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聖書通読 第333回 ヨエル書3章 アモス書1章 ヨハネの第一の手紙1章「主はシオンからほえる」—さばきの谷の獅子と、手でさわれたいのちの言—

ホセア書
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—さばきの谷の獅子と、手でさわれたいのちの言—

通読箇所:ヨエル書3章、アモス書1章、ヨハネの第一の手紙1章

ヨエル書の最後のほうの一文と、アモス書の最初の一文。並べてみると、ほとんど同じ言葉です。なぜ、二人の預言者が同じ言葉を語っているのでしょうか。

その声は、人の声ではなく、ライオンのほえ声にたとえられています。神は、だれに向かってほえているのでしょうか。

そして、ヨハネの手紙は「手でさわった」と書きます。遠くでほえていた神の声が、どうして手でさわれるものになったのでしょうか。

今回読んだヨハネの第一の手紙1章で、ヨハネは「よく見て手でさわった」と書きました。人の手では届かなかった神が、ご自分のほうから近づいてくださったのです。そのことを歌った賛美を、最後に紹介します。

「それでも」と言える信仰が、聞く人の心にも届きますように。

※本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。

【読み方のご案内】今回はトーラー(モーセ五書)の箇所がない回です。第一部(ヨエル書)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(アモス書)、第三部(ヨハネの第一の手紙)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。

第一部 ヨエル書3章「ヨシャパテの谷に集められる者」

ヨエル書は、いつ書かれたの?

ヨエル書が書かれた時代は、実ははっきりしていません。

古い時代だと考える人もいます。バビロン捕囚(*)のあとだと考える人もいます。学者の間でも、まだ決着がついていません。

でも、メッセージははっきりしています。

それは、「主の日(*)が来る」ということです。神が、世界の悪を正しくさばく日です。3章は、その日に何が起きるかを描いています。

人を「くじ」で分け、酒と引き換えにした

3章は、神が諸国の民を集めるところから始まります。

“わたしは万国の民を集めて、これをヨシャパテの谷に携えくだり、その所でわが民、わが嗣業であるイスラエルのために彼らをさばく。”(ヨエル書3章2節)

なぜ、さばかれるのでしょうか。その理由が、すぐあとに書かれています。

“彼らはわが民をくじ引きにし、遊女のために少年をわたし、酒のために少女を売って飲んだ。”(ヨエル書3章3節)

子どもを、遊女や酒と引き換えにしたのです。人を人として見ていません。品物のように扱っています。

ツロやペリシテの人々も、「ユダの人々とエルサレムの人々とをギリシヤびとに売って」(6節)いました。

ここで注目したいのは、神が「わが民」「わが嗣業(*)」と呼んでいることです。売られた子どもたちは、神にとって「自分のもの」でした。だから神は、黙っていないのです。

ヨシャパテの谷は、どこにある?

神が諸国の民を集める場所は、「ヨシャパテの谷」です。

ヨシャパテは、ヘブライ語で「イェホーシャーファート」と言います。二つの部分からできた名前です。

  • 「イェホー」=ヤハウェ(神の名前)から
  • 「シャーファト」=さばく

そのため、「ヤハウェはさばく」という意味だと考えられます。谷の名前そのものが、判決の言葉になっています。

旧約聖書に、この名前の谷はほかに出てきません。そのため、実際の場所というより、意味をこめた名前だと考える学者もいます。

少なくとも西暦4世紀には、ヨシャパテの谷をエルサレムのすぐ東、キデロンの谷(*)とする伝承がありました。今もその斜面には、ユダヤ人の墓がたくさん並んでいます。ただし、ヨエルが最初からこの谷を指していたかどうかは、はっきりしていません。

黙示録に出てくる「ハルマゲドン(*)」と同じ場所なのか、気になる人もいるでしょう。地図の上では、別の場所です。どちらも終わりの日に諸国が集められる場面ですが、同じ出来事を指すのか、別の場面なのかは、解釈が分かれます。

「さばきの谷」は「決定の谷」

14節では、同じ谷が別の名前で呼ばれています。

“群衆また群衆は、さばきの谷におる。

主の日がさばきの谷に近いからである。”(ヨエル書3章14節)

「さばきの谷」は、ヘブライ語で「エーメク・ヘハールーツ」です。

  • 「エーメク」=谷
  • 「ヘ」=その(英語のthe)
  • 「ハールーツ」=決定

つまり、「決定の谷」です。神が最終的な判決を下す谷、という意味です。

興味深い点として、同じつづりの言葉は、脱穀(*)に使うとがった板も表します。ただ、辞書では別の意味として分けられていて、14節でその意味まで込められているかは、はっきりしていません。このつづりの言葉は、第二部のアモス書にも出てきます。

暗やみの中で、ライオンがほえる

さばきの日、空は暗くなります。「日も月も暗くなり、星もその光を失う」(15節)のです。

その暗やみの中に、声がひびきます。

“主はシオンから大声で叫び、

エルサレムから声を出される。

天も地もふるい動く。

しかし主はその民の避け所、

イスラエルの人々のとりでである。”(ヨエル書3章16節)

「叫ぶ」は、ヘブライ語で「シャーアグ」です。ライオンがほえるときにも使われる言葉です。ここでは、主がシオンから力強い声を出される様子を表しています。神の力と威厳、そしてさばきの宣言を思わせる言葉です。

天も地もふるえる声です。でも、その次に「しかし」があります。同じ声が、敵には恐ろしい声で、神の民には「避け所」の声になるのです。

実は、この16節の前半とほとんど同じ一文が、次のアモス書のいちばん最初に出てきます。それは第二部で見ていきましょう。

主の家から、乾いた谷へ

3章の最後は、明るい約束で終わります。

「泉は主の家から出て、/シッテムの谷を潤す」(18節)。「シッテム」は、アカシヤの木々を意味するヘブライ語から来た地名です。アカシヤは、乾いた土地でも育つ木です。神の家から流れ出る水が、そんな乾いた谷までうるおすのです。(シッテムの谷が正確にどこにあったのかは、分かっていません。)

そして、ヨエル書の最後の言葉はこうです。「主はシオンに住まわれる」(21節)。

さばきの日のあとに残るのは、神が民と共に住む、という約束です。

*この部に出てきた言葉

  • バビロン捕囚:紀元前586年ごろ、ユダの人々がバビロンに連れて行かれた出来事
  • 主の日:神が世界の悪をさばき、ご自分の正しさを明らかにされる日
  • 嗣業:神から受け継いだ財産。ここでは、神がイスラエルを「わたしの財産」と呼んでいる
  • キデロンの谷:エルサレムの神殿の丘と、オリーブ山の間にある谷
  • ハルマゲドン:黙示録16章16節に出てくる場所。ヘブライ語の「ハル・メギドー(メギドの山)」から来た名前と考えられている。メギドはエルサレムの北にある町
  • 脱穀:刈り取った麦の穂から、粒をはがす作業
  • シオン:エルサレム、特に神殿のある山を指す呼び名
  • (注)口語訳のヨエル書3章は、ヘブライ語の聖書では4章にあたります

第二部 アモス書1章「ほえ声は、だれに向かっていくのか」

このころ、イスラエルで何が起きていたか

アモス書は、時代がはっきり分かる書です。最初の一節に、こう書かれています。

“テコアの牧者のひとりであるアモスの言葉。これはユダの王ウジヤの世、イスラエルの王ヨアシの子ヤラベアムの世、地震の二年前に、彼がイスラエルについて示されたものである。”(アモス書1章1節)

紀元前760年ごろのことです。このころ、国は北のイスラエルと南のユダに分かれていました(*)。

北のイスラエルの王は、ヤラベアム2世です。列王紀下14章によると、ヤラベアムは失われていた国境を取り戻しました。国は広くなり、お金持ちが増えました。南のユダのウジヤ王の時代も、同じように栄えていました。

つまり、いちばん景気のいい時代です。

そこに、アモスが遣わされます。

よそから来た羊飼い

アモスは、南のユダの小さな町テコアの人でした。それなのに、北のイスラエルに語りに行きます。いわば「よそ者の預言者」です。

「牧者」は、ヘブライ語で「ノーケード」と言います。羊を飼う人のことです。同じ言葉は、モアブの王メシャにも使われています(列王紀下3章4節)。そのため、アモスは大きな規模で羊を飼う人だった、と考える学者もいます。

そして「地震の二年前」とあります。この地震はとても大きかったようで、二百年以上あとのゼカリヤ書14章5節にも出てきます。人々が長く忘れられないほどの地震だったのです。

同じ一文で、二つの書がつながっている

アモスの最初の言葉は、これです。

“主はシオンからほえ、

エルサレムから声を出される。

牧者の牧場は嘆き、

カルメルの頂は枯れる”(アモス書1章2節)

第一部で読んだヨエル書3章16節を、思い出してください。「主はシオンから大声で叫び、/エルサレムから声を出される」。

日本語の訳は少し違います。でもヘブライ語では、ほとんど同じ一文です。「ほえ」も「大声で叫び」も、同じ「シャーアグ」。ライオンがほえるときにも使われる言葉です。

なぜ、こうなっているのでしょうか。

ユダヤの伝統では、ホセア書からマラキ書までの十二の預言書を、一つの巻物として扱ってきました。「トレー・アサル(十二)」と呼ばれます。

  • 「トレー」=二
  • 「アサル」=十

(これはヘブライ語ではなく、アラム語*の言い方です)

一つの巻物の中で、ヨエル書が終わるところと、アモス書が始まるところ。その継ぎ目に、同じ一文が置かれているのです。まるで、前の書の最後の声が、次の書の最初にこだまのように響いているようです。

巻物の継ぎ目に置かれた、同じ一文
十二小預言書(トレー・アサル=十二)は、一つの巻物として扱われてきました
ホセアヨエルアモスオバデヤヨナミカナホムハバククゼパニヤハガイゼカリヤマラキ
ヘブライ語聖書の並び順。ヨエル書とアモス書は、となり合っています

ヨエル書の終わり

3章16節(ヘブライ語聖書では4章16節)
主はシオンから大声で叫び、
エルサレムから声を出される。
→ ほえ声は諸国へのさばき。
でも「主はその民の避け所」
継ぎ目

アモス書の始まり

1章2節
主はシオンからほえ、
エルサレムから声を出される。
→ ほえ声は諸国を回り、
やがてイスラエル自身にも向かう

ヘブライ語では、ほとんど同じ言葉

原語発音意味
מִצִּיּוֹןミツィヨーンシオンから
יִשְׁאָגイシュアーグほえる(ライオンがほえるときにも使う言葉)
וּמִירוּשָׁלַ‍ִםウミールーシャライムそしてエルサレムから
יִתֵּן קוֹלוֹイッテーン・コーローその声を出す(イッテーン=出す、コーロー=彼の声)
※日本語の訳は「大声で叫び」「ほえ」と違いますが、原語は同じ「イシュアーグ」です。ヨエル書のほうは、最初に「そして」(ヴェ)が付いています。

巻物の継ぎ目に置かれた、同じ一文

十二小預言書(トレー・アサル=十二)は、一つの巻物として扱われてきました

ホセアヨエルアモスオバデヤヨナミカナホムハバククゼパニヤハガイゼカリヤマラキ

ヘブライ語聖書の並び順。ヨエル書とアモス書は、となり合っています

ヨエル書の終わり

3章16節(ヘブライ語聖書では4章16節)

主はシオンから大声で叫び、
エルサレムから声を出される。

→ ほえ声は諸国へのさばき。
でも「主はその民の避け所」

継ぎ目

アモス書の始まり

1章2節

主はシオンからほえ、
エルサレムから声を出される。

→ ほえ声は諸国を回り、
やがてイスラエル自身にも向かう

ヘブライ語では、ほとんど同じ言葉

原語発音意味
מִצִּיּוֹןミツィヨーンシオンから
יִשְׁאָגイシュアーグほえる(ライオンがほえるときにも使う言葉)
וּמִירוּשָׁלַ‍ִםウミールーシャライムそしてエルサレムから
יִתֵּן קוֹלוֹイッテーン・コーローその声を出す(イッテーン=出す、コーロー=彼の声)

※日本語の訳は「大声で叫び」「ほえ」と違いますが、原語は同じ「イシュアーグ」です。ヨエル書のほうは、最初に「そして」(ヴェ)が付いています。

ただし、ここで意味が変わります。

ヨエル書では、ほえ声は諸国に向かっていました。そして神の民には「避け所」でした。

ところがアモス書では、ほえ声がイスラエルにも向かっていくのです。

「三つのとが、四つのとが」

アモスは、イスラエルのまわりの国々を、一つずつ名指しします。

“ダマスコの三つのとが、

四つのとがのために、

わたしはこれを罰してゆるさない。

これは彼らが鉄のすり板で、

ギレアデを踏みにじったからである。”(アモス書1章3節)

「三つ、四つ」は、罪を実際に数えているのではありません。聖書の詩に見られる、数を一つずつ増やして意味を強める言い方です(箴言30章にも同じ形があります)。「三つでも多いのに、さらにもう一つ」。罪がくり返され、積み重なっていることを強調しているのです。

アモスは、それぞれの国の罪を一つずつ挙げています。ほかの罪がなかったのではなく、その国を代表する重い罪を示していると考えられます。

そして「鉄のすり板」。ヘブライ語で「ハルーツォート」です。ダマスコは、鉄の刃がついた脱穀の板で、ギレアデの人々を麦のように踏みにじったのです。

興味深い点として、第一部の「さばきの谷(エーメク・ヘハールーツ)」の「ハールーツ」と、同じ子音を持つ言葉です(*語根)。ただし、意味はちがいます。アモス書では「脱穀の板」、ヨエル書では「決定」です。言葉が似ているだけで、二つの箇所が意図してつながっているとまでは言えません。

律法を知らない国も、さばかれる

アモスが責めている罪を見てみましょう。

  • ガザは、人々を「ことごとく捕えて行って、/エドムに渡した」(6節)。人を奴隷として売ったのです
  • ツロも同じことをし、「兄弟の契約を心に留めなかった」(9節)
  • エドムは、兄弟(*)に対して「全くあわれみの情を断ち」(11節)
  • アンモンは、国境を広げるために、おなかに子どもがいる女性を引き裂いた(13節)

ここで注目したいのは、責められているのが偶像礼拝ではないことです。この国々は、モーセの律法を受け取っていません。それでも神は、さばきます。

人を売ってはいけない。あわれみを捨ててはいけない。それは、律法を知らなくても、人として分かることだからです。パウロも、異邦人の心には神の律法が書かれている、と言っています(ローマ人への手紙2章14〜15節)。

エドムについては、もう一つ大事なことが書かれています。「ながくその憤りを保った」(11節)。手を出した暴力だけではありません。怒りを手放さずに持ち続けたことも、罪として数えられているのです。

輪が、だんだん縮まっていく

アモスが名指しした国を、地図の上でたどってみてください。

北東のダマスコ、南西のガザ、北西のツロ、南東のエドム、東のアンモン。2章に入るとモアブ、そしてユダ。イスラエルのまわりを、ぐるりと回っています。

縮まっていく輪――ほえ声は、だれに向かうのか
アモスが名指しした順に、イスラエルのまわりをたどると…
地中海 ヨルダン川 死海 1ダマスコ 2ガザ 3ツロ 4エドム 5アンモン 6モアブ 7ユダ 8 イスラエル(北王国) 1章(実線) 2章(点線) ※位置は目安です
順国方角責められている罪
1ダマスコ北東「鉄のすり板」でギレアデを踏みにじった(1:3)
2ガザ南西人々を捕えてエドムに渡した=奴隷として売った(1:6)
3ツロ北西人々をエドムに渡し、「兄弟の契約」を忘れた(1:9)
4エドム南東兄弟にあわれみを断ち、「ながくその憤りを保った」(1:11)
5アンモン東国境を広げるために、身ごもった女性を引き裂いた(1:13)
6モアブ南東2章で
7ユダ南2章で
8イスラエル真ん中2章で――輪の真ん中に立っているのは…
責められているのは偶像礼拝ではなく、人を売ること、あわれみを捨てること。律法を受け取っていない国々も、人として分かるはずのことで問われています。

聞いていたイスラエルの人々は、うなずいていたでしょう。「そうだ、あの国々はひどい」と。

でも、輪はだんだん縮まっていきます。最後に、その輪の真ん中に立っているのは、だれでしょうか。それは、2章で明らかになります。

神は、まわりの国々の悪を見過ごされません。そして、ご自分の民の悪も見過ごされないのです。

*この部に出てきた言葉

  • 北のイスラエルと南のユダ:ソロモン王の死後(紀元前930年ごろ)、国は二つに分かれた
  • アラム語:ヘブライ語に近い、別の言葉。イエスの時代のユダヤの人々の日常語でもあった
  • 語根:言葉のもとになる文字の組み合わせ。ヘブライ語では、多くの言葉が三つの文字の語根からできている
  • エドムの兄弟:エドムは、ヤコブ(イスラエル)の兄エサウの子孫。だからイスラエルとエドムは「兄弟」の国
  • シオン:エルサレム、特に神殿のある山を指す呼び名
  • 脱穀:刈り取った麦の穂から、粒をはがす作業

第三部 ヨハネの第一の手紙1章「聞いた、見た、さわった」

年老いた弟子の手紙

ヨハネの第一の手紙には、書いた人の名前が書かれていません。でも、イエスの十二弟子の一人、ヨハネが書いたと伝えられてきました。書かれたのは、紀元90年代ごろと考えられています。

ヨハネは、すでに年をとっていたと考えられています。イエスを直接知る人たちの証言を、次の世代に伝えていく時代になっていました。

そのころ、教会の中には、イエス・キリストが本当に人間の体をとって来られたことを否定する教えが入り込んでいた、と考えられています。

だからヨハネは、手紙の最初から、こう書きました。

「手でさわった」

“初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について”(ヨハネの第一の手紙1章1節)

「聞いた」「見た」「よく見た」「手でさわった」。だんだん近づいていきます。

遠くから声が聞こえる。姿が見える。じっと見つめる。そして、手を伸ばしてさわる。最後の晩餐(*)では、イエスの胸もとに寄りかかっていた弟子がいました(ヨハネによる福音書13章23節)。伝統的には、この弟子がヨハネだと考えられています。

「イエスは見えただけだ」なんて、とんでもない。わたしたちはこの手でさわったのだ。ヨハネは、そう言っているのです。

ここで、第一部と第二部を思い出してください。ヨエルとアモスの時代、神の声はシオンからほえるライオンの声のようでした。天も地もふるえる、遠くからひびく声です。

その声が、ヨハネの時代には、手でさわれる人になって来ました。これが、ヨハネの驚きです。

「初めから」

1節の最初は「初めからあったもの」です。

「初め」は、ギリシャ語で「アルケー」と言います。ものごとの始まり、いちばん最初、という意味です。

ヨハネは、手でさわったその方が、初めからおられた方だと証言しています。ヨハネによる福音書1章1節の「初めに」とも響き合う言葉です。

神には、少しの暗いところもない

ヨハネは、イエスから聞いたことを、ひとことでまとめます。

“神は光であって、神には少しの暗いところもない。”(ヨハネの第一の手紙1章5節)

第一部で読んだヨエル書では、主の日に「日も月も暗くなり、星もその光を失う」とありました。空の光が、全部消える日です。

でも、神ご自身は光です。太陽が暗くなる日にも、消えることのない光です。

「交わり」とは、分かち合うこと

ヨハネは、この手紙を書く目的を、こう言います。「あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるため」(3節)。そして、その交わりとは「父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである」(3節)。

「交わり」は、ギリシャ語で「コイノーニア」です。「共通の」という意味の「コイノス」から、「仲間」を表す「コイノーノス」が生まれ、そこから「コイノーニア」ができました。

ですからコイノーニアは、ただ仲よくすることではありません。共にあずかり、分かち合う関係です。ヨハネは、父なる神と御子イエス・キリストとの交わりに、わたしたちもあずかることができると教えています。

「告白する」とは、罪を認めて言い表すこと

では、光の神と、どうやって交わりを持てるのでしょうか。わたしたちには、暗いところがたくさんあります。

ヨハネは、ごまかしません。「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって」(8節)と書きます。そして、こう続けます。

“もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。”(ヨハネの第一の手紙1章9節)

「告白する」は、ギリシャ語で「ホモロゴーメン」です。辞書の形は「ホモロゲオー」です。「認める」「告白する」「同意する」という意味です。

興味深い点として、この言葉は「ホモ(同じ)」と「言葉」に関係する部分からできています。そのため、「同じことを言う」と説明されることもあります。ただし、それは言葉の成り立ちの話で、意味そのものではありません。

ここでの意味は、自分の罪を認めて、神の前に言い表すことです。神が罪だと言われることを、自分も罪として認める。言いわけをせず、神の前に明らかにする。それが、ここでいう告白です。

すると、神はゆるし、きよめてくださいます。その根拠は、7節に書かれています。

“しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。”(ヨハネの第一の手紙1章7節)

光の中を歩くとは、罪のない人になることではありません。暗いところを隠さずに、光の中に出していくことです。

ヨハネがこれを書いたのは、「わたしたちの喜びが満ちあふれるため」(4節)でした。

*この部に出てきた言葉

  • 最後の晩餐:十字架の前の夜、イエスが弟子たちと最後に食べた食事
  • アルケー:ギリシャ語で「初め」。ものごとの始まり
  • コイノーニア:ギリシャ語で「交わり」。共にあずかり、分かち合う関係
  • ホモロゴーメン:ギリシャ語で「(わたしたちが)告白するなら」。認める、言い表すという意味
  • 主の日:神が世界の悪をさばき、ご自分の正しさを明らかにされる日
  • シオン:エルサレム、特に神殿のある山を指す呼び名

第四部 一貫性「同じ声が、ほえ声にも、いのちの言にもなる」

三つの箇所を流れる、一つの声

今回の三つの箇所には、どれも神の声が出てきます。

  • ヨエル書では、神はシオンからライオンのようにほえました
  • アモス書でも、同じ一文で、神はシオンからほえました
  • ヨハネの手紙では、「いのちの言」が、手でさわれる方として来られました

言葉はちがっても、聖書を通して読むと、一つの神の声が流れているのが見えてきます。そして、その声は、聞く人によってちがう響きになります。

ほえ声は、だれにとって恐ろしいのか

ヨエル書3章16節を、もう一度見てみましょう。天も地もふるえる声です。でも、すぐあとに「しかし主はその民の避け所」と続いていました。

同じ声が、ある人には恐ろしい声になり、ある人には守られる声になる。何がちがうのでしょうか。

アモス書1章の国々を思い出してください。人を売り、あわれみを捨て、怒りを持ち続けた国々です。アモスは、その罪を告発し、神のさばきを告げています。でも、彼らが悔い改めたとは書かれていません。

そして、これからアモス書2章で見るように、ほえ声はイスラエル自身にも向かっていきます。当時のイスラエルは、豊かに栄えていました。でもその社会には、不正や、貧しい人々を苦しめることがありました。自分たちは神の民だと安心しながら、自分の歩みを神の前に問い直そうとしていなかったのではないでしょうか。

ここで、ヨハネの言葉がひびいてきます。「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって」(ヨハネの第一の手紙1章8節)。

分かれ道は、神の言葉を認めるかどうか

神が「これは罪だ」と言われる。そのとき、人には二つの道があります。

一つは、罪を認めない道です。「わたしは悪くない」「あの人のほうがひどい」と言い続けるのです。

もう一つは、神の前に自分の罪を認め、光の中に出ていく道です。この道を行く人に、ヨハネは約束します。神は「その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」(9節)と。

ヨエル書では、主はイスラエルの民の避け所でした。ヨハネの手紙では、罪を認める者に、ゆるしときよめが約束されています。文脈はちがいます。でもどちらにも、神は悪を見過ごされないこと、そして神の前に出る者を救ってくださることが見えてきます。

同じ声の、二つの響き
神の声は、罪を明らかにする声。そして同時に、救いへと招く声
主はシオンから声を出される
יִשְׁאָג イシュアーグ=ほえる
ヨエル書3章16節/アモス書1章2節
神が「これは罪だ」と言われる。そのとき、二つの道がある
↙    ↘

罪を認めない道

「わたしは悪くない」
「あの人のほうがひどい」

アモス書1章の国々:罪が告発されても、悔い改めは記されていない
「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって」(Ⅰヨハネ1:8)

→ 神の声は、さばきを告げる
 恐ろしいほえ声のまま

罪を認め、光の中に出る道

ὁμολογῶμεν ホモロゴーメン=告白するなら

神は「その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」(Ⅰヨハネ1:9)

κοινωνία コイノーニア=交わり、分かち合い

→ ゆるし、きよめ、
 父と御子との交わりへ

その勝利は、ほふられた小羊の血による(黙示録5章)

「ユダ族のしし」と告げられて(5節)→見ると「ほふられたとみえる小羊」(6節)
ἀρνίον アルニオン=小羊 ἐσφαγμένον エスファグメノン=ほふられた
「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」(Ⅰヨハネ1:7)
※ヨエル書の「避け所」はもともとイスラエルの民への約束、ヨハネの手紙は罪を告白する者への約束です。文脈は異なりますが、「神は悪を見過ごされず、神の前に出る者を救ってくださる」ことが共通して見えてきます。

ほえるライオンと、ほふられた小羊

ここで、聖書の最後の書、黙示録5章の場面が思い浮かびます。

ヨハネは、巻物を開くことのできる者がだれもいないので、激しく泣いていました。すると、長老のひとりが言います。

“「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。”(ヨハネの黙示録5章5節)

ところが、ヨハネが目を向けると、そこに立っていたのはライオンではありませんでした。「ほふられたとみえる小羊」(6節)だったのです。勝利を得た方が、ほふられた(*)小羊(*)の姿で立っておられたのです。

天にいる者たちは、こう歌います。「あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない」(9節)。

ヨエル書とアモス書では、神はライオンのようにほえ、悪をさばかれます。そして黙示録では、勝利を得たキリストが、ほふられた小羊として描かれています。神のさばきは、なくなったのではありません。でもその勝利は、小羊の血によるあがないと結びついているのです。

だからヨハネは、手紙の中でこう書くことができました。「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」(ヨハネの第一の手紙1章7節)。

シオンに住む神から、わたしたちと共にいる神へ

ヨエル書の最後の言葉は、「主はシオンに住まわれる」(3章21節)でした。さばきの日のあとに残るのは、神が民と共に住むという約束です。

ヨハネの手紙は、その約束がどう実現したかを語ります。神は、シオンの神殿の奥に住まわれるだけではありませんでした。人となって来られ、聞かれ、見られ、手でさわられました。そして今、「父ならびに御子イエス・キリストとの交わり」(1章3節)に、わたしたちを招いておられます。

暗やみの日に、避け所の声を聞く

わたしたちの世界にも、日も月も暗くなるような日があります。ニュースを見れば、人が売り買いされ、あわれみが捨てられる出来事があります。自分の心の中にも、ずっと手放せない怒りがあるかもしれません。

そんなとき、神の声はどう聞こえるでしょうか。

自分の暗いところを隠しているあいだ、神の声は恐ろしいほえ声に聞こえるかもしれません。でも、光の中に出て、神の前に罪を認めるとき、その声は救いへ招く声として聞こえてきます。

神の声は、罪を明らかにする声です。そして同時に、罪を認めて光の中に出る者を、救いへと招く声でもあります。ヨハネがこの手紙を書いたのは、「わたしたちの喜びが満ちあふれるため」(4節)でした。

*この部に出てきた言葉

  • ホモロゴーメン:ギリシャ語で「(わたしたちが)告白するなら」。認める、言い表すという意味
  • ほふる:いけにえとして、動物を殺すこと
  • 小羊:黙示録で、イエス・キリストを表す呼び名
  • シオン:エルサレム、特に神殿のある山を指す呼び名
  • コイノーニア:ギリシャ語で「交わり」。共にあずかり、分かち合う関係

語彙表

ヘブライ語

原語発音意味
שָׁאַגシャーアグほえる〔辞書形〕
יִשְׁאָגイシュアーグほえる〔本文の形:ヨエル3:16、アモス1:2〕
יְהוֹשָׁפָטイェホーシャーファートヨシャパテ(「ヤハウェはさばく」の意味と考えられる)
שָׁפַטシャーファトさばく
עֵמֶקエーメク谷
חָרוּץハールーツ決定〔ヨエル3:14〕
הֶחָרוּץヘハールーツその決定〔本文の形:ヨエル3:14〕
חֲרֻצוֹתハルーツォート脱穀の板(複数)〔アモス1:3〕
שִׁטִּיםシッティームアカシヤの木々(地名シッテム)〔ヨエル3:18〕
נֹקֵדノーケード羊の飼育者〔辞書形〕

アラム語

原語発音意味
תְּרֵי עֲשַׂרトレー・アサル十二(十二小預言書の呼び名)

ギリシャ語

原語発音意味
ἀρχήアルケー初め
λόγοςロゴス言葉
κοινωνίαコイノーニア交わり、分かち合い
κοινωνόςコイノーノス仲間、共にあずかる者
κοινόςコイノス共通の
ὁμολογέωホモロゲオー告白する、認める〔辞書形〕
ὁμολογῶμενホモロゴーメン告白するなら〔本文の形:Ⅰヨハネ1:9。接続法・現在・一人称複数〕
ὁμόςホモス同じ
ἀρνίονアルニオン小羊〔黙示録5:6〕
ἐσφαγμένονエスファグメノンほふられた〔黙示録5:6〕

聖書引用について

本記事では『口語訳聖書』©1954,1955,1975,1984,2002 日本聖書協会を使用しています。1954年・1955年の本文を基本とし、改訂箇所は原語からの拙訳、または章節のみを記載しています。拙訳箇所には「拙訳」と明記しています。

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