2026年1月25日 出エジプト記10章12-29節、第二歴代誌22-23章、ルカ9章1-27節
はじめに
目次
―汚れた罪びとの頭でも入れる門―
今日の通読箇所には、神への礼拝の本質を巡る重要な問いが含まれています。モーセは迫害者パロに対して「あなた自身が私たちにいけにえを与えなければならない」と大胆に要求し、エホヤダは神殿の門に門衛を立てて汚れた者の侵入を防ぎ、イエスは弟子たちに「わたしの血によって大胆に聖所に入れ」と約束されました。
これらの箇所を貫く一つのテーマがあります。それは「誰が、どのようにして、聖なる神に近づくことができるのか」という問いです。
【愼悟先生のYouTube】
1. モーセの大胆な要求―神への礼拝に必要なものは神が備える
出エジプト記10章26節のモーセの言葉は、驚くべき大胆さを持っています:
「あなた自身が私たちの手にいけにえと全焼のいけにえを与えて、私たちの神、【主】にささげさせなければなりません。私たちは家畜もいっしょに連れて行きます。ひづめ一つも残すことはできません」
これは単なる交渉術ではありません。モーセは神の代弁者として、パロに対して重要な神学的真理を宣言しているのです。それは、「神への礼拝に必要なものは、神ご自身が備えてくださる」という原理です。
第9章の疫病で、イスラエルの家畜だけが守られたという事実を思い出してください。エジプトの家畜は実質的に主のものとなっていたのです。モーセはパロに、その現実を認めるよう求めています。
さらに注目すべきは「ひづめ一つも残すことはできません」という言葉です。これは完全な献身の宣言です。モーセは続けて言います:「あちらに行くまでは、どれをもって【主】に仕えなければならないかわからないのです」
神が何を求められるか、事前には分かりません。だからすべてを携えて行くのです。一部だけ、計算できる範囲だけではなく、全部です。
パロは段階的妥協を提案し続けました:
| 箇所 | パロの妥協案 |
| 8章25節 | エジプト国内で礼拝しろ |
| 8章28節 | 遠くへは行くな |
| 10章11節 | 男だけ行け |
| 10章24節 | 家畜は置いていけ |
しかしモーセは一切妥協しません。なぜなら、神への礼拝は人間が条件を決めるものではないからです。神が求められることには、神が備えてくださる。そして神が求められる礼拝は、完全な献身でなければならないのです。
2. アタルヤとエホヤダ―6年間の沈黙の中での神の御業
第二歴代誌22-23章は、複雑な系図と政治的陰謀が交錯する物語です。整理すると:
| 人物 | 関係 | 役割 |
| ヨラム | ユダの王 | アハズヤの父 |
| アハズヤ | ユダの王 | 悪を行い殺される |
| アタルヤ | アハズヤの母 | 王族を皆殺し、6年間王となる |
| エホシェバ | ヨラム王の娘、祭司エホヤダの妻 | 赤ちゃんヨアシュを救う |
アタルヤが王族を皆殺しにし、偶像礼拝を広め、国を支配している6年間、聖書には「主の言葉があった」とは書かれていません。神は沈黙しておられるように見えました。
しかし、神は確かに動いておられました:
• エホシェバに赤ちゃんを救う勇気を与え
• エホヤダに6年間、秘密を守る知恵を与え
• 正しいタイミングで、適切な人々を集める力を与えた
6年間、神殿の片隅で赤ちゃんを育てる。誰も注目しない。しかしその赤ちゃんこそが、ダビデ契約を守る鍵だったのです。
これは、目立たない奉仕をする人々への励ましです。ブログを書き、祈り、証しする。派手ではないかもしれません。でも神は見ておられ、用いておられるのです。
3. 神殿の門と「きよめ」―旧約の型と新約の実体
第二歴代誌23章19節には、こう書かれています:
「さらに、彼は【主】の宮の門に、門衛たちを立て、どんなことで汚れた者であっても、だれひとり入り込ませないようにした」
この「汚れた者」とは、道徳的罪ではなく儀礼的汚れを指しています。レビ記で定められた一時的な汚れです:
• 死体に触れた(民数記19章)
• 皮膚病(レビ記13-14章)
• 生理・出産後の期間(レビ記12、15章)
• 性的な排出(レビ記15章)
• 汚れた動物に触れた(レビ記11章)
これらは一定期間待つか、定められた儀式を行えば清められます。
【翻訳の注記】
新改訳聖書は「きよめ」とひらがなで表記していますが、新共同訳聖書では文脈に応じて「清める」「聖別する」と訳し分けています。今回の文脈は儀礼的汚れを除去する意味なので「清め」が適切です。
「清め」と「聖め」の違い、なぜ新改訳はひらがなで「きよめ」と書くのか、については別記事で詳しく解説していますので、ぜひご覧ください。
→【リンク:「聖め」と「清め」と「きよめ」の記事】(※記事完成後にリンク追加)
以下の図解は、旧約の神殿の門と新約のキリストによって開かれた門の対比を示しています。
神殿の門と清め:旧約から新約へ
「さらに、彼は【主】の宮の門に、門衛たちを立て、どんなことで汚れた者であっても、だれひとり入り込ませないようにした。」
旧約:閉ざされた門
「汚れた者」とは(儀礼的汚れ)
きよめのプロセス(taher/ターヘール – 汚れを取り除く)
これは道徳的罪ではなく儀礼的汚れ。一時的な状態で、定められた方法できよめられる。
新約:開かれた門
イエス・キリスト=門
「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます」
(ヨハネ10:9)
新しいきよめと聖めの道(taher/ターヘール + qadash/カダシュ の完成)
「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生きた道を設けてくださったのです。」
決定的な違い:誰が門を通れるか
儀礼的にきよい者のみ
一時的な汚れでも排除
繰り返しきよめが必要
イエスを信じるすべての人
「汚れた罪びとの頭」でも歓迎
キリストの血による永遠のきよめ(清めと聖め)
外側の儀式的きよめ
動物の血(不完全)
繰り返されるいけにえ
内側の心のきよめ
キリストの血(完全)
一度きりの完璧ないけにえ
門衛が監視
恐れて近づく
距離がある
キリストが迎え入れる
大胆に近づく
親しい関係
「私ももちろん門の中に入り込めない、汚れた罪びとの頭ですから」
↓
パウロも同じことを言いました(1テモテ1:15-16):
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。
「汚れた罪びとの頭」だからこそ、恵みの証人になれるのです。
旧約の型と新約の実体
旧約の神殿の門と門衛は、聖なる神に近づくには清めが必要という真理を教えました。
しかしそれはキリストの完全ないけにえを指し示す型でした。
今や、イエスの血によって、私たちは:
✓ 大胆に聖所に入ることができる
✓ 完全にきよめられている(清めと聖め)
✓ 神の子どもとして迎え入れられている
「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
(ヘブル4:16)
第二歴代誌23章から現代へのメッセージ
エホヤダが門衛を立てて汚れた者を入れないようにしたのは、神の聖さを守るためでした。これは正しいことでした。
しかし、イエス・キリストは、その聖さの要求をご自身が完全に満たし、私たちの代わりに十字架で裁かれました。
だから今、どんなに汚れていると感じる人でも、キリストの血によって、神の前に大胆に近づくことができるのです。
友喜のように「汚れた罪びとの頭」と自覚している人こそ、福音の素晴らしさを最も深く味わい、最も力強く証しできるのです。
旧約の門番は、儀礼的に汚れた人を止めました。しかしキリストの十字架は、門を開きました。ヘブル人への手紙10章19-22節は、こう宣言しています:
「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生きた道を設けてくださったのです」
「汚れた罪びとの頭」だと感じる人こそ、恵みの証人になれるのです。パウロも同じことを言いました(1テモテ1:15-16):
「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです」
4. ルカ9章―権威の委譲と足の塵を払うこと
イエスは十二弟子に「すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威」を授けられました(1節)。そして彼らを遣わすにあたり、重要な指示を与えられます:
「人々があなたがたを受け入れない場合は、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりを払い落としなさい」(5節)
この行為には深い意味があります。当時、敬虔なユダヤ人は異邦人の地から帰る時、足の塵を払いました。「異邦人の汚れを持ち込まない」ためです。
イエスの指示は、この慣習を逆転させています:
- 福音を拒否した町は、霊的には異邦人の地と同じ
- 使徒たちの無実の証明
- その町への神の裁きの警告
さらに、拒絶の傷を残さないという意味もあります。創世記3章14節で、蛇(サタン)は「塵を食べる」者とされました。拒絶の痛みや恨みを持ち続けることは、サタンに機会を与えてしまいます。
福音を伝える責任は果たした。結果は神に委ねる。傷は手放す。これが、主に遣わされた者の自由です。
5. 五千人の給食―小さな献げ物を大いなる祝福に
弟子たちは「五つのパンと二匹の魚」しか持っていませんでした。しかしイエスは言われます:「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい」(13節)
弟子たちの目には、圧倒的に不足していました。男だけで五千人。女性と子どもを入れたら、一万人以上だったでしょう。
しかしイエスは:
- 人々を組に分けて座らせ(秩序)
- 天を見上げて祝福し(神への依存)
- 裂いて弟子たちに配らせた(協力)
結果、「人々はみな、食べて満腹した。そして、余ったパン切れを取り集めると、十二かごあった」(17節)
これは、神への献身の原理を示しています。私たちの手にあるものは小さく見えるかもしれません。しかし、それを主に献げるとき、主はそれを祝福し、多くの人を養う器としてくださるのです。
6. 「神のキリスト」という告白―真のメシア理解へ
イエスは弟子たちに問われます:「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」
ペテロが答えます:「神のキリストです」(20節)
しかし、この告白の直後、イエスは口止めされます(21節)。なぜでしょうか。
当時の「メシア」のイメージは、政治的解放者でした。ローマを倒す軍事的リーダー。しかしイエスの次の言葉は、その期待を覆します:
「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです」(22節)
真のメシアは、苦しむしもべです(イザヤ53章)。勝利は、軍事的征服ではなく、十字架と復活を通して成し遂げられます。
それゆえ、イエスに従う者にも、同じ道が求められます:
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(23節)
これは、私たちへの問いでもあります。私たちはどんなイエスを信じているのでしょうか。自分の願望を叶えてくれる便利な神でしょうか。それとも、私たちに「自分を捨て、十字架を負え」と要求する主でしょうか。
まとめ―大胆に恵みの御座へ
今日の箇所を貫くテーマは、「神の主権と人間の応答」です:
- モーセ:神が求められることは、神が備えてくださる
- エホヤダ:正しいことのために危険を冒す勇気
- 十二使徒:権威を受けた者の責任と、結果は神に委ねる自由
- ペテロ:真のメシア理解—苦しむしもべとしてのキリスト
そして最も重要なのは、旧約の門と新約の門の対比です。
旧約では、儀礼的に汚れた者は神殿の門を通れませんでした。しかし、キリストの血によって、私たちは今や「大胆に恵みの御座に近づく」ことができます(ヘブル4:16)。
「汚れた罪びとの頭」だと感じる人こそ、恵みの証人となれるのです。なぜなら、その人は恵みの深さを最もよく知っているからです。
モーセが「ひづめ一つも残さない」と言ったように、私たちもすべてを主に献げるとき、主はそれを祝福し、多くの人を養う器としてくださいます。
今日も、大胆に恵みの御座に近づき、主の恵みをいただいて歩んでいきましょう。
祈り
天の父なる神様、
今日も御言葉を通して、あなたの恵みの深さを教えてくださり感謝します。私たちは「汚れた罪びとの頭」ですが、イエス・キリストの血によって、大胆にあなたの御前に近づくことができます。
モーセのように、あなたが求められることには、あなたが備えてくださることを信じます。エホヤダのように、正しいことのために勇気をもって立つことができますように。
私たちの小さな献げ物を、あなたは祝福し、多くの人を養う器としてくださいます。今日も、すべてをあなたに献げて歩むことができますように。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。



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