプトの国から彼らを導き出して彼らと結ばれた契約をすて」、知らない神々に仕えたからだ、と。

隠れた事と、表わされたこと

そして29節。この場面をしめくくる一文です。

「隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。しかし表わされたことは長くわれわれとわれわれの子孫に属し、われわれにこの律法のすべての言葉を行わせるのである」

「隠れた事」は、ヘブル語で「ハン・ニスターロート」。もとになった言葉は「サータル」で、「隠す」という意味です。

「表わされたこと」は「ハン・ニグロート」。もとになった言葉は「ガーラー」で、「あらわにする」という意味です。

この二つは、どちらもニフアル分詞*(「〜された」という受け身の状態を表す形)です。「隠されているもの」「表わされているもの」。今の状態そのものを指しています。

ガーラーのもう一つの顔

実は「ガーラー」には、もう一つの意味があります。「捕囚となる」という意味です。捕囚*とは、ふるさとから遠い国へ連れて行かれることです。

隠されていたものが、明るみに出ること。民が、ふるさとを追われて連れて行かれること。この二つが、同じ語根*(言葉の芯になる文字)で表されているのです。

申命記29章が語っているのは、偶像礼拝と、その結果としての災いです。そう思うと、興味深い重なりです。ただ、これはまず、言葉の上の事実として受け止めておきましょう。ここから意味を決めつけることは、控えておきたいと思います。

私たちの手にあるもの

未来のことをはじめ、神がまだ私たちに明らかにされていないことがあります。それが「隠れた事」です。それは、主のもとにあります。

けれども、神がすでに私たちに表わしてくださったこともあります。律法*(神が民に与えた教え)の言葉です。それは、私たちのものです。私たちが行うために、与えられています。

知らないことを思い悩むより、もう示されていることに忠実に生きる。未来のすべてを知ろうとするのではなく、神がすでに示してくださったことに従って歩む。申命記29章29節は、聖書全体に通じる、そんな生き方を教えているのです。

*この部に出てきた言葉

契約:神と民が結ぶ約束。申命記29章では、荒野の旅の終わりに、この約束が結び直されます。

ニフアル分詞:ヘブル語の動詞の形の一つ。「〜された」「〜されている」という受け身の状態を表します。

捕囚:戦争に負けて、ふるさとから遠い国へ連れて行かれること。

語根:言葉の芯になる文字。ヘブル語では、たいてい3つの子音です。同じ語根の言葉は、同じ家族の言葉です。

律法:神が民に与えた教え。モーセ五書(創世記から申命記まで)にまとめられています。

第二部 封じられた書 ―ダニエル書11-12章―

川の岸に立つダニエル

正月の二十四日。ダニエルは、大きな川の岸に立っていました。10章4節には、こう書かれています。「正月の二十四日に、わたしがチグリスという大川の岸に立っていたとき」。

その前の三週間、ダニエルは「うまい物を食べず、肉と酒とを口にせず」、ずっと悲しんでいました。ふと目を上げると、一人の人が立っていました。「ひとりの人がいて、亜麻布の衣を着、ウパズの金の帯を腰にしめていた」(10章5節)。

実は、今回読む11章と12章は、この川の岸で始まった幻の続きです。12章の終わりにも、この人がもう一度出てきます。「かの亜麻布を着て川の水の上にいる人」(12章6節)。「かの」は「あの」という意味です。川の岸で始まった物語は、川の岸で幕を閉じるのです。

亜麻布を着た人は、エゼキエル書にも出てきます。エゼキエル書10章2節で、主は「亜麻布を着たその人」に命じられます。町に炭火をまき散らせ、と。しかもエゼキエルも、「ケバル川のほとりで」(エゼキエル書10章20節)神の幻を見た預言者でした。

捕囚*の地。ふるさとから遠く連れて来られた場所です。そこで二人の預言者が、それぞれ川のほとりで、亜麻布を着た天の人に出会っているのです。

「亜麻布」は、ヘブル語で「バッディーム」。二つの書で、同じ言葉が使われています。亜麻布は、大祭司が着る服でもありました。一年に一度の、贖罪の日*(民の罪がゆるされるための特別な日)に着る服です(レビ記16章4節)。

未来の地図

では、ダニエルには何が見せられたのでしょう。

それは、ふしぎな未来の地図でした。「南の王」と「北の王」。南はエジプト、北はシリアのあたりです。どちらも、アレクサンドロス大王の大帝国が分かれてできた国です。歴史の本では、プトレマイオス朝、セレウコス朝と呼ばれます。

二つの国は、娘を嫁がせて手を結びます。かと思えば裏切り、攻め込んでは押し返されます。まるで、何百年も続く戦いの台本を、先に読まされているようです。しかもこの台本は、のちの歴史とぴったり重なっていきます。

なぜ神は、ここまで細かく先のことを見せられたのでしょう。一つの答えは、こうです。歴史の本当の主人は、王たちではなく神だ。

王たちがどれほど策を練り、裏をかき合っても、国が栄えるのも滅びるのも、最初から主の御手の中にある。11章の長い台本は、そのことを伝えているのです。

神になろうとする王

36節からは、一人の王が登場します。「すべての神を越えて、自分を高くし」「その先祖の神々を顧みず」「自分を大いなる者とする」。神の席に、自分が座ろうとする王です。

この王は、アンテオコス・エピファネスとよく重なります。紀元前2世紀に、エルサレムの神殿を汚した王です。

ただ、36節から後の読み方は、分かれています。アンテオコスの話として、そのまま読むのか。それとも、世の終わりに現れる人物の話へ広がっていくと読むのか。

どちらにしても、「自分が神になろうとする心」は、どの時代にも顔を出します。第一部の申命記29章19節を思い出してください。「心をかたくなにして歩んでもわたしには平安がある」。そうつぶやく人の心と、どこか似ています。

世の終わりの光

12章に入ると、景色は一気に世の終わりへと広がります。

1節、「あなたの民を守っている大いなる君ミカエルが立ちあがります」。これまでになかったほどの苦しみの時が来る。けれども、その時、民は救われる。

2節は、死んだ人のよみがえりを語る言葉です。旧約聖書の中で、最もはっきり語っている箇所の一つです。「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者は目をさますでしょう。そのうち永遠の生命にいたる者もあり、また恥と、限りなき恥辱をうける者もあるでしょう」。

そして3節、「賢い者は、大空の輝きのように輝き、また多くの人を義に導く者は、星のようになって永遠にいたるでしょう」。

閉じられた書物

ところが、ここで天の使いは、思いがけないことを言います。「ダニエルよ、あなたは終りの時までこの言葉を秘し、この書を封じておきなさい」(4節)。せっかく見せた未来を、しまっておけ、と言うのです。

「秘し」と訳されている言葉は、ヘブル語で「サータム」。ふさぐ、閉じるという意味です。

「封じて」は「ハータム」。手紙に封をして、はんこを押すような意味です。ふたをして、さらにはんこまで押す。二重にしっかり閉じられた書物です。

ここで一つ、気をつけたいことがあります。第一部の「隠れた事」は、「サータル」から来ていました。「サータム」と「サータル」。音もつづりもそっくりです。でも最後の一文字が違う、別の語根*です。意味は響き合っていても、同じ言葉ではありません。

9節で、この二つの言葉がもう一度出てきます。ただし、形が変わっています。4節は「閉じよ」「封じよ」という命令でした。9節は「閉じられたもの」「封じられたもの」。閉じられたままの状態を表す、分詞*という形です。「この言葉は終りの時まで秘し、かつ封じておかれます」。

ダニエル自身も、正直にこう書いています。「わたしはこれを聞いたけれども悟れなかった」(8節)。

「悟った」と「悟れなかった」の謎

ここで、一つの謎が生まれます。この幻の始まり、10章1節には、こう書いてあるのです。「彼はその言葉に心を留め、その幻を悟った」。

始まりでは「悟った」。終わりでは「悟れなかった」。いったい、どちらが本当なのでしょう。

ヘブル語で見ると、どちらも「ビーン」という同じ言葉です。「悟る」「見分ける」という意味です。

一つの読み方として、こう考えることができます。10章1節で悟ったのは、これから起こる歴史のこと。つまり11章の台本です。12章8節で悟れなかったのは、ダニエルが尋ねた「これらの事の結末」。つまり、世の終わりのことです。

分かったことと、分からないまま閉じられたこと。その両方が、一つの幻の中にあったのです。

第一部の申命記29章29節を思い出してください。隠れた事は主のもの、表わされたことは私たちのもの――。ダニエルは幻を見せられ、言葉も聞きました。表わされているのです。けれども、その意味はまだ隠されている。見せられているのに、分からない。ここには、その二つが同時にあります。

ただ「行け」

この長い幻の最後に、天の使いはダニエルにもう一度語りかけます。「しかし、終りまであなたの道を行きなさい。あなたは休みに入り、定められた日の終りに立って、あなたの分を受けるでしょう」(13節)。

口語訳では、「あなたの道を行きなさい」が、9節と13節の二度出てきます。一度目は、「封じておかれます」と一緒に。二度目は、「休み」と「あなたの分」という約束と一緒に。同じ言葉が、二度目には希望をのせて響きます。

ところが、ヘブル語の本文には、実は「道」という言葉がありません。

9節は「レーフ・ダーニエール」。直訳すると「行け、ダニエルよ」。13節は「ヴェアッター・レーフ・ラッケーツ」。「そしてあなたは、終りへと行け」。

二つに共通しているのは、「レーフ」、つまり「行け」の一言だけです。もとになった言葉は「ハーラフ」で、「行く、歩む」という意味です。

では、口語訳が「道」を付け足したのは、間違いでしょうか。そうではありません。英語の欽定訳*(1611年)も、「Go thy way, Daniel」と「道(way)」を入れています。この「行け」は、どこかへ移動しなさい、という意味ではありません。「あなたの歩みを続けなさい」という意味だと、読まれてきたのです。

しかも「ハーラフ」は、ユダヤ教でとても大切な言葉です。神の教えにそって毎日を生きるための決まりを、ユダヤ教では「ハラハー」*と呼びます。「歩み」という意味で、「ハーラフ」と同じ語根から来ています。

ユダヤの人たちにとって、神の言葉に従って生きることは、「歩くこと」そのものなのです。日本語の「あなたの道を行きなさい」は、この「歩み続ける」感じを、よく伝えています。

大きすぎて、とても全部はつかめない未来。それを見せられたあと、ダニエルにかけられたのは、「全部分かってから進みなさい」ではありませんでした。ただ「行け」という一言でした。

分からないまま、それでも今日の道を歩き続ける。その一言には、そんな思いが込められているのだと思います。

12節には、こうもあります。「待っていて千三百三十五日に至る者はさいわいです」。分からないまま、それでも定められた日を待ち続ける人に、幸いが約束されています。

二十一日のひみつ

待つことについて、10章には忘れられない場面があります。天の使いは、ダニエルにこう言いました。「ダニエルよ、恐れるに及ばない。あなたが悟ろうと心をこめ、あなたの神の前に身を悩ましたその初めの日から、あなたの言葉は、すでに聞かれたので、わたしは、あなたの言葉のゆえにきたのです」(10章12節)。

ダニエルの祈りは、最初の日に、もう聞かれていたのです。

ところが、天の使いは続けます。「ペルシャの国の君が、二十一日の間わたしの前に立ちふさがった」(13節)。答えが届くまでに、二十一日かかったのです。

ここで、10章2節を思い出してください。ダニエルは「三週の間、悲しんでいた」。三週間は、二十一日です。

ダニエルが、悲しみながら待っていた日数。天の使いが、行く手をふさがれていた日数。二つは、ぴったり同じだったのです。

答えが見えなかった三週間。そのあいだも、ダニエルの言葉は、もう聞かれていました。私たちには見えないところで、何が起きているのか。10章は、その一場面をそっと見せてくれます。

「悟ろう」と「悟らせる」

もう一つ、驚くことがあります。

12節の「悟ろうと」も、実はさっきの「ビーン」です。

そして14節で、天の使いはこう続けます。「末の日に、あなたの民に臨まんとする事を、あなたに悟らせるためにきたのです」。この「悟らせる」も、同じ「ビーン」です。

12節は「レハーヴィーン」。悟ろうと。

14節は「ラハヴィーネハー」。あなたに悟らせるために。

形は、ほとんど同じです。違うのは、14節に「あなたに」という小さな語尾が付いていることだけ。どちらも、ヒフイル形*という同じ形です。

ダニエルは、悟ろうとしました。

天の使いは、悟らせるために来ました。

同じ言葉が、人が求める側と、神が応える側の、両方に使われているのです。

天の使いは、「その初めの日から」と言いました。ダニエルが、悟ろうと心をこめた、その日からです。分からないまま、それでも分かろうと心をこめる。それもまた、「あなたの道を行く」歩みの一部なのだと思います。

*この部に出てきた言葉

語根:言葉の芯になる文字。ヘブル語では、たいてい3つの子音です。同じ語根の言葉は、同じ家族の言葉です。

捕囚:戦争に負けて、ふるさとから遠い国へ連れて行かれること。ダニエルもエゼキエルも、バビロンに連れて行かれた人でした。

贖罪の日:一年に一度、民の罪がゆるされるための特別な日。大祭司が亜麻布の服を着て、神殿の一番奥に入りました。

分詞:動詞が形容詞のように働く形。「閉じられたもの」「封じられたもの」のように、状態を表します。

欽定訳:1611年にイギリスで出された英語の聖書。英語の聖書の中で、最もよく知られた訳の一つです。

ハラハー:ユダヤ教で、神の教えにそって毎日を生きるための決まり。「歩み」という意味です。

ヒフイル形:ヘブル語の動詞の形(ビンヤンと呼ばれるグループ)の一つ。多くは「〜させる」という意味になります。ただし「ビーン」は、ヒフイル形でも「悟る」という意味でよく使われます。10章12節の「悟ろうと」はそちらの例で、14節の「悟らせる」は「〜させる」の意味です。

第三部 雨を待つ農夫のように ―ヤコブの手紙5章―

お金持ちへの厳しい言葉

ヤコブの手紙5章は、いきなり厳しい言葉から始まります。お金持ちたちへの警告です(1-6節)。

ずるいやり方でためこんだ財産。働いた人に払わなかった給料。その人たちの叫び声は、「万軍の主の耳に達している」と書かれています。

お金持ちたちは、ぜいたくに暮らし、正しい人を罪に定めて殺しました。それでも、その人は手向かいもしません。力のある人が弱い人を踏みつけても、今のところは何のおとがめもない。そんな現実を、ヤコブははっきり描いています。

農夫は待つ

ところが7節から、ヤコブが語りかける相手が変わります。「だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい」。来臨*とは、イエス・キリストがもう一度この世に来られることです。

ずるい人が得をしているように見える世の中。そこでヤコブは、「やり返せ」とも「自分の力で何とかしろ」とも言いません。代わりに差し出すのは、一つのたとえ話です。「見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている」。

「前の雨」は、ギリシャ語の辞書の形で「プロイモス」(本文では「プロイモン」)。秋、種をまくころに降る雨です。種が芽を出すのに欠かせません。

「後の雨」は「オプシモス」(本文では「オプシモン」)。春、収穫の前に降る雨です。実を大きく育てます。

種をまいたら、農夫にできることは、もうありません。芽が出たか心配でも、土を掘り返すわけにはいきません。ただ、雨と時を待つだけです。

ヤコブがここで使った「待っている」は、「待ち受ける」という意味の言葉です。光が当てられているのは、農夫の仕事ぶりではなく、「待つ」という一点なのです。

怒りを長く持ちこたえる

「耐え忍ぶ」は、ギリシャ語で「マクロトゥーメーサテ」。二つの言葉が合わさっています。「長い」という意味の「マクロス」。「燃えるような気持ち、怒り」という意味の「トゥーモス」。

組み立てから見ると、「怒りを長く持つ」、つまり「すぐには爆発しない」という感じの言葉です。ただ、組み立てだけで意味が決まるわけではありません。

新約聖書の中では、二つのことを表しています。人に対して、すぐに怒らず、辛抱強く接すること。そして、神の時をあせらずに待つこと。ただ黙ってがまんするのではありません。自分から選んで持ちこたえる忍耐です。

二つの「忍耐」

実はヤコブは、この章で「忍耐」を一つの言葉だけで語ってはいません。

7節の「マクロトゥーメーサテ」は、怒りを爆発させず、長く耐える忍耐でした。ところが11節で、ヨブ*(大きな苦しみの中でも神から離れなかった人)について語られる「忍耐」は、別の言葉です。「ヒュポモネー」といいます。苦しみや試練の重さに押しつぶされず、耐え抜く力です。

二つの言葉は、重なるところもあります。でも、ここでは見ているところが違います。一つは、主が来られるのを待つ忍耐。もう一つは、苦しみの中を耐え抜く忍耐。ヤコブは、二つの角度から「忍耐」を描いているのです。

この使い分けは、実は口語訳*(1955年に出た日本語訳の聖書)にも表れています。

7節、8節、そして10節の「苦しみを耐え忍ぶ」。この「耐え忍ぶ」は、「マクロトゥーメーサテ」の仲間の言葉です。一方、11節では、別の訳語が選ばれています。「忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う」、そして「ヨブの忍耐」。

原語を知らなくても大丈夫です。「耐え忍ぶ」と「忍び抜いた」の違いに気づけば、二つの忍耐を読み分けることができます。

私たちと同じ人、エリヤ

このたとえ話のあと、ヤコブは毎日の暮らしの話に進みます。

互いに不平を言い合わないこと(9節)。苦しんでいる人は祈り、喜んでいる人は賛美すること(13節)。病気の人のために、長老*(教会のまとめ役の人たち)が祈ること(14-15節)。互いに罪を打ち明け合うこと(16節)。

そして17節と18節で、忍耐の手本としてエリヤ*(旧約聖書に出てくる、火のような預言者)が出てきます。「エリヤは、わたしたちと同じ人間であったが」。ここが大切な一言です。

エリヤはスーパーマンではなく、私たちと同じ人間でした。それでも彼が祈ると、三年六か月のあいだ、地上に雨が降りませんでした。もう一度祈ると、天は雨を降らせました。

エリヤの弱さ

でも、エリヤの物語(列王紀上18-19章)を読むと、意外なことが分かります。大きな勝利のすぐあと、エリヤは深い孤独と恐れに沈んでいったのです。

荒野で死を願い(列王紀上19章4節)、ホレブのほら穴では「ただわたしだけ残りました」と訴えています(10節・14節)。強く見える信仰者にも、誰にも分かってもらえない寂しさがありました。

ヤコブは、わざわざ「わたしたちと同じ人間であった」と書いています。そう考えると、信仰者の祈りとは、気持ちが揺れない強さのことではないのでしょう。弱さを抱えたまま、それでも主に向かう祈り。それこそが、ヤコブの言う祈りなのだと思わされます。

エリヤにも「行け」

面白いのは、主がエリヤに「なぜ一人ぼっちなのか」を説明されなかったことです。代わりに語られたのは、この言葉でした。「あなたの道を帰って行って、ダマスコの荒野におもむき」(列王紀上19章15節)。

ヘブル語では「レーフ・シューヴ・レダルケハー」。直訳すると「行け、あなたの道に帰れ」です。こちらには、「道」という意味の「デレク」が、はっきり書かれています。ダニエル書12章とは違うところです。

ダニエルとエリヤ。一人は、大きな幻を悟ることができませんでした。一人は、寂しさのあまり死を願いました。けれども、二人に主が語られたのは、同じ「行け(レーフ)」でした。

答えを説明する言葉ではありません。次の一歩を指さす言葉です。

「残された」と「残す」

実は、この二人には、もう一つ重なる言葉があります。ダニエルは10章8節で、こう書いています。「それでわたしひとり残って、この大いなる幻を見たので、力が抜け去り」。

一緒にいた人たちは逃げてしまい、ダニエルはたった一人残されました。エリヤの「ただわたしだけ残りました」と、日本語でも響き合います。

ヘブル語で見ると、「ひとり」「だけ」にあたる言葉は、どちらも「レヴァッディー」(私ひとりで)です。でも、「残る」という言葉は違います。ダニエルは「シャーアル」。エリヤは「ヤータル」です。

そして面白いことに、エリヤへの主の答えの中に、ダニエルと同じ「シャーアル」が出てきます。「わたしはイスラエルのうちに七千人を残すであろう」(列王紀上19章18節)。

自分ひとりが残された。そう嘆くエリヤに、主は、わたしが残すのだと答えられました。ここに私は慰めを覚えます。

残されるとは、ひとりぼっちで取り残されることではない。神ご自身が残してくださる者の一人とされることなのではないでしょうか。

待ち続ける

ここで、第二部のダニエル書12章12節を思い出しましょう。「待っていて千三百三十五日に至る者はさいわいです」。

ダニエルは、悟りきれないまま「あなたの道を行きなさい」と言われました。そして、定められた日を待ち続けるように言われました。ヤコブの「耐え忍びなさい」は、同じ姿勢を、私たちの毎日の信仰生活に置きかえた教えだと言えます。

答えはまだ封じられていて、実りもまだ見えない。それでも、種をまいた農夫のように、待ち続ける。

*この部に出てきた言葉

来臨:イエス・キリストが、もう一度この世に来られること。

ヨブ:旧約聖書のヨブ記の主人公。財産も家族も健康も失う大きな苦しみの中で、神に問いかけながらも、神から離れなかった人です。

口語訳:1955年に日本聖書協会から出た、日本語訳の聖書。この記事の聖書の言葉は、口語訳から引用しています。

長老:教会の中で、みんなをまとめたり、祈ったりする役目の人たち。

エリヤ:旧約聖書の預言者。雨を止めたり、天から火を呼んだりした、力強い預言者として知られています。列王紀上17章から列王紀下2章に登場します。

第四部 隠された時、現された時を生きる

三つの箇所をつなぐ糸

今回の三つの箇所を一本の糸でつなぐと、こうなります。

「隠されていること」と「表わされていること」のあいだを、待ちながら歩いていく。

申命記:今日の分の地図

申命記29章29節は、そのための約束事を最初に教えてくれました。「隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。しかし表わされたことは長くわれわれとわれわれの子孫に属し」。

未来のすべてを知る必要はない。すでに渡されている律法*に、忠実であればいい。

旅に出る人に、全部の道のりの地図ではなく、今日歩く分の地図が手渡されている。そんなふうに言えるかもしれません。

ダニエル書:見せられたのに、分からない

ダニエル書12章は、この約束事をもう一歩深くします。

ダニエルは幻を見て、言葉も聞きました。表わされていたのです。けれども、その意味は封じられたままでした。見せられているのに、悟れない。申命記よりも、もっと張りつめた場面です。

ダニエルは正直に「わたしはこれを聞いたけれども悟れなかった」と打ち明けました。返ってきたのは、謎の答えではありませんでした。「あなたの道を行きなさい」という、地に足のついた一言でした。

しかも10章を見ると、ダニエルの祈りは、悟ろうと心をこめた最初の日に、もう聞かれていました。分からないまま歩いている時にも、その祈りは、もう神に届いていたのです。

ヤコブの手紙:農夫とエリヤ

ヤコブの手紙5章は、この同じ姿勢を、私たちの毎日の暮らしに持ってきます。

ずるい人が得をしているように見える世の中。そこでヤコブが勧めるのは、仕返しでも、あきらめでもありません。種をまいた農夫が雨を待つような、自分から選んで待つ忍耐です。

そして手本として、エリヤ*という「わたしたちと同じ人間」が出てきます。忍耐とは、気持ちが揺れない強さのことではありません。揺れながらも、なお祈り続け、待ち続けること。それが、聖書の語る忍耐です。

一人ぼっちだと嘆いたエリヤにも、主は理由を説明されませんでした。ただ「行け」と言われました。ダニエルと同じ言葉でした。

三つを並べると

三つを並べると、一つの流れが見えてきます。

申命記は、約束事を語る(隠されたことは主のもの、表わされたことは私たちのもの)。

ダニエル書は、それを歴史という大きな舞台で見せる(見せられても、封じられる)。

ヤコブの手紙は、それを毎日の信仰生活の姿勢として教える(農夫のように、耐え忍びなさい)。

今日の一歩

私たちは誰でも、多かれ少なかれ、この「与えられているのに、まだ見えない」ところを生きています。

祈りの答えが見えない時。がんばってきたことが、まだ実を結ばない時。理不尽な目にあっても、すぐには正されない時。

そのどんな時にも、聖書が語るのは「全部分かってから動きなさい」ではありません。「あなたの道を行きなさい」という一言です。

ダニエルが悟れないまま歩き続けたように。農夫が雨を待ちながら畑を守り続けたように。エリヤが嘆きのあとで、また立ち上がって歩き出したように。私たちも、隠された時を主にお任せしながら、今与えられている道を、今日も一歩ずつ歩いていく。

それが、この三つの箇所が私たちに差し出している生き方なのだと思います。

*この部に出てきた言葉

律法:神が民に与えた教え。モーセ五書(創世記から申命記まで)にまとめられています。

エリヤ:旧約聖書の預言者。雨を止めたり、天から火を呼んだりした、力強い預言者として知られています。それでも、ヤコブは「わたしたちと同じ人間」だったと書いています。

【図解】隠された時、現された時 ― 申命記29章・ダニエル書12章・ヤコブの手紙5章

隠された時、現された時 ― 申命記29章・ダニエル書12章・ヤコブの手紙5章

隠された時、現された時を生きる

申命記29章16-29節 ダニエル書11-12章 ヤコブの手紙5章

申命記29章29節

原則の宣言

隠されたことは主のもの。
現されたことは
私たちのもの。

הַנִּסְתָּרֹת ハン・ニスターロート隠されたことども הַנִּגְלֹת ハン・ニグロート現されたことども
→

ダニエル書10-12章

封じられる

啓示は与えられても、
理解は「終りの時」まで
封じられている。

10章:悟ろうと心をこめた
その初めの日から、
ダニエルの言葉は聞かれていた。

סָתַם サータムふさぐ、秘する חָתַם ハータム封じる、印を押す בִּין ビーン悟る、見分ける
→

ヤコブの手紙5章

待ち、耐え忍ぶ

農夫が雨を待つように、
主の来臨まで
耐え忍びなさい。

μακροθυμήσατε マクロトゥーメーサテ耐え忍びなさい ὑπομονή ヒュポモネー忍耐、耐え抜く力
↓

ダニエル書12章9節・13節

「あなたの道を行きなさい」

すべてを理解してから動くのではない。
隠された時は主にお委ねし、
今与えられている道を、今日も歩んでいく。

原語は לֵךְ レーフ(行け)の一語。「道」は口語訳が補った言葉。
同じ「行け」は、エリヤにも語られた(列王紀上19章15節)。

終末的な約束やまだはっきり何時と確定されていない出来事を聖書の言葉だから現実は伴ってなくても、主のことばだから信じるということもそうなのですが、日々のあゆみの中で、その道が主の御心なのかと迷う時もあります。

長い道のりの中で、もしかしてあんなに祈って進んできた道は間違っていたのか?と起きている問題に対してあまりにも沢山の労力を必要としてきただけに、ふと腹立たしく思ってしまったり、悲しくなったりすることもあります。

神様なぜですか?あなたはいったい何がしたいのですか?とありのままの自分をさらけ出して疑問をぶつけることもあります。今日の通読箇所でダニエルの信仰に励まされながらも、ダニエルの様に優等生になれない私がいる、そんな思いがふつふつと湧き上がり、祈りになりました。

祈り

あなたの道を 行きなさいと

主は言われる けれど

どの道か まだ見えません

心のギアを ニュートラルにして

今は ただ待ちます

エンジンは かかったまま

あなたが 入れてくださるのを

なぜですかと 問うことも

赦してください 主よ

それでも あなたは全能の主

それでも あなたは良きお方

それでも あなたは 愛のお方

あなたの答えを 待ちます

お答えください 主よ

あきらめずに 祈り続けます

これが 信仰だから

語彙集

ヘブル語(申命記29章・ダニエル書10章・12章・列王紀上19章・エゼキエル書10章より)

原語発音意味
הַנִּסְתָּרֹתハン・ニスターロート隠された事々(サータルのニフアル分詞・女性複数)
סָתַרサータル隠す、覆い隠す(動詞の原形)
הַנִּגְלֹתハン・ニグロート現された事々(ガーラーのニフアル分詞・女性複数)
גָּלָהガーラー現す、明らかにする/捕囚にする・捕囚となる(動詞の原形)
בַּדִּיםバッディーム亜麻布(複数形。ダニエル書10:5・12:6、エゼキエル書10:2)
בִּיןビーン悟る、見分ける、理解する(動詞の原形。10:1はカル完了3人称男性単数「彼は悟った」、12:8はカル未完了)
לְהָבִיןレハーヴィーン悟ろうと、悟るために(ビーンのヒフイル不定詞+前置詞レ。10:12)
לַהֲבִינְךָラハヴィーネハーあなたに悟らせるために(ビーンのヒフイル不定詞+前置詞ラ+2人称男性単数の接尾辞。10:14)
בִּינָהビーナー理解、悟り(ビーンの名詞形。ダニエル書10:1「その幻を悟った」=直訳「幻において理解が彼にあった」)
לֹאロー〜ない(否定詞)
אָבִיןアーヴィーン私は悟る(ビーンの未完了1人称単数。12:8「悟れなかった」=ロー・アーヴィーン)
שָׁאַרシャーアル残る、残す(動詞の原形)
נִשְׁאַרְתִּיニシュアルティー私は残された(シャーアルのニフアル完了1人称単数。ダニエル書10:8)
לְבַדレヴァドひとり、〜だけ
לְבַדִּיレヴァッディー私ひとりで(レヴァド+1人称単数の接尾辞。ダニエル書10:8、列王紀上19:10・14)
יָתַרヤータル残る(動詞の原形)
וָאִוָּתֵרヴァーイッヴァーテールそして私は残された(ヤータルのニフアル。列王紀上19:10・14)
אֲנִיアニー私
וְהִשְׁאַרְתִּיヴェヒシュアルティーそして私は残す(シャーアルのヒフイル完了1人称単数。列王紀上19:18)
סָתַםサータムふさぐ、閉じる、秘する(動詞の原形。12:4は命令形、12:9は受動分詞。サータルとは別の語根)
חָתַםハータム封じる、印を押す(動詞の原形)
סְתֹםセトーム秘せよ、閉じよ(サータムの命令形。12:4)
וַחֲתֹםヴァハトームそして封じよ(ハータムの命令形+接続詞。12:4)
סְתֻמִיםセトゥミーム秘されたもの(サータムの受動分詞・男性複数。12:9)
וַחֲתֻמִיםヴァハトゥミームそして封じられたもの(ハータムの受動分詞・男性複数+接続詞。12:9)
הָלַךְハーラフ行く、歩む(動詞の原形)
לֵךְレーフ行け(ハーラフの命令形・男性単数)
הֲלָכָהハラハー歩み/ユダヤ教の律法に基づく生活規定(ハーラフと同じ語根)
לֵךְ דָּנִיֵּאלレーフ・ダーニエール行け、ダニエルよ(ダニエル書12:9)
דָּנִיֵּאלダーニエールダニエル(人名)
וְאַתָּה לֵךְ לַקֵּץヴェアッター・レーフ・ラッケーツそしてあなたは、終りへと行け(ダニエル書12:13)
וְヴェそして(接続詞・接頭辞)
אַתָּהアッターあなた(男性単数)
לַラ〜へ(前置詞レ+定冠詞)
קֵץケーツ終り、終わりの時
לֵךְ שׁוּב לְדַרְכְּךָレーフ・シューヴ・レダルケハー行け、あなたの道に帰れ(列王紀上19:15)
שׁוּבシューヴ帰る、戻る(動詞の原形。本文では命令形)
לְレ〜へ(前置詞)
דֶּרֶךְデレク道(名詞の原形)
ךָハーあなたの(男性単数の人称接尾辞)

ギリシャ語(ヤコブの手紙5章より)

原語発音意味
μακροθυμήσατεマクロトゥーメーサテ耐え忍びなさい(マクロトゥーメオーのアオリスト命令形・2人称複数)
μακροθυμέωマクロトゥーメオー耐え忍ぶ、怒りを長く保つ(動詞の原形)
μακρόςマクロス長い
θυμόςトゥーモス激情・血気
μακροθυμίαマクロトゥミア耐え忍ぶこと(10節。マクロトゥーメオーの名詞形)
ὑπομονήヒュポモネー忍耐、耐え抜く力(11節「ヨブの忍耐」)
ὑπομένωヒュポメノー忍び抜く(11節「忍び抜いた人たち」。ヒュポモネーの動詞形)
πρόϊμοςプロイモス早い、早期の(本文形プロイモン=「前の雨」)
ὄψιμοςオプシモス遅い、後期の(本文形オプシモン=「後の雨」)

※本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。

聖書引用について

本記事では『口語訳聖書』©1954,1955,1975,1984,2002 日本聖書協会を使用しています。1954年・1955年の本文を基本とし、改訂箇所は原語からの拙訳、または章節のみを記載しています。拙訳箇所には「拙訳」と明記しています。

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