目次
—苦さが甘さに変わる過程こそ、神の働きを体験する場所—
本日の通読箇所は、出エジプト記15章、エズラ記4-5章、ルカ12章41-59節です。
※この記事は、要点だけを抜き出して理解できる内容ではありません。モーセ五書・旧約・新約の連続した文脈の中でのみ読まれることを意図しています。
【読み方のご案内】 第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。 時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。
どうして神は、初めから甘い水を与えてくださらないのか。なぜ試練を通されるのか…試練の意味が分からずに苦しんでいる時は思います。マラの苦い水を経験し、水に木が投げ入れられ、甘くなる過程に十字架の重み、十字架の愛を自分事として悟ることができるようになるのですよね。分かっているけれど、試練の時に黙って主を信頼することがいつもできていたら…残念ですがそれができない。だからこそ私には十字架が必要です。毎日み言葉に聴く中で教えられ勇気を与えられ、従いたい思いを御霊が与えてくださいます。今日も霊の糧であるみ言葉を味わいたいと願います。
第一部:出エジプト記15章—勝利の歌と苦い水の試練
預言的完了形で歌われる勝利の歌
出エジプト記15章は、紅海の奇跡直後に歌われた「モーセの歌」として知られています。この歌は単なる勝利の喜びを表現しているだけでなく、救済史全体を見通す預言的な性質を持っています。
15:1-2でモーセとイスラエルの民は主に向かって歌い始めます。「【主】に向かって私は歌おう。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれたゆえに。主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。」
ここで注目すべきは、この歌が過去の出来事(紅海の奇跡)を歌いながら、同時に未来の約束を預言的に語っている点です。
特に15:13と15:17の言葉は重要です:
「あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、聖なる御住まいに伴われた。」(15:13)
「あなたは彼らを連れて行き、あなたご自身の山に植えられる。【主】よ。御住まいのためにあなたがお造りになった場所に。主よ。あなたの御手が堅く建てた聖所に。」(15:17)
この時点で、イスラエルの民はまだシナイ山にも到達していません。カナンの地はまだ遥か彼方です。それなのにモーセは「聖なる御住まい」「あなたご自身の山」「聖所」について歌っています。
ヘブライ語で「御住まい」は「נָוֶה」(ナーヴェ)、「聖所」は「מִקְדָּשׁ」(ミクダーシュ)です。これらの言葉は後にシオンの山、エルサレム神殿を指すことになります。まだ見ぬ神殿を、すでに実在するかのように歌う—これが預言的完了形です。神の視点から見れば、約束されたことは成就したも同然なのです。
15:18で歌は頂点に達します:「【主】はとこしえまでも統べ治められる。」ヘブライ語では「יְהוָה יִמְלֹךְ לְעֹלָם וָעֶד」(アドナイ・イムロフ・レオラーム・ヴァエド)—主の永遠の王権の宣言です。
三日目の試練—水が見つからない
しかし、この壮大な賛美の直後、現実は厳しいものでした。
15:22「モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らには水が見つからなかった。」
「三日間」という期間に注目してください。聖書において「三日目」は特別な意味を持ちます。イエス・キリストが十字架で死んで三日目に復活されたように、三日目は試練から救いへの転換点を示すことが多いのです。
水が見つからないという試練は、命に関わる深刻な問題でした。荒野で水なしには生きられません。神は彼らを紅海で救い出されたばかりなのに、なぜすぐに飲める水を与えてくださらなかったのでしょうか?
マラの苦い水—期待から失望へ
15:23「彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた。」
「マラ」(מָרָה、マーラー)はヘブライ語で「苦い」という意味です。三日間の渇きの末、ようやく水を見つけた喜びは束の間、その水は飲むことができませんでした。
これは人生の縮図でもあります。期待して辿り着いた場所が、実は「苦い」経験だったということは、私たちにもよくあります。仕事、人間関係、夢見ていた将来—それらが「マラ」であることに気づく時、私たちはどうするでしょうか?
15:24「民はモーセにつぶやいて、『私たちは何を飲んだらよいのですか』と言った。」
彼らの反応は「つぶやき」でした。ヘブライ語で「לוּן」(ルーン)—不平を言う、呟く、という意味です。わずか数日前、紅海で主の偉大な救いを見たばかりなのに、すぐに不平を言い始める—これが人間の弱さです。
しかし同時に、これは正直な反応でもあります。喉が渇いているのに、目の前の水が飲めない。この苦しみは現実です。神は私たちの正直な叫びを受け止めてくださいます。
一本の木—苦さを甘さに変える奇跡
15:25「モーセは【主】に叫んだ。すると、【主】は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。」
ここが今日の箇所の核心です。
神は全能の方ですから、言葉一つで水を甘くすることもできたはずです。しかし神は「一本の木」を使う方法を選ばれました。
「木」はヘブライ語で「עֵץ」(エーツ)です。この同じ言葉が、後に十字架を指すことになります。申命記21:23では「木にかけられた者」(צָלוּי עַל־עֵץ)という表現が使われ、ガラテヤ3:13でパウロはこれをキリストの十字架に適用しています。
マラの苦い水を甘くした「一本の木」は、私たちの苦い人生を甘く変える十字架の型なのです。
神は単に問題を取り除くのではなく、「何か」が投げ込まれることによって、苦さが甘さに変わることを示されました。その「何か」が、後に十字架にかかられたキリストです。
水が甘くなったのは瞬時の奇跡でしたが、その背後には深い霊的真理がありました。贖いには代価が必要です。苦さから甘さへの変化は、犠牲なしには起こりません。
試みと訓練の場所
15:25後半「その所で主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた。」
興味深いことに、神は水を甘くした後、そこで「おきてと定め」(חֹק וּמִשְׁפָּט、ホーク・ウミシュパート)を授けられました。そして「その所で彼を試みられた」(שָׁם נִסָּהוּ、シャーム・ニッサーフー)とあります。
「試みる」(נָסָה、ナーサー)は、精錬する、テストする、という意味です。神は彼らを滅ぼすために試みたのではなく、訓練し、信仰を強めるために試みられたのです。
マラの経験は失敗ではありませんでした。それは神との関係を深める訓練の場でした。苦い水が甘くなる過程こそが、神の働きを体験する場所だったのです。
アドナイ・ロフェカ—主はあなたを癒す者
15:26「そして、仰せられた。『もし、あなたがあなたの神、【主】の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは【主】、あなたをいやす者である。』」
ここで主はご自身の性質を啓示されます:「わたしは【主】、あなたをいやす者である」。
ヘブライ語では「אֲנִי יְהוָה רֹפְאֶךָ」(アニー・アドナイ・ロフェカ)—「私はアドナイ、あなたを癒す者」です。
「ロフェ」(רֹפֵא)は医者、癒す者という意味です。主は単に物質的な水の質を変える方だけでなく、私たち自身を癒す方なのです。
この約束には条件がありました:主の声に聞き従い、主が正しいと見られることを行い、命令に耳を傾け、おきてを守ること。これは律法主義ではありません。むしろ、主との親密な関係の中で生きることの招きです。
主の癒しは、単に病気を取り除くことだけではありません。罪の結果、心の傷、霊的な病—すべてを癒す力を持っておられる方として、ご自身を啓示されたのです。
エリムの恵み—12の泉と70本のなつめやし
15:27「こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめやしの木があった。そこで、彼らはその水のほとりに宿営した。」
マラの試練の後、神は彼らをエリムに導かれました。
「エリム」(אֵילִם、エーリーム)は「力強い木々」という意味です。そこには12の泉と70本のなつめやしがありました。
この数字には意味があります。12はイスラエルの12部族を象徴し、70は後に任命される70人の長老たちを予表しています(民数記11:16)。
マラでは一つの泉すらなかったのに、エリムには12の泉がありました。苦い水しかなかった場所から、豊かな泉のある場所へ—これが神の恵みの道筋です。
「神は試練の中に閉じ込める方ではなく、通過させ、次の段階へ導く方です。」
第一部まとめ
出エジプト記15章は、勝利と試練、賛美と呟き、苦さと甘さが交錯する章です。しかしその中心には、「一本の木」を通して苦い水を甘くされる神の奇跡がありました。
この木は十字架の型です。私たちの人生の「マラ」—苦い経験、困難、失望—それらは、十字架が投げ込まれることによって甘さに変わります。
木が水に投げ込まれた時、その木自体は何も得ていません。ただ水の中に沈み、自らを差し出すことで、水を変えました。十字架も同じです。イエス様は私たちの苦さを甘くするために、ご自身を「投げ込まれた」のです。
順調な時には、十字架は単なる教理として知っているだけかもしれません。しかし、マラの苦い水を前にして喉が渇いている時—その時にこそ、「主は私のために木を投げ込んでくださった」と、十字架の重み、十字架の愛を体験的に味わうことができるのです。
そして神はご自身を「アドナイ・ロフェカ」(主はあなたを癒す者)として啓示されました。主は単に環境を変える方ではなく、私たち自身を変え、癒す方なのです。
苦さが甘さに変わる過程こそ、神の働きを体験する場所です。そしてその過程の中でこそ、十字架の愛の深さに触れることができるのです。
第二部:エズラ記4-5章—預言された聖所の再建と霊的識別
モーセの歌が指し示した場所
出エジプト記15章でモーセが預言的に歌った「あなたご自身の山」「御住まいのためにあなたがお造りになった場所」「あなたの御手が堅く建てた聖所」—それはエルサレムの神殿を指していました。
モーセの時代から約800-1000年後、エズラ記の時代に、この預言は実現の過程にありました。バビロン捕囚から帰還した民が、まさにその聖所を再建しようとしていたのです。
しかし、その道のりは決して平坦ではありませんでした。
「協力したい」という申し出—表面と本質
4:1-2「ユダとベニヤミンの敵たちは、捕囚から帰って来た人々が、イスラエルの神、【主】のために神殿を建てていると聞いて、ゼルバベルと一族のかしらたちのところに近づいて来て、言った。『私たちも、あなたがたといっしょに建てたい。私たちは、あなたがたと同様、あなたがたの神を求めているのです。アッシリヤの王エサル・ハドンが、私たちをここに連れて来た時以来、私たちはあなたがたの神に、いけにえをささげてきました。』」
この申し出は、表面的には非常に好意的に聞こえます。「あなたがたと同様、あなたがたの神を求めている」「いけにえをささげてきた」—協力を申し出る理由としては十分に思えます。
しかし、ここには重要な情報が含まれています。彼らは「アッシリヤの王エサル・ハドンが、私たちをここに連れて来た」と言っています。
これは紀元前7世紀、北イスラエル王国が滅亡した後、アッシリヤが異邦人を移住させた歴史を指しています(2列王記17:24-41参照)。彼らは主に犠牲を捧げていましたが、同時に「自分たちの神々にも仕えていた」(2列王17:33)のです。
つまり、彼らの信仰は混合宗教でした。主だけを礼拝するのではなく、主と他の神々を並行して礼拝していたのです。
ゼルバベルの断固とした拒否—霊的識別
4:3「しかし、ゼルバベルとヨシュアとその他のイスラエルの一族のかしらたちは、彼らに言った。『私たちの神のために宮を建てることについて、あなたがたと私たちとは何の関係もない。ペルシヤの王、クロス王が私たちに命じたとおり、私たちだけで、イスラエルの神、【主】のために宮を建てるつもりだ。』」
ゼルバベルとヨシュアの応答は明確でした。彼らは丁寧に、しかし断固として、協力を拒否しました。
「あなたがたと私たちとは何の関係もない」—この言葉は冷たく聞こえるかもしれません。しかし、これは霊的識別の結果でした。
彼らは見抜いていたのです。表面的な協力は、実際には神殿の霊的純粋性を損なうことになると。混合宗教を持つ者たちと共に神殿を建てることは、神殿そのものを混合の場所にしてしまうことを意味していました。
「私たちだけで」というヘブライ語は「אֲנַחְנוּ לְבַדֵּנוּ」(アナフヌー・レヴァデーヌー)—「私たち、私たちだけで」という強調表現です。
これは排他的な態度ではなく、聖別の態度でした。神の家は、神だけを礼拝する場所でなければならない—この原則を守ったのです。
覚めている指導者たち
ここで注目すべきは、ゼルバベルとヨシュアの霊的に覚めている状態です。
多くの人は表面を見ます:
- 「協力してくれると言っている」→ 良い人たち
- 「神を求めていると言っている」→ 同じ信仰
- 「いけにえを捧げていると言っている」→ 同じ礼拝
しかし、彼らは本質を見ました:
- この人たちの「神」は、聖書が証言する唯一の神と同じか?
- この協力は、神の目的を前進させるか、それとも妥協させるか?
- 表面的な一致は、真の一致か?
彼らは真理への愛から識別したのです。批判的精神からではなく、神への忠実さから、拒否という選択をしました。
反対の激化—試練は続く
4:4-5「すると、その地の民は、建てさせまいとして、ユダの民の気力を失わせ、彼らをおどした。さらに、議官を買収して彼らに反対させ、この計画を打ちこわそうとした。このことはペルシヤの王クロスの時代からペルシヤの王ダリヨスの治世の時まで続いた。」
協力を拒否されると、彼らの態度は一変しました。「気力を失わせ」「おどし」「議官を買収して」—あらゆる手段を使って妨害し始めたのです。
そして「クロスの時代からダリヨスの治世の時まで続いた」とあります。これは約15年間にわたる妨害でした。
正しい決断が、すぐに祝福をもたらすとは限りません。むしろ、真理に立つことは、時に長い試練を伴います。
マラの苦い水のように、神殿再建の道も苦い経験の連続でした。しかし、その苦さの中でこそ、神への信頼が試され、深められていったのです。
告訴状と工事の中断
4:6-24には、様々な告訴状が書き送られた記録があります。特に4:12-16の告訴状は、エルサレムを「反抗的で危険な町」と描写し、「もしこの町が再建され、城壁が修復されたら、彼らはみつぎ、関税、税金を納めなくなる」と王に訴えています。
その結果、4:21で王は「その者たちの働くのをやめさせ」る命令を下しました。
4:23-24「アルタシャスタ王の書状の写しがレフムと、書記官シムシャイと、その同僚の前で読まれると、彼らは急いでエルサレムのユダヤ人のところに行って、武力をもって彼らの働きをやめさせた。こうして、エルサレムにある神の宮の工事は中止され、ペルシヤの王ダリヨスの治世の第二年まで中止された。」
「武力をもって」—これは物理的な暴力を伴う妨害でした。神殿再建という神聖な働きが、力ずくで止められてしまったのです。
モーセが歌った「聖所」の実現は、このように困難に満ちた道でした。
預言者の声—ハガイとゼカリヤ
5:1「さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの、ふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に、彼らとともにおられるイスラエルの神の名によって預言した。」
工事が中断されていた時、神は預言者たちを遣わされました。
ハガイとゼカリヤ—この二人の預言者の言葉が、停滞していた民を再び立ち上がらせたのです。
ハガイ書を見ると、民たちは「【主】の宮を建てる時はまだ来ていない」(ハガイ1:2)と言い訳していました。反対が激しいから、経済的に厳しいから、時期が悪いから—様々な理由をつけて、神殿再建を先延ばしにしていたのです。
しかし、ハガイは厳しく問いかけます:「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか」(ハガイ1:4)
神の言葉は、人間の言い訳を打ち破ります。
再開される工事—神の預言者たちの助け
5:2「そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアは立ち上がり、エルサレムにある神の宮を建て始めた。神の預言者たちも彼らといっしょにいて、彼らを助けた。」
「立ち上がり」—ヘブライ語で「קוּם」(クーム)、起き上がる、立ち上がる、という力強い動詞です。
そして重要なのは、「神の預言者たちも彼らといっしょにいて、彼らを助けた」という記述です。
ゼルバベルたちは孤独ではありませんでした。彼らが「私たちだけで」と言った時、それは人間的な孤立を意味していたのではありません。混合を退けることで、かえって神との親密さの中での協働が実現したのです。
神の言葉に従う者には、神ご自身が助け手となってくださいます。
新たな反対—しかし神の目が注がれている
5:3-4「そのとき、川向こうの総督タテナイと、シェタル・ボズナイと、その同僚とがやって来て、こう言った。『だれがあなたがたに命令を下して、この宮を建て、この城壁を修復させようとしたのか。』そしてまた、『この建物を建てている者たちの名は何というのか』と尋ねた。」
工事が再開されると、すぐに新たな反対が起こりました。今度はペルシヤ帝国の地方総督たちからの尋問です。
しかし、ここで決定的な違いがあります。
5:5「しかし、ユダヤ人の長老たちの上には神の目が注がれていたので、このことがダリヨスに報告され、ついで、このことについての書状が来るまで、この者たちは彼らの働きをやめさせることができなかった。」
「神の目が注がれていた」—ヘブライ語で「עֵין אֱלָהֲהֹם הֲוָת עַל־שָׂבֵי יְהוּדָיֵא」(エイン・エラハホーム・ハヴァート・アル・サヴェイ・イェフーダーイェー)。
神の目、神の見守り、神の保護—それが彼らの上にありました。ですから、今回は「武力をもって」止められることはありませんでした。
苦い水が甘くなる過程の中で、彼らは神の臨在を体験していたのです。
長老たちの証言—「天と地の神のしもべ」
5:11「すると、彼らは次のように私たちに返事をよこして言いました。『私たちは天と地の神のしもべであり、ずっと昔から建てられていた宮を建て直しているのです。それはイスラエルの大王が建てて、完成させたものです。』」
総督からの尋問に対して、長老たちは自分たちを「天と地の神のしもべ」と紹介しました。
彼らは単に「神殿を建てている建築業者」とは言いませんでした。まずアイデンティティを明確にしたのです。「私たちは神のしもべである」と。
これは重要な順序です。何をしているかの前に、誰であるかを明確にする。
そして、彼らは自分たちの働きを正当化するために、歴史を語りました。「イスラエルの大王」(ソロモン王)が建てた神殿、それが破壊された経緯(5:12)、そしてクロス王の命令による再建の許可(5:13-16)—すべてを丁寧に説明しました。
5:17「ですから今、王さま、もしもよろしければ、あのバビロンにある王の宝物倉を捜させて、エルサレムにあるこの神の宮を建てるためにクロス王からの命令が下されたかどうかをお調べください。そして、このことについての王のご意見を私たちにお伝えください。」
彼らは正直に、透明に、すべてを王に報告しました。隠すことなく、恐れることなく。なぜなら、彼らは正しいことをしていると確信していたからです。
そして何より、「神の目が注がれていた」からです。
モーセの歌の成就に向かって
出エジプト記15:17でモーセが歌った「あなたの御手が堅く建てた聖所」—それは単なる建物ではありませんでした。それは神の臨在の場所、神と人が出会う場所、贖いが実現する場所でした。
エズラ記4-5章は、その聖所が困難の中で再建されていく過程を描いています。
反対があり、中断があり、新たな挑戦がありました。まさに「苦い水」のような経験の連続でした。
しかし、その過程の中で:
- 混合を退ける識別力が与えられ
- 神の言葉が預言者を通して語られ
- 神の目が注がれていることを体験し
- 神のしもべとしてのアイデンティティが明確になった
苦さが甘さに変わる過程こそ、神の働きを体験する場所でした。
第二部まとめ
エズラ記4-5章は、モーセの歌で預言された「聖所」が、困難の中で実現していく物語です。
ゼルバベルとヨシュアは、表面的な協力の申し出を退けました。それは排他的な態度ではなく、真理への忠実さから来る霊的識別でした。彼らは覚めていたのです。
反対は激しく、工事は中断されました。しかし、神は預言者を遣わし、民を再び立ち上がらせました。そして「神の目が注がれていた」ので、今度は働きを止めることができませんでした。
マラの苦い水のように、神殿再建の道も苦い経験に満ちていました。しかし、その苦さの中でこそ、十字架の重み—神が私たちのために払われた代価—を体験し、神の臨在を深く味わうことができたのです。
第三部:ルカ12:41-59—忠実な管理人と時を見分ける力
ペテロの質問—このたとえは誰のため?
12:41「そこで、ペテロが言った。『主よ。このたとえは私たちのために話してくださるのですか。それともみなのためなのですか。』」
この箇所は、イエスが再臨について語られた直後の場面です。ペテロは質問しました:「このたとえは私たち(弟子たち)のためなのか、それとも皆(群衆全体)のためなのか?」
しかし、イエスの答えは直接的ではありませんでした。代わりに、別の質問で応えられたのです。
忠実な賢い管理人とは誰か
12:42「主は言われた。『では、主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な賢い管理人とは、いったいだれでしょう。』」
「管理人」はギリシャ語で「οἰκονόμος」(オイコノモス)です。「οἶκος」(オイコス=家)と「νόμος」(ノモス=律法・規則)を組み合わせた言葉で、「家の律法・規則を管理する者」という意味です。
管理人の仕事は、「食事時には彼らに食べ物を与える」ことでした。
これは単なる物理的な食事ではありません。霊的な糧、つまり神の言葉を、必要な時に、必要な人に分け与えることを指しています。
「食事時には」—モエドとカイロスの神学
ここで使われている「食事時には」というギリシャ語は「ἐν καιρῷ」(エン・カイロー)—「時にかなって」「適切な時に」という意味です。
この「καιρός」(カイロス)は、単なる時計の時間(χρόνος、クロノス)ではなく、神が定められた特別な時を意味します。これはヘブライ語の「מוֹעֵד」(モエド)に対応する概念です。
モエド(מוֹעֵד)は:
- 定められた時
- 祭りの時
- 神との会見の時
- 会見の天幕(幕屋)も「אֹהֶל מוֹעֵד」(オヘル・モエド)と呼ばれる
つまり、忠実な管理人の責任は、神が定められた時(モエド/カイロス)に、神が用意された糧を、神が指定した人に分け与えることなのです。
出エジプト記15章のマラでも、神は時にかなって木を示されました。三日間の渇きの後、苦い水を見つけた絶望の中で—まさにその時が、神のモエドでした。早すぎても遅すぎてもいけない。その時に、神は介入されたのです。
エズラ記5:1でも、預言者ハガイとゼカリヤが立ち上がった時、それは神のモエドでした。長い中断の後、「今こそ立ち上がる時だ」という神の時が来ていたのです。そして5:2で民は「立ち上がり」ました—神のカイロス/モエドに応答したのです。
管理人は自分の都合で食べ物を配給するのではありません。主人が定めた時に配給するのです。これがモエド/カイロスの原則です。
管理人の責任は二つあります:
- 正しい内容を与えること(神の言葉)
- 正しい時に与えること(時にかなって、モエド/カイロスに)
古い食べ物や腐った食べ物を与えてはいけません。また、空腹な人を待たせてもいけません。新鮮な御言葉を、神の時に—これが忠実な管理人の働きです。
幸いなしもべ
12:43-44「主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。わたしは真実をあなたがたに告げます。主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。」
「そのようにしている」—つまり、主人がいない時も、いる時と変わらず忠実に仕事をしている状態です。
人が見ていようと見ていまいと、評価されようとされまいと、ただ主人への忠誠心から働き続ける—これが「忠実な」管理人の特徴です。
そして、その報いは驚くべきものです:「主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。」
ギリシャ語では「πάντα τὰ ὑπάρχοντα」(パンタ・タ・ヒュパルコンタ)—「存在するすべてのもの」です。主人が持っているすべてを、この忠実なしもべに委ねるというのです。
小さなことに忠実な者は、大きなことも任されます(ルカ16:10)。
不忠実なしもべの末路
12:45-46「ところが、もし、そのしもべが、『主人の帰りはまだだ』と心の中で思い、下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると、しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに会わせるに違いありません。」
対照的に、不忠実なしもべの特徴が描かれています:
- 「主人の帰りはまだだ」と心の中で思う—これは単なる時間の計算ではなく、心の態度です。主人の不在を言い訳に、自分勝手に振る舞おうとする心です。
- 下男や下女を打ちたたく—同じしもべ仲間を虐待する。これは、神の家族に対する愛の欠如を示しています。
- 食べたり飲んだり、酒に酔ったりする—自己放縦、自己満足。主人のためではなく、自分のために生きる姿です。
そして、その結果は厳しいものです:「思いがけない日の思わぬ時間に」主人は帰ってきます。
イエスの再臨は、まさにそのようなものです。予期しない時に来られる。だからこそ、常に忠実であることが求められるのです。
知っていることの責任
12:47-48「主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。」
ここでイエスは重要な原則を語られました:知識には責任が伴うということです。
「主人の心を知りながら」何もしなかったしもべは、「知らずにいた」しもべよりも厳しく裁かれます。
そして、12:48後半の原則:「すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。」
ギリシャ語では:
- 「παντὶ δὲ ᾧ ἐδόθη πολύ, πολὺ ζητηθήσεται παρ᾽ αὐτοῦ」(パンティ・デ・ホー・エドセー・ポリュ、ポリュ・ゼーテーセタイ・パル・アウトゥー)
- 「すべての者に、多くが与えられた者には、多くが求められる」
これは重荷ではなく、特権です。多く与えられたということは、神がその人を信頼しておられるということだからです。
御言葉の知識、聖霊の賜物、奉仕の機会—これらが与えられているなら、それは単なる祝福ではなく、責任を伴う信託なのです。
イエスが来たのは火を投げ込むため
12:49-50「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。」
ここでイエスは、ご自身の使命を二つの象徴で語られました:
- 火—「πῦρ」(プール) これは聖霊の火であり、精錬の火であり、真理の火です。それは心を燃やし、偽りを焼き尽くし、本質を明らかにします。
イエスが「その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう」と言われた時、それは情熱的な願いでした。中途半端な信仰ではなく、燃える信仰を願われたのです。
- バプテスマ—「βάπτισμα」(バプティスマ) これは十字架を指しています。イエスは十字架の死と復活を「バプテスマ」と呼ばれました。完全に沈められ、完全に浸される—それが十字架の経験でした。
「それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう」—イエスご自身が、十字架に向かう過程での苦しみを認めておられます。
マラの苦い水に木が投げ込まれるように、この世の苦さを甘くするために、イエスご自身が十字架に投げ込まれることを、ここで予告しておられるのです。
平和ではなく、分裂
12:51-53「あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」
この言葉は衝撃的です。イエスが「平和の君」(イザヤ9:6)と呼ばれているのに、「平和を与えるために来たのではない」と言われるのです。
しかし、ここでイエスが語っておられるのは、表面的な平和と真実な平和の違いです。
真理が語られる時、それは必然的に選択を迫ります。イエスに従うか、従わないか。真理を受け入れるか、拒むか。
その選択は、時に家族の中でさえ分裂を引き起こします。「三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して」—これは、信仰による分裂が最も親しい関係の中で起こることを示しています。
これは失敗ではありません。むしろ、本物の福音が語られている証拠です。
偽りの一致、妥協した平和—それらは真理を犠牲にした見せかけの平和です。イエスが求められるのは、真理に基づいた本物の平和、真理に立つ者たちの間の真実な一致なのです。
時を見分ける力
12:54-56「群衆にもこう言われた。『あなたがたは、西に雲が起こるのを見るとすぐに、「にわか雨が来るぞ」と言い、事実そのとおりになります。また南風が吹きだすと、「暑い日になるぞ」と言い、事実そのとおりになります。偽善者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。』」
イエスは群衆に厳しく語られました:「偽善者たち」(ὑποκριταί、ヒュポクリタイ)と。
彼らは天候を読むことはできました。雲を見れば雨が来ると分かり、南風を感じれば暑くなると分かる。自然の兆候を読む能力は持っていたのです。
しかし、「今のこの時代を見分けることができない」—霊的な兆候、神の時のしるしを見分けることができなかったのです。
メシアが目の前に立っておられるのに、それが分からない。神の国が近づいているのに、それに気づかない。
これは単なる知的な問題ではなく、心の問題でした。見たくないものは見えない。認めたくない真実は認められない。
自分から進んで判断する力
12:57「また、なぜ自分から進んで、何が正しいかを判断しないのですか。」
ここでイエスは重要な質問をされました:「なぜ自分から進んで、何が正しいかを判断しないのですか。」
ギリシャ語では:
- 「τί δὲ καὶ ἀφ᾽ ἑαυτῶν οὐ κρίνετε τὸ δίκαιον」(ティ・デ・カイ・アフ・ヘアウトーン・ウ・クリネテ・ト・ディカイオン)
- 「なぜあなたたち自身から、正しいことを判断しないのですか」
「ἀφ᾽ ἑαυτῶν」(アフ・ヘアウトーン)は「あなたたち自身から」という意味で、内側から湧き上がる判断力を指しています。
イエスは、私たちに自分で判断する力が与えられていると言っておられるのです。
これは傲慢ではありません。むしろ、聖霊が内住している者として、真理を識別する責任を持つということです。
多くのクリスチャンは、この力を使いません。なぜなら:
- 指導者の言葉に依存する方が楽だから
- 自分で判断して間違えることを恐れるから
- 「従順」を「思考停止」と混同しているから
しかし、イエスは言われます:「なぜ自分から進んで判断しないのですか」
これは、聖書を学び、聖霊に導かれながら、自分自身で何が正しいかを識別することへの招きです。
エズラ記でゼルバベルとヨシュアが示したのも、この識別力でした。彼らは外部の権威に頼らず、神の言葉と神の御心を求めることで、正しい判断をしたのです。
和解への勧め
12:58-59「あなたを告訴する者といっしょに役人の前に行くときは、途中でも、熱心に彼と和解するよう努めなさい。そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行きます。裁判官は執行人に引き渡し、執行人は牢に投げ込んでしまいます。あなたに言います。最後の一レプタを支払うまでは、そこから決して出られないのです。」
イエスは、和解の緊急性を語られました。
「途中でも、熱心に彼と和解するよう努めなさい」—まだ時間がある間に、まだ機会がある間に、和解を求めなさいという勧めです。
「一レプタ」(λεπτόν、レプトン)は最も小さい硬貨です。つまり、「最後の最後まで支払い続けなければならない」という意味です。
この警告は、神との和解の緊急性を示しています。今、この時に、主との関係を正しくしなければならない。後で、明日、いつか—そう言っている間に、手遅れになるかもしれないのです。
マラの苦い水の前で、イスラエルは即座に神に叫びました(出エジプト15:25)。それが正しい応答でした。
第三部まとめ
ルカ12:41-59は、イエスの再臨を前にした弟子たちの生き方を教えています。
忠実な管理人は、時にかなって霊の糧を分け与える者です。人が見ていようと見ていまいと、主人がいつ帰ってこようと、変わらず忠実に働き続けます。
多く与えられた者には、多くが求められます。これは重荷ではなく特権です。神が信頼してくださっている証拠だからです。
イエスが来られたのは、火を投げ込むため、そして十字架のバプテスマを受けるためでした。その火は、偽りを焼き尽くし、真理を明らかにします。それは時に分裂をもたらしますが、それは表面的な一致を破って、真実な関係を求める神の働きです。
そして、イエスは私たちに「自分から進んで、何が正しいかを判断する」力が与えられていると言われました。聖霊によって内側から真理を識別する能力—これを使うことは、責任であり特権なのです。
苦い水を前にした時、私たちは自分で判断しなければなりません。誰かに頼るのではなく、神に叫び、神の示される「一本の木」を見出し、それを投げ込む—その過程の中で、十字架の重み、十字架の愛を体験するのです。
第四部:全体の一貫性—苦さが甘さに変わる過程を生きる信仰
一本の木が貫く救済史の流れ
今日の三つの箇所を貫く中心的なシンボルは「一本の木」です。
出エジプト記15:25の苦い水を甘くした木は、十字架の型でした。この木が水に投げ込まれることで、水の性質が変わりました。木自体は何も得ていません。ただ水の中に沈み、自らを差し出すことで、渇いている民のために犠牲となったのです。
約800-1000年後、エズラ記4-5章で、モーセが預言的に歌った「聖所」が再建されようとしていました。しかしその過程は苦難に満ちていました。反対、妨害、中断—まさに「マラ」のような経験の連続でした。
そしてルカ12:50で、イエスはご自身の十字架を「バプテスマ」と呼ばれました。「しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。」木が水の中に投げ込まれるように、キリストは私たちの罪と苦しみの中に投げ込まれたのです。
マラの木も、エルサレムの神殿再建も、キリストの十字架も—すべては同じ真理を指し示しています。贖いには代価が必要であり、苦さが甘さに変わるためには、何かが投げ込まれなければならないということです。
過程の中でこそ体験される神の臨在
もし最初から甘い水が豊富にあったら、イスラエルは「神は必要を満たしてくれる」という表面的な理解だけで終わったかもしれません。しかし、三日間の渇き、苦い水の失望、そして木による変化—この過程を通して、彼らは「アドナイ・ロフェカ」(主はあなたを癒す者)という神の性質を知ったのです。
もし神殿再建がすべて順調に進んでいたら、彼らは建築技術だけを学んだかもしれません。しかし、反対され、中断され、また再開するという過程を通して、彼らは霊的識別力、神の言葉への依存、そして「神の目が注がれている」(エズラ5:5)ことの実感を得たのです。
もし弟子たちが常に主と共にいられたら、彼らは「忠実さ」の本質を学べなかったかもしれません。しかし、主が不在の中で働き続ける—その過程を通して、見えない主を見えるかのように信じて仕える信仰が育つのです。
順調な時には、十字架は教理として知っているだけかもしれません。しかし、マラの苦い水を前にして喉が渇いている時—その時にこそ、十字架の重み、十字架の愛を体験的に味わうことができます。
苦さが甘さに変わる過程こそ、神の働きを体験する場所なのです。
預言から実現へ—信仰の時間軸
モーセはまだ見ぬ聖所について、すでに完成したかのように歌いました(出エジプト15:17)。これが預言的信仰です。
約800-1000年後、エズラの時代の人々はその預言の実現過程を生きました。彼らの働きは、モーセの歌の成就でした。
そしてルカ12:43で、イエスは「主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです」と言われました。まだ見ぬ主の再臨を、すでに目の前にあるかのように生きる—これも預言的信仰です。
この三つの箇所は、異なる時代、異なる状況でありながら、同じ信仰の本質を示しています:見えないものを見るように生き、まだ成就していないことを確信して行動するということです。
完璧でなくても本物でいい
マラの過程には、民のつぶやきがありました(出エジプト15:24)。神殿再建には、反対と中断がありました(エズラ4-5章)。ルカ12章には、「知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべ」(12:48)の話があります。
つまり、聖書は完璧な人々の物語ではなく、不完全でありながら、神に頼り続けた人々の物語なのです。
重要なのは完璧であることではなく、本物であることです。失敗を認め、弱さを知り、だからこそ十字架に頼り続ける—その姿こそが真の証しとなります。
なぜなら、苦さが甘さに変わる過程の中でこそ、十字架の必要性を深く体験するからです。
三つの箇所が示す一つの真理
出エジプト記15章は型として、エズラ記4-5章は歴史的実現として、ルカ12章は霊的適用として—三つの箇所は異なる角度から同じ真理を照らしています。
苦さが甘さに変わる過程こそ、神の働きを体験する場所である。
そしてその変化は、十字架という「一本の木」が投げ込まれることによって実現します。
私たちは完璧である必要はありません。ただ、マラの経験の中で、十字架に頼り続ければいい。その過程の中で、「アドナイ・ロフェカ」(主はあなたを癒す者)を体験的に知るのです。
第五部:エリムの恵み—12の泉と70本のなつめやしが示す神の計画
いつもは第四部までなのですが、今日は番外編第5部があります。忘れない様にここに書きとめておきたいと思いました。
出エジプト記15:27「こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめやしの木があった。そこで、彼らはその水のほとりに宿営した。」
この箇所を何度読んでも、「12の泉」と「70本のなつめやし」という具体的な数字が記されていることに気づきます。聖書が具体的な数を記録する時、そこには必ず意味があります。
12の泉—すべての部族への備え
「12」という数字は、聖書全体を通してイスラエルの12部族を象徴しています。
出エジプト記24:4で、モーセはシナイ山の麓に12の柱を立てます:「モーセは【主】のことばを、ことごとく書きしるした。そして、翌朝早く、彼は山のふもとに祭壇を築き、またイスラエルの十二部族にしたがって十二の石の柱を立てた。」
これはイスラエルの12部族すべてが、神との契約の中に含まれていることを示しています。
そして黙示録21:12-14では、新しいエルサレムに12の門があり、そこにイスラエルの12部族の名が書かれています。
エリムの12の泉は、12部族すべてに十分な水があるという神の備えを示していたのです。一つの部族も取り残されることなく、すべての部族に神の恵みが行き渡る—これが12の泉の意味でした。
70本のなつめやし—指導者の育成
「70」という数字も、聖書の中で特別な意味を持っています。
民数記11:16で、神はモーセに命じられました:「【主】はモーセに仰せられた。『わたしのために、イスラエルの長老たちの中から七十人の者を集めよ。彼らが民の長老であり、つかさであることをあなたが知っている者たちである。彼らを会見の天幕に連れて来て、そこであなたとともに立たせよ。』」
この70人の長老たちは、モーセと共に民を導く指導者となりました。モーセ一人では重すぎる責任を、70人で分担する神の知恵がここにあります。
そして興味深いことに、新約聖書のルカ10:1では、イエスは七十人の弟子を遣わされます:「その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。」
エリムの70本のなつめやしは、将来の指導体制を預言的に指し示していたのです。
マラからエリムへ—試練から回復へ
対比が鮮明です。
マラ(苦い水)では:
- 一つの泉もなかった
- 苦い水しかなかった
- 木が一本だけ投げ込まれた
エリムでは:
- 12の泉—豊かな水
- 70本のなつめやし—豊かな木々
- 宿営できる場所—安息
これは、試練の後には豊かな回復があるという神の約束を示しています。
マラは永遠には続きません。苦しみは一時的です。神は必ず、エリムへと導いてくださるのです。
数字に織り込まれた神の計画
そして、その数字(12と70)には、神の計画が織り込まれていました:
- 12の泉—すべての部族への備え、誰一人取り残さない神の配慮
- 70本のなつめやし—指導者の育成、一人に負担を集中させない神の知恵
マラでの試練は苦しかったでしょう。しかし、その先にあったエリムは、単なる休息の場所ではありませんでした。それは、神の将来の計画を垣間見せる場所だったのです。
イスラエルは、まだシナイ山にも着いていません。12部族への土地の分配も、70人の長老の任命も、まだ先のことです。でも、エリムの12の泉と70本のなつめやしは、すでにその約束を指し示していました。
今日のエリム
私たちも、人生の中でマラを経験します。苦い水、失望、疲れ果てる経験。
でも、神は必ずエリムへと導いてくださいます。そして、そのエリムには:
- 私たちが必要とする以上の恵み(12の泉)
- 将来への希望(70本のなつめやし)
が用意されているのです。
マラの経験は無駄ではありません。それは、エリムの恵みをより深く味わうための準備です。
苦い水が甘くなる過程を経験した者だけが、豊かな泉の価値を本当に知ることができるのです。

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