ヘブライ語が明かす奉仕の秘密
創世記24章、アブラハムのしもべエリエゼルがイサクの花嫁を探す旅で、リベカと運命的な出会いを果たす場面。私たちはこの物語を何度も読み返してきました。しかし、ヘブライ語の原文には、日本語訳では見えない深い真理が隠されていることを、富田愼悟先生のメッセージを通して知りました。
その鍵となるのが、「ラクダ」を意味するヘブライ語**ガーマル(גָּמָל)**という言葉です。
**この記事は、私自身への覚え書きとして書いています。**日々の奉仕の中で、面倒だと思える心が湧いてくることがあります。そんな時、このガーマルの真理に立ち返り、自分自身に言い聞かせるために、ここに記録しておきたいと思います。
祝福
目次
ヘブライ語が明かす奉仕の秘密
ガーマルの三重の意味
ヘブライ語ガーマルには、実に三つの意味が重層的に込められています:
1. ラクダ(動物)
まず第一に、文字通り砂漠を旅する動物としてのラクダを意味します。創世記24章でエリエゼルが連れていた10頭のラクダです。
2. 報い・報酬
同じ語根から、「報いる」「報酬を与える」という意味が派生します。詩編137:8などでも使われる言葉です。
3. 乳離れ・成熟
さらに、この言葉には「乳離れする」「成熟する」という意味もあります。赤ちゃんが母乳から離れて自立する、つまり霊的に成長し成熟するという段階を表します。
なぜ一つの言葉に三つの意味が?
ヘブライ語の美しさは、一つの語根から派生する複数の意味が、互いに深く関連し合っていることです。ガーマルの場合:
ラクダに水を与える奉仕 → 神からの報い → 霊的成熟
この三つは、切り離せない一つの真理を形成しています。
リベカの物語に現れる三重の真理
創世記24章45-46節で、リベカはエリエゼルとラクダに水を飲ませます。この場面でガーマル(ラクダ)という言葉が使われるとき、そこには三重の意味が響いているのです。
1. 実際的な奉仕の困難さ
ラクダ1頭は約100リットルの水を飲みます。10頭で1000リットル。2リットルのペットボトル500本分です。これを井戸から汲み上げて運ぶことは、決して簡単な作業ではありません。
2. それでも「急いで」応答した心
それなのにリベカは「急いで水がめを下ろし」ました(46節)。彼女は計算しませんでした。躊躇しませんでした。なぜなら、使える心がすでに彼女の中に育まれていたからです。
3. その結果としての報いと成熟
この奉仕を通して、リベカは:
- 報いを受けました――イサクとの結婚、信仰の系譜に加わること
- 霊的成熟を示しました――瞬時に他者のために動ける成熟した心
人間の基本的使命としての「使えること」
では、なぜ「使えること」がこれほど重要なのでしょうか?
それは、使えることが人間に与えられた最も基礎的な使命だからです。
創世記に記された二つの使命
創世記2章15節で、神は人に「エデンの園を耕し、守る」という使命を与えられました。これは単なる農作業の指示ではなく、人間が王であり祭司であるという召しを意味しています。
1. 耕す(アバド עָבַד)
このヘブライ語「アバド」には三つの意味があります:
- 耕す(働く)
- 使える
- 礼拝する
これは祭司の役目です。神の臨在に仕え、礼拝を捧げる――これが人間の第一の使命でした。
2. 見守る(シャマル שָׁמַר)
「守る」と訳されるこの言葉は:
- 見守る
- 保護する
- 執り成す
これは王の役目です。神から委ねられたものを守り、執り成しの祈りを捧げる――これが人間の第二の使命でした。
王であり祭司である召し
この二つの使命は、実は霊と真をもった礼拝(ヨハネ4:24)へとつながっています:
- 祭司(アバド)= 霊(祈り、礼拝)
- 王(シャマル)= 真理(み言葉、守り)
クリスチャンに与えられた重要な召しとは、この王的祭司として生きることです(第1ペテロ2:9)。
そして、その中心にあるのが「使えること」(アバド)なのです。
使えることは人間の基礎的な生き方
ですから、使えることは:
- 特別な人だけの召しではなく
- オプションの生き方でもなく
- すべての人間に与えられた基本的な生き方
リベカが「急いで」応答できたのは、この「使える心」が彼女の中にすでに育まれていたからでした。
神の国における「使えること」の重要性
では、神の国において「使えること」はどのような意味を持つのでしょうか?
弟子たちの誤解
マルコの福音書10章43-45節で、イエス様は弟子たちに教えられました。
当時、弟子たちの最大の関心事は「誰が一番偉いか」でした。イエス様の右と左の座に座るのは誰か――彼らはいつもこの話題で議論していました。
しかし、イエス様は言われました:
「あなた方の間で偉くなりたいと思う者は、皆に使える者になりなさい。あなた方の間で人の先に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい」(マルコ10:43-44)
デューロス――最も低い立場
「しもべ」と訳されているこの言葉は、ギリシャ語で**デューロス(δοῦλος)**です。
これは単なる「使用人」ではありません。奴隷を意味し、しかも奴隷の7段階ある階級の中で最下位の立場を指します。
イエス様は言われたのです:「神の国で偉くなりたいなら、最も低い立場に降りなさい」と。
イエス様ご自身の模範
そして、イエス様ご自身がその模範を示されました:
「人の子が来たのも、使えられるためではなく、かえって使えるためであり、また多くの人のための贖いの代価として、自分の命を与えるためなのです」(マルコ10:45)
イエス様は:
- 天の栄光を捨てて
- 王宮ではなく動物小屋の飼い葉桶に生まれ
- 下僕の姿をとられました
マルコの福音書は、四つの福音書の中で牛の象徴で表されます。牛は耕し、使える動物です。マルコの福音書全体が、使える者としてのイエスを描いているのです。
使える者が成熟し、報いを受ける
富田先生はこう教えられました:
「私たちが成熟していく、また神様からの報いを受ける方法はとてもシンプルなんです。使えるものになることです」
ガーマルという一つの言葉に込められた真理は、神の国の逆説的な原則を示しています:
- 下に降りる者が高められる
- 与える者が受ける
- 使える者が報いを受ける
これは、創世記で人間に与えられた使命(アバド)であり、イエス様が示された生き方であり、そして私たち一人ひとりに与えられた召しなのです。
人が見えないところ、触れたくないところ
富田愼悟先生は、メッセージを語る前に必ずトイレ掃除をされるそうです。檜原でも新宿でも、床に至るまで拭いてきれいにされる。
なぜでしょうか?
先生はこう言われました:「ただ語って人々の前に立つだけが私の役割ではなく、私は主の下僕なんだと。人が見えないところ、触れたくないところにも喜んで使える――それを自分の魂にいつも教え続けるんです」
これが習慣になりすぎて、コンビニでも、どこに行っても、汚れていると気になって、速やかにきれいにして帰ってしまうそうです。
トイレ掃除――誰も見ていない、誰も評価しない、一円も得しない奉仕。でも、これこそがリベカの「ラクダへの水やり」と同じ霊的原則なのです。
現代の私たちの「ラクダへの奉仕」
では、私たちにとっての「ラクダに水を与える奉仕」とは何でしょうか?
教会を見渡すと、たくさんの「見えない奉仕」があります:
- 教会の掃除当番(トイレ掃除も含めて)
- 執り成しの祈り(誰も知らない、でも命をつなぐ働き)
- お花を生ける奉仕(礼拝の場を整える)
- 日曜学校の教師(次世代への種まき)
- 奏楽のための練習(人前に出る前の、見えない準備)
- 役員会での会議(教会を支える縁の下の力持ち)
- 週報作成、メッセージ要約、賛美選曲(情報を整え、分かち合う)
そして、最も大変な奉仕の一つが、教職者のメッセージ作りだと私は思います。
教職者は文字通り、み言葉の水を汲んで、信徒に飲ませる働きをしています。単に説教しているだけではありません:
- 信徒の霊的状態を見守り
- 一人ひとりのために執り成し
- 主との交わりの中で、ふさわしいみ言葉を求め
- 食事時にかなった、カイロスにかなったみ言葉を分かち合う
これは本当に神経を使う働きです。だからこそ、私たちは教職者のためにとりなす必要があると思うのです。
日常の中の奉仕
教会での奉仕だけではありません。日常生活の中で主の香りを放つことも、重要な「主に仕える働き」です。
- 職場での小さな親切
- 家庭での忍耐
- 誰も見ていないところでの誠実さ
小さなことも、主は必ず逃さず見ておられます。
全てが主につながっていると思うと、どんな奉仕も意味を持ってきます。それがガーマル――奉仕と報いと成熟が一つにつながっている――という真理なのです。
結び:完璧でなくても、主と共に
教職者のメッセージ作りは、特に大変な奉仕です。
教理的に、聖書的に、間違いは許されません。やもすると批判の対象になるかもしれない、本当に神経を使う働きです。言動一つ一つに責任が伴います。
でも、実は私たちクリスチャンも同じなのです。
世の人々は、私たちの中から出てくる主の光を見ています。私たちの日常の言動、態度、選択――それらすべてが、主の証しとなっています。
だからといって、頑張って完璧を目指す必要はありません。
むしろ、主と共に、主のカバーリングの中で、ゆったりと愛を持って――主の光の素晴らしさを味わい、楽しみ、その喜びが気張らずに自然に世の人々に現されていく。
これこそが、「地に住み誠実を養い」(詩編37:3)、福音を宣べ伝える主の使命を全うする過程なのではないでしょうか。
そして、そのために私たちは:
- 教職者のためにとりなし祈る
- お互いのためにとりなし祈る
- 主の臨在の中にとどまり続ける
ガーマル――ラクダへの奉仕が、報いと成熟をもたらすように、私たちの見えない祈りの奉仕も、必ず実を結びます。
正直に言えば、私自身も日々の奉仕が「面倒だな」と思えることがあります。週報を作り、メッセージを要約し、賛美を選ぶ――人目につかない作業の繰り返しです。
でも、ガーマルという言葉が教えてくれました。神様が見ていてくださると。
リベカが1000リットルの水を運んだとき、周りの人々は気づかなかったかもしれません。でも、神は見ておられました。そして、その奉仕を通して、彼女に報いを与え、成熟をもたらされました。
富田愼悟先生のメッセージから、私は深く励まされました。愛をもって主イエスに倣い、神と人とに仕えていきたい――そう心から思えるようになりました。
今日、あなたの目の前にある「ラクダ」は何でしょうか?
それに水を与えるとき、たとえ誰も見ていなくても、神は見ておられます。
そして、ガーマルの三重の祝福――奉仕、報い、成熟――が、あなたの人生に必ず現れることを信じます。


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