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聖書通読 特別編 ダニエル書9章 

ダニエル書
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―七十年から七十週へ―

悔い改めの祈りが開いた四百九十年の扉

【通読箇所】ダニエル書9章1-27節

「七十年」と「七十週」——似た響きを持つこの二つの数字は、実はまったく別のことを指している。ダニエルはある巻物を読んで、一つの祈りを始めた。その祈りの最中に、天からもう一つの、より大きな時間の扉が開かれることになる。

※本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。

【読み方のご案内】第一部(悔い改めの祈り)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(七十週の預言)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。

第一部 悔い改めの祈り(1-19節)

一つの巻物との出会い(1-2節)

紀元前539年頃、バビロン帝国が滅び、メディア・ペルシャ帝国の時代が始まったばかりの頃のことである。ダニエルは新しい支配者「ダリヨス」の治世第一年に、一つの発見をする。それは幻でも夢でもなく、預言者エレミヤが残した「文書」だった。

そこには、エルサレムの荒廃は七十年で終わる、と記されていた(エレミヤ25:11-12、29:10には、バビロンへの服従は七十年続き、その後神が民を顧みて約束を果たす、と記されている)。ダニエルが捕囚として生きてきた年月と、この預言の年数が重なりつつあることに気づいた瞬間、彼はどう動いたか。ここが興味深いところで、「では、あと少し待てばよいのだ」とは考えなかった。むしろ、断食し、荒布をまとい、灰をかぶって祈り始めたのである。

預言の成就が近いと悟った時、聖書の人物たちがとった態度は、しばしば受け身の待機ではなく、能動的な悔い改めだった。神の約束の確かさは、人間の側の応答の必要性を少しも減じない——このことがダニエル書9章全体の出発点になっている。

契約の神への呼びかけ(3-4節)

祈りの冒頭、ダニエルは神をこう呼ぶ。「ああ、大いなる恐るべき神、主、おのれを愛し、おのれの戒めを守る者のために契約を保ち、いつくしみを施される者よ」。

この「いつくしみ」という言葉には注目したい。単なる優しさや同情ではなく、契約関係の中で相手に対して真実であり続ける、という意味合いを持つ言葉である。ダニエルはまず、自分たちがどれほど罪深いかを語る前に、神がどれほど契約に忠実な方であるかを確認するところから祈りを始めている。裁かれるべき理由を並べる前に、赦しを求める根拠となる神の性質を先に据えているのである。

四つの言葉で告白する罪(5-14節)

この段落の核心は、5節に集中している。「われわれは罪を犯し、悪をおこない、よこしまなふるまいをなし、そむいて」——この短い一節の中に、罪を表す異なる言葉が四つ重ねられていることに気づくと、この祈りの重みが違って見えてくる。

一つ目は「罪を犯す」で、聖書的には「的を外す」というイメージでも語られる言葉である。二つ目は「悪を行う」で、不正をなし、道を曲げるというイメージを伴う言葉。三つ目も同じく「悪を行う」と訳しうる言葉で、悪しき者として振る舞うという意味合いを持つ。そして四つ目が「そむく」——権威に対して背を向け、離反するという、最も重い言葉である。

ダニエルはこの四つの異なる語を重ねることで、罪をあらゆる角度から告白している。

続く6-14節では、この罪が具体的にどう表れたかが語られる。神が預言者たちを通して繰り返し語りかけたにもかかわらず、王も、君主も、先祖も、民全体も聞き従わなかった(6節)。その結果、モーセの律法に記された「のろいと誓い」——つまり契約に背いた場合に下ると警告されていた裁き——が、文字通り実現した(11-13節)。

ここでダニエルは、エルサレムの陥落と捕囚という国家的悲劇を、単なる政治的な不運としてではなく、申命記やレビ記に記された契約の条項が、警告通りに発動した結果として理解している。神は気まぐれに罰したのではなく、あらかじめ語られていた言葉を、正しく実行されたにすぎない。「われわれの神、主は、何事をされるにも、正しくあらせられます」(14節)というダニエルの告白は、この認識の上に立っている。

義によらない嘆願(15-19節)

告白から嘆願へと移るこの段落で、最も心に留めておきたいのは18節である。「われわれがあなたの前に祈をささげるのは、われわれの義によるのではなく、ただあなたの大いなるあわれみによるのです」。

ダニエルは、当時の捕囚民の中でもとりわけ敬虔な人物として描かれている人物である。それでも彼は、自分自身の正しい生き方を根拠に嘆願していない。頼れるのは自分の義ではなく、神のあわれみだけだと、はっきり言い切っている。

そして祈りは19節で、「主よ」という呼びかけを三度重ね、短い願いを畳みかけることによって頂点に達する。「主よ、聞いてください。主よ、ゆるしてください。主よ、み心に留めて、おこなってください」。

この最初の言葉「聞いてください」には、特別な重みがある。もとの言葉は、イスラエルの信仰告白「シェマ」(申命記6:4)の冒頭、「聞け」という呼びかけで使われるのと同じ語根の言葉である。長年、神の民に「聞け」と語りかけてきたのは神の側だった。ここでダニエルは、その言葉を逆向きに神に差し出している。「今度はあなたが、聞いてくださる番です」と言わんばかりに。

第二部 七十週の預言(20-27節)

祈りの最中に届いた答え(20-23節)

ダニエルがまだ祈りの言葉を語り終えないうちに、8章ですでに一度姿を見せていたガブリエルが、夕の供え物の時刻に急いで飛んで来る。「あなたは大いに愛せられている者です」というガブリエルの言葉は、この後に続く預言が、裁きの告知ではなく、悔い改めた者への贈り物として与えられていることを示している。

ここで興味深いのは、23節の「あなたが祈を始めたとき、み言葉が出たので、それをあなたに告げるためにきたのです」という一節。ダニエルが祈り始めたまさにその瞬間に、すでに天では答えが発せられていた、という時間感覚である。長い悔い改めの祈りの結果として答えが与えられたのではなく、祈りの開始と同時に、すでに動き出していた。

七十週という単位(24節)

さて24節、「あなたの民と、あなたの聖なる町については、七十週が定められています」。ここでの「週」という訳語には注意が必要である。これは日曜から始まる七日間の週のことではなく、「七」を一まとまりとして数える単位を表す言葉で、原文では直訳すると「七十の七」という形になっている。ダニエルが直前まで七十「年」について祈っていたこと、また律法が七年ごとの安息年を定めていたこと(レビ記25章)から、一週を七年として読むのは、立場を越えて多くの解釈者に共通する理解である。つまり七十週とは、七十×七年、合計四百九十年を指している。

この四百九十年の間に成し遂げられる目的として、六つのことが並べられている。「これはとがを終らせ、罪に終りを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なる者に油を注ぐためです」。前半の三つは罪の完全な処理に関わり、後半の三つは新しい時代の到来に関わっている。四百九十年という長大な期間は、単なる年代の予告ではなく、神の贖いの計画全体の完成に向けられた時間として提示されている。

ここで一つ、整理しておきたい点がある。七十週(四百九十年)の全体を漠然と「終末預言」と呼んでしまうと、大事な区別を見落としてしまう。七十週のうち、最初の六十九週(七週+六十二週、四百八十三年)は、多くのキリスト教の解釈において、エルサレム再建からメシヤの到来・十字架までの期間として理解されている。そのうえで、六十九週と最後の一週との間に時間の隔たりを置き、最後の一週(七年間)を将来の終末に残された期間と見るのが、字義通り(未来主義)の立場、とりわけディスペンセーション主義(神の救いの歴史をいくつかの時代区分で捉える立場)と呼ばれる読み方の特徴である。この立場に立てば、まだ実現していない部分は、七十週全体のわずか七十分の一ということになる。

以下では、この字義通りの読み方を軸に進めていく。ただし預言の解釈には複数の立場があるため、聖書本文そのものが語っていることと、そこから導かれる解釈とを、要所で分けて示していきたい。

【図解①】490年のタイムライン

ダニエル書9章 70週の預言

四百九十年の時系列(字義通り・未来主義の読み方による)

エルサレム再建命令
(前445年頃)
メシヤ到来・十字架 終わりの時
7週
49年
62週
434年
✝
空白期間
教会時代(長さは定められていない)
1週
7年(艱難時代)
7週=49年 エルサレムの再建・復興(エズラ・ネヘミヤ) 62週=434年 メシヤの到来まで 空白期間(教会時代) 最後の1週=7年 艱難時代(半ばで契約が破られる)

※ 69週(7週+62週=483年)が経過した時点でメシヤが「断たれる」(9:26)。その後、69週目と70週目の間に、預言のカレンダーには数えられていない期間が挟まれている——字義通りの解釈では、これを現在も続いている教会時代とみなす。最後の1週(7年間)は、契約が結ばれてから半ば(3年半)で破られる形で二分される。

【図解②】縦型タイムライン(マカバイ時代・西暦70年を含む)

ダニエル書9章 七十週の預言

縦型タイムライン―四百九十年と、その中の歴史的出来事
(字義通り・未来主義の読み方による)

前445年頃
起点
エルサレム再建の命令
アルタクセルクセス王がネヘミヤに、エルサレムを建て直せと命じる(ネヘミヤ2章)。七十週の時計がここから動き出す。
最初の7週=49年
第一段階
エルサレム再建・復興の期間
「その間に、しかも不安な時代に」(9:25)、エズラ・ネヘミヤの働きによって、エルサレムの再建が進む。城壁そのものはネヘミヤのもとで52日で完成した(ネヘミヤ6:15)が、町の復興は困難の中で長い年月をかけて進んでいった。
マカバイ時代(前167年頃)
62週の期間の中で起きた歴史的出来事。アンテオコス・エピファネスが神殿の祭壇を汚し、礼拝を禁じた(ダニエル11:31、8:9-14)。マカバイ戦争と神殿再奉献(ハヌカ)へとつながる。ダニエル書の「荒す憎むべきもの」というモチーフと、本文上明確に結びつく出来事。
62週=434年後(合計69週・483年)
第二段階の終わり ✝
メシヤの到来と十字架
「メシヤは断たれるでしょう。ただし自分のためにではありません」(9:26)。字義通りの解釈では、69週の完了はイエス・キリストの到来と十字架の死に重ねられる。
西暦70年
「きたるべき君の民は、町と聖所とを滅ぼすでしょう」(9:26後半)。ローマ帝国による神殿破壊。イエスはオリブ山の説教でダニエルの預言に言及し、エルサレムが軍隊に囲まれる日を予告された(マタイ24:15、ルカ21:20)。「荒す憎むべき者」というモチーフの、その後の歴史的展開。
長さの定められていない期間
空白期間
教会時代
69週と70週目の間に挟まれた期間。預言のカレンダーには数えられていない。字義通りの解釈では、現在もこの期間が続いていると理解する。
最後の1週=7年間の開始
第三段階
堅い契約が結ばれる
「彼は一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう」(9:27前半)。未来主義的な立場では、この「彼」を将来現れる支配者と読む(「彼」をメシヤご自身と見る伝統的な読み方もある)。
週の半ば(3年半後)
中間地点
契約が破られる
「彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう」(9:27後半)。未来主義的な立場では、27節の「彼」を将来現れる支配者と理解し、これを「荒す憎むべき者」という型の、最終的な成就と読む(2テサロニケ2:3-4)。
70週の完了
終わり
定まった終りが注がれる
「こうしてついにその定まった終りが、その荒す者の上に注がれるのです」(9:27)。四百九十年、そして七十週全体の目的(9:24)が完成する。

※ このタイムラインでは、七十週(四百九十年)という預言の時系列そのものに加えて、その流れの中で実際に歴史上起きた出来事(マカバイ時代・西暦70年)を並べて示している。マカバイ時代は62週の期間の中で、西暦70年は空白期間(教会時代)の始まりの頃に起きた出来事であり、いずれも将来の最終的な成就(70週目の中間地点)に先立つ、同じ型の反復として理解されている。

六十九週 ―メシヤをめぐる預言(25節)

25節は、この預言の中で最も具体的な数字を含んでいる。「エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週あることを知り、かつ悟りなさい」。合わせて六十九週、四百八十三年である。

ただし、起点をどのエルサレム再建命令に置くのか(アルタクセルクセス王がネヘミヤに与えた命令〈ネヘミヤ2章〉か、それより前のエズラ7章の命令か)については、解釈上の議論がある。字義通りの立場では、ネヘミヤ2章の命令(前445年頃)を起点とし、預言上の一年を三百六十日として日数で数える計算(十九世紀のロバート・アンダーソン、二十世紀のハロルド・ヘーナーらによるもの)がよく知られている。一方、エズラ7章の命令(前458年頃)を起点に通常の年数で数え、イエスの公生涯の始まりに重ねる読み方もある。どちらも、ダニエル書9章を十字架へとつなぐ試みである。

アトナフ ―「どこで区切るか」という問題

もう一つ、本文の区切りにも触れておきたい。そのためには、「アトナフ」という耳慣れない言葉を説明しておく必要がある。

ダニエル書が書かれた当時、ヘブライ語は子音の文字だけで記され、母音の記号も句読点もなかった。それからおよそ千年後の七〜十世紀ごろ、ガリラヤ湖畔のティベリアを中心に活動したユダヤ人の写本家たち、いわゆるマソラ学者が、本文に母音記号と、会堂で朗読するための節回しを示すアクセント記号(テアミーム)を書き加えた。今日私たちが手にするヘブライ語聖書(マソラ本文)は、この形で伝えられている。

このアクセント記号は、節回しを示すだけでなく、文の区切りも表している。節の終わりに付く「シルーク」は句点にあたり、節の途中に付く「アトナフ」は、節を前半と後半に大きく二分する記号である。アトナフという名には「休ませる」という意味があり、朗読者がここで一息つく位置を示している。

日本語で言えば、「ここではきものをぬいでください」という一文に似ている。「ここで、はきものを」と区切れば玄関で靴を脱ぐ話になり、「ここでは、きものを」と区切れば着物を脱ぐ話になる。句読点のない文では、どこで区切るかが、そのまま解釈になるのである。

9:25では、このアトナフが「七週」の直後に付いている。その区切りに従えば、メシヤなるひとりの君が来るまでが七週、そして六十二週の間にエルサレムが建て直される、と読むことになる。この場合、「油注がれた君」は四十九年後に来る人物となり、ユダヤ教の伝統的な解釈では、イザヤ書45章1節で「油注がれた者」と呼ばれたペルシャ王キュロスなど、捕囚からの帰還期の人物と見る。26節で断たれるメシヤは、それとは別の人物ということになる。

一方、口語訳をはじめ多くの訳は「七週と六十二週」を一続きに読む。その理由として、アクセント記号は霊感を受けた本文そのものではなく、ダニエルから千年以上後の読みの伝統であること、区切って読むと六十二週(四百三十四年)もの間、町が建て直され続けることになり不自然であること、そして26節が「その六十二週の後に」と続けていることが挙げられる。他方、七週と六十二週を単に足すのであれば、なぜ最初から六十九週と書かなかったのか、という問いも残る。アクセント記号は後代のものとはいえ古い朗読の伝統を映しており、軽く扱ってよいものではない。本記事は、この区切りの問題を踏まえたうえで、一続きに読む立場に立って読み進める。

断たれるメシヤ(26節前半)

「その六十二週の後にメシヤは断たれるでしょう。ただし自分のためにではありません」。

「断たれる」と訳された言葉(カーラト)は「切る、断つ」を意味し、契約を結ぶ表現(「契約を切る」)にも用いられる。ここでは受け身の形で、メシヤが断たれる、つまり命を絶たれることを語っている。この死が新しい契約を開くという理解は、ヘブル人への手紙など新約聖書の光の中で見えてくるつながりである。

続く「ただし自分のためにではありません」という一句は、原文では「ヴェエーン・ロー」という短い言葉で、直訳すると「そして彼には何もない」となる。ヘブライ語には「持つ」という動詞がなく、「彼に〜がある」という言い方で所有を表す。したがって「彼に(何も)ない」は、「彼は何も持っていない」という意味になる。

同じ言い回しは、モーセの律法にも現れる。出エジプト記22:3(ヘブライ語聖書では22:2)の、盗みをした者が償えない場合の規定である。「もし彼に何もない時は、彼はその盗んだ物のために身を売られるであろう」。ここでの「彼に何もない」が、まさに同じ言い回しであり、無一文であることを意味している。

この用例から見ると、「何も持たない」という意味が直訳に近く、新改訳2017も「彼には何も残らない」と訳している。口語訳の「ただし自分のためにではありません」は、欽定訳(KJV)の流れをくむ訳で、このメシヤの死を、自分自身の罪のためではない身代わりの死として読み取った、解釈を含んだ訳と言える。

興味深いことに、どちらの訳に立っても十字架の姿が見えてくる。自分の罪のためではなく死なれた方として。そして、何一つ持たずに死なれた方として。捕らえられたその夜、「そのとき、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った」(マタイ26:56)。衣さえくじで分けられ(マタイ27:35)、王としての国も、まだ目に見える形では来ていなかった。字義通りの立場では、これをイザヤ53章の苦難のしもべの預言とあわせて、イエス・キリストの十字架の死を指す預言として読む。

「荒す憎むべき者」―歴史の中で繰り返される型

「またきたるべき君の民は、町と聖所とを滅ぼすでしょう」。この部分は、紀元70年、ローマ帝国によるエルサレムと神殿の破壊を指す預言として読まれる。

そして27節、この預言の中で最も議論を呼ぶ一節である。「彼は一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう」。

まず確認しておきたいのは、ヘブライ語の27節には、実は「彼」という単語が書かれていないことである。節は「ヴェヒグビール(そして彼は強くするだろう)」という動詞から始まり、「彼」はその動詞の活用の中に含まれているにすぎない。したがって主語は、直前の26節に登場する人物、すなわち断たれる「メシヤ」か、「きたるべき君」かを補って読むことになる。ここから、大きく二つの読み方が生まれる。

一つは、「彼」をメシヤご自身と見る読み方である。カルヴァンら宗教改革者にも見られる伝統的な解釈で、メシヤが多くの者と新しい契約を確かなものとし、週の半ば、すなわち公生涯のおよそ三年半後に十字架で死なれたことによって、神殿の犠牲と供え物を不要なものにした、と読む。

この読み方を支える印象的なつながりがある。「多くの者と」と訳された言葉は、原文では「ラ・ラビーム」で、定冠詞を伴って「その多くの者たちに」という意味になる。まったく同じ形が、イザヤ書53章の苦難のしもべの歌に現れる。「義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う」(イザヤ53:11)。口語訳では「多くの者」と「多くの人」とに訳し分けられているが、原文では同じ言葉である。続く12節でも、「しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした」と語られる。そして最後の晩餐で、イエスは杯を取ってこう言われた。「これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である」(マタイ26:28)。契約と、多くの人。ダニエル9:27の二つの言葉が、ここで一つに重なるのである。ただしこの読み方では、26節ですでに断たれたメシヤが、改めて一週の間契約を強くするという時間の流れが分かりにくい、という難点がある。

もう一つは、「彼」を直前の26節に出てくる「きたるべき君」と結びつける読み方である。未来主義的な解釈では、この「彼」を将来現れる反キリスト的な支配者と理解し、最後の一週を将来に残された七年間と見る。この読み方の根拠は、「きたるべき君」が主語の候補として最も近くにいることに加え、ダニエル書全体のパターンにある。ダニエル書では、神殿のささげ物を止めるのは、いつも神に敵対する側である(8:11、11:31、12:11)。また27節は、荒す者の上に定まった終りが注がれるという、敵の滅びで締めくくられている。ただしこの読み方にも、「きたるべき君」は26節では「民」を修飾する言葉として出てくるだけで、文の主語ではない、という難点がある。

鍵となるのは「堅く契約を結ぶ」と訳された言葉である。原文は「ヒグビール・ベリート」で、「契約を強くする」「契約を確かなものにする」という表現である。聖書で「契約を結ぶ」と言うときには、ふつう「カーラト・ベリート(契約を切る)」という決まった言い方が使われるが、9:27はそれを用いていない。ここには、新しい契約をゼロから結ぶというより、すでにあるものを強める、あるいは押し通すというニュアンスがある。しかも相手は「多くの者と」とだけ書かれ、どの民族とも明記されていない。一つ目の読み方はここに、メシヤが神の契約を確かにされた姿を見る。二つ目の読み方は、力によって取り決めを押し通す支配者の姿を見る。

本記事は、ダニエル書の内側に見られる「敵がささげ物を止める」というパターンを重く見て、二つ目、未来主義の読み方に立って進める。ただ、一つ目の読み方が、イザヤ53章と最後の晩餐へと結んでいく線もまた、見過ごすことのできない美しさを持っていることを記しておきたい。

【図解④】預言の読み方が分かれる三つのポイント(新規)

※25節の区切り・26節の訳・27節の「彼」を一枚にまとめた図解です。

預言の読み方が分かれる三つのポイント

ダニエル書9章25〜27節――本文の「すき間」を、読む人がどう補うか

たとえば、句読点のないこの一文
ここではきものをぬいでください
ここで、はきものを → 玄関で靴を脱ぐ ここでは、きものを → 着物を脱ぐ
同じ文字でも、区切り方・補い方で意味が変わる。ダニエル書9章にも、同じような箇所が三つある。
ポイント① ・ 9:25
どこで区切るか
アトナフ(節を二つに分ける区切りの記号)
ヘブライ語本文では「七週」の直後に、強い区切りが付いている。
A 七週 ‖ 六十二週
油注がれた君は49年後に来る。ユダヤ教の伝統的解釈ではキュロス王など、帰還期の人物。
B 七週と六十二週本記事
合わせて69週、483年後にメシヤが来る。口語訳など多くの訳の読み方。
ポイント② ・ 9:26
どう訳すか
ヴェエーン・ロー(直訳:そして彼には何もない)
同じ言い回しが出エジプト記22:3では、「もし彼に何もない時は」=無一文、の意味で使われている。
口語訳
「ただし自分のためにではありません」
→ 自分の罪のためではない、身代わりの死
「何も持たない」系の訳
→ 弟子に去られ、衣も分けられ、すべてを失った死
✝ どちらの訳でも、たどり着くのは同じ十字架
ポイント③ ・ 9:27
「彼」とはだれか
ヴェヒグビール(そして〔彼は〕強くする)
原文に「彼」という単語はない。動詞の形の中に隠れている主語を、26節から補う。
読み方1 メシヤご自身
「多くの者」(ラ・ラビーム)がイザヤ53:11と同じ形。最後の晩餐でイエスが語られた、多くの人のための契約の血(マタイ26:28)へとつながる。
読み方2 きたるべき君本記事
ダニエル書でささげ物を止めるのは、いつも敵対者(8:11、11:31、12:11)。将来の支配者と読む。
① 区切り ② 補う言葉 ③ 補う主語
三つとも、聖書が簡潔に残した「すき間」を、読む人が補っているところ。
解釈が分かれるのは、聖書があいまいだからではなく、余白を残しているから。
その余白の前で、ダニエルは計算より先に、祈った(9:3)。

※ 引用は『口語訳聖書』による。ヘブライ語本文のアクセント記号(アトナフ)は、7〜10世紀ごろマソラ学者によって加えられた、読みの伝統を示すものである。

この「また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう」という一句は、実はダニエル書の中で孤立した表現ではない。ダニエル書における「荒す憎むべきもの」というモチーフは、まずアンテオコス・エピファネスによる神殿汚染という歴史的出来事と深く結びついている。セレウコス朝シリアの王アンテオコス・エピファネスは、紀元前167年頃、エルサレム神殿の祭壇を汚し、常供のささげ物を取り除いた(ダニエル11:31)。この出来事は、8章においても小さな角の幻として予告されていた(8:9-14)。この迫害への抵抗が、後のマカバイ戦争と神殿再奉献、そしてハヌカの祭りの起源となっていく。

一方、イエスはマタイ24:15で「預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)」と語り、ダニエルのこの言葉を、紀元70年の破壊だけでは終わらない、将来の出来事との関連でも用いている。

こうしたことから、キリスト教の終末論、とりわけ未来主義的な立場では、アンテオコスの出来事を先行する型とし、紀元70年のエルサレム・神殿破壊をその後の歴史的展開、さらに将来の終末的出来事を最終的な成就と見る、「型と成就の重なり」として読む立場がある。この読み方では、ダニエル9章の最後の一週を将来に残された七年間と理解し、27節の「彼」を終末的な支配者と結びつける。

パウロもまた、2テサロニケ2:3-4でこの将来の出来事についてさらに詳しく語っている。「不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する」。未来主義的な立場では、この自己神格化という要素をもって、ダニエル9:27の完全な成就がなお将来に残されていると理解する。

同じ「神殿を汚す者」という型が、歴史の中ですでに一度実現していることを踏まえるなら、聖書がなお語るこの読み方も、決して空想の産物ではなく、すでに前例のある型の延長線上にあるものとして理解することができる。ただし、これは字義通り・未来主義的な立場からの読み方であり、聖書本文自体が「一度目・二度目・三度目」と明示的に数えているわけではないことは、記しておきたい。

【図解③】荒す憎むべき者―三層の成就

「荒す憎むべき者」――歴史の中で繰り返される型

アンテオコスという先行する型から、未来主義的な読み方へ

歴史的出来事
先行する型
アンテオコス・エピファネス
前167年頃
第二神殿の祭壇を汚し、常供のささげ物を取り除いた。マカバイ戦争と神殿再奉献(ハヌカ)につながる。ダニエル書における「荒す憎むべきもの」というモチーフと、本文上明確に結びつく出来事。
ダニエル11:31、8:9-14
→
歴史的出来事
その後の展開
ローマによる神殿破壊
紀元70年
「きたるべき君の民」が町と聖所を滅ぼす。イエスご自身がオリブ山でダニエルのこの言葉に言及し、将来の出来事との関連でも用いている。
ダニエル9:26後半、マタイ24:15
→
未来主義的な読み方
将来の成就(とされるもの)
終末の支配者
70週目の半ば
未来主義的な立場では、27節の「彼」を将来現れる支配者と理解し、神殿を汚すだけでなく「自分は神だ」と宣言する自己神格化の要素をもって、なお将来に残された成就と読む。
ダニエル9:27後半、2テサロニケ2:3-4

※ ダニエル書における「荒す憎むべき者」というモチーフは、まずアンテオコス・エピファネスによる神殿汚染という歴史的出来事と、本文上明確に結びついている。イエスはマタイ24:15でこの言葉を、紀元70年の破壊だけでは終わらない、将来の出来事との関連でも用いている。こうしたことから、キリスト教の終末論、とりわけ未来主義的な立場では、アンテオコスを先行する型、紀元70年をその後の歴史的展開、さらに将来の出来事を最終的な成就と見る、「型と成就の重なり」として読む。ヘブライ語本文では、この表現は箇所ごとに形を変えて現れる——9:27は שִׁקּוּצִים מְשֹׁמֵם(シクツィーム・メショーメーム)、11:31は הַשִּׁקּוּץ מְשׁוֹמֵם(ハシクツ・メショーメーム)、12:11は שִׁקּוּץ שֹׁמֵם(シクツ・ショーメーム)。ただし、聖書本文そのものが「一度目・二度目・三度目」と明示的に数えているわけではなく、これは未来主義的な立場からの読み方であることは記しておきたい。

語彙表

第一部:悔い改めの祈り(1-19節)

原語(ヘブライ語)発音意味・本文
חָטָא 本文: חָטָאנוּハーター(本文:ハーターヌー)罪を犯す。直訳は「私たちは罪を犯した」。罪を「的を外す」というイメージで説明することもできる
עָוָה 本文: עָוִינוּアーヴァー(本文:アヴィーヌー)悪を行う。不正をなし、道を曲げるという罪のイメージを伴う
רָשַׁע 本文: הִרְשַׁעְנוּラーシャア(本文:ヒルシャーヌー)悪を行う。悪しき者として振る舞う
מָרַד 本文: מָרָדְנוּマーラド(本文:マラードヌー)反逆する、そむく。権威に対する離反
חֶסֶדヘセドいつくしみ、慈愛。特に契約関係における忠実な愛・真実さ
שָׁמַע 本文: שְׁמַע/שְׁמָעָהシャーマア(本文:シェマ/シェマー)聞く、聞き入れる。申命記6:4の「聞け」と同じ語根
סָלַח 本文: סְלָחָהサーラハ(本文:セラハー)ゆるす。本文では「ゆるしてください」

第二部:七十週の預言(20-27節)

原語(ヘブライ語)発音意味・本文
שָׁבוּעַ/שָׁבֻעִים 本文: שָׁבֻעִים שִׁבְעִיםシャヴーア/シャヴーイーム七を一まとまりとする単位、週。9:24では「七十の七」。一週を七年とするのは多くの解釈者に共通する理解
אֶתְנָחアトナフ節の中の強い区切りを示すアクセント記号。9:25では「七週」の直後に付く
טְעָמִיםテアミームマソラ学者が本文に加えたアクセント記号の総称。節回しと文の区切りを示す(直訳は「味わい」)
סִלּוּקシルーク節の終わりを示すアクセント記号。句点にあたる
מָשִׁיחַマーシーアハ油注がれた者、メシヤ
כָּרַת 本文: יִכָּרֵתカーラト(本文:イッカーレート)切る、断つ。契約を「切る」という表現にも用いられる。本文では「断たれる」
כָּרַת בְּרִיתカーラト・ベリート契約を結ぶ(直訳「契約を切る」)。聖書で契約締結を表す通常の言い方。9:27はこの表現を用いていない
וְאֵין לוֹヴェエーン・ロー直訳「そして彼には何もない」。口語訳「ただし自分のためにではありません」、新改訳2017「彼には何も残らない」
נָגִיד הַבָּאナギード・ハッバーきたるべき君(9:26)。本文では「民」を修飾する形で現れる
הִגְבִּיר בְּרִית 本文: וְהִגְבִּיר בְּרִיתヒグビール・ベリート(本文:ヴェヒグビール・ベリート)契約を強くする、確かなものにする。口語訳「堅く契約を結ぶ」
לָרַבִּיםラ・ラビームその多くの者たちに。定冠詞を含む形。イザヤ53:11にも同じ形で現れる。契約の相手は民族名で明記されていない
שִׁקּוּץ 本文9:27: שִׁקּוּצִיםシクーツ(本文:シクツィーム)忌むべきもの。特に偶像・異教的な忌むべきものを指す
שָׁמֵם/מְשֹׁמֵם 本文9:27: מְשֹׁמֵםシャーメーム/メショーメーム荒廃させる、荒廃をもたらす。9:27では「荒廃をもたらすもの」と理解される

ギリシャ語

原語(ギリシャ語)発音意味・本文
πολλῶνポローン多くの人々の(マタイ26:28)。「多くの人のために流すわたしの契約の血」の「多くの人」

二語以上の表現の分解

ヴェエーン・ロー=ヴェ(そして)+エーン(〜がない)+ロー(彼に)

ヒグビール・ベリート=ヒグビール(強くする。ガーバル「強い」の使役形)+ベリート(契約)

ラ・ラビーム=ラ(〜に。前置詞レと定冠詞ハが縮まった形)+ラビーム(多くの者たち)

ナギード・ハッバー=ナギード(君)+ハ(その)+バー(来る者)

カーラト・ベリート=カーラト(切る)+ベリート(契約)

シャヴーイーム・シヴイーム=シャヴーイーム(七たち、週)+シヴイーム(七十)

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聖書引用について

本記事では『口語訳聖書』©1954,1955,1975,1984,2002 日本聖書協会を使用しています。1954年・1955年の本文を基本とし、改訂箇所は原語からの拙訳、または章節のみを記載しています。拙訳箇所には「拙訳」と明記しています。

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